under K roof_05







day 5.






地下室は少しだけ冷えていた。

この家の地下には、いろんな部屋があることをわたしは知っていた。
それでも、足を踏み入れたことがあるのは小さな映画館なみのホームシアターと、近所のスタジオより全然広い音楽用のスタジオと、ビリヤード台やらダーツ台やらが置かれている大人の雰囲気満載のラウンジと、まるで図書館レベルのような書庫と、かくれんぼ中に迷い込んだワインセラーくらいだ。

だから、あんな泣く子も黙るような金庫が更に地下に存在しているなんて、わたしは全く知らなかった。

金庫に到達する手前にある部屋には、全て英語でタイトルが書かれているものすごい数のファイルと、ここで作られたのだろうオブジェのようなものや、油絵の道具一式とキャンバス、そして何故かここにもワインセラーがあった。
わたしはその部屋にあるファイルが並べられている木製のラックに強く縛りつけられた状態だった。
直立で縛られたが、今は疲れて隙間に中途半端に腰掛けるような形になっている。
自動的に手首が引っ張られるので、かなり痛かった。それでも、その痛さが麻痺するほど疲れていた。
景吾はわたしの水平に位置する所で同じように縛られ、距離は1メートルほどある。

それにしてもこの秘密の地下室は、おじさんの趣味が垣間見える。
とにかく、ありとあらゆるミスマッチさはなんとも表現しがたい。金庫見ながら道楽がしたかったんだろうか……。

「伊織、寒くないか?」
「うん、大丈夫……」

景吾がそっと、話しかけてきた。
犯人が更に別室にある簡易オフィスのような部屋で居眠りを始めたからだろう。全く、のん気なものだ。

「伊織」
「うん?」

呆れた顔して犯人を見た後、すぐにわたしに視線を戻すと、景吾は眉根を強くした。

「安心しろ。俺が絶対に、お前を守る」

景吾の声は、これまで聞いたどんな声よりも温かかった。
この先どうなってしまうのかわからない恐怖が全身を支配する中で、それはとても心強かった。

「うん。景吾のことは、わたしが守るね」
「ばーか。そんな顔しながら、強がんじゃねえよ」

怖がってないように見せようと努力していても、景吾には無駄みたいだった。
僅かに微笑む景吾が、「俺にはわかる」と言ってくれているようだ。
……わたしにもわかる。景吾が今、どんなに本気でわたしを守ろうとしてくれているのか。

「大丈夫だ。殺されはしない」
「うん」
「気休めにしかなんねえだろうが、絶対にないと俺は踏んでいる」
「ううん、心強いよ。景吾の言葉なら、信じれる」

気休めだっていいんだ。
景吾が言うなら、それは絶対なのだから。
ただそこに景吾がいてくれる。それだけで、幾分かわたしは正気を保っていられる。

「奴はもう何時間も前にうちの親に連絡しているはずだ。警察はすでに動き出している」
「そうだよね」
「きっともうすぐ乗り込んでくる。それまでの辛抱だ」

この地下室に放り込まれてから、どのくらい時間が経っただろう。
おじさんの趣向だと思う、この部屋には時計がなかった。おかげですっかり、時間の感覚を無くしてしまった。

連れ込まれてすぐに、犯人はあの簡易オフィスから電話を使っていた。
声はあまり聞こえなかったけれど、当然、あの金庫を開ける手段を聞いているに違いなかった。

「ねえ景吾」
「なんだ?」
「狙いは当然、あれだよね」

わたしは顎で奥にある金庫を示した。

「当然だ」
「中身は現金なのかな?」
「さあな」
「え」
「俺も知らない。昔から近づかないようにと厳しく言われてきた。中身は会社を継ぐことが決定した際……副社長レベルになって初めて教えてもらえるようになっている。まあただ、あれだけ厳重な金庫だ。現金にせよなんにせよ、とんでもねえものが入ってるのは確かだ」

景吾も知らないとなると、犯人も知っているか怪しい……けれど、景吾の言う通り、とんでもないものが入っているに違いない、それは見ればわかった。
本当に泣く子も黙りそうな勢いなのだ。まるで船舵のような鉄の奥は、見せてやると言われても断りたくなる気分にさせる。

