under K roof_02


day 2.


寝不足だった。
全部、忍足のせいだと思ったけど、正確に言えば、全部、景吾と忍足のせいだ。

「おい」

声はまどろみのなか、遠くから聞こえていた。
というか、景吾が真っ赤に熟れたイチゴを差しだしながら言っていた。どうしてこんなことになっているのかなんて、まったく気にならなかった。とにかくいまは、目の前の景吾が優しくて、うっとりしちゃう。

「ふふっ……んん……」
「起きろ、伊織」

フォークに刺さったイチゴを口に運ぼうとしながら、なぜか「起きろ」と言っている。
どういう意味? 起きてるからイチゴをあーんしてくれてるわけでしょう? こんな甘ったるい時間を過ごしながら、変なところで意地はっちゃって。照れてるのかな? そういう景吾もかわいいけど。

「それ……くれる……の?」
「なに言ってんだ?」
「ううん……」
「起きろよ、おい」
「あー……ん」
「アーン!? いい加減に起きろ!」
「うああっ!?」

いい加減に起きろ! のところで、優しい景吾は突如ブラックホールへ消え去り、気がつくと、真っ白な天井と眉間にシワを寄せた景吾が、わたしを見下ろしていた。
現実に引き戻されたことに気づくのに5秒はかかったと思う。つまり、目が覚めたのだ。
それが、居候生活2日目のはじまりだった。

「……なんっ、なんで景吾!?」
「ったくいつまで寝てやがんだ。学校に行くぞ」
「これ……これなにっ」
「なにじゃねえ、早く支度しろ。何時だと思ってやがる」

枕元のスマホを見ると、始業開始1時間前だった。
もちろん慌てる。これから支度しても、走って駅まで行ってなんとかギリギリの時間である。

「うわあ、やばい!」
「焦らずとも、車を用意してる」
「ていうかなんで景吾っ」
「アーン?」
「は、入るときは、ノックしてって言ったじゃん!?」
「ああ? こんなだらだら寝てる状態でノックして気づいたのか。口開けて、なにが『あーん』だ、どんな夢を見てやがった? そのヨダレも拭え!」どんな夢なんて言えるものか! ていうかヨダレ!?
「……うう」見事に垂らしていた。
「俺の枕に……」
「ど、どいて……」
「あ?」
「どいてよ! いつまで突っ立ってんの!? ていうかいつから居たの!? バカ!」
「なっ」

問答無用で、思い切り枕を投げつけた。
ひどい、ひどい、ひどい! あんな昨日を過ごして今日がこれなんて、女心のわかんない金持ちのボンボンめ! しかも寝てるとこに……いや、それは、百歩譲ってわたしが悪いのかもしれないけど! お手伝いさんに言いつければよくない!?

「なにしやがるっ」
「うるさい早く出てって! 着替えるし!」

言い返す言葉がなくなったのか、「ふん、早くしろ」と悪態をついて、景吾は出ていった。うなり声をあげながら、ベッドから降りる。
もう、最悪だ。
寝顔もさることながら、ヨダレを垂らしている姿を見られるなんて。だいたい、年頃の異性の寝室に、寝てるってわかってて入ってくる普通!? デリカシーってもんがないじゃないよっ! おぼっちゃまのくせに! マナーはどこいったわけよっ。

「まだか!」
「ああ、うるさいなもう! 先に行ってればいいでしょ!」

こんな乙女心を露ほども理解していない跡部景吾が、部屋の外からせっかちに声を張りあげてきた。寝坊した自分を高い棚の上にあげているのは、わかってる。でも、だからこそ、どこにもぶつけようの無い怒りは、ヨダレ顔を見た張本人に当てるしかない。
ああああああああ、もう……なんて日だ!





