熱_03
私だけを、見てくれる人を探していた。
彼氏は、その探していた人のはずだった。
でも…それはいとも簡単に、崩れ去って…
熱
3.
「……なんだ、あれは…」
「…景吾、行こう…」
俺のジャケットを引っ張る伊織の合図を俺は無視した。
視線の先には、野郎がまだ若くてバカそうな女とホテル前で濃厚なキスをしてやがる。
「何言ってやがる…黙って帰るつもりかよ…」
「そんな…景吾が熱くなるなんて…変なの…」
「伊織…」
「うっ…嘘みたい…想像も出来なかった…浮気されたら、とか…考えたこと…あるけど…も…行こう…けぇごっ」
「…………ああ…」
傷付けた相手のことなんてのは、俺は考えたことはない。
今はそれを考えようとせずとも、俺に流れ込んでくる。
伊織が傷付いたことで、俺にはその半分もない、痛みを与えられた。
伊織が傷付いたことで、俺も少しだが…痛かった。
心が軋むような痛みを、俺は23年間生きてきて、初めて経験した。
+ +
「伊織…大丈夫か?」
「ごめ…景吾…ごめんね…」
車で伊織をマンション前まで送って、しばらくそのまま傍に居てやった。
居てやったっつーのは…違うよな…居たかったんだ…俺が…。
伊織は車から出ないまま、ひたすら涙を流していた。
「謝るんじゃねぇ…お前は何も悪くねぇだろ…」
「だって…つ、つき合わせて…」
懸命に、言葉を絞りだしている。
車から出るタイミングを失くしちまってんのかもな…。
「…今までの俺は…あいつと同じだ」
伊織がいるうちに、俺は吐き出してやろうと思った。
もう、我慢ならねえ…今なら…俺はお前を奪える…。
お前が欲しい…伊織…俺は…
「あいつはどうだか知らねぇが…俺様は女を傷付けても、全く気にもしちゃいなかった。恐らく、あいつもその類だろうけどよ…。じゃなきゃあんな真似、出来ねぇ…だろ?」
「………うっ…ひっく…」
「…傷付けたくねぇと思う相手が…いなかったんだよ…」
「……」
「…本気で…惚れたことがない俺には…理解できなかった…」
「…景吾…?」
いつもと違う俺に気が付いたのか、伊織が少し顔をあげて俺を見た。
その涙で濡れた顔に、表情に、俺の心が悲痛な叫びをあげ、次の瞬間には、俺は衝動的に伊織を強く抱き寄せた。
「…!!景っ吾」
「俺じゃ…ダメかよ?」
…強く…こんなに感情を込めて誰かを抱きしめたことは俺には一度だってなかった…好きだという想いを伝えたことも…好きだという感情すら…俺は知らなかった…何も…。
「伊織…お前のことは傷付けたくねぇ…」
「景吾…」
「お前を傷付ける奴は…許せねぇ…そう思う…」
「……けぇっご…っ」
俺の腕の中で、伊織が小さく首を振った。
俺はその動きに、腕の力を弱めて伊織の言葉を待った…。
「…ごめん…景吾…私、今…全然…」
涙ながらに謝る、伊織の声が俺の頭の中で響く…
「…そう…だよな…悪いな伊織…困らせ―――」
「違っ…!そんなことない…嬉しいよ…景吾の気持ち…」
「…あの男と同じことしてきた、俺でもか…?」
そう言った俺を切ない目で伊織は見つめて、また小さく首を振った。
「…景吾…ごめ…今…うまく言えない…」
そのまま俯いて、俺から目を伏せた伊織は明らかに戸惑っていた。
好きな男に浮気されて、いきなり目の前の男に告白されて…当然だよな…今…何も考えれるはずがねぇ…
「…伊織、落ち着いたらでいい…連絡…くれるか?」
「…うん…」
そのまま伊織は、マンションに帰って行った…。
俺は…それから2時間近く、その場から離れようとしなかった。
これも…違う…離れようとしなかったんじゃねえ…離れられなかったんだ…少しでも、お前の傍に居たくて…。
景吾と一緒に行った食事の帰りに、私は彼氏の浮気現場を見た。
…なんていうか、恋人同士はよく言い合ったりすると思うんだけど、例えば、浮気したらどうする、とか…。
そういうこと考えて、相手が浮気した時、自分がどんな感情を抱くか、想像してみたりする…私は、その想像と現実と、真逆だった。
「別れて、下さい」
「…伊織…なんだよいきなり…ずっと連絡が取れないまま、マンションにだって何度も行ったんだぞ!?バイト先にもいないし…それでいきなり来たかと思ったら…おい、理由くらい…!」
