under K roof_03



day 3.


昨晩の出来事は、いったいなんだったのか。
トンデモ状況に仰天したんだろう景吾は、「わめくなちょっと待ってろ!」と叫んで出ていったが、しばらくすると目をまるくしたお手伝いさんが様子を見に来た。
乙女の心中を察してか、彼女は夜にホットミルクを作ってくださり、「大丈夫ですよ」と微笑んでおられた。しかし、なにが大丈夫なのかは、よくわからない。
外からしおらしいノックの音がしたのは、ホットミルクの美味しさに、ほんの少し心が落ち着いてきたという単純さで寝る決心をし、歯を磨きはじめたときだった。

「……」

とはいえ、景吾だと思ったので黙っていた。というか、歯を磨いていたのでこれ以上に無様なところは見られたくもなければ、聞かれたくもなかったというのが本音だ。
無視だと思われるだろう。なんなら、それでもいいと意地悪な気持ちがあったことは認める。

「伊織、もう寝たのか?」

あらゆる物音に、敏感な景吾は気づいていたはずで、だからこそノックをしてきたのだ。でも、さっきのことは結構な衝撃で、うまく返事はできない。ちょうど、口も濯いでいるし。
景吾がためらいがちに口を開いたのは、ちょうど口を濯ぎきったあとだった。

「悪かった。次からはちゃんと確認する」景吾と思えないくらい、小声だ。「……おやすみ」

ヨダレにまみれた寝顔なんてなんのその、もっともっと恥ずかしかったし、見られたくなかったこの裸体。スタイルの良さなんて欠片もないものを見せられて、景吾もある意味では被害者だ。
つまり景吾への(出来事への?)怒りというより、自分に対しての失望で、朝の寝顔云々とはまたちょっと違う感情だった。八つ当たりの矛先がわからない。
まあ、確認不足の景吾にモヤモヤするものはあるけれど。

そんな気分も翌日には、落ち着いていた。
だけど、おかしなプライドがその収まりの感情を許さなくて、未だに景吾を無視している。
っていうか、なにを喋ればいいかわからないんだもの。

「……」景吾がこちらを見ている気配もない。
「……」わたしだって見る勇気はない。

昨日とまったく変わらない登校中の車内。
気まずさが半端ない。ほかの生徒たちに見られるのが嫌で何度か断ったのだけど、裏口の門に車をつけるので、どうか……と、運転手さんに説得された。
多分、母の手前ということなのだろう。うちの母親なんか気にしなくていいのに。

「あの……おふたりとも、学校に到着しておりますが」
「えっ」
「ああ……悪い、いま出る」
「はい、いってらっしゃいませ」

氷帝学園は正門からの登校じゃないと基本的には許されないので、裏門に来る人はまずいない。どっちにしても、いまから正門に回らなくてはならないのだけど、景吾ファンの餌食にはなりたくないので、これがベストの選択だ。それに電車を使うよりはるかに早い。なんだかんだ、ありがたいと思う。
ふたりで静かに車から出、顔を合わせることもなく歩きだした。景吾は気遣っているのか、距離を取って歩いている。裏門から通じる正門への道は、くねくねとした森の中の細道のようでひんやりとしていた。まるでお互いの心を反映しているようだ……なんて詩人みたいなこと思っても、浮かんでくるのは昨日のことばかり。ダメだ、重症だ。

「なあ、伊織」
「な……なにか」

細道を抜けるには、いささか距離があるところで景吾に呼び止められた。どういうわけか、「怒っている振りをしなければ!」と、反射的に出てきた、かわいくない言葉。
しかし顔を見る度胸は無いので背中を向けたまま突っ立っていると、歩み寄ってくる足音だけが聞こえてきた。どうしよう、こんなときに昨日の景吾の姿が頭に浮かんでくる。ハレンチなのかわたしは。

「話し合」
「あれ、伊織ー?」
「えっ」

くねくね道のおかげで、景吾のことが死角になって見えなかったのだろう。千夏が、すかさず、駆け寄ってきていた。おそらく、正門玄関につづく道から垣間見えるわたしを発見したのだ。が、まもなく景吾を見つけて、あっと口を半開きにしたまま停止した。
いやいや、その反応はおかしい。どうせならこっちまで駆けってきなさいな。変な気遣いやめてほしいんですが!? と言えるはずもなく、取り繕うように景吾を振り返った。

