熱_05
降り続ける雨の中を、呆然と歩いていた。
舌と舌が絡まりあうあの光景が、私の頭に焼き付いて離れない。
彼が望んでいないキスだということは、よくわかっていた。
それでも、今までの全てを疑う私は、罪ですか―――?
熱
5.
景吾を見て、抱きついていた女性を見て。
私は喉元を銃で撃たれたような…そんな焦げ付く熱さを、胸にナイフを突き立てられたような…痺れるような感覚を、ただ、受け止めて、それでも、身体は動いて。
「あれ、跡部プロ、いらっしゃいませんでした?」
「いえ、長くなりそうでしたので…失礼します」
管理室の人が帳簿を付けながら、通り過ぎる私にわざわざ声を掛けた。
私は無意識にそう答えていた。
傘を差した手が、震えていることを悟られないように。
景吾とあの女性のキスは、2ヶ月前に見た私の元彼のそれを思わせた。
捻じ込まれた舌に絡む景吾の舌を見た瞬間、吐き気を覚えて私はすぐにその場を離れ、胸を掻き毟った。
その後のことは、知らない…景吾はあのまま、彼女の想いを受けたのか。
そのまま、目の前に何も見えてないような状態で、ただ、歩いて。
景吾のマンションに着いてから、私はテーブルの上に手をついて、ふいに、それを撫でた。愛でるように、自分を、慰めるように。
お前に惚れてから、女には触れていないともう私にしか触れないと、そう言った景吾の声が、私を支配した。
身体中が熱くなった言葉に、声に、私は幸せを感じた…彼を信じてる、景吾を、信じてる…信じて…信じて…信じたのに…信じて…いたのに…なのに…それなのに…!!
「…っ…うっ…くっ…っ…」
私の中で、何かが崩れた。
ガタガタと、いとも簡単に音を立てて。
昨日の景吾は、何か様子が違った。
ここで待ってろと言ったのは、そういうことだったのか。
触れてないと言っていたのに、もう、触れないと言っていたのに…
何もかもが…景吾の言葉が嘘になる…嘘に…嘘を…重ねているの?景吾…。
この時の私はすでに、景吾の全てを疑っていた。
人は、簡単に裏切れる…それは行動だけではなく、人を信じるというその想いを、容易く消す事も同様に。
…私は、景吾を裏切った。
私が傷付き裏切られたことへの、当然の報いだとさえ思っていた。
■
また、俺は人を傷付けた。
好きでもない女を傷付けていながら、俺は憂鬱になった。
俺に身体を引き剥がされ、声を殺して泣く女を背中に、俺は事務局を出た。
「…傘…」
完全に閉まっていない扉を開けて事務局を出た時、俺の目に映ったのは見覚えのある黒い傘だった。
それは丁寧に横に寝かされて、僅かだが…枝が…濡れていた。
…これは…俺の…?
俺の右手が少しだが、小さく震えた。
すぐにその傘を取り、まだ明かりの点いている管理室へと走った。
「あ、跡部プロお疲れさ―――」
「伊織が来たのか!?」
俺の剣幕に管理室の人間は身を引き、驚きを隠せないといった表情で俺に焦った顔をして話す。
「えっ…あ、はい…先程、帰られましたけど…」
「…くそっ!」
「え、あ、跡部プロっ!?」
荷物も持たないまま、俺はマンションまで走った。
傘も差さずに、雨の中、ただ伊織のことだけを考えて走った。
伊織、頼む…居てくれ…約束…しただろ…?
ちゃんと待ってるって…言ってくれたよな…?
「伊織!!」
部屋のドアを開けるのと同時に、俺はそう叫んだ。
だが、その想いも空しく、部屋の中は静まり返り、暗い闇が俺を包んでいる。
「…伊織…」
すぐに電気を点け、俺は部屋中を見渡した…だが…どれだけ部屋中を探しても、伊織の姿はもうそこにはなく…俺がテーブルに目をやった時、全身が震え上がるような恐怖を覚えた。
「……冗談だろ…」
テーブルの上に置かれていた物を見て、俺はそのまま外に飛び出した。
そこに置かれていたのは、俺が初めて預けた、この部屋のスペアキーだった。
「くそっ…早く行きやがれ!!」
伊織の家に向かう車の中で、俺は耳鳴りがするほどのクラクションを鳴らしていた。
伊織を失うんじゃねぇかと考える度に、俺は今までに感じたことのない恐怖が襲いかかってきやがる。
失いたくねー…初めて、俺が愛せた女を…嫌われるのが…失うのが…伊織が離れていく事が、何より…怖ぇ…。
頭の中で俺を襲う恐怖を跳ね返すように、俺は車を走らせた。
雨で濡れたせいなのか、身体は芯まで冷え切っていた。
+ +
漸く伊織のマンション近くまで行った時、ふらふらと歩道を行く女の姿が助手席のミラーに映った。
俺はそれを見てすぐに車を止め、その姿を確認した。
「…伊織…っ!!」
それは、紛れもなく、伊織の姿だった。
傘を差していても、しっかり持っていなかったのか、身体の半分以上が雨に打たれて濡れちまってる…。
