under K roof_01




day 1.


もともと金持ちだったわけじゃない、と、母は口癖のように言う。
そのとおりだろう。母はたまたまこの家を得た。もとは、苦労に苦労を重ねた父の財産だったはずだ。
しかし、わたしは周囲から、もともと金持ちだと思われている。誕生したときにはすでにこの家に住んでいたし、両親が仲の良いときは、それなりに裕福な生活をしていた。
母はいわゆる、玉の輿だった。交際からまもなくして、事業で大成功した父と結婚。
しかし、ひとり娘が生まれてすぐ、両親は離婚した。お金があれば一定の女は買えるらしい。と、これも母の口癖。なんとまあ、うちの父も薄情なものである。
とはいえ、金持ちの慰謝料は高い。高級住宅街の大きな一軒家は、母名義となった。家賃ゼロ、養育費も金持ち仕様なので、母の収入だけでも十分だ。なにより、家が広くて快適である。生活の内容が庶民的でもいい。税金さえ払ってれば万事オーケー。
だというのに、母は金持ち生活が忘れられないのか、ついこのあいだ、転職した。

「だって、いい生活したいじゃない」

ええ、気持ちはわかりますけども。
おまけに結構な収入増を狙った結果、しょっちゅう出張があるような職場で、そもそも転職した当日から深夜に帰ってくるという忙殺ぶりで心配していたのだが、予感は的中。
急に、出張で1週間、海外に行くと言いだす始末。

「ほらね、こういうことになると思ってたんだよ」
「仕事なんだから仕方ないでしょ。寂しがり屋さんなんだから、伊織ってば」
別に寂しいとかじゃなくて、ですね。「いくらなんでも急じゃないかなあ。って、ちょっと母さん、ひっちゃかめっちゃかだよ!」

1週間ぶんの荷物は結構なものだ。
そこらに旅行用の便利グッズが散らばり、化粧品サンプルが散らばり、ベッドの上が服の山。母の部屋は戦場と化していた。
誰に後始末させるつもりだ! こういうことを危惧してるんですよ!

「ああ、忙しい。悪いけどこれ、あとで片付けといて?」
「絶対に、嫌」
「ピリピリしないのー。じゃ、もう出るから。戸締まりとか、ちゃんとすること」
「わかってます」母さんじゃあるまいし。
「ああごめん、そういう意味じゃなくて、伊織も夕方から移動しなきゃだから。そのときに、戸締まりね」
「え?」

命の次に大事にしている化粧品ポーチをきゅっとまとめると、さも当然のことのように告げてきた。移動、とは……?

「1週間もこの家に、娘をひとりにさせておくわけないでしょう。なにしでかすか」
「いやいや、不良娘じゃないよ大丈夫」母さんじゃあるまいし。
「いいえ。とにかく、あたしが心配だから。お隣に預かってほしいって頼んでおいたわけ」
「は?」お隣、だと……?
「快く引き受けてくださったの。本当の超お金持ちって、父さんみたいな根が貧困なタイプとはやっぱり違うのよねえ、親切で」

あっけらかんと言ってのける母に、しばらくフリーズした。
お隣って……どっちだろう。まさかだとは思うけど、中心部にどーんと構える、あの「お隣」じゃないよね?

「母さん、あの」
「わかるでしょ? 跡部さんとこ」
「なあ!?」中心部にどーんと構える、あのお隣じゃないか!
「きっとよくしていただける。じゃ、そういうことだから」
「ちょっと待って母さん、無理無理無理無理!」
「お年頃だから気になっちゃうのはわかるけどさあ。あのお屋敷に1週間ってものすごい贅沢。母さん変わってほしいくらい」
「いやいやいやいや。あのさ、跡部の家には跡部がいるわけ。わかってるよね? お年頃の、その、異性が!」

この言いぶんは、ほとんどの女子高生にわかってもらえるはずだ。
相手が誰であろうと、なんとなく、ちょっと待ってくれないか! と、言いたくなる。

「大丈夫、相手は景吾くんだから」
「どういう意味で大丈夫なわけっ!?」
「伊織は相手にされない」でしょうね!
「そんなことわかってるよ!」
「じゃあいいじゃん。大きいお屋敷なんだから、ホテルみたいなもんだってば。顔を合わせるかどうかもわからないでしょ?」
「いやでも、ちょっと、いくらなんでもっ」
「18時には伺うようにしますって言っておいたから、早く行ってね。母さん、出る前に挨拶してから行くから、よろしくー」