「……話って?」
「いい、行け」
「でも」

冷たい視線が送られてきた。無言で、「いい」と同じ言葉をくり返されているのが、伝わってくる。

「……どうも」

景吾は、そのままなにも言わず、千夏に挨拶もせず、眉間にシワを寄せて足早に去っていった。すれ違いざまに漂ってきた香りに困惑する。男子高校生がなぜこんないい香りをさせているのか教えてほしい。
一方で、「え、なんで怒ってんの?」と、よくわからないモヤモヤが、また増えた。昨日はびっくりしちゃったね、とか言えたらよかったってこと? 「ワタシ、ペチャパイデショ」とか? 無理でしょ。言えますかそんなこと。どんだけ大人だよ。ツンケンしかできませんよ。こっちは裸を見られたんだから。かわいくないってわかってても、あんな態度になりますよ。

「お邪魔だったかな……ていうかなにブツブツ言ってんの伊織」
「別に」若干、声に出ていたらしい。
「喧嘩でもした?」

首を傾げて聞いてくる千夏は、朝からキラキラしていた。だから彼女には彼氏もいて、長く愛されているのだろう。ええ、どうせわたしはかわいくない女だ。親友にこういう人を持つと、ときどき心が荒む。

「……喧嘩っていうか」
「ていうか?」
「トラブルっていうか……事件です」
「そこは、姉さん、ってつけなくていいの?」
「姉さん、事件です……って、バカなことさせないでよ」

いまこのネタを言ったところで、理解できる人がどれだけいるのか。時代錯誤も甚だしい。ケラケラ笑う千夏に、小さな声で昨日のことを話した。本当は大きな声で叫びたいんだろうけど、なるべく小声で「えー!」とか「ぎゃー!」とかを小刻みに放出し、肩を震わせ騒いでいる。だからなのか、教室までの道のりはあっという間だった。教室に入って席についても、事件を聞いた彼女の興味は収まらない。当然か……逆の立場だったら、興味津々で質問攻めにするに違いない。

「ねえねえねえねえ、伊織」
「もうおしまいっ。これ以上なにも出てきません」
「でもでもっ、まだ聞いてないことがあるのっ」
「なに?」嫌な予感しかしませんけど。
「どうだったの? ねえ」
「……は、どうって?」
「決まってるじゃん……サ、イ、ズ!」目をランランとさせてなにを言うかと思えば。「跡部のなんか、一生知ることないんだから、いいじゃん! 教えてよ!」

バカ女の友達は、やっぱりバカ女であることに違いはないわけで、これぞ類は友を呼ぶというやつか。その一声で一気に昨日のフォルムを思いだしてしまうわたしも大概なのだけど、千夏はきゃいきゃいと、実に楽しそうに喜んでいる。

「バカじゃないのバカなんじゃないのっ」少女漫画みたいに顔を赤くしてしまいそうです。
「痛い伊織、痛いっ」千夏の肩を叩きまくっていた。「でもやっぱり見たんでしょだっていっちばん最初に目に入っちゃうよねきっと!」
「ホントにうるさいっ、バカ! 句読点つけて!」

何度だって思い出す、景吾の姿。いま、自分がどんな顔をしているかなんて、鏡を見なくてもわかる。千夏から見ればきっと滑稽に違いない。誤魔化せるはずもない。ああもう!

「なんや千夏、えっらいどつかれてんな。どないしたん」

その声と同時に、頭上から影をさしてきたのは、忍足だった。
顔を見上げるより先に、目の前に出てきた忍足の長い足の中心部に、わたしも千夏も、うっかり視線を伸ばしていた。彼が長身のせいもある。こちらが机に着席していたせいもある。とはいえ、だ。

「ん? ってちょ、自分ら、どんだけどこをガン見してんねんっ!」

だってそういう話をしていたとこなんですもの、なんて言えるはずもない。

「ごめん忍足、つい」千夏が冷静に返す。
「どういうことや、ついって。そら、悪い気はせんけども」せんのかい。
「ああ、バカばっかり」

はあ、とため息まじりにツッコミつつも下ネタについていくわたしも、やっぱり大概だ。しかもまた思いだしてしまった、ああもう頭のなかは、そればっかりですよ!

