a moleface_Poker face_05





≠Poker face 05


もうすぐ7月に入ろうってときの、金曜の部活後のことだった。
ジメジメと、毎日のように雨が降っている。朝は晴れてんじゃねえかと思って傘を持たずに登校したんだが、夕方になって降ってきちまって……。
でも、アテはあった。この時期になると部室に10本以上のビニール傘が放置されているからだ。どれか1本借りて帰ろうと、一度は出た部室に戻っていった。

「宍戸さんは、朝は天気予報は見ない派ですか?」
「見るときもありゃ、見ねえときもあるよ」つうか基本、傘を持ち歩きたくねえんだよ。
「ということは、どっちつかず派ですね」
「あのね、長太郎。人間、天気予報を見るヤツはかならず見る派で、見ない日はねえのかよ? 逆に見ないヤツだってたまには見るだろ。なんだよその、ほとんど悪口みてえなどっちつかず派ってのは」
「宍戸さんみたいな人のことですよ。梅雨なのに折りたたみ傘も持たずに平気な顔して学校に来て、そのくせちょっと怪我をすると顔にカットバンを貼るような人のことです!」
「……ああそうかよ、じゃ9割どっちつかず派だろ」お前の悪口、加速してるぞ……。カットバンなんて中学のときの話するなよ。
「宍戸さん、世のなか、そんなに自分の都合よくはできてないですよ」

そろそろ、殴ってもいいのかもしれねえな。
いつもの調子なんだが、長太郎のいつもの調子は、俺のいつもの調子を確実に狂わせてくる。長年こいつとダブルスを組んでるってのに、いまだに長太郎のことがよくわからない。俺を尊敬していたはずなのに、ときどきこうして、その自信を揺るがしてくることがあるからだ。
まあでも、ダブルス組むなら、やっぱいまのとこ、こいつしかいねえ……あまり贅沢は言ってられないと思っていた。
それに、そんなのは長太郎だけじゃねえ。このテニス部には、もっとヤバいヤツがいることを、忘れてるわけじゃねえしな。

「明日……楽しみだな、千夏」
「うん楽しみ! どうなるかな!?」

部室に入った直後、跡部専用ルームから聞こえてきたのは、つい先日、耳に入ってきたあの話し声と、まったく同じふたりだった。
つまり、跡部と吉井だ。
あの日のように、長太郎と顔を見合わせ、立ち止まった。また、とんでもないものを見てしまうかもしれない好奇心が、そうさせたのかもしれねえけどな。

「とりあえず明日の0時になるのを待つしかねえってか?」
「そういうことだよねー。早く明日になんないかな! あ、でも待って景吾。明日の0時だと今夜0時みたいな感じにならない?」
「アーン? そうか?」
「そうだよ、言い方おかしいと思う。そういうときは明日の24時じゃない?」
「ってことは今夜の48時でもいいわけだな? なあSiri!」
『すみません、よくわかりません』

おいおい……なんでそんなことを急にSiriに聞きやがる跡部! 最近、吉井とばかりいるから、樺地の代わりがSiriになっていることには、さすがの俺もうすうす気づいてはいたが……。やっぱりバカだろお前?
だいたい、わざわざ48時じゃなくても、明日の深夜0時でいいだろうが! Siriも困ってるじゃねえか。かわいそうだろ。

「ということは、今夜の48時になにかあるんでしょうか……?」

いやだから……! お前もノッてんじゃねえよ長太郎! 今夜の48時はもう今夜じゃねえだろ! ったく、なんなんだこのアンポンタンどもは!
だが、深夜0時、という言葉に、胸騒ぎがしてくる。
いったい、なにが起こるってんだ。跡部……お前、絶対ロクなこと考えてねえだろ。

「宍戸さんは、なにか聞いてます?」
「いや……知らねえな」

また勝手に足止めをくらいながらも、どうしても会話内容が気になって、帰るに帰れなかった。

「でもよ千夏。アレ……マジでやる気なのか?」
「やるよー! ここまできたら、とことんふたりをびっくりさせなきゃじゃない?」
「はあ……俺はやらねえからな!」
「えー! 景吾もやろうよー! 景吾は部長でしょ! 忍足先輩のためになるんだから!」

ふたり、だと? そのひとりが忍足ってことは……あとひとりは佐久間だ。もうこれは方程式みたいなもんだ。跡部には吉井、忍足には佐久間。
まあ、忍足と佐久間は、なにをやってんだか、最近やけによそよそしい雰囲気を出してるが……なんであいつらがいまだ付き合わねえのか、不思議でしょうがねえ。

「まあたしかに、ここまできたらもう楽しくてしょうがねえよ。あの忍足の叫び声が聞けるのかと思うと、夜も眠れねえほどにな」
「でも景吾、あたしたちなんか、趣旨を間違えてる気がする。大丈夫かな」
「問題ねえ。俺に死角はないからな」

跡部、悪いけどよ。お前、テニス以外じゃ案外、死角だらけだと思うぜ。
つうか、叫び声ってなんだよ? やっぱりロクでもねえこと考えてるだろ?