もちろん、母の意向を無視して、我が家で1週間を過ごすこともできる。
でも、それは必ず母の耳に入るに違いない。そうなったら終わりだ。それこそ、なにしでかされるか。
つまり、黙って母に従うしか、道は残されていなかった。






別に、嫌なわけじゃない。
跡部景吾とは、簡単に言うと幼馴染なのだと思う。当時からずっと「お隣さん」なので、そりゃあよく遊んだものだ。と言っても幼少期は、彼はイギリスに住んでいた。なので、中学に入るまではバカンスでときどき日本に帰国していた、年に数回の短い期間だった。それでも、朝から晩まで遊ぶような仲だった。
その関係は、中学に入ってから変わった。いつのまにか、近寄れるような存在じゃなくなっていたのだ。景吾から話しかけてくることは多々あった。が、それを快く思わない女子が多く、なにかと面倒なので、こちらから距離を置くようになった。
とはいえ、高校3年にもなれば、昔のよしみで普通に仲良くはしているつもりではある。だからって、両親が滅多にいないとわかっている跡部家に1週間もお世話になるのは気が引ける。
しかし、あれこれ考えてもしょうがない。
母の部屋を片付けたあと、自分の荷物をまとめた。せっせと戸締まりをし、玄関を出る。出た瞬間、固まった。

「遅い」
「いや……」

門の前で、景吾が腕組をして待っていた。まさかお迎えだろうか。ジェントルなのは知っているけど、ここまでとは……。

「いつまで待たせやがんだ」
「……待ってるとは、知らなかったもので」言わんとしていることはわかるでしょう?
「おばさんが挨拶しに来て、すぐにお前がうちに来ると言うから、こうして待ってやってたんだ。文句あんのか?」
恩着せがましい言い方をしてくれますね。「ないです」
「支度に何時間かかってやがる。ほら、荷物を貸せよ」
「いや、いいよ」
「意地張ってんじゃねえ、貸せ」

乱暴に荷物を奪い取られた。
景吾って、昔から不器用に優しい。これだから天然たらしは嫌だよなあ。

「何時間、は大げさじゃないかな」照れくさいのが、こじれてしまった。
「アーン?」
「隣なんだからそんな、わざわざ迎えとかいいのに」ぶつぶつと、かわいげなく言ってみる。
「お前みたいなのでも一応、女だからな」
「だから?」
「うちの玄関までは、それなりに距離もある。なにかあったら、おばさんに顔向けできねえだろ。なにしでかされるか」

景吾は昔から、なぜかうちの母に弱い。そして母は、いろんな人に「なにかしでかす」と思われているのが、やけにおかしかった。

「ふふ。心配だから来た、とは言わないんだね」
「心配だから来たわけじゃねえからな」
「社交辞令で言えない?」ここまでしてくれといてさ。「紳士なら言うよ」
「お前に紳士になれと? 寝言は寝て言え」
「はー、かわいくない」

肩を並べて歩くのは久々だった。夏の温かい空気に乗って、景吾の香水が鼻先に触れていく。色気づいてるな、と思うのと同時に、実際に色気があるな、とも思う。氷帝だけに留まらず、彼はモテる。事実、超がつくイケメンで、超がつくお金持ちで、接してみればわかることだけど、超ジェントルだ。モテて当然なんだよね。
ほどなくして、正門が見えてくる。久々の感覚に足を踏み入れると、思わずため息が漏れた。

「相変わらず広いね……」敷地内は、まるで観光地のような仕上がりだ。
「来ないうちに変わっただろ」
「そうかも。ねえ、玄関、遠くなってない?」
「なってるわけねえだろ。そう見えるだけだ」

それでも、小さいころに来ていた跡部邸は、より大きくなったように見える。実際、なにかしら増築はされているのだろう。普通、幼少期に見慣れていた場所は「こんなもんだったっけ?」と思うものだが、どうやらここだけは別のようだ。

「おかえりなさいませ景吾さま」
「ああ」
「お久しぶりです、いらっしゃいませ伊織さま」
「お久しぶりです、よろしくお願いします」
「ゲストルームにご案内します。お荷物、お預かりしますね」

お手伝いさんと挨拶をしているあいだに、景吾は、さっと背中を向けて去っていった。
なんだか急に素っ気ないのね、と思いながら、豪邸を進んでいく。窓から見える景色も圧巻で、いちいち立ち止まっては感動しつつ、やがて、2階の奥にある大きな扉の前に案内された。