「千夏と一緒にせんといて。俺はデリケートなんやで?」
「悪い気しないとか言う人の、どこがデリケートなんだろう」
「千夏、黙って。お前、明日は議事録係やからな?」
「えーっ」
「せやからこれ、渡しに来たんや」議事録帳をポイと投げるように机に置いた。「それやのに、お前らは俺のムス」
「朝から品のない会話ダメ、絶対」

スムーズにペラペラと下の話をする忍足に、食い気味で止めて頭を抱えた。もう今日のテーマが、すでに決定してしまったような気分だ。それも、とっても卑猥な。跡部様の貴重品、とでも名づけるか……わたしもバカか。

「どないしてん佐久間、元気ないな? 跡部と喧嘩でもしたか?」
「なんでわたしが元気ないと、そういう解釈をどいつもこいつもっ」
「やって、それしか理由ないやん」

ニコニコ、いやニヤニヤしやがって。そのメガネをいますぐ引っ剥がして踏んづけてやりたい……とか言ったら、また景吾に似てるとか言われるんだろう。

「あんまりそういう、誤解を招くことを……」昨日の今日なんだから。「怖いじゃんかっ」
「ああ、それやったらもう、大丈夫やで?」
「へ?」
「そいや今日は、俺様ファンクラブ静かだね」千夏が周りを見渡した。たしかに、言われてみるとそうだ。
「跡部、なんかしとったし。明日のこともあるしな?」
「明日?」

なんかしとった、とは、なにをしたんだろう。あまり聞かないほうがいいような気もする発言が気になる。ていうか、明日のことって、なんのこと?

「あかん、授業はじまってまう」
「えっ、ねえ忍っ」
「あらら、行っちゃったね」

チャイムが鳴ったことで、忍足は足早に教室から出ていった。
なんかした、はともかく、明日のこと、が気になるけれど。忍足の連絡先も知らないので、それ以上は聞きようがなかった。





放課後はおとなしく、跡部邸に帰宅した。いつものようにお手伝いさんが出迎えてくれる。昨日の騒ぎに好奇の目を向けることもなく、「お風呂になさいますか?」とにこやかに聞いてきてくださった。当然なんだろうけど、ぼっちゃんのプライベートはもちろん、ぼっちゃんの友だちのプライベートへの興味も、おくびにも出さない。わたしだったら今日の千夏のように、聞きたくてたまらないけど。

「はい、お風呂、お願いします」

帰宅したらすぐにサッパリとしたいわたしも、にこやかに答えた。
すぐに入ることにすれば、ついでに彼女に場所を案内してもらえる。昨日のようなことが起こりえない状況で入っておきたかった。

「かしこまりました。準備は整っております。景吾さまが、伊織さまにはいつでも使わせていいとおっしゃってましたので、昨日と同じバスルームも準備できております。いかがなさいますか?」

一瞬、景吾からの伝言で嫌味を言われたのかと思った。それにしては回りくどい嫌味だと逡巡しながら、思考がそのまま口をついて出ていく。

「……あ、えーと」
「あちらのほうが、伊織さまのお部屋から近いですものね。うっかりしてしまいますよね。わたくし共も、気遣いが足りませんでした、申し訳ありません」
「いえ、そんな」たしかに、近かったから入った。でも気になるのは、そこじゃない。「あの、いつもはその、誰かがお風呂に入るのに、景吾の承諾がいるんでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは。ですが景吾さまは、いささか潔癖なところがお有りです。おそらく、念のために我々に伝えたのかと」
「はあ……?」

話が噛み合ってないように思うのはわたしだけなのか。潔癖だから、それを知ってるお手伝いさんに、念のためにバスルームへの許可を出す? いや、謎解きか。どういうこと?

