アンブレラ


6月。めずらしく晴れ間が見えたのは、朝だけだったらしい。念のためと思って持ってきた、お気に入りのブルーの傘をひらく。

「うっそお、雨!? さっきまで晴れてたじゃん!」
「千夏、今日も傘もってこなかったの?」
「だって朝は降ってなかったじゃーん!」
「だって梅雨じゃーん」
「ああーもう走って帰る! また明日ね伊織!」
「足、痛めないようにね! こないだ故障したばっかりなんだから!」
「大丈夫、気をつける!」

またたく間に走り去っていった千夏の背中を見ながら苦笑した。千夏とわたしは陸上部短距離部門のライバルであり、親友だ。
容赦なく、さぶさぶと降りつづける雨。おかげで部活も室内の地味なトレーニングばかりが続いている。同じことをくり返す毎日にただでさえ気分がロウなのに、晴れていたら夕日が見える空までもどんよりとさせるこの季節は、ますます気分をロウにさせた。
そんな憂鬱さを背負っていた学校からの帰り道だった。きゃっきゃっとはしゃぐような歌声が、わたしを横切っていった。

「あいたーい、きもちはー、このあめのよーうにー! すべてをー、ぬらしてー、いろをますよーうにー!」

まだ小学校にあがったばかりのような少年は、嬉しそうに走り抜けていく。子どもは純真だからなのか、なんなら雨の日のほうがテンションが高かったりするから面白い。
惹かれたのは、彼の体にはあまりに不釣り合いな大きなビニール傘と、その可愛い声には似つかわしくない、ずいぶんと大人びた歌の熱唱だった。思わず、顔がほころぶのが自分でもわかる。
駅の方に走っていったその背中を見て、パパのお迎えだろうか、と思う。ロウだった気分が少しだけ花開いていく。雨の日は、こんな小さな幸せを見つけることも出来るのだ。
通り過ぎていった少年に微笑む自分にもおかしくて、笑みを残したまま顔を正面に向けると、斜め向かいにあるシャッターの閉められた小さな商店の前に、長身の男性がいた。
そして、ばっちりと、目が合った。
つい、驚いて目を見開いたわたしに、彼はどういうわけか、微笑んだ。その表情が、あまりにも美しくて。

「あの……」

なにごともないように通り過ぎることができず、一度通り過ぎた道を引き返して、彼の前に立った。

「ん?」

商店の屋根は狭くて、雨宿りに最適な場所とは思えない。立海大付属高校の制服を着ているから、彼も千夏のように、帰る途中で突然に降られてしまったのだろうか。

「傘……忘れちゃったんですか?」

ヘンな女だと、思われているかもしれない。いきなり話しかけたりして、なにやってるんだろう、と心の中でひとりごちる。なんだか、急に恥ずかしくなった。

「忘れたわけじゃないんだが……しかし、よう降るのう。あんた、清女か?」
「あ、はい、清女です」

わたしの恥ずかしさをよそに、彼はごく自然に言葉を交わしてくれた。
うちの高校は清瑛女子高等学校といって、知っている人は皆、清女と略称で呼ぶ。わたしが彼のことを立海の生徒だとわかったように、彼もわたしの制服でそれとわかったんだろう。

「3年か?」
「うん。あなたも、3年生?」
「そうだ、立海大付属の3年」

敬語なんて必要ない、というような口調に自然と言葉が崩れた。

「子どもが、の。さっきの」
「え?」
「小学生くらいの男の子がの、ここで、こうして雨宿りしちょって」
「あ、さっきの!」ん、雨宿り? だけど、少年は大きなビニール傘をさしていたような。
「家に帰る途中だったらしいんだが、泣きそうな顔での。それで、俺の傘を渡した。子どもはダメだ。卑怯だ」

困った顔をして、暗い空を見上げた。そこからゆっくりと、視線をわたしに戻す。そうしてもう一度、優しく微笑した。胸が、トクン、と音を立てる。
……卑怯なのは、あなたの方だ。