先に行けとあれほど言ったのに、景吾は結局、待っていた。
跡部邸の玄関口には、まさかのロールスロイスが停まっていた。たかだかひと駅くらいの距離をこんなバカでかい車で行く必要があるのだろうかと思いながらも、もちろん、乗せてもらった。
悪態はついても、これできっと遅刻にはならない。ありがたいのは事実。
ついでに分析すればたぶん、跡部家に小さい車はもはや存在しないのだろう。

走りだしてからしばらくは、とても静かだった。
わたしは機嫌が悪いし、それが景吾もわかっているのか、無言を貫いている。お互い、なにも喋らない。
お門違いだけど、腹が立った。
静寂が破られたのは、そろそろ到着するかな、というときだった。我慢ならなくなったのか、景吾が声を発したのだ。

「……さっきから、なに怒ってやがる」
「……」あんたには一生、わからない。
「おい、伊織。聞いてん」
「別に怒ってないです」

怒っているのかと聞かれると、その問い自体に怒りを感じるのは、なぜなのか。なんにせよ食い気味に答えたことで、気持ちは十分に伝わったはずだ。

「……キレてんじゃねえか」
「そんなことないです」キレてないっすよ! とジェスチャー付きで答えれば満足ですか?
「……言いたいことがあるなら」
「なんで起こしに来たかなあ!?」

またしても食い気味に、待ってましたと言わんばかりに噛みつくと、運転席から仕切りが飛び出してきた。
仕事のできる運転手さんだ。あるいは、単順に関わりたくないのだろう。キャリアが長いと対応もプロ過ぎて感心ですよ、ええ、いい人材を雇ってますね、さすが跡部財閥だよね!
一方、景吾は目をまるくさせていた。が、すぐに鋭い視線に変わっていく。

「アーン!? お前がいつまでものうのうと寝てるからだろうが!」挑発されたのか、勝るとも劣らない大声での反撃。
「だったら誰かに頼んで起こせばいいじゃん! レディの部屋に勝手に入ってきてさ! どういう神経してんの!? なんで来たの!? なんで景吾が来たの!?」

ショックだったんです! ということを伝えられたら、どんなに楽だろうか。楽だとしても、当然、言えるはずもない。ショックの概要が、隠したい乙女心だからだ。
寝顔なんて、景吾に見られたくなかったし、ヨダレ垂らしてるとこなんて、もってのほか。
寝坊はしたよ。そうなんだけど、ほっといてくれてよかったのに。あんなだらしない姿、見られるくらいなら。だいたいだな、寝坊だってもとはと言えば、景吾が数時間は使った枕のせいであって、その前の、アレとかコレとかいろいろあったせいでもあって、眠れたのは深夜という深夜だったわけで、だから全部、全部、全部、景吾(と忍足)のせいなんだから!

「……それは」

どうして景吾が来たのだ、という問いに対して、景吾はなぜか言葉に詰まった。ほら見ろ、言い返せないだろう。デリカシーがないことを、いまごろ気づいたんだろうこの俺様め!

「ねえ、なんで景吾が来る必要があったわけ!? ホント信じらんない!」
「だ、誰が起こしたって一緒だろうが!」
「はい!? そうやって問題をすり替える!? 最低の政治家がやることだよそれ! つまり景吾は最低ってことだね!」
「なにが政治家だ! お前こそいま問題をすり替え……おい!」

ディベートするのもアホらしい。というか本気で立ち向かってもおそらく勝てない。そのまま逃げてやろうと思い、ちょうど学校に到着したのを見計らって、車から飛び降りた。
ああ、腹が立つ! 見られたくなかった、見られたくなかった、見られたくなかった!

「ちょっと待て伊織!」

このボンボンはどこまで負けず嫌いなのか。
景吾は校内に入っていくわたしを足早に追いかけ、なんと腕を引っ張ってきた。
ええい、触るな、触るでない! なにするんだ、この野郎!

「痛い! 離してよ!」
「言っておくけどな! 俺の枕を横取りしやがって、しかもその上にヨダレを垂らしたお前は最低じゃねえのか!」
「ひ、ひどい!」そんなこと言わなくたって! 「昨日のは、そんなこんなも全部、承知の上だったでしょ!? やっぱり、やっぱり景吾、最低だ!」
「お前な、朝からこの俺を、最低最低と連呼しやがって! 覚悟はできてんだろうな!」
「はっ、なんの覚悟なんだか。最低だから最低って言ってなにが……!」

そこまで勢いづいて、はた、と気づく。
周りの目が、視界に入ってきたからだ。そういえば、わたしはさっき、車を出た。学校に到着したからだ。そして、足早に校内に向かった。景吾がさらに足早に校内まで追いかけてきて、いまここ。
そう、ここは、校内。氷帝学園高等部の、校内だ。
景吾も我を忘れていたのかもしれない。周囲を見渡して、黙りこくった。
しかし、ゾッとしたときにはもう遅い。自然と、首を横にそろそろと振ってしまう。
おぞましすぎる、好奇の目。地獄絵図のような、鬼の形相と、女子生徒たちの痛すぎる視線。あげく、驚愕している教師の目までセットになっている。