きっと怒りと嫉妬に狂って、相手を問い詰めて、殴って…そういう、所謂、修羅場を想像していた。
私は元々、そんなに弱い人間じゃないから。
だけど、なかなか即座にその対応は出来なくて。
「理由は…私の気持ちの問題」
「あいつか…あの、跡部景吾って奴かよ!!」
跡部景吾…そう…彼が居て、私は彼に身を委ねるように泣いた。
傍で、ずっと黙って、何も言わずに居てくれた。
別れる間際に、大丈夫かって言葉と、信じられない告白を、受け取ったけれど…。
「私…私だけを見てくれる人じゃないと、ダメなの。ごめんね」
「何言ってんだよ伊織!俺はお前だけを―――!」
そこまで言って、彼の部屋を出た。
あんなに愛し合っていると思っていたのに、嘘みたいに呆気ない終わり方。
別れると、今までのことがなかったみたいにスッキリした気持ちになって…彼氏のマンションから出て空を仰いだら、自然と笑みが零れてきた。
伊織、落ち着いたら連絡くれ…そう、言ってたっけ…。
あの日から3週間、私はずっと考えていた。
彼氏とは、別れようとあの日に決めた。好きだった、だから辛かった。
泣いて、泣いて、泣き疲れた時に私の心に浮かんだ、景吾の顔…。
[景吾、久しぶり…彼氏とは別れました。いろいろありがとう。伊織]
3週間ぶりに、景吾にメールを送ってみた。
…ついでに侑士にも、連絡を入れておいた。
ずっと昔から仲良くしていた侑士がついでなんて、ちょっと酷いな、私も。
…最初の一週間は、彼氏への想いばかり…
2週間目には、景吾の告白を思い出していた…包まれたいと思う、彼に、愛されたいと思った。
彼氏に裏切られたことへの腹いせかもしれない。
その事実に耐えれない、一人でいることに耐えれない、…私の弱さかもしれない。
…本当に景吾が好き…?
ここ最近ずっとそう問いかけながら、私は知っていた。
景吾を少しでも受け入れたら、きっと溺れてしまう自分を。
私はきっと、景吾から離れられなくなる…それが何より、怖いと思った。
〜♪
メールを送ってから間もなくして、携帯に着信が入った。
名前を見て、ひとつ深呼吸をしてから電話に出る…。
「もっしもーし!」
<…なんだ、そのテンションの高さは。>
「え、なんだってことはないじゃない!」
<くくっ…元気そうじゃねぇの…あーん?>
久々に景吾の声を聞いて、私は少し安心した。
あの日から…車の中で、私の泣き言を聞いてもらった日…景吾がすごく優しい声で、私を気遣ってくれて…安心したのを思い出す…あの日から…ずっと聞きたかった声…。
「うん、…元気だよ。相変わらず…」
<………今度はいきなり元気なくしやがって。>
「えっ…」
<伊織…回りくどいのはやめようぜ。俺はお前に逢いたい。お前は?>
少しの変化も、電話越しなのに見逃さないでいる。
景吾は、もともとこんなに女性に気が付く人だったんだろうか…それとも……。
そこまで考えて、私は私を胸の内で嘲笑った。
…バカだな…私…傷付けたくないって言われて、自惚れて…逢いたいって言われて、自惚れて……自惚れて…自惚れちゃうよ…景吾…そんな優しい声で…そんなこと言わないで…
「…逢い…」
<……>
「…逢いたくないとは…言わない…よ…」
<あーん…?可愛くねぇ女だな…>
景吾の言うとおりだ…本当に可愛くない…それでも私の中での葛藤は続いてる。
私は本当に景吾が好きなのか…今はまだ霧の立ち込んでいる気持ちも…やがてきっと鮮明になってしまう…。
その時が怖い…景吾に本気になってしまう自分が…彼に本気になった時、私はきっと、また傷付く…怖い…。
「うー…」
<…逢いに…行ってもいいだろ?>
「…うん…」
<…待ってろ。>
彼に逢うべきだと、自分への言い訳を作る。
…そんな理由をつけて、私は自分の気持ちを誤魔化した。
本当は違う…逢いたい…すごく…逢いたい…。
あのままプツッと電話は切れて、私が家に帰ってから10分もしないうちに、家のチャイムが鳴った。
「…伊織…」
「景…吾…あ…あがって?」
ドアを開けると、ブルージーンズに黒のフードジャケットを身に纏った
景吾がそこにいて、いつもとは違うラフなスタイルに、胸が高鳴った。
いつから…?いつから私は景吾を意識してた?