「宍戸さんこれ……前に聞いた、情動二要因理論の件じゃないですか?」
「なに?」

長太郎の鋭い指摘に、ぐっと目を見開いた。
そういえばこいつら、前によくわけのわかんねえ話をしていたな!
あれはたしか吉井が、忍足と佐久間が想いあっているから、ふたりにうまくいってほしいとかなんとかで、でも自分たちから言うのは筋じゃないとかなんとかで、だからうっかりそれを聞いちまった俺と長太郎も、ふたりには黙っておこうと腹をくくったんだった。

――そうと決まれば、情動二要因理論で気持ちを高めればいい。
――じょ、情動二要因理論? なにそれ。
――人というのは『恐怖』からくる胸の高鳴りと『恋愛』の胸の高鳴りを区別できない。つまり、そういう恐怖を感じる場所にふたりきりにさせりゃ、恋愛の胸の高鳴りと勘違いして、ふたりが想いあうのは、簡単なことだっつうわけだ。

そうだ、跡部はあの日そう言っていた。もう忍足と佐久間はとっくに想いあっているとわかっていながら、だ!
もしかしてこのバカップルは、表向きに忍足と佐久間をくっつけさせようとしながら、今夜48時……じゃねえ、明日の深夜0時に、なにかふたりに恐怖という名の仕掛けをするってことか!?

「気にするな千夏。ふたりが思うぞんぶん怖がってくっつきゃ、それがいちばん、いいじゃねえか……だろ?」

だからそれをなんで恐怖でくっつける必要があんだよ跡部!
全然いちばん、よくねえだろ! あと何度も言うが、忍足と佐久間はもう想いあってんだよ!
見てりゃわかるだろ!

「うーん、そうだね!」

いやいや吉井! そうだね! じゃねえ!
しっかりしてくれよ! お前、前回までツッコんでたじゃねえか! 急におかしくなってんじゃねえよっ! 跡部のバカに毒されたのか!?

「たしかにそうですよね、宍戸さん。さすが跡部さんです」

あああああああ、もう長太郎もこないだから、いやずいぶん前からだが、おかしい!
こいつの優しさのなかに垣間見える、黒いオーラに寒気がしてきやがるっ。いつかそのバカさ加減がとんでもない刃となって、向かってくるかもしれねえじゃねえか。しかも、長太郎には尋常じゃねえ天然を感じるから、余計に怖いぜ……。

「そうだ景吾、場所はどこにするの?」
「アーン? ああ、そうだな。さしずめ、美術室あたりでいいんじゃねえか?」
「美術室か……そうだね! 美術室だとアレもやりやすそう!」

美術室ってことは、この学校を使ってなにかやる気か跡部! お前、いくら寄付額が生半可じゃねえからって、学校をそんなことに使っていいと思ってんのか!?
しかも土曜日の深夜に……! 
それで、アレってなんだよ! なに考えてんだ吉井……跡部のバカに毒されたお前は、意図的にバカを演出してそうで、気味が悪いぜ!

「宍戸さん、今夜48時、オレたちも行きましょう……」
「え?」なんでだよ。
「忍足さんと佐久間さんに、とんでもない事が起きるかもしれないんですよ?」

長太郎の提案に、目がまるくなっていく。
な、なんだよおい。急な正義感を出してきたな。そうか、やっと本調子になってきたか長太郎! そうだよな! お前はもともとピュアな後輩だ!
長太郎の言うとおりだ。こいつらはロクなことを考えてそうにない。美術室でなにが起きるかは知らねえが、忍足たちを助ける必要はありそうだ。
なんせ、叫び声とか言ってたからな。しかも深夜0時。そんな時間に高校生を呼びだす時点で、非常識すぎるしな!

「わかった。だけどよ長太郎。お前、家は大丈夫なのか?」
「問題ありません。その日は宍戸さんの家に泊めてください」
つまりそれは、問題あるってことだな。「まあいいぜ、わかった」

長太郎がせっかくピュアに正義感をだして熱くなってんだ。ヤボなこと言うもんじゃねえよな。今週の土曜は部活もねえし、深夜の自主練として長太郎と走ってくるとでも言えば、うちの親なら許してくれるだろ。

「宍戸さん、オレたちがそのとき、忍足さんたちを助ければ……」
「ああ。俺も、考えてることは一緒だ」おかしなことにならず、まるく収まるってな?
「そうすれば、忍足さんに恩をきせれますしね!」

なあ!? 
お、おいおいおいおい長太郎! お前、いつのまにそんな腹黒くなった!?
優しいお前はどこにいったんだ!? 忍足に恩をきせて、お前になんの得があるってんだ!?

「おいっ! そういうことじゃねえだろうが長太郎っ」
「オレは恋愛の話は苦手ですが、こういうのはワクワクします。今夜48時、楽しみですね、宍戸さん……フフフ」

だから今夜48時はもう今夜じゃねえ!
長太郎! 戻ってきてくれ! それと恋愛の話が苦手って、嘘だろ! マネ募集のときのはしゃぎっぷり、忘れてねえぞ!
ああ、やっぱりお前、キャラがどうかしちまってるじゃねえか!