「……やば」
「あ……」

お互い、しまった、という顔になっていたに違いない。会話の内容からして、まずかったような気がする。

「は、離して!」

勢いよく景吾の手を振り払って、思い切りダッシュで教室まで走った。





放課後はいじめの時間帯である。

「うん、誰もいない。伊織、こっちこっち」
「ありがと千夏……」

景吾との怪しい関係は、1限目の開始前には、学校中の噂になっていた。
すでにメッセージアプリの未読も、500件を超えている。仲よし女子のグループトークだから無理もないけれど、とりあえず、いまのところ開きたくない。
怒鳴りあった内容が内容だっただけに、卑猥な誤解が生まれてしまっている。問題だったのは「枕」「承知の上」というワードなんだろう。
この誤解は、非常に危険である。
教室では友人たちが守ってくれていたので直接的な被害はないものの、一部の過激な景吾ファンは、本当になにをしでかすかわかったものじゃない。ありそうなのは放課後に問答無用でどこかに連れて行かれてフルボッコ、というパターンだ。事実、中学時代にはそういう目に遭いそうになったことがある。
親友の千夏は当時のことを知っているので、とても協力的だった。

「しばらく、ここにいるといいよ」
「ごめん、迷惑かけちゃって」
「それは全然、いいんだけどさ」

千夏が案内してくれたのは、廃れた教室の、さらに廃れた物置部屋だった。うちの学校にこんな穴場があったとは。彼女はこういう場所を見つける天才である。長年付きあっている彼氏とイチャつくためなんだろう。

「にしても、なんで一緒に登校なんかするかなあ」
「いや、そういう予定じゃなかったんだよ……たぶん」
「まあ、登校するだけならまだしもだけど……伊織が跡部の幼馴染ってのは、周知の事実だしね」そのとおりだ。誰が言いふらしたのかは知らないが。
「それだけでも餌食だったのを、今日まで頑張ってきたのに……」
「台無し、だよねえ……でも今日の噂って、あながち嘘じゃないのでは?」

真顔で振り返ると、一方の千夏はニヤニヤしながらこちらを見ていた。
この顔……昨日の忍足と同じじゃないですか。

「なに言ってんの」はは、というから笑いが虚しい。
「だってえ。意識してるじゃん、伊織」
「いやいや、してないし」なんですか、急に。
「ようやく気づいたんだ?」
「ようやくって、なにっ」
「だって伊織はいつも、跡部のこと気にしてたじゃん?」
「し、してませんって!」そんなこと、話したこともないじゃん!
「そして跡部も気にしてた」
「はい!?」
「ふふっ、忍足の受け売り」

ケタケタと笑った。
そういえば千夏も、忍足と仲がいい。なんだっけ、委員会が一緒とかなんとか。

「あのメガネ……」ここぞとばかりに、景吾口調になってしまう。
「休憩時間、委員会の集まりがちょっとあったから。もちろん、あたしが伊織の親友だからこそ、話してくれたんだよ?」
「でしょうね! 誰かれかまわずそんなこと喋ってたら、あのメガネバラバラにしてやる!」
「ちょ、伊織、そういうとこ跡部に似てるよ……」
「うるさいっ」
「伊織は今日のこと怒ってるみたいだけど、跡部の気持ちもわかってあげなよ」
「は、なにをわかれって!?」
「だって、起こしに来たんでしょ? 誰かに言えば済むのに。わざわざ、自分から」
「そうだよ! デリカシーのかけらも」
「違うってば。跡部にとっては、それが自然な行動だったってこと!」
「え」
「デリカシーとか考える前に、伊織への責任とか考えてそうっていうか、ねえ?」

な、なんだって……。

「うううううう嘘だっ!」
「あんたはシンジか」あんたは忍足か! 「あのね、普通の高校生なら、好きな子の寝顔は見たくて当然。でも跡部のことだから、『あいつを起こすのは俺の役目だ』って思ってたんじゃない?」

ぶわっと顔が熱くなった。そ、どういう感情? そ、俺のものだ的な? 

