under K roof_04







day 4.






夕方から賑わいを見せ始めた跡部邸は19時にはすでに人で溢れかえっていた。
お手伝いさんはいつもの十倍くらい屋敷中を駆け巡っていて、わたしに構っている暇など全く無さそうだ。
ちらりと奥の方に目を凝らせば、テレビで見るような顔ぶれも多く、これだから金持ちのパーティは……とうんざりする。
だってあんな美男美女の中にこんな普通のが入っていくなんてもう絶対嫌。

そんなことを思いながら、じっとりと窓ガラスに映った自分の姿を見た。
景吾が選んだブルーのドレス、履いたことないような、いろんな意味で高いハイヒール。
昨日はかなりムカッとしたけれど、まさに、馬子にも衣装状態だ。いや着こなせてないと思うけど。

「佐久間」
「うわ忍足、びっくりした……」

準備はとっくに整っているのに、出て行くに出て行けないと右往左往しながら会場前の柱の隅で様子を伺っていたら、急に後ろから声が掛かったので大げさに驚いた。
またこのメガネか、と内心つぶやく。今日メガネ無いみたいだけど。

「何隠れてん?」
「隠れるよあんな中に入っていけないって」
「今日は跡部の嫁さんなんやから、もっと堂々としときーや」

嫁さんではなく、嫁候補だ。しかも虚構の。
ああ、なんでこんな役を引き受けてしまったのか。
あとで景吾と挨拶回りがあると聞かされて、奈落の底に突き落とされたような後悔がわたしを襲ったのはついさっきのことだ。

「絶対面白がってるよね」
「そら面白いがなー。実際そうなりたい同士やのに親父さんの言いつけでこの展開、まるで少女漫画やん」
「それ以上調子に乗るならあそこにあるフォークでぶっ刺すから」
「……佐久間、跡部似てきたな」
「…………」

このメガネにまでそんなことを言われるとは……まあ幼なじみだから似てくることもあるかもしれない、と、この頃わたしはその意見を受け入れることにしている。

「でもよう似合ってるで。さすが跡部やな」
「またそんな、嘘でしょ」
「いや嘘ちゃうよ。佐久間の肌の色にも合っとるし。ヘアスタイルもええやん。跡部が佐久間よう見てる証拠や。スタイリストより自分の意見ばっか取り入れたんちゃうか」
「忍足ーっ」

クツクツと笑いながら言う忍足に、実際、景吾がいろいろ指示していたのを知っているわたしは否定も出来ず、からかい静止の声をあげた。
恥ずかしいことを言わないで欲しい……今朝方そういう景吾にときめいてしまった自分も思い出してしまうではないか。

「いやいやごめん、でもホンマに、今日の佐久間は一段とかわええと思うで?」
「あり、ありがとう……」

しかし最後にはしっかりとフォロー。優しい笑みを向けて嬉しいことを言ってくれた。
この数日で景吾への想いを認識させられた今となっては一切ときめきはしないけれど、それでも、めちゃくちゃ照れる。この人ってこういうこと素でやるよね。ある意味、跡部以上の天然たらしだなと思う。
イケメンで天然たらし……そらモテるわな……。

「でも忍足はいいよね。見た目いいから何着てもイケメン」
「あらおおきに。素直に嬉しいわ」

なんてこと無いような顔して答えるのがまた憎たらしい。
事実、忍足はあの美男美女の中に入っても全く見劣りしない風貌だった。
パーティスーツもばっちり着こなしてるし、少しだけ後ろに流されてるヘアスタイルも、今日はメガネ無しってとこも、完璧だ……。

「ところで肝心の跡部はどこ行ったんや?」
「さっきお父さんと話してたよ」
「さよか……」

忍足は跡部邸の玄関口をぐるりと見渡しながら、なにやら気になる素振りを見せていた。
誰かと待ち合わせでもしているんだろうか。

「どうかしたの?」
「いや、なんや門の入り口付近にうろうろしとる男がおったで、今回、パーティ初参加する人かなって。入りづらいんやったら跡部が迎えてやったらええんちゃうかな、と」
「そんな、入りづらいとか感じる人いるんだこんなとこに」

どっからどう見ても、みんな自信満々な顔してますけど。

「テニスの新入部員とかなら有り得るな……毎回抽選で一人当たんねん」
「それなら忍足が顔わかるでしょ?」
「わかるわけあるかい、死ぬほど人おるのに」
「あんたそれでも憧れの忍足先輩かねえー」
「俺は部長ちゃうしええの」
「ふーん」
「あとは芸能界入ったばっかりのタレントとかな。意外と人見知り多いでな」
「でもそういう人は……」
「そやね。事務所の人と来るやろしね」