「ねえ景吾、犯人はどうやって脱出するつもりかな?」
「ああ……恐らく、仲間が外にいるはずだ」
「仲間……」
「どう考えても単独犯じゃねえよ、これは」
「……」

単独犯じゃないにしても、あの厳重すぎる金庫が開いたところでどうするつもりだ。
わたしと景吾を人質に地上に出れるほど、警察は甘くないと思うけれど。

「外に、出れると思う?」
「思わない。だが犯人がこの屋敷の構造を詳細に知っているのなら話は別だ」
「え」
「まあ金庫の存在を知っているのなら、当然知っているだろう」
「どういうこと?」

景吾はもう一度、ガラス越しに眠る犯人を見た。
少し声のトーンを落として、わたしに囁きかけるように告げた。

「……この地下室、実は地下駐車場へ移動できる」
「地下駐車場? そんなのがあるの?」
「この屋敷内じゃねえがな。あるだろ、近くにタワー型マンションが。あの地下駐車場へ繋がってんだ」
「な、なにその話……」

タワー型マンション……一番近くて、とんでもなくデカい、あいつのことだろうか。
そういえば……この家の何台あるかわかったもんじゃない車は、この敷地内で見たことがない。

「そのことを知ってなきゃ、こんな大胆な真似は出来ないはずだ。警察が踏み込めば俺らを殺すと脅し、親父からあの金庫のパスワードと鍵を入手する。中身を奪ったあとは俺らをダシにして地下駐車場へ脱出すれば、出口に警察が待ってようが身動きはこの敷地内に出るより何倍も取りやすい。誰でも出入りできる場所だからな」
「なるほど……。それから逃走?」
「ああ。だいたいの予測はつくが……まあそこまで実行できるとは思えない。最終的には恐らく、あのタワー型マンションの屋上に行くつもりだろう」
「屋上へ?」
「ああ……あのマンションにはヘリポートがある」
「そんなとこまで、移動できるの?」
「できる。そのための俺らだ。人質を殺すと言われれば警察は手出しできない」

何度も登場する、「殺す」という言葉に、わたしは思わず生唾を飲み込んだ。

「悪い、脅かすようなこと言っちまった」
「ううん、大丈夫……パスワードと鍵、か」
「だがそのどちらも東京にはない」
「え」
「あの金庫を開けるパスワードも鍵も、更にどこかの金庫にある。場所は関東じゃない。ひょっとしたら海外の可能性だってある。ま、本当かどうか知らねえが、俺の親父はそう言ってた。もしそれが嘘だったとしても、俺の親父ならきっとそう言って時間稼ぎをしているはずだ」

おじさんが言っていることは恐らく本当だと思う。
一方でわたしは、その時間稼ぎという言葉に多少なりとも前向きになれた。
今、もしも時間を稼いでるとしたら、わたし達を救出してくれる人たちが動き出しているということだ。
事実はどうであれ、その希望は信じたかった。

「どちらにせよ、警察は必ず来る。それに……」
「それに……?」
「あいつにとってお前という存在は想定外だった。恐らくそれで計画が多少は狂ってるはずだ」

はっとした。
そうか、わたしは犯人たちの計画を、唯一狂わせた邪魔な人間に違いなかった。

「……下手に動けなくなったんだ、わたしのせいで」
「ああ。いくら女とは言え、一人が二人になるのは厄介なはずだ」
「じゃあ、わたし、少しは役に立ってる?」

明るく景吾に問いかけると、景吾はむっとした顔をしてこちらを見た。

「……呆れたこと言うんじゃねえよ」
「景吾……」
「お前をこんな目に遭わせておいて、役に立ってるなんて俺が思うかよ」

自分のせいで景吾が自由に動けなくなったとばかり思っていたから、その逆転の発想に声が高ぶった。
不謹慎、という言葉が脳裏に浮かぶ。
景吾の怒ったような表情に、自分に対しても不謹慎な発言は使ってはいけないのだなと思った。

「ごめん……」
「……」

咎められたことに項垂れたわたしに、真面目な景吾はまた気を使ったのかもしれない。
だが、と前置きして、そっとわたしに首をかしげた。

「お前が居てくれて、俺も心強い。それは確かだ」

そう言って景吾は、ほんの少しだけ、わたしに笑って見せた。






居眠りしていた犯人は少し前に目を覚ましたようだった。
思いついたように外部に電話をしては、時々揉めているような苛立ちの声をあげていた。
すっかり電話に気を取られている犯人を横目に、わたしはもう一度、施策をこらした。
この縄さえ解ければ、なんとかなる。なにか解く手段はないのだろうか。