「あの」
「ん?」

吸い込まれそうな瞳から目をそらせなかった。わたしの体は、勝手に動いていた。さしていた傘を、バレンタインチョコでもあげるみたいに突き出すと、彼は目を丸くした。

「良かったらこれ、使って」
「いやいや、なに言うちょる。これを俺が借りたら、お前が」
「家、ここからすぐだから。だから大丈夫! はい!」
「おい、ちょっと待ち、おい!」

嘘だった。本当は、家はまだまだ先にある。困惑している彼を無視して、その胸に傘を押し付けた。条件反射的に受け取ろうとした彼の手がわたしの手に触れて、そのぬくもりにおかしなことを口走ってしまいそうで、気づくと走り去っていた。
彼と世間話だけで終わってしまうのが、どことなく嫌だった。わたしの記憶を、あの瞳に覚えていてほしかった。彼との、つながりが欲しかった。
それが、たった一度だけ使う、傘だとしても。





淡い思い出となったあの日から、1ヶ月が過ぎていた。
顔をしかめてしまうような暑さの中でのトレーニングを終えたあと、部室でアイスクリームを頬張りながら、千夏は呆れたようにわたしを見ていた。

「なんでそのとき、名前、聞かなかったかなあ?」
「頭がまわんなくて。彼も聞いてこなかったし」

彼と出会った翌日には、千夏に打ち明けていた静かな恋心。彼女は笑ったりしなかった。素敵な出会いだね、とわたしよりも嬉しそうにしていた。それがなんの変化も訪れず1ヶ月を過ぎれば、お説教が当然のように始まる。

「後悔してるよ、わたしだって」
「立海大付属かあ。あそこ人多いんだよね。マンモス校じゃん、2000人以上だからなあ」

そう、だから待ち伏せなんてしても、たぶん会えない。もし会えたとしても、押しかけてストーカーみたいに思われたら嫌だし、という消極的な理由もある。

「なんか特徴なかったの?」
「うーん、ものすごくカッコよかった……」思い出して、うっとりしてしまう。
「それは聞いたってば」
「うんと、髪がこう、ちょっと長くて。髪は、ブリーチで白に近い感じ」
「それも聞いた。モデルみたいだよね。でもあの高校さあ、そういうの多いし」
「そうなんだよね」

立海大付属に垢抜けたイケメンが多いというのは、有名な話だ。マンモス校にイケメンがぞろぞろいるなんて、通っている女子生徒たちはさぞ、毎日が楽しいことだろう。立海の陸上部の選手たちも、たしかにイケメンだったような気がする。

「もう、会えないんじゃないかなあ」
「えー? わかんないじゃん。傘は貸したままなんだし、向こうはこっちの高校知ってるし、返しに来てくれるかもよ?」
「女子校に男子がひとりで? その勇気は相当なもんだよ」
「相当なもんかもしんないじゃん、その彼」たしかに、相当なもんだった、わたしにとっては。「ていうか伊織、会いたいんでしょ?」
「そりゃ、会いたいけどさあ……来てくれるわけないよ」
「ああ、もうはっきりしないなあ! よし、行くしかない! 待ってるだけなんて今どきダメ!」
「え、行くしかないって、立海に?」
「そうー、立海に!」
「無茶なこと言わないでよ」
「ストーカーみたいに思われたくないとか、思ってるでしょ?」

完全によまれている思考に、ぐっと喉の奥がなりそうになる。親友というのは、どうしてこうも見抜いてしまうのか。

「会えない確率のほうが高いけどさ、もし会ったら、傘を返してもらいに来たのって言えばいいじゃん。お気に入りだったんでしょ、その傘」
「そうだけど、貸したのだって、無理やりに近かったし」
「でも貸したことに変わりはないんだからさ」
「うーん」
「行こうよ、いまから」
「え!?」
「行こ! 今日そんな走ってないから体なまってるし!」

千夏はストレッチをするように体をくねくねさせながら、すかさずゴミ箱に食べ終わったアイスクリームのカップを放り込んでいる。

「めちゃくちゃ走ったじゃん、こんな暑い中……」
「でも思い出しちゃったんだし、帰り道がただ暑いだけなんてしんどいし!」なにか楽しいことがないとさ! といたずらに笑って、強引にわたしの手を引っ張る。
「えー待って待って、本気で言ってる!?」
「本気だよ。それにひとりじゃ心細いでしょ。あたしが付き合ってあげるから! それなら、少しは勇気でるでしょ? ほら、トレーニングついでに立海まで走ろ!」