とある土曜日の氷帝学園、23時30分。
あたしと景吾は、美術室のとなりにある教室で、いろいろな準備をしていた。

「よし。これでオートロックになった。ただし外側からのみ開けられるという、通常とは逆仕様だ……ふ、さすが俺だな」

景吾ってすごい。そんなことまでできちゃうんだから。
氷帝学園内でも、景吾は常に首席だから当然といえば当然なんだけど、「この人、ホントに首席なの……?」って思うくらい戸惑うことが多い景吾も、こういうときはやっぱり賢いんだなって、うっとりしちゃう。

「伊織、怖がりだからなあ。閉じこめられちゃったりしたら泣いちゃうかも」
「はっ。なんなら忍足も泣くかもしれねえな。くっくっく」
「それじゃ意味ないの! 忍足先輩は、伊織のこと守ってくれなきゃ!」
「まあ、あの野郎はヘタレてはいやがるが、好きな女を目の前にして恐怖で泣くほどヘタレてはいねえよ。おそらくな。むしろカッコつけまくるはずだ」
「いいんだよ、それで。まあ伊織なんて、忍足先輩ならなんだっていいとは思うけど」

あたしだって景吾ならなんでもいいし(あれだけ気になってたほくろも、全然、気にならなくなったし)。伊織なんて本当に愛情深いから、忍足先輩が泣きじゃくったって引かないと思う。
ともかく今日、忍足先輩と伊織がこんな夜中にふたりきりになるのかと思うと、あたしも容赦なく気分が高まってくる。
早くふたりの恋が実ればいいんだけど……伊織とケンカした翌日から、あたしたちはすぐに仲直りしたってのに、忍足先輩と伊織のあいだには、なんだか重たい雰囲気がただよっている。

――伊織さあ、あたしとケンカしたあと、忍足先輩となんかあった?
――え……なん、で?
――なんか最近、気まずくなってない? あんたと忍足先輩。
――そ……そりゃあんな女同士のケンカを好きな人に見られたんだもん、わたしだって、恥ずかしいよ。
――忍足先輩も、そういう伊織を気遣ってるってこと?
――そう……なんでしょうね。優しいから、先輩は!

どうも、たどたどしい返事じゃない? たしかにあのケンカはかなり叫びあったし、伊織にとっては恥ずかしかったかもだけど、忍足先輩、あのあと伊織を追いかけていったから、慰めたんだと思うんだよね。それで気まずくなるって、なんなんだろ。
伊織は相変わらずなにか勘違いしてそうだし、忍足先輩もしてそう。だから、早く誤解を解いてほしいんだけどなあ。

「ところで千夏……それは、なんだ?」

ぼうっと考えごとをしているときだった。となりに座った景吾が、あたしの手にあるどうらんを見て、眉間にシワを寄せた。

「なにって……どうらん」
「まっ、まさかその量……やはり俺にもやらす気だったのか?」
「やろうって言ったじゃーん、景吾ー!」
「俺は絶対やらねえと言ったはずだ!」

チッ……。
氷帝コールとか、これまでさんざん恥ずかしいことをあれほどやっておいて、顔にどうらん塗るのは嫌なのかよ。まったく、これだからボンボンは……。
さて、ドッキリ恐怖体験氷帝学園ツアーの参加者は、忍足先輩と伊織のふたりだけだ。そのふたりを……えっと、なんだっけ? 情動二要因理論とかなんとかで、景吾が言うにはドキドキさせれば忍足先輩と伊織が想いあうってことで、今夜のことは景吾の提案からはじまった。
いやだから、もう想いあってんだわ……というツッコミをことごとく無視した景吾。それでも話を聞いているうちに、どういうわけか、楽しくなってきちゃったのだ。
そう、あれは氷帝コールをはじめて目にしたときみたいな感覚だった。「なにこの跡部景吾って人、恥ずかしすぎない!?」と顔を真っ赤にして氷帝コールを体感した中1のころ、2回目からは超ノリノリの大声でアレをやっていた。となりにいる伊織はいつも引いている。でもやればわかる。氷帝コールは超楽しい。景吾が毎回やっちゃうのも理解できる。
結局人間って、想像を遥かに超える出来事を経験すると、世界が変わって見えるんだと思う。だからモタモタしちゃってる忍足先輩と伊織のあいだには、これくらいの刺激がちょうどいいかも、と、結論づけた。
だけどそうなると、あの目ざとさ氷帝No.1の忍足先輩を、しっかりドッキリにハメなきゃいけない。となれば、やっぱり生身の人間でしょう。
もちろんあたしと景吾で……「顔に白どうらんを塗りたくって、ぼやああああっとふたりの前に出ていこうよ!」と景吾に提案したのは、つい先日のことだ。

「俺がそんな……激ダサな真似するわけねえだろうがっ」なのに景吾は、このとおりなんだよねー。
「あーあ。ノリ悪っ」
「なんとでも言え。俺はやらねえ」

絶対にやらないの一点張り。つまんない男。自分がカッコ悪くなりそうなことは絶対にしないんだ。ガキ。そういうとこ超ガキ。てか、氷帝コールも大概だっつの! ギリギリ景吾だから成立してんの、わかってないのかしら。
残念だけど、ひとりでどうらんを顔に塗りはじめるしかなさそうだ。

「うわ……ためらわねえのかよ」
「ためらわないよ。ふたりのためだもん!」

景吾がどうらんを顔に塗りたくっているあたしを見て、鏡越しに表情を引きつらせた。
こんなこと、機会がなけりゃしないんだから、ためらう理由がないじゃない。まったく、この期に及んでこの男、なにカッコつけちゃてんだろ。