「伊織?」
「……ん」
「どうした」

体力を消耗しないようにと動かずにいたわたしが、しっかりと起立しきょろきょろとし始めたので、景吾が眉間に皺を寄せる。
悩みながら体を動かしたわたしの目に入ったのは、自分が今まさに縛り付けられている木製ラックだった。
いつだったか、通販でラックを買って母と二人でああでもないこうでもないと言いながら組み立てたことを思い出した。
……頭の中に、突然ひらめいた、無茶な発想。
身をよじり始めたわたしにどんどんしかめっ面になっていく景吾が見える。わたしは気がつかない振りをした。

「伊織、何してる」
「思いついたの」
「やめろ、下手に動くな」
「大丈夫」
「何してるっ」
「景吾は犯人を見張ってて。今あの位置からなら、わたしの動きは見えにくいはずだし」
「危険な真似はよせっ」
「ねえ景吾」
「なんだよっ」

咎める景吾を無視して、わたしは景吾を見つめた。
焦ったような、困ったような顔で景吾もわたしを見返す。
聞いておかなきゃ。これだけは。

「今日、景吾がわたしにつけてくれたアクセサリー、わたしにくれる予定だった?」
「……急になにを」
「お願い、知りたいの」

突然の質問に戸惑いながら、景吾は相槌を打つように言った。
あのメッセージカードを見ておきながら、わたしの質問も意地悪だなと思う。
でも景吾の口から聞きたかった。

「ああ……そうだ」
「ありがとう。すっごく嬉しい」

満面の笑みを見せたつもりだったけれど、景吾は笑わなかった。
ただただ不安な顔で、わたしを見る。
その気持ちをそのまま裏切るみたいで、わたしは少し、苦しくなった。

「だから、ごめんね景吾」

わたしは耳たぶを肩に寄せて、慎重にそれをこすった。
ゆっくりと、イヤリングが背中に滑り落ちるように。

「お前なにを」
「景吾は見張ってて」

犯人を見ながら、わたしを見ながら、景吾は忙しく視線を動かした。
わたしはまだまだ慎重に、耳たぶを肩でこすった。やがて控えめな音と共に、イヤリングが背中に滑り落ちる。
なんとか手の中でキャッチできたその金具部分を、わたしは思い切り指の中で開いた。
ミシ、という鈍い音が、手の中で多少の痛みを伴って確認できる。

わたしの手を縛ったのが景吾だったおかげで、恐らく景吾が縛られているそれよりわたしの手首のスナップは利く。
わたしは指先の中でなんとかイヤリングの金具の位置を調整して、木製ラックに打ち付けられている釘のヘッド部分に、耳たぶにあたる円状の金具部分をはめ込もうと試みた。

「伊織やめろっ、無理だ」
「でもやってみなきゃわからないじゃない」
「気付かれたらっ」

景吾は犯人がこちらを見ないか、懸命に目を凝らしているようだった。
気付かれたら何をされるかわからない。
それでもわたしのストレスはもう限界値を超えていた。
来るかどうかもわからない警察を待っているだけの時間は、精神的にとても辛い。
景吾がわたしを守ると言ってくれたように、わたしだって景吾を守るために最大限のことをしたかった。
望みは薄いかもしれない。でもスクリュー釘が手に入れば、この縄を解ける可能性は開ける。

「つうっ」
「伊織、もうよせ」
「いける。今、少し回った」
「よせ伊織っ」
「やめれない、こんなとこで」

景吾はわたしの手からゆっくりと滴る血を見て、やめてくれ、と掠れるように呟いた。
わたしは痛みを忘れていた。無我夢中で金具を回した。
景吾は諦めたように、そのまま何も言わなくなった。
やがて少しだけ緩くなったスクリュー釘が指先に触れるようになった時、イヤリングを手から離した。
歓喜で涙が出そうだった。
ブルーのドレスに紫色の小さな染みが見えても、何も気にならなかった。