パンッ、と手を叩いた千夏が、バッグを持って走り出した。





息を切らしながら到着した立海大付属高校の正門前は、夕方だというのに生徒の姿が多く見られた。

「こ、これ、出ていく人たち全員チェックするの、無理ない? ていうか千夏、わたし、汗やばい」
「お目当ての彼が出てくるまで、その汗なんとかしなきゃね」
「もう帰ってるかもしれないじゃんー」
「いいから、とりあえず30分は待とう!」

部活動も盛んな高校のせいか、下校風景は思っていたよりも混雑している。わたしたちの制服を見ていく人たちはちらほらいるものの、あまり気にとめる様子はない。正直、ほっとした。
じっと目を凝らしながら、正門から出てくる生徒を眺める。ようやく汗がひいたころには、到着してから10分ほど経過していた。

「ね、もう帰ろ?」
「もうちょっといようよー」
「もういいってば、千夏」
「だってあたしも見たいもんー! 見て、あの人もイケメン」
「ホントだ。あ、あっちの人もイケメン」
「こらこら、あんたは浮気すんじゃないのっ」
「浮気って……名前も知らないのに」

ミーハーな会話で笑っていると、ほんのわずかだが、黄色い声が届いてきた。誰か有名な人でもいるのかと振り返ると、そこに、あの日の彼がいた。

「じゃあ、俺はここで」
「あれ、仁王はここでお別れ?」
「ん、今日は付き合いがあるんよ。ここで待つことになっちょる」
「そうでしたか。では私たちは行きましょうか、幸村くん」
「そうだね。たまには柳生とふたりっていうのも楽しいかもね、ふふふ」
「……そう、ですね」
「なにかある柳生?」
「いえ」
「あんまり柳生をいじめるなよ幸村、ふたりとも気をつけてな」

仁王、というの名前なのだと、そのときわかった。幸村、柳生、と彼に呼ばれた人たちは、仲が良さそうな会話をしていたわりに、微妙な距離感を保ったまま去っていく。そんなことよりも、わたしは彼に目がくぎ付けになった。

「伊織? どしたの?」
「あの人なの」
「えっ」

千夏がわたしの視線を追う。はっとしたような声にならない声をあげて、わたしの背中を押そうとした。

「ややや、ちょ、ちょっと待って千夏」
「待ってじゃない、この機会、逃せないでしょっ」

まさか本当に会えるなんて思ってもいなかったから、急激に胸が高鳴り始めた。
正門前でじたばたしているわたしたちは、どこからどう見ても怪しい。彼が……仁王くんが、それに気づかないはずもなかった。

「お前、清女の……」

目を見開いた仁王くんと、あの日のように目がばっちりと合う。そして、あの日のように、仁王くんはわたしを見て、ふっと微笑んだ。どうしよう、全身が熱い。

「来てくれたんか」

言いながら、こちらに近づいてくる。来てくれたんか、なんて、どうしてそんな期待をもたせるようなことを言うんだろう。ひゃ、という千夏の小さな声が後ろで聞こえる。こぼれそうになる喜びに、ようやく声を出そうしたときだった。
激しいエンジン音が耳をつんざいた。びっくりして肩をふるわせると、そのバイクはこちらに歩み寄ってきている仁王くんの横に止まった。

「おまたせー!」

ヘルメット越しのくぐもった声で、その人は仁王くんに話しかけている。

「うっるさいのう」

眉をひそめた仁王くんは、とても冷静にその人を見ている。やがて、すばやく外されたヘルメットから、ロングウェーブの美しい大人の女性が現れた。

「迎えに来たよ雅治、早く乗って、行こ!」

ポンッと、ヘルメットを渡されてキャッチする。ああ、このやりとりは、これまで何度も行われていることなんだと、瞬時にわかった。すごく自然で、すごく慣れていて。仁王くんの表情が口調とはうらはらに、とても優しかったから。
皮肉にも、その美しい女性の口から彼のフルネームを知ってしまったわたしの胸が、激しく軋んでいくのがわかった。