「ああ、千夏……美しい顔が台無しだ」
「そりゃそうなりますよ、誰だって」こちとら、どうらんだけを塗ってんだから。まゆ毛も消えてるし、なんなら唇も消える。
「しかしお前な、いくら親友の佐久間のためとはいえ……。コウメ太夫じゃねえんだぞ」
「チックショー! うん、それいいね景吾、最後はそのオチでドッキリと気づかせるのアリだね。だから景吾もやろう?」ていうか景吾、コウメ太夫、知ってるんだ。意外……。
「そういう提案をしたわけじゃねえんだよ」
「でもさあ、景吾、薄情すぎない? 忍足先輩は景吾の親友でしょ?」
「アーン? 誰が親友だ。忍足はただのチームメイトで、親友ではない」よく言うよ、いつもあれほど忍足、忍足って連呼しといて。大好きじゃんか。
「へえ。じゃあ親友いないんだ景吾? さみし。あー、孤独な人生。親友いないなんて」
「な……し、親友くらいいる!」
「じゃあ誰? 言ってみてよ」

景吾って、すぐ挑発にのるから面白い。景吾のなかで忍足先輩が親友じゃなければ、ほかに誰がいるんだか。

「そ……せ、青学の、手塚……とかだな」
「いやいや、あの人ってライバルじゃん。景吾がやたら大好きなのはわかるけど、あっちは相手にもしてなさそうだよ?」
「な、相手にしてないだと!?」うわっ、ショック受けてる。ウケるー。
「そうじゃん。手塚さんって、中3のときに景吾が勝たせてもらった人でしょ」
「おいちょっと待て。勝たせて『もらった』とはどういう意味だ!」
「ああ、ごめん、口がすべった」だってそんな感じだったし。「とにかくあの人は、自分の学校のメンバーに夢中そうだったけど?」
「む……じゃ、じゃあ樺地だ!」
「樺地先輩は結局、後輩じゃん。あんないろいろと言いつけておいて親友なんて、呆れるわ」
「くっ……Hey Siri! 俺の親友は誰だ!?」
『すみません、よくわかりません』
「だろうな!」
「おお、景吾、ナイスツッコミ……やればできるわね」

背後で急にジタバタしはじめた景吾がかわいい。いつも天然ボケ担当なはずなのに、ツッコミもできるようになってるなんて、さっすが景吾。
でもこの人、あれだけキングだとかほざいておいて、最終的にはめちゃくちゃいじり甲斐があるから大好きだ。
おかげで景吾がどんどん愛しくなる。振り返ってにっこりと笑うと、景吾は、「げ」という言葉がぴったりなほどに、また、引きつった。

「お前……怖すぎるぞ、それ」
「なかなかのものでしょ。ねえ景吾。やったら絶対楽しいって。景吾はなにしてもイケメンだから」
「おだてたところでやらねえぞ、俺の顔にそんなもの……! あっ!」

と、景吾が気取っているあいだに、両手で景吾の頬を包んだ。

「ああああああああっ!」
「へへへ。ついたー」

正面の鏡を見た景吾が驚愕している。
そこからたたみかけた。どうらんを手ですくって、目の前の顔に塗りたくる。いたずらっぽくやることで、景吾も強く否定はできないはず。
実は昨日から、こうしようと決めていた。なぜならあたしは、昨日、金曜ロードショーを見たからだ!

「千夏……! やめ……!」
「やめないよーだ。景吾は、なにしてもカッコいいね」

調子にのって、その手をぬるっと、彼の顔を包み込むようにして滑らせた。
ああ、ホントだ、ちゃんとこんなに興奮する。あのシーンはなんかエッチだったから、そういうこともあるかって思ったけど、どうらんでもうまくいくとは思っていなかった。
思いきって、座っている景吾の膝の上に抱っこしてもらう形で座ってみる。やっぱり素敵……あたしだけの景吾。額をくっつけると、あっという間に、そういうムードになった。

「景吾……、好き」
「……なんだよお前、なに欲情してやがる」

とか言いながらも、景吾はどうらんで真っ白になったあたしの手を強く握っていた。突然、男の人の顔をして、優しく微笑んで。
ついこのあいだ、はじめてひとつになったばかりだから……ドキドキが止まらない。また景吾とあんなふうに愛しあえる時間を想像させる体の密着が、あたしを大胆にさせた。

「だって、景吾が好きなんだもん」
「ここじゃできねえぜ? 持ってないからな」
「ふふ。わかってるよ、そんなつもりないってば」
「ふ……だが帰ったら、たっぷり愛してやるよ」

そのまま身を委ねるように抱きしめて、深い深いキスをした。あたしはそのときも、景吾の頬を思いきり包んで、しれっとどうらんを塗りたくった。





おいおいおいおいゴーストかよ!
金曜の部活後に怪しい会話を聞いた俺と長太郎は、忍足と佐久間の身に起こることを心配して、予定どおり23時から、こいつらが来るのを気味の悪い学校のなかで待っていた。
ようやく現れたのは、23時30分……姿を見つけてそっとヤツらが入っていったのは本館3階にある教室だ。なぜか調理室の扉をギコギコやったあと、美術室のとなりにある教室に入った。そのまま、そっと教室の扉を開いて、ふたりの様子を眺めていたというわけだが……なんなんだこいつらは!
つうか、俺のセリフを勝手に使いやがって跡部! 著作権放棄してねえぞ! それこそ「チックショー!」じゃねえか!

「宍戸さん……どこかから、メロディが聴こえてきませんか?」

ああ、気持ち悪いくらい頭のなかで鳴ってるぜ長太郎!
お前の頭のなかで鳴っているのも、まず間違いなくゴーストのテーマだろうな!
昨日の金曜ロードショーで見たゴーストのワンシーンに似すぎてて気分が悪い!
しかもなんて会話してやがんだ、あいつらは……そ、それは、もう、跡部、おま、お前はその、わかってたがその、吉井とも、そ、す、す、済ませて……!
あああああああああ学校で、なにしてんだ!
しかも、持ってたらって、アレのことか!? アレを持ってたら、学校の、そ、こんな場所で、え、え、え、エロいことをお前は吉井としようとしてたのか!?
だだだだだだだいたい、いまでもエロすぎる! いい加減にしろよ!