「伊織さま、こちらになります」

オープン・ザ・ドア。

「うっわ、広……」
「伊織さまは特別なお客様ですので、快適にお過ごしいただけるよう、いちばんのゲストルームにと」
「すみません、母が強引に。なんだか、申し訳ないです」
「いえいえ。景吾さまからも、きつく申し付けられましたから」
「え」
「ですからどうぞ、ご旅行気分で楽しんでいただけますと、我々も嬉しく思います」

隣に来ただけなのに、旅行というのも妙だけど、じんわりと熱くなる胸が、いちばん妙な気分にさせる。
景吾が、いろいろ気遣ってくれてるってことなんだろう、つまり。
本人に聞けば、「お前を普通の客間に通したら、おばさんに、なにしでかされるか」とか言うんだろうけど。滞在期間が長いから、快適にって、思ってくれたのかな。

「うわあ、ここからの景色も、本当に素敵ですね」
「はい、こちらは夜のイルミネーションも綺麗ですよ」
「イルミネーション……」どんな家だよ。クリスマスとかなら見ることあるけど。
「22時には消灯しますので、ご安心ください」

説明を聞きながら、カーテンにそっと触れて、さらに驚愕した。なんという触り心地なんだ!

「では、ご用の際はこちらの受話器をあげていただければ使用人が出ますので、なんなりとお申し付けください。失礼いたします」
「あ、ありがとうございます!」

お手伝いさんの声と閉まるドアを確認して、すぐにカーテンに飛びついた。
美しいレースの刺繍にもうっとりする。本当のお金持ちは、お金をかける場所が違う。タッセルも繊細で、キラキラとしていた。

「ひやあー、なにこれ、なにこれ!」
「おい」
「え……!」
「いつまでそうしてカーテンにぶら下がってんだ」
「ぶ、ぶら下がってなんかないっ」

カーテンの生地の素晴らしさに頬を寄せて舞いあがっていたところに、景吾がやってきていた。いつのまにこの部屋に入ってきていたのか、検討もつかない。

「ていうか、ありがとね、跡部」
「アーン? なにが」
「今日から1週間、わたしの部屋なんでしょ、ここ」
「ああ、そうだ。お前を普通の客間に通したら、おばさんに、なにしでかされるか」
「ぷふ」
「なに笑ってんだ」
「いえ、なんでもないです」一語一句、違わず、だったもので。「でも、ノックはしてほしいかな。着替えてたりするかもしれないし」
「したけどな」
「え、うっそだあ」
「カーテンに埋もれて気づかなかっただけじゃねえのか」
「ぐ……」たしかにぐるぐる巻きで、頬を擦り寄せたけど。恥ずかしい。
「ついでに言えば、お前の着替えを覗くような趣味はない」
「それはー……わたしじゃなきゃ、趣味だと?」
「失礼ながら、そういうことになる」
「ホントに失礼だな! 否定したほうがいいと思うよいまの!?」

バカげた会話にお互いが顔を見合わせて笑ったら、一瞬おかしな空気が流れた。
顔を見合わせて、はっとする。きっと思ってることは同じだ。なんだか、こそばゆいというか、なんというか。

「それで、なんか用だった?」

妙だ。最初からずっと妙だったけど、最近あまり話してなかったからか、よそよそしさと懐かしさが、こんがらがってしまっている。

「ああ、夕食はまだじゃねえのか?」
「あっ! え、もしかして?」
「用意してあるようだ。降りるか?」
「やった!」

人間は動物だ。食欲が勝って、曖昧な気持ちが急に払拭された。
跡部邸の晩ごはんは、まず間違いなくこの世でトップクラスのディナーである。昔、何度かご馳走になったけど、本当になにからなにまで、頬がどろどろに溶けるかと思ったもん。美味しすぎて。
今日だって、景吾の背中を追いかけているうちに、すでにいい香りがしてきている。

「ねえ、いい匂いする!」
「そりゃそうだろ」
「えー、素っ気ないなあ、感動しようよー」
「お前は家の夕食が出るたびに感動してんのか?」
「そうじゃないけど、だってうちとはクオリティが違うでしょ?」
「俺にとっちゃいつものことだ」
「嫌味。金持ち。ボンボン」
「羨ましくてしょうがねえと言え」

席につくと高級レストランさながらの料理が次から次へと運ばれてくる。
お飲み物はいかがなさいますか? と聞かれてリクエストしたフレッシュジュースも、味わったことないほど美味しい、信じられない。