「あ、伊織!」
「え、あ、おい! ちょっと待ち!」

千夏がわたしの名前を叫んでいた。そのあとすぐに、仁王くんもわたしを呼び止めていた。でもそんなの、もうどうだってよくて。

「傘、返さなくていいから! それだけ言いに来たの!」

大声で叫んで、背中を向けて、わたしは必死に走った。





「ふたりともー! そろそろこっちいらっしゃい!」
「はーい!」
「はーい!」

母がリビングルームから声をあげた。絶賛、夏休み中の8月初旬。わたしと千夏は近所のお祭りに参加するため、母からの声かけを待っていた。

「こっちが千夏ちゃんで、こっちが伊織のだよね。よし、じゃあまずはふたりとも、服を脱いで羽織ってね」
「伊織のかわいい!」
「千夏のもかわいいー!」
「はいはい、お嬢さんたち、早くして」

お互いのセンスを称え合えながら浴衣を羽織るわたしたちに、母は呆れているようだ。
仁王くんの年上の彼女の存在を知って、全速力で自宅に帰った日から2週間が過ぎている。帰宅してから涙をぬぐって、勝手に帰ってしまってごめん、と千夏に謝罪のメッセージを送ったのが、もう懐かしい。屋台で何を買って食べようかなどと考えて、すっかり元気になっている自分に、少し笑った。

「伊織、お化粧しないの?」
「え、したほうがいいかな?」
「だって浴衣だし、どんないい男いるかわかんないじゃん!」
「女子高生たち、親の前でなに言ってるの」
「おばちゃんだって女子高生のとき、恋くらいしてたでしょー?」
「してません」
「うっそだあ!」

千夏は、「大丈夫だよ。きっといいことあるから」と返事をくれたきり、仁王くんの話はしてこなかった。わたしも、彼の名前を口にしただけで泣き出してしまいそうで、あれからなにも相談していない。

「ちょっとだけしようよ、ね、伊織」
「そう? うん、じゃあちょっとだけ」
「まったく色気づいちゃって、最近の子はもう……」

母はぶつぶつと言いながら着付けを終わらせた。千夏は、はじめからそのつもりだったようにメイク道具一式をバッグに忍ばせていた。あまりメイクをしないわたしに、丁寧にやり方を教えてくれる。

「うん、ばっちり! かわいいよ伊織!」
「そう? そうかな? 派手すぎないかな? 大丈夫かな?」
「大丈夫、大丈夫! さあ行こう!」
「うん!」

今日は特別、わたしを元気づけようとしてくれているのかもしれない。ひょっとしたら、あの日、強引に自分が誘ってなければと後悔までしているのかもしれなかった。だからこそ、千夏の気持ちが嬉しくて、わたしは早く仁王くんを忘れて次の恋をしなければと思った。





お祭り会場の大きな公園は、大勢の人たちで賑わっていた。そこかしこにある屋台から流れてくる美味しい香りにそそられながら、ひとしきり歩いたころだった。

「伊織ごめん、ちょっと、足が痛い」
「え、大丈夫……!?」

もうすぐ、陸上部の全国大会が開かれる。焦ったわたしが足元を見ると、千夏は草履の鼻緒部分を撫でていた。
よかった、ただの靴ずれみたいだ。

「ごめん、伊織、コンビニか薬局で、テーピングとか消毒とか、買ってきてもらってもいい?」
「もちろん!」大きく頷いた。わずかな違和感をもたせたまま試合に挑むのは避けたいものだ。早く治るように処置したほうがいい。
「あっちに、コンビニがあったと思うんだ」
「わかった、行ってくるね! このあたりで待ってて」
「うん、ごめんね!」

千夏が指をさした方向に、わたしは急いだ。浴衣だから走りにくいのはわかっていたけれど、走らずにはいられなかった。でもそれは、誤った判断だった。

「きゃっ!」

ひとりで大きな声をあげて、わたしはなにに躓いたのか、しりもちをつくように転倒してしまった。あと少しでコンビニにたどりつけたのに、とんでもなく恥ずかしい。
賑わう人たちは、わたしなど気にもとめず通り過ぎていく。良かったと思う反面、知らない人間に目もくれない当然の状況が、立海大付属の正門を思い出して少しだけ苦い気持ちになる。