「景吾さまは昔からあちらがお気に入りで、専用になさいましたから。そうした背景もございまして」
「ん……あのすいませんあの、専用って?」

お手伝いさんの説明を止めると、あら、というポカン顔で見てきた。きっとこちらも同じ顔してるはずだ。

「もしかして伊織さま、ご存知なかったのでしょうか?」
「はい?」
「昨晩、伊織さまがお入りになられたのは、景吾さま専用のバスルームでございます」
「……え?」景吾さま専用のバスルーム、だと?
「ジャグジー付きがお客さま用でして、どなたでもご利用になれるバスルームです。旦那様と奥様のバスルームはお部屋に。景吾さまのお部屋にもあるのですが、あちらのほうがお気に入りなのです」風呂、いったいいくつあるんですかこのお屋敷……。
「えっと、じゃあ……」
「ですのであちらは、現状は景吾さま専用となっております。あの、ゲストルーム付近にあるバスルームについては、初日に案内の者からご説明させていただいておると存じますが……」

いよいよスーパードポカンタイムに突入してしまった。
景吾さま専用のバスルーム……ということは、説明があっただろう案内時に、うわの空で右から左に受け流し(カーテンに感動していたときだろうか)、昨日まんまとあのバスルームに、「わたし」が「勝手に」入ったということで、それは、つまり、それは……。

「え、じゃあ!」
「ど、どうされました?」急に大声をあげたせいで、驚かせてしまった。
「すみません、でもっ! き、昨日のは、わたしが悪いんじゃないですか!」

ちょうど話しながら部屋に到着したこともあり、学生カバンをほっぽり出す勢いで騒いでしまう。

「伊織さま、落ち着かれてください」
「だって、わたし、景吾に謝らなきゃっ」
「景吾さまなら、大丈夫でございますよ」
「でも、なんか、景吾が悪いみたいな態度しちゃって、わたし」
「景吾さまなら、きっともろもろのことを、理解しておいでです」
「だけどっ」
「それに景吾さまは、伊織さまのことを、とても大切に思っておいでですから」
「えっ」
「あ……ふふ、申し訳ありません。差し出がましいことを申しあげました」
「い、いえ」

お手伝いさんが、一瞬、はっとした表情を見せた。
大切に思っておいで、なんて曖昧な感じがたまらなく心を揺さぶってくるのだけど、それはそれとして。
さすがのお手伝いさんは、景吾をずっと見てきているだけあって、実はいろんなことに詳しかったりするのかもしれない。昨日のわたしが知らないことも、いろいろ、知っている?

「あの、聞いてもいいでしょうか」
「はい、なんでございましょう」

コホンと咳払いをして、ぎゅっと口を噤んでしまわれた。余計なことを言ったと後悔しているに違いない。なんだか、こそばゆい。

「今日、忍足から聞いたんですけど」
「忍足さまから?」
「はい。景吾、昨日わたしのことを探してるあいだ、なにかしてたんですか? その、彼の、ファンクラブとかに」
「はああ、なるほど」ふっと頬を緩ませた。「お伝えしたことは、景吾さまにはナイショにしてくださいますか?」
「は、はいっ」

いたずらっぽい笑顔がなんとも上品だ。近所の大人のお姉さんにイケナイことを教えてもらっているような気分になり、声がうわずってしまう。

「夜の8時になっても伊織さまが帰って来られませんでしたので、それはもう、ご心配なされて」
「はい……」心底、反省しています。
「景吾さま、まずは忍足さまにご連絡されて。忍足さまとの電話を終えられたあと、すぐにファンクラブのお嬢さま方に片っ端からご連絡されて」
「え」
「景吾さまの声色がまた、低いものですから。怖かったと思いますよ」
「な。なるほど」話の内容とは裏腹に、トクトクといいだすこの音はなんだ。
「絶対に伊織さまになにもしていないのかと、問い詰めておいででした。なかには伊織さまを探しまわったと白状されたお嬢さまもいらしたようですが、見つからなかったと。それで景吾さまは、念押しとして、伊織さまには近づかないという書面をお嬢さま全員に電子で送信されました。署名して返信するようにと」
「はあ……」

なんちゅうことをしているのですか、景吾さん。

「それでも安心できないと、何度も伊織さまにご連絡を。血なまこになって探しておられましたよ。いくらなんでも、居候の身で、連絡もなしにこんな心配をかけるような人間じゃない、とおっしゃって」

すみません、そういう人間でした……。

「全校生徒に連絡を、と言い出されたときは、わたくし共が止めました。さすがにちょっと、やり過ぎですと」
「す、すみません」
「伊織さまのこととなると、景吾さまは昔から、冷静さを失われがちですから」
「昔、からですか」
「ええ、かくれんぼのときも。ふふっ、懐かしいですね」

昨日、景吾が言っていたことを思い出して、忘れていた自分に呆れてしまう。お手伝いさんまで覚えているということは、結構な事件だったんだ、きっと。

「ですが、明日のこともありますし。ファンクラブのお嬢さま方には申し訳ないですが、ちょうどよい機会だったかと思います」

そこまで聞いて、「明日のこと」というワードに、はっとした。
なんかさっき、忍足もそんなこと言っていたような気がする!