しっかし芸能界入ったばかりのタレントまで呼ぶとは。
どこから派生するとそういう人脈になるのかは謎だけど、やっぱり本当の金持ちって凄いんだなと関心する。
根が貧乏の血を受け継いでいるわたしには、何もかもが異様な光景だ。

ちょうどそんな風に僻み根性を丸出しにした頃だった。
いつもより少し優しげな声が、わたしを呼んだ。

「伊織」
「お、跡部や」
「よう忍足」
「決まっとるやん」
「当然だ。俺を誰だと思ってる」
「……もうええ年なんやからちょっと謙遜しいや跡部」
「あーん? 俺の辞書には無い言葉だな」
「そやな……」

忍足はそう突っ込んでいたけれど、準備が終わった景吾は全く謙遜する必要が無いくらいカッコ良かった。
いつだってカッコ良いけれど、やっぱり本当の金持ちは違う。
まるで高級パーティスーツを着るために生まれてきたような品格がオーラでわかる。
忍足同様、少しだけ後ろに流された髪が余計にその品格を際立たせていて、本当に美しい。
わたしは目をぱちぱちとさせながら、景吾にすっかり見惚れていた。

「伊織?」
「え」
「なにぼうっとしてやがる」
「ぷふ」

はっとしたわたしを不思議そうに見る景吾、その横で笑う忍足。
やっちまった、と思ったわたしはすかさず忍足の腕を殴った。

「いたあ! 何すんの自分!」
「うるさい」笑ったからだ、わかってるくせに。
「あと三十分ほどしたら一緒に回るぞ。準備はいいか?」
「準備は……」
「つーか」
「え」
「マジか。全然よくねえな」
「えっ」

景吾は突如、わたしの顎から髪の毛を掬った。
心臓が張り裂けそうになったわたしが瞬きも忘れて直立している隅で、またもや忍足が笑いを堪えているのが見える。
あいつ後で殺す。

「はあ……」

と、そこで景吾のため息が落ちてきた。
さっきあれほど忍足に褒められたので、そのため息に些かショックを受けている自分がいた。

「ちょっと来い」
「え」
「いいから、来い」

ここで、わたしの腕を引っ張るのかと思いきや、景吾はすっとわたしの腰に手を当ててきた。
またしても張り裂けそうになるわたしの心臓、そして忘れてしまう瞬き。
スーパージェントルな景吾の振る舞いに、このまま目眩を起こして倒れてしまいそうだ。

「人前だからな。二階に行くぞ」

その振る舞いに思い切りビクついているわたしがわかるのだろう、景吾は言い訳するように言った。

「ははははい」
「緊張しすぎだ。いい予行練習くらいに思え」
「はい、はい……」

紹介される間中、わたしはこうして腰に手を当てられているんだろうかと思うと、もう死にたくなった。
高揚感と罪悪感と劣等感と優越感で頭の中はひっちゃかめっちゃかだ。

「ゆっくり休憩してきーおふたりさーん」
「お前は明日グラウンド100周だ忍足!」
「誰が100周も走るかぼけえーっ」 

景吾と忍足のやり取りは、どこか遠い世界で行われているようだった。
それくらい、目の前の景吾に、自分の現状に、わたしはのぼせてしまっていた。








「入れっ」
「え、ちょ……」

二階にあがってすぐ、景吾は腰から手を離した。
ようやく普通に息が出来ると思ったものの、今度は腕を捕まれ、景吾の部屋に入れと言われて些かパニックを起こしかけてしまう。
まさか本当に休憩する気じゃないですよね。って、わたしバカだやっぱり!

「……伊織」
「え」

その神妙な声に、やっぱり本当に休憩かと体中が心臓になった気分になってしまう。
そんなわけないの、わかっているのだけど。

「なに顔を真っ赤にしてやがんだてめーは。何考えてた」
「いや、あの、これは」
「酒でも飲んでんじゃねえだろうな?」
「まさかっ」
「ふん…………ドスケベが」

白けた顔でそう言われて、頭の中がスケスケだったのかと思うと今度は違う意味で死にたくなった。
ここは図星だと思われるわけにはいかないっ!