「た、い、く、つ、だ」

電話を終え、自身のナップザックから出したパンを貪り、拳銃をまるでおもちゃのようにカチャカチャと弄ぶ犯人はさっきからそう繰り返している。

「どうやらバカは黙ってられねえようだな」
「退屈ってイライラするじゃん? お前も退屈が嫌いだろぼっちゃん。お前の親父はなんだかトロトロしてるしよー。警察も動きが遅せえの。早くしろってんだよ」

数時間くらい喋っていただろうか。犯人は世の中への不満を言い終えて、幾分かすっきりしたようだ。
男の不満はその全てが人のせいでうんざりした。
親が教えてくれなかった、教師が守ってくれなかった、社会は自分をバカにする、女がいれば人生変わった、並び立てる御託は本当にバカげていて吐きそうだった。
それでも景吾もわたしも黙りこくっているのが気に入らなかったのだろう、銃口を景吾の頭に当て、わたしの頭に当てを繰り返し、わたし達の反応を楽しんだ。

景吾もわたしも本当は撃たれないことを知っていたけれど、わたし達はそれなりに犯人を楽しませる演技をした。そうした方が有効であることを、お互いが暗黙の了解で悟っていた。

するとやがて犯人が、突然、私の身体を舐めるように見てからにやりと笑った。

「お嬢さん、男とヤッたことある?」

その質問に、今度は演技じゃなくわたしは凍りついた。
同じタイミングで景吾の目が見開かれ、犯人をゆっくりと睨みつける。

「おい貴様……」
「お前にゃ聞いてねえよぼっちゃん邪魔すんなよ。俺はお嬢さんと話したいんだよ」
「来ないでよっ」
「あ〜、その嫌がる顔いいねえ」

獣のような目つきで、男がわたしに近付いてきた。
わたしの唇が自分勝手に、寒くもないのに震えだす。
男は銃口をわたしに向けると、足元に垂れるドレスをその銃口で太ももへと掬い上げようとした。

「いやあっ!!」
「やめろ!」
「あーうるせえ奴らだな」
「てめえ忘れたのか! 伊織に何かしてみろ、俺は舌を噛み切って死んでやる! 脅しだと思うなら……!」
「わかったわかったようるせえな……」

ち、つまんねぇ、と呟きながら、男はわたしから少し離れた。
わたしは必死に呼吸を整えた。指先が震えて、音を立ててしまいそうだった。
せっかくここまできたのに、台無しになど出来ない。
わたしは歯を食いしばって男を睨んだ。
男はわたしに途端に興味を無くしたように一旦は景吾を見、その先にあるあの金庫を見た。
そして、深いため息をつきながら言った。

「じゃあぼっちゃん、お前の手、解いてやるからお前が犯れよ」
「……なんだと?」
「俺もいくらなんでも、お前に死なれちゃ困るわけだ。さっきの凄みだと、ぼっちゃんマジだろ? いやあ、青春時代って本気でそういうことしかねないからなあ。女なんかゴマンと居るのによ」
「何言い出してんだてめえは」
「どうせいつもヤりまくってんだろ? まさかまだとか言わないだろ?」

実に楽しそうに、いやらしい笑い声で男は言った。
わたしと景吾が、そういう関係じゃないと気づいている笑い方だと、直感的に思う。
この男はわたしと景吾の無垢な関係を想像し、それを汚すことに快感を覚えようとしているのだ。

「退屈だっつってんじゃん。ぼっちゃんが犯らないなら、お前が舌を噛み切らないようにした上で俺が犯るまでだ。ただ俺、こんなションベン臭え女に興味ないんだわ。ヤれなくねえけど」

堪え切れないような下品な笑い声が地下室中に響く。
この汚い男がロリコンじゃなくて良かったと、わたしはどこか冷静に思った。
こんな男に汚されるくらいなら、景吾より先に、わたしが舌を噛み切って死んでやる。

「いい加減にしろよてめえ……」
「まあつーか、ぼっちゃんが舌噛んで死んだところで、俺がこの女を犯ることには変わりねえぜ? 何にも手に入らないくらいなら、女の一人くらい犯って捕まりてえし」

その時、景吾がわたしの目をじっと見つめてきた。
切ない視線の奥底に、静かに揺れる炎のようなものをわたしは見た気がした。
わたしは小さく頷く。景吾の意思が、通じた気がしたからだ。
悟られないように、声を絞り出した。