「あの、忍足も言ってたんですけど、明日って?」
「あら。伊織さま、まだ、なにも……?」

すっかりお風呂に入ることを忘れてお手伝いさんとの会話に没頭していたときだった。話が進むのを遮るように、扉がノックされる。

「はいっ」

返事する声が跳ねあがった。お手伝いさんはピリッと背筋を伸ばしている。景吾だと理解したからだろう。そそくさとわたしから距離を取り、にこやかにウインクしていた。

「……入っていいか?」
「えと、あの……」しどろもどろとしていると、お手伝いさんが扉を開けた。
「お帰りなさいませ景吾さま。ただいま、わたくし出ますので」
「なんだ、お前もいたのか」
「申し訳ございません」

まったく悪くないのに謝る「申し訳ございません」に、いろんな意味合いを感じる。頭をさげたことで伏せられているあの顔はいま、苦笑しているに違いない。

「では伊織さま、どうぞごゆっくり」
「あ、ありがとうございました」ふう、と静かな息を吐いた。明日のことは聞けずじまいだけど、とりあえず、言っておかねば。「あの、景吾」
「アーン?」

景吾がこの部屋に来たということは、なにか用事があるんだろうけど、それよりも、こっちのほうが優先だ。

「昨日のことなんだけど」

昨日、と言ったとたん、景吾は目をそらして、沈黙した。
なんでそんな顔、するかなあ。こっちの罪悪感が、もっとつのってきちゃうじゃん。

「ごめんなさい」

いさぎよく、頭をさげた。景吾が自分専用のバスルームに、なんの確認もせずに入ってくるのは当然だ。ちゃんと説明を聞いてなかったのはわたし。思春期女子が思春期男子に裸を見られたとはいえ、非は、こちらにある。

「景吾専用のバスルームって、多分だけど、聞いてたのに聞いてなくて」沈黙しか戻ってこない。「一方的に怒って、悪かったなあって……だからその、ごめんなさい」
「……」え、徹底してだんまり?
「景吾?」
「ま、都合の悪いことは忘れるからな、お前は」

カチン。
……ん、いや、この感情は間違っているかもしれない。だとしても散々に沈黙しておいて、出てきた言葉がそれなのか、と思ってしまう。
かわいくない。跡部景吾とはそういう人だとわかっていても、かわいくない。もちろんわたしが悪いから謝ったんですよ。でも素直に謝った人に、そんな言いぐさある?

「……ていうか? 言ってくれたら、よかったと思うんだけど」
「アーン?」
「昨日の段階で。悪いのは自分じゃないって」バツが悪くて自分でもなにを言っているのかわからなくなってくる。
「あれだけバカでかい声で叫ばれたあげく被害者面されて、なにを言えってんだ」
「だ、だれが被害者面!」
「ほう? じゃあなにか? 俺が被害者だと認めるのか?」

ええ、本心はそう思ってますよ。あんなの見られて、ついでに見せられて、そっちだって被害者でしょうね! だからってこんな突っかかってくる? 「いや、気にするな」って言えないかなあ!? 言えばいいよねえジェントルならっ。

「だって昨日、謝ってきたじゃん景吾」
「だからなんだ」
「だから、わたしがミスってたなんて、思えなかったんだよ!」
「ああ? 言っておくがな、謝ったのは、あんなみすぼらしいもの見せられたこっちが被害者だろうが、世間的に男の俺が不利だからだ。謝んなきゃ収拾がつかねえだろうが!」
「ちょちょちょちょっと待ちなさいよ。みすぼらしいって言った!?」
「ふんっ、あれでスタイル抜群とでもほざくのか」
「そこまで言います!? 景吾だって大したことないくせに!」
「アーン!? なんだと!」