「いやいやいや、いや、そんな、まさか」どうしよう、だとしたらどうしよう!
「だってそうでしょ、あの跡部だもん。下心がなかったとは言い切れないけど、寝顔を見るって下心満載だったら、逆にしないんじゃないかな。なんだかんだのジェントルマンだし」
「う……」それは、たしかに。
「だからこそ、どうして起こしに来たのかって言われて答えられなかったんだろうね。言われて自分でも、ハッとしちゃったんじゃない?」

千夏がそう思うってことは、忍足もそう思うだろうか? 忍足もそう思うってことは、そんなに間違ってないかもしれない。
そんな曖昧なことを考えても仕方ないのだけど、推測でもときめいている自分がいることに、いまさら嘘はつけなかった。

「ねえ、千夏」
「ん?」
「千夏も、跡部がわたしのこと、好きだと思うわけ? 忍足の言ったこと、抜きにしても」

きょとん、とこちらを見つめて、またニヤニヤする。なんかすごーく、弄ばれている気分。

「好きだから、伊織が怒ったこと、気にしたんじゃないの?」

――さっきから、なに怒ってやがる。

「好きだから、怒ってる伊織とちゃんと話し合いたかったんじゃないの?」

――言いたいことがあるなら

「好きだから、喧嘩したまま終わりにしたくなくて、追いかけてきたんじゃないの?」

――ちょっと待て伊織!

「跡部は不器用かもしれないけど、気持ちはぜーんぶ、言動に出てるよ。全身で、伊織が好きだって言ってるように見える、あたしにはね」





うぬぼれだったら、忍足も千夏も殺してやる。
と、凶暴なことを考えてしまう。2時間くらい時間をつぶして帰れば今日のところは無事なはずだが、アプリを開いてもゲームをしても集中できず、考えごとをしているせいだった。
あれからまもなく、千夏は帰宅した。ひとりで居座る廃れた物置はいささか心細いものの、とても静かで、自分の心と向き合うにはいい場所だ。

「跡部景吾、か……」

幼少期から見てきた彼を、思い浮かべてみる。相変わらずじんわりと胸がうずいて、少しだけ切ない気持ちになった。
わたしは景吾と、どうしたいんだろう。一緒にいたい? 彼女になりたい? 触れてみたい?
手に触れる想像だけで、うわあ、とうっかり声にだして両手で顔を覆う始末だ。もうこれ以上、自分をいじめていられない。
ピロピロと鳴りつづいているメッセージアプリを見ると、未読は800件になっていた。バカじゃないのかと思いながらも、気分転換にはなるかもしれない。ここにきて、いよいよメッセージアプリを開く覚悟を決めた。

『伊織、出ておいでー』
『一大事とはいえ、無視はいけませんね』
『すいません隣のクラスの女子に聞かれまくってるので事実をどうか』
『伊織、逃げてるんだろうなあ、いまごろ。大丈夫ですか?』
『で、跡部とはその、寝たの?』
『最低な質問ですね』
『じゃあ、聞きかた変える! ヤったの?』
『もっと最低』
『せめて、抱かれたの? とか』
『でも聞きたいよね!』
『なにがあっても、うちらは伊織の味方だよ』
『そうそう、だから正直に。大丈夫、誰にも言わないから』
『それはもはやフラグ』
『言わない、言わないって。クックック』
『ここには跡部のことを好きな人はいないから、ご安心を』
『恋いいなあ、恋したい』

仲間というのはありがたい。
わたしは彼女たちが大好きだ。からかわれているとわかっていても、これが彼女たちなりの優しさなのだと理解できるから、恵まれているとつくづく思う。
とはいえ、800件を読み切るのはさすがに骨が折れた。ときどき声をあげて笑いながら、だらだらと横になっていた。ぼんやりしながらメッセージを送る。そしていつのまにか、わたしは眠りに落ちていた。

『わたくし佐久間伊織は、天地神明に誓って、跡部景吾とは寝てません』





気づけば、辺りは真っ暗になっていた。
ぎょっとして体を起こす。廃れた物置だから教師の見回りも行き届かなかったのだろうか。スマホをつけると、22時になっていた。

「うわ、やば……」

跡部邸のパレードも消灯する時間だ。緑に光る電話マークのところに着信が68件入っている。行方不明と思われてるに違いない。さらに履歴をみて、愕然とした。

「跡部景吾、跡部景吾、跡部景吾……」

声を出さずには、いられなかった。
どれだけ見ても、跡部景吾という名前が連なっている。その着信は、約15分置きにかかってきていた。圧が、すごい。だけど同時に、胸がしめつけられた。
心配なんかしないって、言ってたくせに。こんなのズルいです景吾さん……。
とはいえ、うっとりしてる場合じゃないだろう。早くかけ直さないと、警察に相談されてしまうかもしれない。
そう、思った矢先だった。跡部景吾の文字が、発信を知らせてきたのだ。