「宍戸さん……うらやましいのはわかりますけど、ちょっと落ち着いてください。後輩として、聞いてられません」

うるせえ長太郎! なんにも声にだしてねえだろ!
勝手に心を読みやがって! クソが、くそくそくそ! って、向日になるとこだ、クソが!

「えっ、ちょっ! し、宍戸さんっ」

暴れだしそうになる自分をなんとか抑えていると、長太郎が驚愕の声をあげた。
目を逸らしていた俺は、もう一度、跡部と吉井を見た。そこで、うっかり声をあげそうになった。
な……なんだあれは!

「し……し、宍戸さん。オレ、耐えれませんっ」

視線の先に、なぜかブラックライトのもとで真っ白に光り輝く、跡部の顔が浮きあがっていた。おい電球どうなってる!? なんでブラックライトなんだ!?
おま……それじゃお前……跡部! 鏡を見ろ!

「うふふ、結局、景吾も真っ白になっちゃったね!」
「チ……しょうがねぇな……」

吉井との激しいキスのせいか、跡部が! あの跡部が! いや吉井もだが! マジでコウメ太夫じゃねえか! つうかブルーマンみたいじゃねえか! 
うわあああ! 無理だ! 俺だって耐えられねえよ長太郎! あんなのがふたつも!
笑いを堪えるのに、自分の足を自分の手で痛いほどに殴っても、耐えられねえ!

「し、宍戸さん。お、オレも一緒に殴ってくださいっ」

おい長太郎、お前、もう声が漏れそうになってんじゃねえか!
だが……かわいい後輩を殴ることなんて、俺にはできねえ! 自分でなんとかしやがれ!

「景吾……すっごいカワイイよ」

うそつけ吉井! なんでお前はそんな跡部を見て冷静でいられるんだ! なんで笑わずにいられる吉井!? あとお前の顔も跡部と同じだからな! それでも女か!?

「千夏のほうがカワイイっつの……ふっ」

それもうそつけ跡部! 吉井の顔なんかもう、原型とどめてねえだろうが! そりゃ塗りすぎだっつんだよ! ふたりしてヅラつけてるブルーマンだろ! そうならひとり足りねえ!
いやブラックライトにあたったコウメ太夫だろ! しかしそうならひとり多い! ああ、どうしてくれんだっ!

「ん……? 48時を過ぎたな。ほう? 来てるじゃねーか」

その顔の状態のまま、窓の外を見た跡部はおもむろに忍足に電話をしはじめた。
まだ48時とか言ってやがる……バカな野郎どもだ。

「忍足、もう来てるだろうな?」

電話口で、跡部は忍足にそう告げたあと、3階の美術室に来いと言いだした。
その後、跡部は俺らのいるドアへと振り返った。まずい、こっちに向かってくる。

「長太郎、身を縮めろっ」
「はい、宍戸さんっ」

学校中が暗いせいか、跡部は近くに俺らがいることに気づきもしねえ。扉を開けて階段のほうを確認したあと、「さすがにまだか」と言って、教室に戻った。
だが階下から、とんでもねえ叫び声が聞えてきたのは、そこから数秒後のことだった。

「なんなの!? なんなのあんた! なんなのいやああああ! 怖い怖い怖い怖い!」
「あああああああああかん、あかん、あかんてあかんんんんん!」

忍足と佐久間の声だ!
驚いて廊下を見ていると、ものすごい速さで佐久間を抱えた忍足が美術室に入っていった。
唖然とした。なにがあったかも気になるが……あいつ、全力を出すとあんなに速えのか……?

「忍足さん……光の速さでしたね。試合でも見たことがないほどに」
「だな……いや、それより、なにかあったのか?」

遠くから「跡部ええええええ! どこに隠れとんのやお前えええええええ!」と叫ぶ忍足の声が聞こえてくる。
なにかに追われているように見えたが、俺たちには忍足と佐久間しか見えない。本当にどうしたんだ、あいつらは……。
すると今度は、まだそのとなりの教室にいた跡部と吉井が、教室の入口付近で声をあげた。

「ねえ景吾……忍足先輩って怖がりなの?」
「ああ……そうなのかもしれねえな。まさかあの教室に入るまでのこの道のりを、あんなに叫んで来るとは……俺も予想外だ」
「え……そうなの? 景吾がなにかしたんじゃなくて?」
「俺が考えてたのは、美術室に入ってからのことだ」
「じゃあ本当に怖かったんだ。ここまで来るの……」
「そういうことだな。ふん、なんだよ。こんなに簡単に忍足の悲鳴を聞いちゃ、面白くねえな」
「まあいいや、とにかく行こっか。驚かせに」
「ああ、そうだな」

おい跡部……お前は本当に、いったい、なにが目的なんだよ。つうか、忍足ってそんな怖がりじゃねえだろ!
前におばけ屋敷にみんなで入ったとき、あいつだけ叫び声ひとつあげずに、ずっと目につくものにツッコミを入れまくってたぞ。
だから余計にゾッとする。マジでなにもしてねえんだろうな跡部!? 忍足があれほど叫ぶのは、尋常じゃねえぞ!