「なにがっ、違うもん、どういう意味っ」
「今お前の頭の中で繰り広げられてるそのままの意味だ」
「うぬぼれすごすぎっ!」
「てことは間違ってねえな?」
「なんで、なんでそ……違う、なにも考えてなんかっ」
「うるせえなわかったからここに立て」

喚くわたしに余裕の笑みな景吾。
今日一段とカッコ良い自分がわかってるからなのか、憎たらしいくらいにコテンパンにされている。
仕方なく、わたしは言いつけ通りに景吾の指差すところへ立った。
前には大きなスタンドミラーがあり、そこにはさっき窓ガラス越しに見たチープなわたしの姿が容赦なく映った。
ああ、景吾に比べるとなんて見劣りしちゃうんだろう。

「全然悪いわけじゃねえが……」
「馬子にも衣装ですもんね」
「その通りだ」
「むかつく……」

ふっと笑った景吾は、わたしの後ろに立ち、その両手をふんわりと首周りに伸ばしてきた。
わたしの首にひんやりとした感触。
同時に抱きしめられるような錯覚で、思わず息を止めてしまう。

「綺麗……」
「いい色だろ。このドレスによく合う」

案の定わたしの胸元に、光り輝くペンダントが下げられていた。
高価なものだとわかるから、少し緊張してしまう。
景吾の指は、わたしのうなじ辺りで小さな音を立てる。
男の人にこんな風にペンダントをつけてもらうことなんか初めてだ。
やっぱり、育ちが違うとこういうことも自然と出来ちゃうのかな。

「そのまま動くなよ」
「はい……」

今度はわたしの髪を耳にかけて、そっとイヤリングをつけていく。
こんなこと自分で出来るのに、と思うけれど、景吾にしてもらってることが嬉しくて、何も言わずに黙ってそれを見ていた。
少しだけ耳たぶに触れる景吾の指先に、体が熱くなってしまう。

「パーティだっつーのに、アクセサリーのひとつやふたつ身につけたらどうだ」
「む……だってそんなの、初めてでよくわかんないもん」
「衣装部屋に腐るほどあっただろ。ったく、スタイリストは何してた」
「メイクしてくれたよ。でも超忙しそうだったから、忘れちゃったのかな」
「言われなくても気づけ。お前は俺の婚約者として出席すんだぞ? 俺に恥をかかせんじゃねぇよ」
「だってそんな」
「よしついた……ああ、ったく……」
「え、なに……」

反抗するわたしの言い分なんか全く無視してイヤリングをつけてくれた景吾は、鏡越しのわたしの姿を見て一度納得した後、何かを見つけて眉間に皺を寄せた。

意味がわからず困惑していると、景吾はそのまま部屋を出た。
部屋に残されたわたしは鏡に映ったアクセサリーをつけている自分を見て、一気に上流階級の人間になったような錯覚にとらわれた。

まるで景吾がわたしにプレゼントしてくれたような高揚感もある。
ふと傍にある鏡台に目を落とすと、ペンダントとイヤリングが一緒に入っていた箱が目に止まった。
そこには、なにやら一枚の紙がふたつに折られて置いてあった。
ペンダントについている石の説明だとすっかり思い込んだわたしは、なんの躊躇いもなくそれを開いた。

だけど全くの予想外。
その紙には几帳面さ伺わせる美しい楷書で、こう書かれていた。

『伊織へ Happy Birthday! 景吾』

手にしたまま、わたしは唖然とする。
見ちゃいけないものを見た気がして、咄嗟にそれを元の位置に戻した。

誕生日って、全然今じゃないけど、あれって、いつ、わたしに送るつもりだったものだろう。
去年? 一昨年? 
今年の分をまさか今、用意してるとも思えないし、ここで開けるとも思えないし……ひょっとして景吾、わたしに渡せずに、とか……そういう……。

いろんな妄想をして困惑しては胸が高鳴る。
わたしにくれる予定だったのはきっと絶対だから、そんなにわたしの妄想は間違ってないはずで……!