景吾に再会して身体からの鼓動を感じてしまう自分に、彼氏の浮気が自分にも原因があったんじゃないかと、疑ってしまう。
それ程、もう私の気持ちは後戻りの出来ないところまできているのかもしれない。
「悪いな、急いで着替えたからよ…らしくねぇだろ?」
「あっ…ううん、すごく似合ってる。景吾、本当に何着ても…素敵ね…」
私が思わずそう言うと、景吾は黙って私を見つめてきた。
その視線が、私の目を逸らさせないほど強く捉えて…
「…俺じゃダメか?…伊織…もう返事は待てねぇ…」
「景吾…ちょ、ちょっと落ち着いて話そう?ね?今…コーヒー入れ―――っ!」
そう言って、背中を向けてキッチンに向かおうとした私を、景吾は息が詰まるほどの強さで、痛いくらいに後ろから抱きしめてきた。
「景――っ…」
「もう待てねぇって…言っただろ…」
溜息を漏らすように、私の耳元で呟かれた景吾の声…辛そうで、それが切なくて…私は胸が苦しくなった。
「…ね、景吾…」
「離さない…惚れてんだよ…お前に…本気で…」
「……景…吾…」
離さない、と言った後の景吾の手に、ぎゅっと力が込められて…私の身体が、ドクン、と脈を打った。
私の身体を包み込む景吾の体温が酷く熱を持っていて、私の目の前がどんどん歪んでいった。
「…信じ…られねぇか…?」
「…っ」
「…お前に惚れてから…女に触れてねぇ…」
「…え…」
「…伊織…俺は……お前だけを…」
耳にかかる景吾の声が掠れている…景吾の顔が見れなくて、良かったと思った。
同時に私の顔が景吾に見えないことも、本当に、良かった…正直に自分の気持ちを伝えることすら私は…怖い…それでも、息を整えて、私は伝えようとした…ちゃんと、言わなくちゃ…。
「……こ…怖いの…」
「……伊織…?」
声を振り絞ってそう言うと、景吾は少し力を弱めて後ろから私の顔を覗き込むような形をした。
それでも私は景吾の顔を見ないままに、そっと、目を逸らして…
「景吾に……好きだって言われて、私、その度にどんどん…好きになっちゃいそうなくらい…惹かれて…だけど…怖い…景吾に本気になったら…離れられなくなる…」
景吾みたいな人に溺れて、もしも景吾が私を捨てたら…私はきっと、景吾しか愛せない脳内のまま、魘される。
怖い…本気になるのが…怖い…景吾を好きになったら…離れられなくなる…絶対に…もう…手遅れだとしても…
「…離れる必要なんかどこにある…俺はお前を離すつもりなんかねぇぜ?」
「今はそうでも…!景吾は…モテるから…私は…私だけを見てくれる人じゃないと…嫌だよ…もう…あんな想いしたくない…」
酷いことを言っていると、十分に自覚があった。
私のことを好きになってから、改心したと言っている景吾の言葉も、全て今、私は無視したのだ。
「…やっぱり…お前の中で…俺様はそういう男だよな…」
「……そっ…」
ふっと笑うようにそう言って、景吾は私から手を離した。
景吾を傷付けた…私を傷付けたくないと言ってくれた人を…私は…容易く傷付けてしまった…どうして…信じるのがこんなに怖い…?