「あ、もし、もしもし!」
「伊織! お前、どこに居やがる!」
「景吾……」
「大丈夫なのか!? 誰かになにかされてんじゃねえだろうな!?」
「ごめん、学校にいて……」

すでに怒っている景吾に事実を伝えたら、これまた相当な剣幕で怒られる気がして、嘘をついてしまいそうだ。
彼の声が、本気で心配している……それは嬉しい反面、非常に申し訳なく……。

「無事なんだろうな!?」
「無事、無事なの。あの、誰にも、なにもされてないから安心して」
「本当だろうな!?」景吾……すごく焦ってる。
「ほほん、本当、本当!」
「じゃあいままで、なにしてた!」ねえ、やめて。ドキドキしてくるじゃん。
「ごめん、隠れてたの。ちょっとその……あのー」
「なんだ、言え」
「う……」

素直に言えば、景吾を責めるような気がして、言葉に詰まる。だけど、言わないと許してくれないだろう。わたしの適当な嘘なんて、きっとすぐに見抜かれてしまうから。

「おい、なんだよ」
「うん、ちょっと、あの、噂になったみたいで、だから」
「……ああ」
「ちょっと、怖くて」
「……悪かった」
「ごめんあの、そういう意味じゃ」
「わかってる。とにかく無事ならいい」
「うん、それは、大丈夫」
「つうかな、それなら連絡くらい」
「あ、そうだよね、ごめん、それも、あの、事情が……」ここからは本格的に、言葉に詰まりそうだ。
「どうした?」
でも、言うしかない。「寝て……た」
「は?」
「あのー……学校のね、穴場? うん、そこをね、友だちに教えてもらって」
「……」あれ、反応なし?
「そ、それで、2時間くらい潰したら、帰ろうと思ってたんだけど」
「……」呆れてる?
「横になっちゃって。そしたらその、眠たく」
「なんだと?」
「いや違うの、ほら、寝ようと思って寝たわけじゃないよ? でもほら昨日、寝不足で……」
「お前な……」
「ごめん……ご心配、おかけし」
「どこにある」
「え?」
「その穴場だ」
「あ、それは帰ってからゆっく」
「うるせえ早く言え!」

怒って、落ち着いたと思ったのに、また急に怒った景吾の声を聞きながら、焦って場所を伝えた。今朝と立場逆転だ。
景吾の怒号、脳に響くんだよっ。さすが200人を束ねる部長ですよっ。すでにベソをかきそうなんですけどっ。怖いよ景吾っ!

「いまから行く」
「いやあの、ひとりで」
「いいから待ってろ」
「いやでも景吾、運転手さんももう」
「誰が車で行くと言った。歩いて行く」
「えっ」
「なんだよ」
「け、景吾が?」
「お前もだよバーカ」
「いやそういう意味じゃなくて……」

景吾がこの界隈をさまよっている姿は、トレーニング以外では見たことがない。いつも車で登校してるし、トレーニング時は走っている。
その跡部景吾が、わざわざ、わたしを迎えに来てくれるって、こと?

「とにかく待ってろ。そこから一歩も動くな。それと、もう寝るな」

ぶっつりと電話が切れたあと、生ぬるい風が頬を撫でていった。
春が終わって夏が来る予感がする。そう、夏は恋の季節……景吾と、恋?

「ひゃああああ」

考えて、また熱くなった顔を両手で覆う。そこから10分程度だろうか。
あきらかに焦っている様子の足音が近づいてきて、廃れた教室のさらに廃れた物置のドアが勢い良く開けられた。

「はあ……電気、つかねえんだな、夜は」
「け、景吾、ごめん」

息を切らしていた。うすらぼんやりとした月明かりのなか、胸を上下させているのがわかる。あの家からここまで10分、どう考えても走ってきたに違いない。歩いて行くって、言ってたのに。

「伊織」
「え」
「見せてみろ」
「えっ?」

困惑でぼうっとしていると、両手で頬を包まれた。立ち上がろうとした足が崩れ落ちそうになる。見せてみろ、がなんのことかわからないまま、頬に触れられたことで、心臓が爆発しそうだ。