「宍戸さん、隠れてください!」

はっとした。
ついつい跡部にツッコミを入れて、身を縮めることさえ忘れかけていた俺を、長太郎が引っ張った。
もう一度、見えないように身を縮めると、ヤツらは教室から出てきて、今度はとなりにある調理室に入っていく……そういや、さっきそこの扉をギコギコやってやがったな。

「ふたりとも……驚くかな?」
「くくっ……ああ、楽しみだな」

いや、笑うと思うぞ、お前ら見たら……。
つうか、そこは調理室だ! お前らがいた教室をはさんで、左が美術室だ! そっちは右! 調理室! つうか、オートロックとか、閉じ込めるとか言ってたのは、そっちのことか!? 
心の声もむなしく、跡部と吉井は調理室に入っていく。
それじゃお前らが閉じ込められるぞ……バカだろあいつら。完全に教室を間違えてるぜ!

「宍戸さん……なかの様子、見たくないですか」
「まあ……オートロックで閉められるだろうからな。だが、反省するくらいがちょうどいい気もする。あげく、窓にはなんの仕掛けもしてやがらねえ。ここからでも覗けそうだな」
「はい……あとで、そのことに気づいたら助けてあげましょう。そしたら跡部さんにも、オレは恩を着せれます……フフフ」

……も、もうツッコむ気力も失せたぜ長太郎。
ああ、いいよ。もうあきらめた……そんなお前でも受け入れてやるよ。
しかし、これで忍足たちが恐怖に泣くこともなく、こいつらを見て笑うこともねえってことだな。
それにしても、忍足と佐久間も美術室から出てこねえな。怖いならすぐに学校から出ていきそうなもんだが。あいつら、好き同士だからな……いい感じになってる可能性もある。
チッ、どいつもこいつもお盛んだな!
まあでも、それならそれで、よかったじゃねえか……俺も心配しすぎたな。跡部がここまでバカだと気づいていれば、いまごろ部屋で寝ててもよかったっつうのに。

「あ……いたよ景吾…」
「よし……いくぞ千夏」

ああ? いた……? いやいや、いるわけねぇだろ。なにとふたりを間違えてんだ? しょうがねえから最後までこいつらのバカっぷりを見届けてやることにするか。
わずかに開いていた教室の窓を、さらにスライドさせた。ぐっと身を屈めつつ、ふたりが歩んでいる方向を見る。
てっきり、オブジェ的なものを見て勘違いでもしてんだろうと思っていた。この学校には、いたるところに跡部が寄付した美術品が置かれてあるからな。
だがそれは、あきらかに動いていた。
な……なんだよあれ。なんだ、あのぼんやりしたのは……!
ま……まさか……、そんなわけねえ、だが、あれはどう見ても、人間の形をしてるじゃねえか……!

「……わあっ!」

凝視しているあいだに、吉井がその人影の背中から、大声をだして脅かした。
そいつはビクッと体を硬直させたまま、ゆっくりと、振り返ろうとしている……が、俺と長太郎は、その姿に目を瞠っていた。

「しし、宍戸さん……あれ……ふたりと違いますよ! ひとりしかいませんし!」

いやそれだけじゃねえだろ! 人数どころか、人が違うどころか、そもそも忍足と佐久間は跡部と吉井が準備していた教室を挟んで反対側の美術室に入っていったんだ!
ってことは、なんで、ここに人がいるんだよ! こんな時間に、おかしいじゃねえか!
あ、あれは、あれは、もしかして……!
振り返るな、ふたりとも! その顔を見られるよりも前に、そいつの顔を見るな!
心のなかで必死に願ったが、そいつは半分までゆっくりだった動きを突如早め、ぐるん! と振り返った!
だた一点を見つめているような恐ろしい目、真っ青な顔、ボサボサの髪。着ているシャツが、ところどころ墨汁を垂らしたように汚れている。なにより、そのぼんやりとした雰囲気、体から出ているようなごわごわとした黒い風……それは間違いなく、この世のものじゃないということを表現しているような、バケモノの姿だった。
全身の毛が逆立っていく……まずいぞ跡部……そいつは、そいつは……!

「うっわあ、もうこっちがびっくりしたとよー。おたくらもアレ? ここで驚かせようっちゅう魂胆で来なさったん? おん?」

なあああああああ!? しゃ……しゃったぞおい! しゃべった!
俺たちは、さらに目を瞠るハメになった。ニコニコとしたバケモノの顔が、跡部と吉井の正面にある。
なんとか見つからないように見ることしかできねえが、あきらかに顔色から姿形から、おかしいってのに……しゃべったぞあいつ!
おい跡部! 固まってる場合じゃねえよ! 吉井と一緒に逃げろ!

「あ、ああ、悪かったな。人違いだ。おかしいな……ここは美術室……」

なんでだ跡部ええええええ! おかしいだろそいつ! つうかこの状況! 気づけよ! それ、人じゃねぇよ! 跡部!

「ああ、優しい人でよかったですね、宍戸さん」

いや長太郎おおおおおおおおおおお!
頼む、もうなにも望まない! もう普通にテニスしてくれればいいから、お前も普通に戻ってくれ!