大したことないかは、実はわからない。
幼少期からうちの家庭にはすっかり男がいないし、実際ホンモノをまじまじと見たことがない。見たことあるのは友達同士で見たヤラしいビデオだけだ。あの方々はきっと普通サイズじゃない……。
バカバカしい言い争いがヒートアップしたころだった。またしてもノックの音が聞こえてくる。心なしか、大きめだ。

「誰だ!」
「は、はい。景吾さま、お取り込み中、大変、申し訳ありませんが……」遠慮がちに扉が開かれた。
「なんだ!」
「明日の伊織さまの準備のお時間となります」

大したことない、が効いているのか、景吾のイライラは最高潮だったのだが、そのひと声で、彼はわずかに固まった。
そういえば、そうだった。明日って、なんなんだ。

「スタイリストと衣装が到着いたしましたので」斜め45度の美しいお辞儀だ。
「す、スタイリスト?」

一般家庭では聞き慣れない言葉がそのまま声になってしまう。なんの話? 知らないことが多すぎる。
一方の景吾を見ると、気まずそうに視線をそらし、小さな咳払いをしていた。さっきまでの勢いはどこにいったの? なに、言いにくそうにしているわけ?

「おや、景吾さま、まだお話されてなかったのですか」
「タイミングがなかっただけだ」
「さようですか」
「なんのこと?」

みすぼらしい、と、大したことない、については一旦、置いておこう。
スタイリストとはなんの話ですか。と、口を開く直前、景吾は顔をあげてきた。

「明日、跡部家主催のパーティがある」
「そうなんだ」だいたい半年に一度は跡部家で行われている、パーティという名の大宴会だ。
「パーティには、跡部家にいる人間は使用人以外、全員出席だ」
「まあ、そうでしょうね」
「つまり、居候のお前もだ」
「えっ!?」

ひょっとして、だから「伊織さまの準備」ということなのか。ようやく合点がいき、目をパチパチさせてしまう。そうか……わたし、一応、いま跡部家に「居る」人間なんだ。
でも、だからって、跡部家主催のパーティ? いやいやいやいや、無理でしょう。

「あのそれは、遠慮させ」
「もう決まったことだ」食い気味だった。
「いや、あの、わたしそういうの」
「父親がそう決めたことだ。逆らいたいなら直談判してくれ」
「な」

それは、いくらなんでもできない。居候のくせして生意気すぎる。だけど……パーティとか、社交的なやつ、できないよ。というか、なにをしてればいいのかも、わかんないよ。

「とりあえず、ついて来い」
「へ? ついて来いって」
「衣装部屋だ」
「衣装部屋って……え、明日の衣装?」
「ほかにねえだろ」





長い廊下を数回曲がったところにある衣装部屋には、ものすごい数のドレスが並べられていた。レンタルドレス屋が運営できてしまうだろう圧巻の景色に、めまいがしてくる。

「レッド、ブルー、ああ、これもいい……上品だ」
「こいうのもございますよ、景吾さん」
「ふむ……だが背中が開き過ぎじゃねえか?」
「そうですね……まだ高校生ですし、やりすぎかしら?」

景吾は黙々とドレスを選びながら、スタイリストさん(だと思う)と話していた。わたしが呆然としまくっているので無理もないのだけど、着るのはわたしなんだよね? と言いたくなる。なんで景吾さんが選んでるんですか? まさに置いてけぼりだ。

「あの、景吾、百歩譲ってさ、出席はともかく」
「なんだ、ちょっと待ってろ」
「いや、わたしこんな綺麗なドレス着るの怖いよ。あの、自宅からそれなりの持ってくるからさ」
「それじゃダメだ」
「いや、ホントそれなりの!」
「ダメだ」

うっかり、顎を引いた。景吾にしては、驚くほど頑なだ。なんでダメなのかわからない。そりゃここまでお金のかかったドレスじゃないけど、恥ずかしくない程度のものだ。ちょっとしたゲストならそれでいいじゃん。だって汚したらどうすんのさっ。
非難のつもりはなかったが、視線を送ると、景吾はまた、目をそらした。

「……お前は跡部家の人間として出席する」
「うん、それはわかったんだけど」
「わかってねえな」
「え、え?」わかってないの?
「……景吾さま」近くで見ていたお手伝いさんが、めずらしく口を挟んできた。
「なんだ」
「伊織さまに、詳細は伝えられておりますか?」
「うるさい。いまから、ちゃんと言う」
「さようでございますか。失礼いたしました」

また、置いてけぼりだった。お手伝いさんとのやり取りを聞く限り、わたしにはまだ知らない「詳細」とやらがあるらしい。

「明日のパーティだが」

景吾は何度か胸を上下させたあと、飾られているドレスを選ぶ仕草で喋りだした。妙だった。詳細を伝えようというときに、こちらも見もしない。見たくない理由があるってこと?