「伊織」
「わあ!」
「なんだ! うるせえな」

スタンドミラーの前からすっかり離れた鏡台前で浮ついていたわたしの後ろに、いつの間にか景吾が戻ってきていた。
怪訝な顔をしてわたしを見る。
その視線の先にメッセージカードを見つけて、景吾は気まずそうにゆっくりと目を逸らした。
これは……きっと、わたしが見たことに気付いたに違いない。
どうしよう、何か言うべきか、言わざるべきか。

「こっち向けよ」
「え、あ、はい」

言わざるべき……らしい。
すごく気になるけど、今聞くタイミングじゃない、のかな。
その矢先に、今度は突然景吾がわたしにぐっと近付いて、顎に手をかけた。
声にならない声で、え、とつぶやく。
まさか、まさかこのままキス!?
景吾って大胆!! どうしよう、体が全く動かない。

「じっとしてろよ」
「景吾、あの」
「喋るな」
「は、はい」

わたしの目を見ながら、ゆっくりと唇に目を落とす。
やっぱりキスだ、と思うともう居ても立ってもいられない衝動がみぞおち辺りで渦巻いていく。
まだ告白もなんにも聞いていないのに、と思いながら、それでもわたしはぎゅっと目を瞑った。
どうしよう、どうしようと心のなかで喚くわたしに、やがて触れてきた、滑るような感触。
あれ、と思った時には、もう景吾が喋り始めていた。

「何したらこんなにあっという間に口紅が取れんだ……あんま自分の唇舐めまくってんじゃねえよ」
「は……い」

口紅、だ。
勘違い甚だしい自分が心底恥ずかしいのと同時に、丁寧にルージュをのせていく景吾の視線がゆっくりとわたしの唇をなぞるから、いろんな意味で、顔が熱くてたまらない。

「動くなって」
「ごめ……」

景吾との顔の距離が近すぎて、頭の中がどろどろにとろけそう。
これはある意味キスよりもやばい、とどこまでもアホなことを考える。
だって今日、こんなにイケメンな景吾に……もう狙ってやってるとしか思えないけど、天然たらしだから本当のとこはわからない。

「これで、よしと」
「ありがとう……」

手を離されてからまともに顔を見れなくて、うつむき加減でそう言うと、景吾が微笑む気配がした。
何故か景吾に勇気をもらった気がして、わたしはゆっくりと顔をあげた。
景吾もじっとわたしを見ている。
なに? と聞くのも憚られるくらい、胸の高鳴りが止まらない。

「言っただろ。演じる必要なんかねえって」
「え……」
「お前は十分美しい。その見た目だって、中身だって、誰にも劣っちゃいねえよ」

そう言ってすぐに、景吾は背中を向けて扉に向かった。
今の……告白……じゃ、ないけど、でも……どうしよう、泣いちゃいそう。

「モタモタすんなよ」

うるさいなあ、といつもの調子で返すのが正解なのはわかっていても、こんなに気持ちが高ぶっては、それすらも難しくて。
わたしはもう、この気持ちを誤魔化すことは出来ないと思った。

「ねえ、景吾!」
「あーん?」

今しか、チャンスがないような気がした。
景吾はわたしの声に、そのままくるりと振り返る。
いつだってわたしが呼べば、景吾は振り返ってくれていた。
それだけのことが、わたしはいつも、すごく嬉しかったって、今頃再確認して。

「景吾、わたし」

想いを伝えようとした、その時だった。

突然、ノックもなしに開け放たれた部屋の扉。
大きな音に震えたわたしの目に瞬間見えた黒い影が、景吾の頭に何かを押し付けている。
嫌味などゆっくりとした音は、その後に聞こえた。

テレビドラマで聞くような、トリガーの音だ。

「景っ」

景吾と向きあっていたわたしには、その男が笑っている表情が顔をしっかりと覆っているニットの上からでもはっきりと目に映った。
同時に、口元に人差し指を当ててわたしに黙るよう指示している。

叫びたいのに、声が出ない。
足が震えて、今にも倒れてしまいそうだ。

「…………誰だ」

景吾は微動だにしないまま、ゆっくりと視線だけを後ろに向けてそう言った。
拳銃がつきつけられていることにはもうきっと気づいているはずなのに、怖がっている様子など微塵もない。

「誰だって聞かれて答えるバカがいるかよ」
「まあそれもそうだな」
「冷静だなあ。さすがぼっちゃんはこういうことには慣れてるか? 予行練習とかあんのか?」

ケラケラと笑いながら、男は景吾の頭に、銃口を更に押し当てた。

「嫌……嫌……お願い、やめ……」

わたしは必死に声を絞り出した。
極力叫び出さないように、その男に頼み込んだ。
やめて、やめて。お願い、やめて。

「婚約者の伊織お譲さんだよね? とりあえず黙ってくれる? じゃないとホラ、これ、撃っちゃうかも」
「ふん、撃ってみやがれ腰抜けが。俺を殺したらお前の目的は達成されねえんじゃねぇのか?」
「おお〜。さすが跡部財閥のぼっちゃん……肝が据わってる。でも、あんまり生意気な口を叩くのはやめてもらおうか」
「生意気だと? 人の家に勝手にあがりこんで何ほざいてやがる」
「お願い、やめて……」
「うるせえ女だなあ」