「おい、大丈夫か?」
「あ、ごめんなさい、大丈夫です」

頭上からかかった声に、優しい人もいるんだなと思ってその足元をじっと見ると、品の良い黒の下駄が目にとまった。足の形がきれいだな、と場違いなことを思いながら顔をあげたとき、わたしの時間が止まった。

「どうした? 見とれちょるんか?」

忘れたくても忘れられない微笑みが、そこにはあった。





差し出された手をつかむことにためらっていると、彼は呆れたように言った。

「早くせんと、恥ずかしいのはそっちやと思うが」
「そう……そうだよね」

彼によく似合う長い髪が、結われることなくそのまま垂れている。ダークグレーの浴衣に白帯を着こなして、仁王くんはわたしを見下ろしていた。うまく笑えないままそっと触れた手を、彼はしっかりと握ってきた。なにもかもが戻ってしまいそうだ、あの雨の日の瞬間に。

「あ、つ……」
「どこか痛めたか?」

強い力で引き上げられてすぐ、彼はわたしを支えて近くのベンチに座らせた。鈍く痛む腰を押さえると、「ここか?」と彼が触れてくる。

「うん、ちょっと打っちゃったのかな」
「ひとりでここに来たんか?」
「ううん、友達が、靴ずれになっちゃって。コンビニでその、テーピングとか、消毒とか買おうかなって」
「そうか、それなら、ちと待っとって」
「え?」

言い残したまま、仁王くんは駆け足でコンビニの中へ消えた。好きになっちゃいけないと思うのに、制服姿とはまた違う彼を見て、胸の高鳴りが抑えられない。なんて綺麗で、色っぽい人なんだろう。ああ、忘れなきゃと、思うのに。

「ほら、テーピングと消毒。こんなのでいいか?」

すぐに戻ってきて、定位置のようにとなりに座りながらビニール袋の中身を見せてくる。

「買ってきてくれたの? ごめん、お金っ」
「気にせんでいい、傘を貸してくれた礼だ。部活が終わるのが遅いから、なかなか返すこともできんかった。悪かったな」
「え……」

返す、つもりだったんだろうか。ひょっとして、学校に来てくれようとしていたんだろうか。そんな期待で、胸がまた、トクン、トクン、と脈を打つ。

「なあ、名前は?」
「……佐久間、伊織」
「そうか、俺は仁王雅治だ」

知ってるよ、仁王くん。だってそれは、あなたの彼女が口にしてたもの。すごく、親しそうに、愛しそうに呼んでた。

「伊織って、呼んでもええ?」

これ以上に心の距離を縮めたら、もう戻れないと思うのに。彼に優しくされたくて、全てを受け入れてしまいたくなる。

「うん。あの、わたしは、雅治って呼んでもいいのかな?」
「断る理由はないのう」

笑い合った瞬間に、もうどうしょうもなく好きになっている自分に気づいた。あの美しい彼女と同じように、名前で呼べるなんて。とっくに失恋しているのに、何度だってときめいてしまう。

「なあ、伊織」優しい声が、くすぐったい。
「うん?」
「なんであの日、急に帰った?」

一瞬、どっちのことを言われているのかわからなかった。考えてみれば、わたしは雅治に会ったとき、必ず走り去っている気がする。かなり、滑稽だ。

「ん? なに笑いよる?」
「ごめん、おかしくって」
「そんな顔を見せられたら、こっちも笑いたくなるのう」
「ごめん、わたし行かなくちゃ」
「え?」
「急に帰った理由は、秘密。たいしたことじゃないから、気にしないで」

千夏が待っていることを忘れてしまいそうだった。雅治に言われて、思い出す。わたしは今日だって彼に背を向けて、帰らなきゃいけない立場なんだ。
じゃあね、と気取って腰をあげようとしたときだった。また、鈍痛が腰を襲う。

「いっ……」
「思ったより、痛めとるんじゃないんか?」

立ち上がった雅治が正面に立って、わたしが押さえる左腰にそっと手をあてる。
もう優しくしないで、と心の中で叫ぶわたしの思いに比例するように、彼は心配そうな顔でわたしを見たかと思えば、するっと背中を向けて、しゃがんだ。
……え、なんで、しゃがんでる?