「もう、美味しすぎる!」
「ああ、そう」
「いやいやだってこのお肉見て! 口のなかで蕩けるよ、本当に!」
「言われなくとも、同じものを口にしてるんでな」
「興奮するよこんなのっ」そんな呆れた顔しなくたっていいじゃないのっ。「美味しい!」
「しつけえ」

と、悪態はついたけど、景吾は少し微笑んでいた。
そういえば景吾って、ひとりで食事することが多いのかな。おじさんもおばさんも忙しいから仕方ないけど、寂しいよね、たぶん。しかも彼の場合、幼少期からそういう時間を過ごしているはずだ。せっかくだから、思い出話でもしようかな。たまには賑やかな夕食もいいでしょう?

「ねえ跡部」
「なんだ?」
「昔、よくここでアイスくれたよね」今日も出てくるかな。ワクワク。
「ああ、ガキの頃な」
「よく遊んだよね。子どものときって遠慮を知らないから、ご飯もよくご馳走になってた気がする」
「だな。お前は昔から図々しい。ふっ」おい。なに鼻で笑ってくれてんの。
「ていうか、跡部が、付きまとってたんだからね?」
「アーン? 俺はお前に付きまとってた覚えなんかねえぞ」
「よく言うよ。『伊織、俺様と遊べ!』とか言って、しょっちゅうわたしのこと引っ張ってたくせに」
「やってねえ」いーえ。やってました。目を逸らしてるのがいい証拠だよ。
「小さいころの跡部はかわいげがあったよねー。最近は、『おい』とか『お前』としか呼んでこないしね。かわいくなーい」

無視を決めこんだのか、黙って口をナプキンで拭いていた。育ちがいい。
おかげさまで、デザートまではなかなかの沈黙だったのだけど、お待ちかねのアイスクリームが登場した瞬間に、テンションはあがった。
スプーンで掬うと、ほろっと溶け出すバニラ。ほどよい甘さ。最高です。

「これこれ!」
「……お前がいきなり、『景吾と遊びたくない』とか、言い出したんじゃねえか」
「え?」

それなりに時間も経過していたので、すぐにはなんのことかわからなかった。が、しばし考えて気づく。これは景吾の、思い出話?

「言っただろうが」
「え、言ってないよそんなこと」
「間違いなく言った」
「うそでしょ? 本当に言った?」
「言ったな。日記に書いてある」
「え、跡部って、日記とかつけてるの?」
「つけるのが日課にされてたんでな」
「ぎゃあー意外」読んでみたい。
「だいたいそういうお前こそ、俺に付きまとっていたくせしやがって」
「してません、跡部に付きまとってなんかしてません」日本語が変になっている気がする。
「ほざけ。しょっちゅう、将来は俺と」
「言ってない!」間髪入れずに止めてやる! なにを言い出すんですか! 
「ふん」

顔が真っ赤になる直前だった。
お屋敷にインターホンが鳴り響く。どことなく、助かった気がするのはわたしだけなのか。
まったく、まったくもう。なんて過去を暴露するつもりだ。い、言ったような気も、するけど。

「……あいつか」

来客のことだろう。時計を見ると、19時である。まもなくして、お手伝いさんが顔を覗かせた。

「景吾さま、失礼いたします」
「忍足だろ?」
「さようでございます」
「へえ、忍足かあ。待ち合わせ?」
「いや。この時間だと大抵は忍足だというだけだ。通してやれ」
「はい、ただいま」

すぐに大きな扉が開けられた。おなじみの濃い黒髪と眼鏡が、そっとこちらを覗いている。

「あれえ? 佐久間やん。どないしたん?」
「ホントに忍足だ。こんばんは」
「こんばんは。ホンマにってなに?」

忍足は我が家のように振る舞いながら、笑顔でわたしの隣に着席した。彼とは二度ほど、同じクラスになったことがある。なので、そこそこ仲良しだ。
いつも思うことだけど忍足って、雰囲気が優しい。そして、よくモテる。
どうして氷帝には(いやテニス部には?)、イケメンが多いのだろう。あるいは類友ってやつ?