「おにーさん、ここ調理室だばー。おたくらもっと確認せにゃいかんねえ。ちゅうたって、ここの学生さんでっしょお? どぎゃんしたら間違えるっけんねえ? ああ、おたくら探しとう人たちは、たぶんですけんどお、さっきジェシーが脅かしたばってん、美術室に入っていきなはったじゃん」

うわあああああ、バケモノが、しゃべってるぞ……! しかもなんだよ、その口調。統一感ゼロじゃねえか!

「じぇ、ジェシー? さっき驚かしたって……忍足先輩と、伊織を?」吉井が普通に答えた。お前もなんでビビってねえんだ! いいから逃げろよ!
「んだ。……って、いやいやいやいやいや、名前は知らんですやん! 普通に考えて! うちが名前知ってるわけないぜよ、お嬢ちゃん! もう、ばりくそ面白いこと言わんとよ、ひっきっきっきっきっ」き、気色悪い笑い方すんじゃねえ!
「そ、そんなに面白かったかな、景吾?」
「いや、とくには……」
「ひっきっきっき、つめたっ、おにーさんつめたっ。さすが氷帝学園じゃっき! ひっきっきっきっき!」

うまいこと言ってやがる! なんなんだ「じゃっき!」って!

「ちょ、すまないが、気持ち悪い笑い方をしないでくれるか……」

いいぞ跡部、ナイスツッコミだ! いやよくない! 逃げろ! ああ、俺もバケモノに調子を狂わされて混乱してきちまってるぜ!

「ああ、それはどうも、さーせん!」いきなり若者かよっ。「でもお、でもねえ、おたくら。ジェシーは危ないけえね、気をつけちょかんといけんホよ。根は悪い子じゃないんでえ? まあでも、男と女のカップルやったでっしゃろねえ? ジェシー、イチャイチャ嫌いやけん、あのふたり美術室に閉じこめたんじゃろねえ……」

閉じこめた!? ってことは、忍足と佐久間が美術室から出てこねえのは、オートロックもかかってねえのに、閉じこめられてるからってことか!?
なんだよ……イチャイチャしてんのかと思ったら、そういうことか!

「だで、この商売もなんよねえ? まあそれくらいのことして、人を驚かせてなんぼ、みたいなとこあるよって……ひきききききききききき!」

また気色の悪い笑い声をあげて、バケモノはバシバシ、と跡部と吉井の肩を叩こうとするが、その陽気なバケモノの手が、するするとふたりの肩をすり抜け、跡部と吉井がビクッと体を強張らせた。
ほらみろ! 言わんこっちゃねえだろ! やっと気がついたか!
そいつは、 人 じゃ ね え ん だ よ ……!

「ししし、宍戸さん……あああああ、あれは……!」

お前も気づくのが遅せえよ! どう考えてもおかしいだろ!
長太郎に強めのツッコミを心のなかで入れたときだった。ガタガタガタガタッ! と、調理室中の窓が、大きく揺れはじめる。
うわああああああっ! なんだよこれは! 俺は驚いたが、跡部と吉井は冷静だ。
つうか、あのバケモノのほうがその音に驚いてやがるじゃねえか!

「うわああああっ……ああ、びっくりしたあ。あ、これ、おたくらが仕掛けちゃったん?」
「あ、ああ……まあな」まったく……跡部の仕業かよ!
「まあああああ、こりゃまたそりゃもう、おたくら、手のこんだ仕掛けするんだべなあ! じゃけんど、人間やから仕方ないっちゃあないねえ。ボクらみたいにほら、ただ突っ立っちょうだけじゃ、驚かせたりできんでしょうしー。じゃからって、おしょうしなしー言うてもねえ」
「お、おおお、おしょうしなしー?」
「そうそう、おしょうしなしー。挨拶みたいなもんね。ええ? しーは、しぃぃーって、ちょっとウイスパーボイスで言うんですわいね」
「お、おしょうしなしぃぃー?」

いや吉井、ノッてんじゃねえよ。

「ああん、お嬢ちゃん惜しい! もっと、しぃぃぃぃ……」
「しぃぃぃぃぃ……?」
「おうおうおうおう、いい感じですわい。それ思いっきり、しいい! 言うちゃったらダメなんよ。目上の人には失礼になるソ」
「嘘でしょ? まるでフランス語じゃない」
「うまいこと言いはる。でもお、やってもらわんとお。うち戦前に死んどりますけんねえ、おたくらより100歳は目上の人よお?」
「おしょうしなしぃぃぃぃぃぃぃ……、か」
「あらおにーさん、発音、完璧ですたい! うまいわあ、ハンサムじゃしい、うんうん」

いやいや、なんの講座がはじまってんだよ! あとそれは、どこの方言だ!
つうかいま、こいつ、しれっと告白したぞ! 戦前の人間だと! 100歳は目上だと! 戦前に、死んでるって、言ってたぞ!
 
「ま、それはそれとしてえ。しゃ、しゃあけどおたくら、その顔はちょっと、ちゃいますやん! 最初は驚くけど、よう見たらただの市川團十郎ですわいね! あ、九代目ぜよ? いまの團十郎じゃないホよ。わかる? 戦前ジョークばってん、わろてやあ! ひききききききき!」

そしてまた、バシバシと叩こうとする手が、ふたりの肩をすり抜けていく。
跡部と吉井は、ようやく顔を見合わせた。だから遅えよ! さっきすり抜けただろ!
スケスケツルスケスッカスカだったろ!