「……えっと、これは」
「腰の痛みを甘くみたらいかんぞ」
「ちょっと待って、そんな、できないよっ」
「いいから早くしろ。俺も恥ずかしくないわけじゃないんでな」

両手で顔をおおってしまいたくなった。好きな人に、しかも失恋している人に、会って3回目でおぶられることになるなんて、思ってもいなかった。だけど全然、抵抗できそうにない。だって、こんなに好きなのに。触れたいに決まってる。

「お、重いからね?」
「よう言う。小さい体して」
「ひゃっ!」

大きな両肩に手を置いて、少しだけ身を任せると、雅治はあっという間に立ち上がった。小さくジャンプして、しっかりと持ち上げる。さらさらと、雅治の髪の毛から優しい匂いがして酩酊しそうなうえに、後ろから見た浴衣のおんぶ姿はどんなことになってるのかと思うと、顔から火が出そうだった。

「雅治、恥ずかしいよ、早くして」
「言われんでもそうするって。場所はどこだ」
「とりあえず、あっち、あのへん」

指先で場所を案内すると、すごい速さで雅治は走った。かなり距離があったにもかかわらず、その時間はあっという間だった。指定した付近に到着すると、息を切らしながら、わたしを丁寧に下ろしてくれる。

「はぁ、はぁ……ちと、浴衣が乱れたかの? すまんな」
「大丈夫。ごめんね? 大変だったよね?」
「問題ない。これくらいは日常茶飯事だ。心配せんでいい」

ふぅ、と息をととのえた雅治は、わたしの頭の上に手をおいて笑った。ぎゅっと胸がしめつけられる。
なにも言えずにその笑顔を見つめていると、瞳が、少しだけ揺らいでいるように見えた。

「なあ伊織、聞いてくれるか?」
「え?」
「今日のお前、本当に綺麗だ」

顔が熱くなった。どんどんと、鼓動も早くなっていく。深くもぐりこんでいたわたしの期待が、みぞおちあたりから急激にせりあがってきていた。

「それから……」
「あ、雅治! やっと見つけたー!」

ぎょっとしたように、彼は声のする方向を見た。わたしの頭に置いていた手を、パッと離して。
嫌な予感と一緒に頭を動かすと、そこにはやっぱり、あの美しい女性がいた。
あのときよりも、もっと深く突き落とされたわたしは、涙が出そうになるのをぐっと我慢して。

「あれ、その子……えっ、ちょっと!」
「伊織! ちょっと、待ち!」

結局、この日も走り去っていた。





「せっかく来たのに……」むっつりと、千夏がつぶやく。
「朝は、晴れてたのにねえ」

翌日。
トレーニングのために学校に来ていたわたしと千夏は、教室の窓際からぼんやりと空を見上げていた。しとしとと、静かな雨が降っている。
またしても勝手に帰ってしまったわたしは、昨日のうちに千夏にメッセージを送っていた。

「ねえ、伊織ー」
「うんー?」

雅治とのことは、心配をかけたくなくて伏せていた。文字で打ち込むと胸が苦しくなりそうで、避けたところもある。とはいえ、一度はすませた失恋だ。二度目はそれなりに免疫もついている。期待をふくらませてしまったぶん、どん底具合は酷かったけど、最初から叶う恋じゃないと、どこかでわかっていたような気さえする。

「仁王雅治ってさ、どっかで聞いたことあると思ってたんだ」
「え」

これまで一切、雅治の話をしてこなかった千夏が彼の名前を出したものだから、意表をつかれてドキッとする。昨日、雅治におぶられて戻った場所に千夏の姿は見えなかった。どこかに移動していたのだと思っていたけれど、ひょっとして、見られていたのだろうか。

「立海ってさ、テニス強いじゃん」
「うん。全国もいってるし、ユースにも何人か選ばれてるよね」
「あそこのレギュラーだ。プレイスタイル、ペテンとか言われてる人だ。うん、間違いない」
「ペテンって、ちょっとひどいね」
「テニスの戦法としては、いい意味なんだよ、たぶん」