「……」
俺が名前を呼んだことで、伊織はそこに立ち止まった。
そうしてゆっくりと振り返り、何も言わずに俺を見た。
その目は、確かに俺を見ているはずが…どこか遠くを見ているような色を乗せ…。
伊織はまた静かに向き返り、足早にマンションへ向かっていく。
「伊織、待ってくれ!!」
そのまま急いで追いかけ、俺は伊織の腕を掴んだ。
その瞬間に傘が音を立てて地面に落ち、同時に、俺の手はすぐに、強い力で振り解かれた。
「触らないで…」
「……伊織…」
「帰る…」
俺の目を見ようともせずに、傘を拾う仕草も見せないまま、伊織はまっすぐ正面を向いて歩き始めた。
その後ろ姿に、俺はたまらなくなって後ろから強く抱きしめた。
「…ゃっ…!」
「伊織…聞いてほしい…」
「離してっ…!やめて…!!」
「聞いてくれ!!」
無理矢理に正面に向かせて、俺は伊織の目を見てそう言った。
伊織はその俺の叫び声に、身体を震わせ、強張らせ、俺を見上げた瞬間、涙を流した。
「俺が愛してるのは…」
必死だった。
伊織を繋ぎとめることばかりを考え、俺の頭の中は混乱していた。
どんなことを言っても無駄だということに未だ気付かないほど、俺は愚かで、どうしょうもねぇバカだった。
「やめてよ!!」
「…伊織…」
「聞きたくない…もうそんなの、信じない…」
「…っ…」
伊織の口から出た言葉に、俺は息が詰まるほどに苦しくなった。
信じないと、言われた…一番、信じて欲しい…最愛の女に…。
「…嘘だろ…伊織…っ」
「やっ…ちょっ…んっ…!」
俺は首を一人で振って、力ずくで伊織を抱き寄せ、強引にその唇を奪った。
いつも、俺を見て笑っていた伊織の拒絶する態度に、俺は例え力ずくでも…繋ぎとめていたいと強く感じた。
「…や…めて…!!」
泣きじゃくりながら、それでも伊織は俺を拒絶した。
俺の胸を力強くに押して、俺の身体を引き剥がし、首を振ってキスを拒む…目の前が歪む程、俺は胸が締め付けられた。
「他の女に触れた唇で、その身体で私に触れないで!!」
叫ぶようにそう言って、伊織は俺から離れた。
「景吾、嘘ばっかりじゃない…触れないって、言ってくれたのに…全部、全部嘘じゃない…」
「…伊織…違う…」
どこまでも、伊織の目は俺を疑っていた。
伊織に触れたくて洗い流そうとした過去が、また蘇ったようだ…。
「何が違うの…ねぇ…?じゃあ説明してよ…私の事、好きになってから触れてないって、言ってたのに…1ヶ月前に、あの女の人のこと、抱いたんでしょ…」
あの日の俺の過ちが、伊織をまた傷付けちまってる…。
嘘をつくことは簡単だ…いや、寧ろ、…嘘をつくことが、伊織への優しさだったのかもしれねぇがな…。
「…伊織が…あの男と寝てると思ったんだよ…」
だが俺は話した。
俺の言葉に、伊織は静かになって俺を見つめた。
その目が、くっきりと大きく開いて、俺を非難しているようだった。
「…何…言ってるの…」
「…お前と靴を見に行った日…あの男を初めて見て、俺は嫉妬して…伊織が、あの男と寝てる姿だけが残った。…だからあの日、あの女と寝た。あの女だけじゃねぇ…何人も、何度も―――」
伊織に説明しているうちに、俺の醜い嫉妬心が、また俺を襲った。
俺はあの日、身を捩りながら俺の凶器を受ける女達を見て、その全員を伊織に置き換えた。
だから、めちゃくちゃにしてやった…伊織を、俺だけのものにしたかった…本当は伊織を…壊れるほど抱きたかった…。
「やめて…!!もう…聞きたくない…」
それなのにお前は、もう俺を受け入れてはくれねぇのか…こんなに愛していても、もう、俺を信じることができねぇってのかよ…
「やめて景吾…もう…帰って…」
「…帰らねぇ…俺は、俺が愛してるのは―――」
「やめて…!…もう怖いの…!!もう…裏切られるのはたくさん…!今日だって…あの人と…」
「…伊織…」
伊織が泣きながら、俺を見てそう言って止まった。
口にすることを、躊躇う程…お前はそこまで、俺を疑うのかよ…なぁ…伊織…お前は俺のこと、信じてくれてたよな…?
「…本気で…言ってんのか…?」
「…そうじゃないって…思いたい…だけど…」
雨なのか、涙なのか、分からないほどに俺も伊織も濡れていた。
俺の表情が、伊織には見えていたのか。
「ごめん…もう…一人にして…」
俯いて肩を揺らした伊織は、そのまま部屋へと消えた。
俺はそこに立ち尽くしたまま、止む事の無い雨を浴びていた。
俺の頬に伝うのは、雨なのか、涙なのか…ただ、わかるのは…俺が伊織に、突き放されたという事実だった―――。
to be continue...
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