「ちょちょ……景吾……この人」
「言うな……逃げるぞ千夏」

さっきからとろとろしやがって! さっさと逃げろ! 逃げようとした瞬間に、俺たちがここを外から開けてやるから!
ずっとその準備をしてんのに、いつのまにか方言講座を受けやがって! バカップルが!

「まあまあ、そんなけったいなこと言わんでもええですやん? 仲ようなった証に、ちょっと遊んでいかんかね? ここはそんな狭いとこじゃないけんなあ、カンケリくらいならできる……ってお前どうやってカン蹴るんじゃ! ってそないツッコミええってええってえ! 堪忍してやもうー!」

バシバシ、とまたバケモノはふたりを叩こうとしているが、やはりその手はすり抜ける。
ありえないくらい陽気なバケモノに、さすがの跡部も吉井も黙りこくった。

「まあまあ、そんな笑いたかったら笑ってえよ。あー! ちょっといまから一杯やらんね? 秋田のまぼろしの酒が手にはいったけん。こないだ老衰で死んだ婆さんの指、ちいと拝借して漬けとったんよ。あれ絶対いい出汁が取れちょるわ。その婆さん、にぎり飯が上手で評判の人じゃったんちゃ。にぎり飯がうまいとかね、寿司がうまいとかね、そういうのは全部、手の出汁じゃけ、間違いないけ」

ちょこちょこ非現実的な気持ち悪い話と現実的な気持ち悪い話を織り交ぜやがって!
今度からにぎり飯と寿司が食えなくなるだろ! ああ、跡部も吉井も、早く逃げろよ!

「お……俺たちはまだ未成年だからな……遠慮して、か、帰る」
「帰ろうよ景吾……早くっ」
「そんな殺生ですやん! ちょっと待っておくれなはれやっしゃー!」

跡部と吉井がすごい形相でこっちに向かってきた。その隙に、俺は長太郎を促し、そっとオートロックを外させた。
跡部の腕をつかもうと必死こいてるバケモノは、やっぱりするするとすり抜けて、ふたりを捕まえられない。
跡部も吉井も、足早になっていった。

「待ってえ、待っておくれはなれやっしゃあああああっ!」

跡部と吉井は、すぐに扉を開けて調理室を出た。
長太郎は即座に身を隠したが、ふたりは相変わらず俺らに気づかず、全速力で階段をおり、帰っていった……。

「ああああああ……帰ってもうた。もう、おばけなんて嫌やああああああっ」

ていうかお前はどこの出身者なんだよさっきから! アレか!? 100年近くさまよってるから全国の方言をマスターしちまったとかそういうオチか!?
ったく、言葉めちゃくちゃじゃねえか! わかんねえのもちょいちょいあったぜ! なんだよ「おしょうしなしー」って! 気になるだろ!
だが、おかげでもう俺は、このバケモノのことが、怖くなくなってきた。
バケモノのくせに激・ダ・サだろ!

「おい長太郎……ふたりを助けに行くぞ」
「えっ……しし、宍戸さん本気ですか!? 帰りましょうよ!」

てめえは……! 優しい長太郎はどこだ!? 本物だとわかったとたん怖気づきやがって!

「なに言ってんだ! ジェシーがいるんだぞ! 仕掛けもねえ美術室に、忍足と佐久間は閉じこめられたままじゃねえか!」
「え、あ……そ、そうですよね! すみません、オレ怖すぎて……すっかり忘れてました!」

ジェシーがこのバケモノの友だちだと思ったらあんまり怖くなくなってきたぜ。しかし要注意だよな……危ないってあの危ないバケモノが言ってたくらいだからな。それに、仕掛けのない美術室が開かねえってことは……マジでやべえだろ!

「心配すぎるからな! 走るぞ!」
「はい宍戸さん!」

忍足と佐久間を救うべく、美術室に走った。ふたりは、なんとか無事だった。
4人で帰ることになって俺らも安心できる予定だったんだが、その帰り道で、忍足と佐久間に恐ろしいことが起きた。
翌日から、忍足と佐久間は熱でうなされた。細かいことは、ほかの場所で語られているらしいから、そこで収集してほしい……俺はもう、語るのも怖いぜ。

「宍戸さん……あれから、調子どうですか? オレ、しばらく頭痛がしてるんです」
「ああ……俺もときどき、妙に体が重いときがある。だが、時間とともに、よくなるだろうよ。あまり考えすぎんな」
「ですよね……」

あれから、数週間が過ぎていた。
ちなみと跡部と吉井だが……どうらんがしばらく顔から取れなかったらしく、学校には来なかった。きっと……あの方言のバケモノがなにかしたに違いねえと、俺はいまでも疑っている。

「もう暗いですし、そろそろ帰りましょう。全国も近いですけど、遅くなりすぎると、どうも調子が悪くなるので」
「ああ、だな。帰るか」

部活が遅くなった日、調理室の窓をそっと見あげた。跡部と吉井も、もちろん忍足と佐久間も、かなりのトラウマになっただろう。
だがその恐怖は、俺たちにも少なからず残っていた。

「おしょうしなしぃぃぃぃ……」

ビクッとした。あの日からときどき、氷帝学園に夜中までいると、聞こえてくる気がする。
目には見えねえし、あれから夜中に来たこともねえから、実際にいるかどうかはわからねえ。だが……やっぱりそこに、いる気がする。

「おしょうしなしー……」
「なにか言いました? 宍戸さん」
「いや……なんでもねえよ」

俺はいまも、調理室の前をとおるたびに、お返しのようにつぶやいている……。





fin.



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