「なななに、どうし」
「本当に、なにもされてないんだな?」

景吾はわたしの髪を掬いながら顎をあげて、顔の隅々までチェックしていた。
そういうことかと理解はしたけど、昨日に引き続き、頭がパニックを起こしかけている。
顔が近い、気遣いが嬉しい、ていうか、景吾に、触れられてる……。

「だい、大丈夫だって、言ったじゃん」
「肝心なことはいつも言わねえだろ、お前は」
「え……」
「よし、帰るぞ」
「あ、うん……」
「伊織」

やっとのことで立ち上がって、スカートを両手ではらっているあいだに、景吾がこちらに向かって、左手を差し伸べている。カバン、持ってくれる、的な?

「大丈夫だよ、これくらい」
「かせよ、手」
「え」

これには、固まった。
カバンじゃない、手のほうだった。ということは、つなごうってことですか?
……やばい、やばい、やばい。頭、おかしくなりそう。
わたしが景吾を意識しているから? 胸が尋常じゃないくらい暴れている。あれ? 昔から景吾ってこんなだった? 手とか、つないだこと、あったっけ?

「こんな暗闇で、階段で転げられたらたまんねえからな」
「……えっと」
「早くしろ」
「は、はいっ」

言われるがままに重ねると、景吾の大きな手が、優しく包んでくる。
無言のまま歩きだした景吾に、この想いがすっかり伝わってしまっているんじゃないかと思うと、気が気じゃない。
だけどこのまま永遠に、階段がつづけばいいとすら、思う。もう重症じゃん、わたし。

「ねえ景吾」
「なんだ」
「そのー……怒ってる?」
「怒ってる」
「……ごめん」
「昔からお前は、呆れた女だ」
「ひどい……」
「俺の家の敷地内で夜中まで寝やがって大騒ぎになったの、覚えてねえのか」
「えっ!」そんなことあっただろうか。全然、覚えてないんですけど。
「やはり、都合の悪いことは忘れるみてえだな」
「ねえそれ、ホント?」にわかには信じがたい。
「本当だ」
「まさかそれも日記に?」
「書いてある。あのときも結局、俺が見つけた。かくれんぼしたまま寝たんだよ、お前は」
「うわあ、変わってないね?」
「開き直ってんじゃねえよ、バーカ」

怒ってる、は嘘だった。ふっと微笑む景吾に、はにかみを堪えきれない。
つながれていた手は、校舎から出たところで、ふんわりと離れていった。
離れても寂しくなかったのは、跡部邸までの道中、景吾のお説教を聞いて帰ったおかげかもしれない。





昨日のジャグジーはどこにいったのか。
せっかくだから今日のような日こそお風呂でリフレッシュしたかったのだけど、広すぎるお屋敷のせいで場所がわからなかったので、適当に見つけたバスルームにそっとお邪魔した。
どうせ、どのバスルームに入ろうと、この家の風呂はとんでもなく広いに決まっている。
バスタブに入って、ぶくぶくと顔を半分つけて少女漫画のようなことをした。すっかり乙女な気持ちになっている自分に、笑ってしまいそうになる。
お湯に浸かってさっぱりしないと考えがまとまらない、と、帰宅後すぐに駆けこんでみたものの、自分の右手をまじまじと見つめてしまう。
景吾の左手と触れ合った、この、右手を。

「ダメだ……のぼせる」

のぼせている原因が物理的なものなのか、精神的なものなのかはさて置き、バスタブの縁に腰を掛けた。足湯状態でパチャパチャと遊ぶ。今日はゆっくり長風呂でもしないと、全然、寝れない気がしたからだ。
だから、しばらく物音が耳に入ってこなかったのだろうか。
おや? と気づいたときには、上半身だけそのまま、入口に向けていた。

「……」

たしかに、このお屋敷のお風呂は、いつだって照明がついている。下手な銭湯よりも広いから、それが通常といえば、通常なのかもしれない。
だから、照明の有無で誰かが入っているとか、入っていないとか、気づきようがないのかも、しれないけれど。

「……」

わたしの目の前には、素っ裸の景吾がいた。
これは、いったい、どういうことだ。

「……なっ」

景吾が慌てて出ていくより先に、跡部邸中にわたしの悲鳴が響きわたった。





to be continued...


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