「うちに居候がいると知られれば、妙な噂を立てる輩もいる」
「あ、はい。それは、大変、申し訳……」悪いのはうちの母親ですが。肩身が狭いとはこのことである。
「明日だけ、お前をどこか別の場所に宿泊させることも可能だが、それだとおばさんに失礼だ。預かっているこちらの役目を放棄することになる」

つまり、景吾のお父さんの立場としては笑いものにされるのを避けたい。だけどそんなこんなの理由はうちの母に面目ない? ん、なんとなく話が矛盾しているような気がするけど、ここは黙っておこう。景吾のお父さんの気持ちは理解できる。

「かと言って、お前を隠し通せはしない。たとえばお前を使用人として扱うことも可能だが、お前に使用人の真似事をさせるわけにはいかない」
「わたし別に、それでかまわないんだけど……」あのメイド服、ちょっと着てみたいし。
「ダメだ。即席じゃ立ち居振る舞いが不自然になる。集まる人数は数百人を超える。使用人でもないお前の姿を見られでもしたら、また厄介なことになりかねない。そもそも隠そうすること自体、おばさんに申し訳ない」申し訳ないわりに、さっきからちょいちょい失礼ですけどね。「そこで、お前を跡部家の人間として出席させるという文書を回した」
「文書?」
「毎回、出席者全員に送っている。要は、主催側全員の名前を記載してあるものだ」
「はあ、なるほど」お金持ちって大変だなあ。シンポジウムかっての。
「つまり……」
「つまり?」

スムーズに話していた景吾が、急に口ごもった。近くのお手伝いさんは、なぜか苦笑している。そういえば、聞いてないことがこの先にあるんだっけ?

「……景吾?」
「明日お前は俺の婚約者として出席してもらう」
「は」

早口に、なんでもないように、流暢に投げられた発言に、もちろんフリーズした。
この期に及んで、景吾はまだドレスを選ぶ「フリ」でごまかそうとしている。いや、ごまかされないよ?

「な、なんて?」
「形だけだ。出席した連中にすりゃマジで結婚しようがあとで婚約者が入れ変わってようが気づきもしねえし気づいたところで誰もそんなこと突っ込んで聞いてきやしねえ俺は跡部財閥の息子だからな!」

聞いていないことをペラペラと、優雅さが微塵もない早口で、つづけた。
いやいや、いくら息継ぎなしで言ったからって、「そうですか」ってならないよ? しかもその感じ、誰もがやる、やましいときの口調じゃん!

「ちょちょちょちょっと、待ってよ!」
「もう決まったことだ」

――跡部、なんかしとったし。明日のこともあるしな?
――ですが、明日のこともありますし。ファンクラブのお嬢さま方には申し訳ないですが、ちょうどよい機会だったかと思います。

忍足やお手伝いさんが言ってた「明日」の中身、これだったんだ。だから、過剰にファンクラブ牽制したし、それが「ちょうどよい機会」ってことなのね……理解!

「あのさ景吾、決まったことだって言うけど、わたしの意見も聞かずに急にそんな」
「決まったことだっつってんだろ」
「おじさんが決めたの? じゃあ直談判するよ。今夜、時間とってもらって?」
「なに?」
「相談があるならまだしも、決まったことだって言われてもさ」
「ちょ、待て」
「決めたのおじさんなんでしょ? それなら話してくるから」
「無駄だ」
「なんで?」
「悪いが、お前ら席を外してくれ」
「えっ、え?」

はい、と返事をしたお手伝いさんとスタイリストさんが、颯爽と部屋から出ていく。なぜこのタイミングでふたりになろうとしたのかわからない。
困惑のまま顔をあげると、景吾が一歩、近づいてきた。