そうか、雅治はテニス部のレギュラーなのか。あの肉体労働が日常茶飯事だと言っていたことに、ふと合点がいく。

「伊織は、ペテンに引っかかっちゃったってことかなあ?」
「ええ? どういう意味?」
「ん、どういう意味だろ?」
「……すごく、優しい人だったよ」
「そっか」
「うん」

だから、あんな綺麗な彼女がいるのも、頷けたんだ。
切なくなって、ガラス窓に落ちていく水滴を見ていたら、無性に雅治に会いたくなった。わたしの心を洗い流してくれるはずの雨が、雅治との思い出を、色濃くしていく。もう会わないほうがいいこともわかっていた。自分を苦しめるだけだから。だから、会いたくても会えない思いは、雨の日だからこそ、泣いて流してしまえばいいのかもしれない。

「あたしもそう思うよ」
「うん?」
「優しくて、いい男なんだろうなと思う。恋愛になると少し、詰めが甘いみたいだけど」

感傷に浸っていたせいか、千夏の言っている意味がわからなくて黙っていると、彼女は窓から見える正門を指差した。

「え……」

見ると、雨の中、傘もささずに立っている後ろ姿があった。ぼんやりと、あの日のように空を見上げている。その手には、わたしのお気に入りだったブルーの傘がぶら下がっていた。

「雅治……」
「会いたかった?」
「千夏……え、なんで?」
「会いにいきなよ、伊織」

にっこりと笑った千夏が、ぐいぐいとわたしを引っ張って、教室から追い出すように背中を押すと、パンッと手を叩いた。
弾かれたように、わたしは正門へ走った。彼の距離までそんなにはないのに、どうしてこんなに遠く感じるんだろう。

「雅治!」

大きな声で名前を呼ぶと、彼はすぐに顔を向けてくれた。そんなことすら嬉しくて、わたしは急いで駆け寄った。

「はぁ……はぁ、ど、どうしたの?」
「来てくれたか」

いつかのように言った雅治は、持っていたわたしの傘をひらいた。
ゆっくりと近づいて、お互いがおさまるように距離を縮めて。やがて、静かにわたしを見下ろした。

「ねえ、なんで?」
「なんでって、これを返しに来たんよ」飄々と、上にむかって傘を指さしている。
「返さなくていいって、言ったよ、わたし」
「……伊織が良くても、俺が良うないんでな」

瞬間、強く抱き寄せられた。息をする間もなく、腕の中に包み込まれたわたしの体が、完全に硬直してしまった。

「ま、雅治?」
「本当なら、昨日、こうなる予定だったんだが」
「え、え?」
「あれは、俺の姉ちゃん」

混乱していた思考回路が、ピタ、と止まる。それまで、まったく聞こえてなかった周りのひやかしの声が、わたしの耳の中に入ってきた。「ひゃあ」とか「きゃあ」とか、とにかく騒いでいる。
ていうかいま、「姉ちゃん」って言った?

「お前が、たぶん俺の彼女だって勘違いしとるあの人、俺の姉貴なんよ」
「うそ……」どおりで、美しいはずだ。親しげなはずだ。あれは、姉弟愛から生まれた空気だったんだ。「うそ、わたし恥ずかしい」恥ずかしすぎる。
「まあそれで、立海でお前が走り去ったあと、やけに冷静なお前の友達に、いろいろ聞かれての」
「えっ!」

のけぞるように雅治を見上げると、くくっと笑いをかみ殺していた。





『仁王、さん? 失礼なんですけど、その方は誰ですか?』
『うちの姉ちゃんじゃけど……』
『ああー、びっくりした、良かったあ。ああ、でもあのコ、完全に誤解しちゃったな』
『のう、あんた、あいつの友達か?』
『そう。今日は、あなたに会いに来たの』
『……なあ、図々しい頼みがあるんやけど、聞いてくれるか?』
『彼女が幸せになれる頼みなら、あたし、なんでも聞きます』
『ねー雅治、ひょっとして取り込んでる?』
『姉ちゃん悪いけど、ちと、あっちいっちょって』