「また厚かましく晩飯をあさりに来たのか? 忍足よ」
「おおきに跡部。俺のことは、なんでもお見通しやな」
「お前がこの時間に来るのは、そのくらいのことしかない。おい、忍足になにか出してやってくれ」
「はい、ただいま」

なんだかんだと言いながら、忍足に優しい景吾が微笑ましい。
この二人は仲が悪い振りをしながらも、仲が良いところがかわいいのだ。

「佐久間も、晩飯あさりに来たん?」
「まさか。そんなに厚かましくないよ、いくらなんでも」
「言うてくれるやん」
「ふふ」

やがて運ばれてきた料理に、忍足は「いつもありがとうございます」と頭を下げた。
困ったときの跡部邸(いや、亭か?)なのだろう。

「こいつは今日から1週間、うちで居候するだけだ」
「えっ」ナイフを持ちあげた忍足の動きがそのまま止まった。目をぱちくりさせている。「なんなんその、卑猥な響き」
「卑猥って……」
「この男の頭のなかは小学生以下だからな」
「いやいや、小学生以下なのお前らやろ、逆に」
「なんの逆だ」
「ん……なんかめんど臭い。でもなんで? なあ、佐久間なんで?」

簡潔に事情を話すと、忍足は目を閉じながら、ナプキンで口を拭いた。そうだった、彼も選ばれし生粋のボンボンなのだ。育ちがいい。

「……佐久間のオカン、すごいことしよるな」
「すごいのかな」よくわかんないけど。
「やって、こんな野獣がおるのに」
「はは……」まあ、男子高校生だもんね、跡部だって。
「いますぐそのナイフをお前の頭に突き刺すことくらい、簡単にできるぞ忍足」
「うわあ……めっちゃ物騒ですやん」
「でも、うちの母は、跡部の家だから安心なんだって言ってたよ。こんだけ人がいれば、悪さもしようがないと思ったのかもね」
「んん。まあ、佐久間が友だち呼んでどんちゃんするっちゅうのも、親として想像するのはわかるけど、それより、なあ?」

ちらりと景吾を見やった忍足がなにか言おうとしたとき、景吾のスマホが鳴った。「失礼」と、律儀に告げてから席を立つ。
背中を見送っている忍足が、くすくすと笑いはじめた。

「なーに笑ってんの?」
「いやあ、あんな跡部を見るん、久々や」
「どういうこと?」
「俺からしたら、跡部の家に預けた方が、佐久間の身が危ないと思うねんけどな?」
「は……」やれやれ。本当に彼の頭のなかは、そんなことばっかりらしい。
「佐久間もなんだかんだ、チャンスやん」
「なに言ってんの。そんなつもり」
「好きやろ? 跡部のこと」
「ない!」やめなさい。
「図星ー」
「図星じゃないってばっ」やめなさい!
「協力するで、俺」
「だから誤解してるっ」
「わかったわかった、百歩譲って佐久間の気持ち誤解しとったとしても、跡部は絶対や」
「そんなわけっ」
「なんでそんなこと言い切れるん?」言い切らせてもらってないけども。
「なんでって……」

景吾ってばわたしのこと好きなのかな? なんて、小さいころにしか考えたことない。中学に入ってからは非現実的すぎて、まったく頭にもよぎってない。たぶんそれは、小さいころはお子ちゃまなりに、景吾を意識してたからだ。
いまは別に、そういうんじゃないし。景吾とも思い出はあるけど、もう手の届かない人だってことも、わかってる。
ん、あ、なんだ? だめだだめだ、考えてたらなんだか急に胸の奥が変な感じするし! なんかこう、うずいてくる。え、ん……? うずく? ちょっと待ってそれどういうこと。

「佐久間」
「え、はい」
「自分、めっちゃ困った顔しとるの、気づいとる?」
「え」

切れ長の目が、するどく見つめてくる。当然だが、忍足に見つめられたとて、胸はうずかない。ただなんとなく、彼の目が怪しさの光を宿していることだけは、わかった。

「ちょお、立ち上がってみん?」
「へ? なんで?」
「ええからええから」

状況がわからないまま、忍足に腕を引っ張られた。椅子から腰をあげて素直に立つと、忍足が同じように近寄ってきたので、自然と距離を取った。
するとまた、近寄ってくる。は、はい? 

「え、なに。なんか、近い」
「せやろ? ちょっと警戒するやんな? ええ感じええ感じ。そのまま後ずさりや」

忍足が前進するたびに、わたしは後退した。社交ダンスの流れのように、トン、トン、トン。

「な、いやちょっと待ってホントに、なんで近寄ってくるのっ?」
「おお、ええ感じええ感じ、そのまま壁に……はい、追いこんだ」
「えっ!?」

気づけば、背中は壁だった。そのまま顔の両側をすっと長い腕で塞がれる。
まさかの壁ドンに、瞠目しまくった。これはいったい、どういう状況なのでありますか。冷静になろうと思っても、忍足だってイケメンなので、動揺はします!