「な、なに」
「直談判の件は、出席に関することだけだ」
「だから、出席はともかく、婚約者っていうのはちょっと、話が飛躍しすぎっていうか。むちゃくちゃすぎない?」
「そこは親父に話しても無駄だ。それに、ほかに方法がねえだろ」
「え、たぶんだけどあるよ」すぐには思いつかないけど。「なんでそんなことになったのかわかんないし、直接」
「それなら、俺に言え」
「へ?」
「決めたのは『俺』と親父だ」
「へ……」
「だから文句があるなら、俺に言え」

意外も、意外だった。てっきり、おじさんが面白がって決めたのかと思っていた。ちょっと待ってそれってじゃあ、景吾も納得ってこと? ていうか、景吾がそうしたいって言いだした、とか、とか、とか……?

「嫌かよ?」
「えっ」
「嘘でも俺の婚約者になるのが、そんなに嫌かって聞いてんだよ」

嫌味な空気は一切なく、真剣な目だった。
ちょ……っと。ふたりになった途端、そんな顔で、それ言うの、ズルすぎないですか。

「い、嫌とか、そういう問題じゃなくて」ダメだ、目を合わせていられない。「だって、景吾のフィアンセに相応しい女性なんて演じる自信とか、ないし……」

息が苦しい。その証拠に、声に力をなくしている。なのに全身が脈打っている。

「演じる必要、あんのかよ?」

景吾、それ……やばいよ、完全にその気になっちゃう。

「相応しくないと、誰が決めた? 決めるのは俺じゃねえのか?」

思い切って目を合わせると、今度は景吾が目をそらした。
どうしよう。もう、このまま気持ちを伝えてしまいそうだ。だけど、最初は景吾から、聞きたいなあ……なんて。

「景吾は」
「なんだ?」
「わ、わたしが相応しいって、思ってるって、こと?」

言ってくれないかな? そうだって。なんなら、本当に婚約するか? とか、きゃ、ははっ。ああ、舞いあがりすぎ?
と、内心テンション激高で待っていたが、沈黙だった。あれ? と思って覗き込むように景吾を見ると、彼はふうっと大きな息を吐いているところだった。

「ここにある高級ドレスを着、尚且つスタイリストについてもらえりゃ、お前みたいなのでも、まあそれなりには見える」
「……は」
「馬子にも衣装って言葉があるだろ。だから安心して挑め。以上だ」

さっきまでのムードはいったい、なんだったのか。いや、そんなムードを感じていたのは、わたしだけだったのだろう。
目の前の男は、嫌味満載だった。冷めた目で、視線は上からで、完全に見下している。
この野郎……腹が立つ。天然? ああ、天然でしょうね、跡部景吾なら!

「……ああ、そうですか」
「間違ったこと言ってねえだろ?」

しらっと薄目で景吾を見た。
なんにせよ、こんな天然野郎の着せ替え人形ごっこに付きあってられるか!
勢いよく、背中を向けた。ぶんっという音が自分に聞こえてきたくらいだ。

「ん? おいどこへ行……」
「勝手に決めてて。どれでもいいんで」
「おい、試着しなきゃわかんねえだろうがっ」
「わたし、お風呂に入りたいんで」
「おい伊織、待てよっ」キムタクかっ。
「ちゃんとゲスト用のジャグジー、入らせていただきますので!」
「待てと言って……!」
「景吾ぼっちゃんは、みすぼらしい裸体が記憶にあるみたいですし、サイズも適当なのを選んでおいていただけます?」
「アーン!?」
「それと、景吾ぼっちゃんの大したことないヤーツは、わたしの記憶から削除しておきますね!」

わざと、聞こえるようにドアを開けて言い放ってやった。お手伝いさんが、笑いを堪えながらそこに立っている。スタイリストさんは呆れた顔を向けていた。

「貴様この減らず口! 明日はその口を閉じとくんだな!」

怒り狂った景吾の声を背に、ジャグジーまで逃げるように走った。
考えてみれば、のん気な日常である。なんだかんだと言いつつも、優雅なジャグジーに身を委ねながら、思い返して苦笑してしまうほど穏やかな日々を過ごせた。
そんなわたしが、これから起こることなんて、予想できるはずがなかった。





to be continued...

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