「伊織…俺な」
溜息を付くように、景吾はそう呟いた。
私の目には、もう涙が溜まっていて…付き合っていたわけでもないのに、別れてしまうかのような状況が辛くて…でも…何も言えなくて…
「…!」
「顔…あげろ…伊織…」
いつの間にか私の正面に回ってきた景吾の姿を見て、私はすぐに顔を伏せた。
また泣いちゃう…どうしよう…私はぶんぶんと、力なく首を振って景吾に応えた。
「…一瞬でいいから、顔、見せてくれよ…伊織…」
景吾の切ない声にたまらなくなった私は、思い切って小さく顔を上げた。
景吾はその刹那、私の頬に景吾の右手が触れた。
やめて…そんなに優しく触れないで…忘れられなくなっちゃう…
「………」
「…景…吾…」
「なんで…泣いてやがんだ…」
「……ぅ…っ」
景吾がそう言って私の目を覗き込んだ瞬間、私の視界は一気に閉ざされて、目の前に景吾の綺麗なまつげが見えた。
唇から、力が抜けて…優しい、優しい、触れるだけのキス…。
「…誘ってるようにしか、思えねぇ…間違ってねぇだろ?」
景吾にそう言われて、私はみるみるうちに顔が歪んでいった。
もう…もう戻れない…気持ちがハッキリしてしまった…景吾にも、もう知られてしまった…
「伊織…もう泣くな…」
ぐしゃぐしゃな顔になった私を、景吾はそっと抱きしめてくれた。
小さく微笑んで、大事な物を扱うかのように、そっと…優しく…。
少しだけ揺れた私の身体は、まるで最初からそれを探していたかの様に、すっぽりと彼の腕の中に収まった途端に、落ち着いていった。
「なぁ…いくらだって、本気になってもらって構わねぇぜ…?俺はお前を離すつもりはない…もうお前にしか触れない…」
「…し…信じちゃうよ?…私…」
「ああ…信じていい…信じてくれ…信じられなかったら…信じてもらえるまで、努力するからよ…」
「景吾…」
「伊織…好きだ…お前だけだ…」
そう言って、景吾はまた私にキスを落とした。
さっきよりも深いけど、それでもやっぱり、優しいキス…。
そのキスから、景吾の想いが伝わってくるようで…。
私は自然と、景吾の背中に手を回していた。
「…伊織…」
景吾の背中に触れた瞬間に、景吾から漏れた私の名前。
その呼び声が、今までにないくらいに愛しそうに聞こえて…
「もっと…早く…お前に出逢いたかった…」
「景吾…」
「…愛してる…」
私の頭に頬をすり寄せるようにして、小さな声でそう言った。
「私も…そう思うよ景吾…」
「本当か…?」
「本当…」
景吾の目を見て少し笑ってそう言うと、景吾は安心したように俯いて微笑んだ。
そんな景吾を見て私も安心して…私も同じように微笑む。
すると突然、景吾がキリっと顔をあげた。
「…しかし…俺様のことばかり言うけどな、伊織よ…」
「え…?」
「お前はどうなんだ。俺だけを見てられんのかよ?」
「…え…」
「え、じゃねぇ…伊織は俺だけを愛し続けていられるんだな?」
真剣な表情でそう言った景吾が、彼の想像していた雰囲気と違って…心の中で微笑んだ私は、慎重に言葉を選んだ。
「景吾が…」
「なんだ?」
「景吾が私に約束したのと同じくらいの強さで、そう誓える」
「……それなら…安心だぜ」
私がそう言った時、景吾は嬉しそうに笑った。
それからまた、何度もキスをして。
触れ合うたびに、私の中の不安がひとつ、またひとつと消えていった――――。
to be continue...
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