「こここれ、な、おしたっ」
「シー、シーシー……大丈夫や、なんもせん」
「へ……?」
「証拠、見せたるから」

目の前は色の塊である。ドキドキはしないが、パニックにはなりそうだ。ただ、「証拠」の所在が不明瞭なので、首をかしげた刹那だった。

「お前ら、なにしてる」

景吾の声だった。いつもより低くて、いつもより強い。瞬間、忍足はニンマリとして、さっと手を離して振り返った。

「あれ、跡部、もう戻ってきたん?」
「なにをしていると、聞いている」
「さあなあ? なんやと思う?」
「てめえは晩飯をあさりに来たんだろうが。女をあさりに来たのなら帰れ」

冷たい視線と、怒りを含んだ表情だった。
息が詰まりそうだ。「証拠、見せたるから」という忍足の声が反芻していく。

「そんな怒らんでも。跡部が心配するようなことはないで?」
「黙れメガネ」
「おお、こわ」

景吾はわたしを見ようとしなかった。
ただただ、むっとした顔で着席し、ティーカップに静かに口をつけた直後、ガシャン、と大きな音を立ててカップを置き、そのまま、黙って去っていった。





「めっちゃ空気、悪なってしもたなあ」
「忍足」
「え」
「やりすぎ」
「せやけどわかったやろ?」

にっこり、嬉しそうにこちらを見た。
食事のあと、忍足と散歩がてらお庭を探索することになった。しかし、やってくれるではないか。忍足侑士め。

「わかんないし。それに、こんなことバレたら彼女に怒られるよ?」
「壁ドンしただけやん。あと俺、いま彼女おらん。佐久間、誰かええ子おらん?」
「知ったこっちゃないから!」
「つめた……。まあでも、鈍感なフリはそこまでにしとき?」
「なにが? なんのことよ」
「あの跡部の態度、見たやろ? わかんないし、やないっちゅうねん」
「見たけど、だからって……」怒ってはいたようだけど。
「お前も強がりか。ややこしいヤツらやなー。あんなん、嫉妬したからに決まってるやん」
「だ、だけどさあ、それは、言い切れないよ。跡部って、昔から怒りっぽいし?」
「佐久間が絡んどるときだけ、な?」
「いやいや」わたしが絡むような事例は、ほぼないでしょ。
「せやかて、佐久間も好きなんやろ?」
「いや、だから……」そういうのじゃないってば。「それも勘違いしてるから、忍足は」
「はあ……ホンマに。あのなあ?」呆れた声で、顔に向けて指をさしてきた。「ほなそれ、なんなん?」
人に指をさすとは、なにごとか。失礼ですよっ。「なんって、なにさ」
「嫉妬した跡部見て、動揺しとるやん。恋する乙女まんまやないか」
「ち、違います!」めちゃくちゃはっきり言葉にしてくれますね!
「お前らホンマ、強情コンビやな?」変なグループ名をつけるでない。「こっちはな、跡部に何度か確認しとるんやで?」
「え……」かく、確認?
「佐久間のこと好きなんやろ? って。最初は冗談半分、からかい半分やったけどな」

つづきが気になって黙りこくってしまう。
男同士でそういう話になって、景吾はなんて答えたんだろう。

「最初に聞いたの、中3やったかな? 佐久間と話しとったあとにな。なんや跡部の顔が優しい感じに見えてん。そんで聞いた。跡部、まだ免疫なかったんやろな。どんだけやねんってくらい顔、赤うして。目なんかフクロウくらい開いとったで。あれは完全に、図星や」

そんな……そんな話、聞いたことない! あたりまえだけど! 