なるべく声を立てないようにしていたのに、その男は面倒臭そうにわたしを見た。
涙で震えて声が上擦る。
わたしの中の何かが、ぐらぐらと音を立てて崩れていく。
絶望的な気持ちが支配して、そのままそこにへたり込んでしまった。

「泣くな伊織……お前はこのまま何もなかったように出て行け」
「嫌、嫌だよ景吾、嫌だ」

景吾はわたしをしっかりと見ながら、訴えかけるようにそう言った。
そんな景吾の申し出を、わたしが頷けるはずがない。
わたしは懸命に頭を振って訴えた。
泣き声が混ざったら、声が大きくなって、この男を怒らせかねない。
わたしは必死に激情に耐えた。冷静に、冷静に、冷静に。

「ナメんなよぼっちゃん。このお嬢さんどうするかは俺が決めることだ」
「お前らの目的は俺だろ。伊織は関係ない」
「無いわけないだろうよ。この現場にいるんだぜ? 仕方ないから伊織さんには死んでもらおうかなあ。君のとこ、そんなにお金ないよねえ?」

野蛮な声を出した男はそう言うと、もう片方の手から拳銃を抜き出し、わたしに銃口を向けてきた。

「おいてめえ伊織に何かしてみろ……タダじゃおかねえぞ」
「ふうーん……てー言われても、この人邪魔だからなあ。まあ婚約者なら、婚約者分も上乗せでいいか。いずれ跡部家の人間になるもんなあ? そうなんだろ?」

小馬鹿にするように男はそう景吾に話しかけている。
景吾は眉間に思い切り皺を寄せて、男を振り返ろうとしていた。

「だめだめ、こっち向こうとしたらお嬢さん撃つよ〜?」
「伊織に指一本でも触れてみろ……俺は舌噛んで死んでやるからな……」
「またまたそんなあ、冗談だろ?」
「冗談かどうかはお前が判断しろ。ただし金が手に入る前に俺が死んだらお前の目的は無になるぞ。そのことをよく考えるんだな」
「ちっ……ったく面倒臭えぜ」

男は真っ黒なマスクの切り取られた部分でわたしをぎょろっと睨みつけた。
ひとつため息を吐いて、意を決したように背筋を伸ばす。

「おい女、立て」

わたしに向けられた銃口が立ち上がるように指示をする。
わたしは何度も深呼吸をしながら、やっとの思いで立ち上がった。

「こっちに来い」
「何する気だ……おいっ!」
「黙ってろ。お前が下手な口聞くと、愛しの彼女の頭が吹っ飛ぶぜ?」
「景吾、わたし、大丈夫だから」
「伊織、だめだ」
「大丈夫」

わたしは氾濫しそうな思いを全部堪えて飲み込んで、真っ直ぐ景吾を見た。
景吾は酷く辛そうな顔で、わたしをじっと見る。
わたしの思いが伝わるように、わたしは景吾から視線を逸らさないまま、黒ずくめの男に近付いた。
その直後、景吾が床に突き飛ばされ、同時にわたしの腰に銃口が当てられた。

「くっ……」
「立てよぼっちゃん。もちろん逃げられない状況なのは見てわかるな?」
「……伊織に触るな」
「触ってねえよ……銃口以外はな」

怖くない、怖くない、と何度も自分に言い聞かせる。
本当はいつ殺されるかわからない恐怖で、気が触れてしまいそうだったけれど、それでもわたしは、絶対にそれを悟られないようにした。
怖くない、怖くない、冷静に、冷静に。

「誰にも見つからないように、お前が地下室まで誘導しろ。少しでも変な動きを見せたら容赦なく俺はこの女を殺す」
「…………」

景吾は男を睨みつけて、部屋を出た。
幸いと言っていいのか、賑わうパーティの中で、二階には誰もいなかった。
ほぼ使われないエレベーターに向かって、景吾は静かに足を運ぶ。
その男は景吾の合図を見て、わたしを乱暴に押しては広い屋敷内を進んで行った。

地下室前までの到着は呆気無いほどに短かった。
男に指示されるまま、景吾がわたしの手と足を縄で縛り、景吾は男に縛られた。
そのまま誰もいない地下室の中へ、わたし達は放り込まれた。





to be continue...

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