雅治から話を聞いて、わたしは呆然としていた。

「ちゅうわけで、近々ある祭りで、ふたりきりにさせてもらおうと思っての。うまい具合にコンビニ前まで誘導してもらうつもりだったんだが、想定外のことが多かったんよ……伊織は目の前で転ぶし、まあそれは結果的にラッキーやったが……今度は都合悪く、俺が祭りに行ったことを聞きつけた姉ちゃんが出てきて」完全に想定外だった、とうんざりしたように付け加えた。

だから千夏は、あれからなにも聞いてこなくて、お祭りの準備ではやたらとメイクに張り切って、今日になって急に、彼の名前を口にしたのだ。

「え、じゃあ、ここに今日来たのは?」
「それは、俺の勝手だ。だがあの親切な友達に、念のために伝えとった。失敗したって言ったときは、結構ミソクソに言われたけどの」

たしかに千夏なら、ミソクソに言いそうだなと思う。だけど、どうしてそんな遠回りをしたんだろうか。雅治もわたしと同じ気持ちだったなら、千夏に頼んで、わたしに会いに来て、誤解を解いて、気持ちを伝えてくれたなら……それで、良かったのに。

「ねえ、なんで? わざわざ、わたしを勘違いさせておく期間が、必要だったの?」

我慢ならずに雅治を見上げると、あー、とシラを切るように視線を逸らす。

「なにそれ、ちゃんと教えてよ。モヤモヤしたままは、嫌だよ?」
「ん」と、困ったように目を伏せている。
「雅治っ」

わたしの懇願に、雅治は観念したように続けた。

「……人のモンって思うと、余計に恋い焦がれたりするもんじゃろ?」
「へ……」
「じゃから……あのまま勘違いしてもらっとったほうが、もっと俺のこと好きになってくれそうな気がしたんよ」浴衣姿も、見たかったし。と、ついでのように付け加える。

思ってもなかった自白に、上気していくのが自分でもわかった。これまでずっと大人っぽくて色っぽかった雅治の、いじらしい子どものような可愛らしさを見た気がした。
だけど雅治の言うとおり、好きになってはいけないと思うほど、好きになってしまった自分がいる。千夏いわく、わたしはまんまとペテンに引っかかったというわけだ。

「も、雅治かわいい」思わず吹き出すと、雅治は咳払いをひとつして。
「だいたいお前、足が早すぎだ。全然、止まってはくれんし、追いかけようにも、姉ちゃんにあとでなに聞かれるかたまったもんじゃない。だから、余計まわりくどいことになってしもうて」

ごまかすように早口で言ってから「すまんの、悪かった」と、ようやくわたしを見つめる。
その真剣な瞳に、ふにゃふにゃとしてしまう顔を隠せそうになくて、雅治の胸に顔をうずめた。わたしの体が、いまにも喜びで震えだしてしまいそうだ。

「こんなとこでこんなことしよったら、お前のとこの教師がすっとんでこんかの?」

優しい声でささやいて、その言葉とは裏腹に、強く抱きしめられる。ああどうしよう、愛しくて、笑っているのに泣きそうだ。

「……すっとんできちゃったら、雅治、なんて言い訳する?」
「言い訳なんかせんよ。抱きしめたくて、たまらんかったって言うだけだ」

なにがなんだかわからない。まだ告白すらされてないのに、こんなに甘い。それがすごく嬉しくて、あたたかくて。

「伊織……お前のこと、ずっと、気にしとった」
「……ホント?」
「ああ。あの日、男の子の後ろ姿に微笑んだ伊織を見たときから、ずっと惹かれとる」
「……」

普通に聞いていたら、おおげさだと疑っていたかもしれない。
だけどそれが嘘じゃないと、いまのわたしにはわかった。

「……やけに静かじゃと思ったら、なーに盗み聞きしちょる?」
「あ、バレちゃった」

耳を当てた雅治の胸から聞こえてくる鼓動が、少しだけ早くて。

「伊織」
「うん?」
「伊織に降る雨を避けてやりたいと思う、今度からは、俺が」

お前があの日、俺にそうしてくれたように。
ふっと笑った雅治が、ブルーの傘が、周りから隠れるように落ちてきた。
雨音に揺れる告白と、唇のぬくもりと、一緒に。


――好きだ、伊織――





fin.



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