「うううううううう、嘘だっ!」信じられない!
「お前はシンジか」うまいツッコミである。「おもろかったからな、ときどき聞くようにしたら、2回目からはさすがの跡部、『興味ねえよ』とか言うねん」それも、めっちゃおもろない? と付け加えた。
「忍足……悪趣味だよ。ていうかそれ、いじめじゃん」
「考えたら佐久間も跡部も、ずっとフリーやんか?」スルーですか。
「わたしは、そうだけど。跡部は知らないよ?」
「女できとったら絶対に俺が気づいとる。ああ見えてピュアやで、跡部は」

ピュアかどうかはともかく……俺が気づいとる、に関しては、そうだろう。
彼らは常に一緒だ。景吾とテニスは、なによりも深い絆だし、そのテニスにおいて、忍足の存在が景吾を奮い立たせたのは事実だ。いまも、きっと。

「まあさっきの件は、跡部も俺の魂胆に気づいとる。嫉妬はもちろんやけど、余計なことすんなっちゅう怒りもあるんかもしれへん。そこは定かやないけど」
「そんなこと言われても……全然、ピンとこないってば」なんの確証も、ないし。
「あのなあ佐久間。跡部って思われとるよりずっと慎重やし、もどかしいとこあんねん。めちゃくちゃストイックやしな。いままでは変なしがらみで、佐久間に遠慮しとったんちゃうかな?」
「遠慮……?」
「そ。せやから、なんかきっかけがいるねん。ややこしいヤツやけど、協力したいとも思ってまうんやわ、俺としては」

忍足の言葉は曖昧で、ぼんやりとしている。
それでもやっぱり、相変わらず胸はうずいていた。忍足の推測を真に受けていいの? それで、期待するだけして、実は全然、その気はなかった、なんてオチだったらどうするんだ。
っていうか、わたしは期待しちゃってるってこと? だあああ、調子が狂うっ!

「まあ今日から1週間、ひとつ屋根の下や。1週間後には付き合うてるかもしれへんな?」
「待って待って待って。気持ちの整理つかない!」景吾と、付き合うとか!
「なにを言うてんねん、両想いなんやからええやん」
「そんなこと言われても、そんなふうに考えたことないもん。いつも、そこにいる人って感じだし」
「ほな、これまで跡部に彼女できとったら、同じように思える?」
「ぐ……」

言葉に詰まった。想像したこともない。景吾に彼女ができるとか。
どういうわけか、逃げ出したい気持ちに襲われた。

「……それ、は」
「あとは自分で考え。俺、帰る」
「えっ」
「ほなな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。急にそんなぶっつり! なんか優しくない!」
「アホか。男友だちがここまで話に付き合ったら十分やろ。あとな、俺は好きでもない女に優しくするほど暇ちゃうねん。ほなね」

お節介が、言いたいことだけ言って、帰って行く。
仕方なく、とぼとぼと玄関に戻った。戻るまで、5分かかった(どんだけ広いんだ)。そのあいだずっと、景吾とのこれまでを振り返っている自分がいた。







是非ジャグジーでおくつろぎください、と案内されたお風呂は、部屋に戻るのに迷うほど奥にあった。
高級なシャンプーとトリートメントでサラサラになった髪を乾かしてゲストルームに入ると、まだ22時前だったこともあり、跡部邸自慢の夜景が、まるでディズニーランドパレードの如く輝いている。
今日は少し疲れたな、とふかふかのベッドに横たわったとき、違和感に上半身を起こした。
ベッドにあるはずの枕が、ない。どう見てもキングサイズのベッドなので枕は2、3個ほど置くものだと思われる。しかし、1個もない。
うーん、これは困った。と、部屋中のクローゼットというクローゼットを開け放ってみたが、どこにもなさそうだ。
そうして枕探しをはじめたおかげで、あっという間に1時間ほど経過していた。
さすがに、この時間にお手伝いさんを枕ごときで呼びつけるのは忍びない。残念なことに、目の前に堂々たる佇まいで置かれているソファには、クッションもない。枕がなくても寝れなくはないけれど……。
そっと部屋から出てみて、辺りを見渡す。薄暗く照らされている廊下を眺めながら、幼少期を思い出していた。
たしか、この向かいの部屋が、景吾の部屋だったはずだ。どうしようか。夕食にあんな雰囲気のまま顔を合わせてない景吾に。しかも、忍足とあんな話をしたあとで。
逡巡したものの、意を決した。寝る前に、なんとなく顔を見ておきたかったのもある。

「あの」

部屋を出て、景吾の部屋だと思われるドアに向かって声をかけてみたが、反応はなかった。返事が戻ってきたのは、ノックをしようかどうかしばらく悩んで、手をあげたときだった。

「どうした?」
「あ……あの、ごめん、すごくしょうもないんだけど」
「そのままそこでしゃべる気か? 入れ」
「はい、すみません……お邪魔します」

そっと扉を開けると、景吾はベッドにいた。上半身を起こして、分厚い本を読んでいる。
こちらに顔を向けることもなく、機嫌の悪そうな表情だった。まだ、怒ってるのかしら。

「どうかしたのか」
「あの……うん、ちょっとさ」
「ぐずぐずしてないで早く言え」
「はい、すみません。枕がですねっ」
「アーン? 枕?」
「うん、ベッドになくて。あの、わがままは承知なんだけど、枕なしで寝るの、わたし、得意じゃなくて」
「はあ……ったく、あいつら、なにしてやがる」

舌打ちをして、ナイトテーブルにある受話器に手を伸ばそうとしておられた。はっとして、ストップをかける。それをされたらここに来た意味がないんですよっ!

「ああああああ、待って待って待って!」
「なんだ?」
「こんな時間に、悪いよ。それじゃなくても、お忙しいだろうし」
「なにを言ってる? これも仕事だ」
「いやでも、お世話になってる身としては、煩わせたくないんだよ。あの、ないなら、ないで、いいんだけど。その、跡部に聞きたかったのは、どこか場所とか、知ってないかなって」

景吾は黙って、受話器から手を離した。
ほっとする。景吾のストイックって、ときどき周りにも飛び火するからなあ……。

「つくづく、お前は甘い女だな」
「もうなんとでも言ってください」
「枕がどこにあるかなんて、俺は知らねえぞ」
「あ……そっか」ですよねー。「じゃあ、これで」
「おい」
「え」
「これを持っていけ」

突如、真っ白な枕が顔面めがけて投げられた。
景吾のコントロールが完璧なおかげなのか、取り落とすことなく腕のなかに着地する。

「え、でもこれ、跡部の……」
「もうひとつある」
「いい、の?」
「安心しろ。毎日洗濯されてる」
「そん……あはは、そんな心配してないよ」

わたしの笑いにつられたのか、このときようやく、景吾はふっと微笑みを見せた。
優しい顔をしていた、という忍足の言葉が浮かんでくる。やば、また、胸がうずきだしちゃってる。

「あ、ありがとう」
「いいから、もう寝ろ」
「うん、おやすみ跡部」

なんだか、くすぐたい。
景吾とのやり取りが、そのまま心臓に直結しているのがわかる。全部、忍足のせいだ。だとしても、このテンションは、これにまでにない躍動だ。

「伊織」
「えっ」

部屋を出ようと、背中を向けたときだった。景吾が、わたしを呼び止める。「おい」でも「お前」でもない。「伊織」と、名前で呼ばれた。久々だった。
うずいていた胸は今度こそ大きくうなりはじめた。心臓がそのまま飛び出してくるのかと錯覚する。だから、ゆっくりと景吾に振り返った。なるべく、平静を装うために。

「なに?」
「お前だって、俺のことを景吾と呼ばなくなったじゃねえか」
「え……」
「名前で呼ばなくなったのは、俺だけじゃねえだろ」

――最近は、『おい』とか『お前』としか呼んでこないしね。かわいくなーい。

たしかに……あんなこと言っておいて、先に遠ざけたのは、わたしなのかな。

「ごめん、棚あげもいいとこだよね」
「いや……だが、もし」
「うん?」
「嫌な思いをしてそうなったなら、謝る」
「そんな……違うよ、そんなことない」

嘘をついた。本当は、そのとおりだ。
中学生にありがちな、わけのわからない嫉妬に遭ったから。悪意を真正面から受け止める強さが、わたしにはなかった……それだけだ。
言葉を詰まらせながら当時を振り返って、はっとする。景吾もわたしのことを名前で呼ばなくなったのは、あのころからじゃなかったか。

「ねえ、ひょっとしてわたしのこと、さ」
「……なんだ?」

守るために、名前で呼ばなくなった?

「ううん。枕、ありがとう……景吾」

聞く勇気は、とてもなくて。
ただ、感謝の気持ちが伝わればいいと願った。久しぶりに声にした、「景吾」という響きに、彼はなにを思っただろう。

「……気にするな」
「うん、おやすみ」
「おやすみ、伊織」

耐えれなくて、すぐに背中を向けた。
部屋に戻りながら、顔がくちゃくちゃになっていく。クラクラするような情動を、生まれてはじめて感じていた。
舞いあがって、抱きしめている枕ごとベッドにダイブした。ふんわりと香ってくる景吾の匂いが、全身を包んでくる。

おかげで余計に寝つけなかったことがあれほど影響してくるとは、思ってもみなかった。





to be continued...

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