「景吾。わたし景吾なら、いいよ」
「よせ伊織」
「こんな男に犯されるくらいなら景吾の方がいいっ!」
「…………」

景吾は黙りこんで、項垂れた……振りをした。
通じたはずだ、わたしの視線から、わたしの思いが。
バカな男はわたしの言葉をふざけたように真似しながら、いよいよ景吾に近付いて行った。

「こんな男に犯されるくらいなら、景吾の方がいいっ! だってよどうするぼっちゃん? 俺抜きたくてたまんなくなってきたわ」
「解け」
「お? お前もその気になってきたかよ」
「いいから解けよ! クソ野郎!」
「わかったわかった、おい、変な動きを一瞬でも見せたら」
「わかってる」
「お前っていうかお嬢さんを撃つからな?」

景吾の耳元で、やけに狂ったような声で男は言った。
景吾の足が解かれ、次に手の縄が解かれた。
その手首は痛々しいほどに擦れて、赤黒い痕がついている。

「はい、じゃ俺ここで見てるから。女の手は解くなよ」

わたしの位置する斜め前に、男は椅子を置いて座った。
右手の中にある拳銃はしっかりとわたしの頭に向けつつ、左手は早速ベルトに伸びていた。

景吾がそっと、わたしの前に立つ。
ゆっくりとわたしの足首の縄を解いて、ラックの柱ごとわたしを抱きしめた。

「伊織」
「うん」
「……許してくれ」
「景っ……」

景吾の唇が、躊躇いなくわたしの唇を塞いだ。
唇から漏れる音に促されるように、舌が割って入ってくる。
わたしの初めてのキスが、バカな男のくだらない欲求で無理矢理奪われた現実が悔しかった。
大好きな人とのキスなのに、その激しさと長さに息苦しさを感じる。なのに嬉しくて。
こんな時に泣きそうになってしまう想いの迫間で、わたしはなんとか男の意識を性に集中させようとした。

「ん、景吾……」
「大丈夫だ」

唇が離れて首筋に流れる隙に確かめ合った言葉。
景吾はわたしの首筋に顔を埋めながら、わたしの手を強く握った。
やがて耳たぶを愛撫しながら、わたしの腰を強く抱きしめる。
あ、というわたしの吐息と共に、遂には小さく舌打ちして言った。

「こんなお前を、いつまでもクソ野郎に見せてたまるかよ」

その瞬間、景吾は素早く振り返って手の中にあるスクリュー釘で犯人の右手を刺した。

「うわああああああああああああああああああああっ!」

聞いたこともないような人間の叫び声がわたしの耳を劈く。
見事にヒットした釘が犯人の手を突き抜けているその光景に、縄を解く手が震えてうまくいきそうになかった。
景吾は瞬時に犯人の手から落ちた拳銃を手に取り、そのままわたしの手を強く引っ張った。
その勢いで、すでに切れかかっていた真っ赤な縄はするりと解けた。
わたしの手首にも赤黒い痣ができていたけれど、もう気にならなかった。

気が付くと、景吾はわたしの前に背中を向けて立ちはだかっていた。
すぐに走りだして逃げると思っていたわたしは、戸惑いながら足を止めた。
その両手には、拳銃が握られている。
銃口は、真っ直ぐ男の頭に向けられていた。

「景吾?」
「伊織、先に逃げろ」
「何、言ってるの?」

男は、まだ叫んでいた。
右手を貫通している釘の痛みと、しっかりと当てられている銃口への恐怖が混ざったような、愚かな叫び声。

「勘弁、勘弁しろよぼっちゃん、冗談だろ、お前、お前さあ! ひひ、ひひ人なんか殺せないだろ?」
「……殺せないと思うのか?」

その声が低く響いて、わたしは一瞬、ぞっとした。
トリガーの準備完了の音が、じっとりとした空気のようにわたしの耳に届く。

「景吾? だめだよ……このまま、逃げようよっ」
「……てめえが伊織にしたことは絶対に許さねえ」
「景吾、ねえっ」
「ほほほ本気で犯そうなんて思ってねえし、俺は、金さえ手に入れば良かったんだよ! なあ許してくれ! 出頭でもなんでもする、なあ頼むよ!! なあこれを降ろしてくれっ!!」

命の懇願にぴくりとも表情を変えず、景吾はそのまま男に一歩近付いた。
ひっ、と男が仰け反ろうとした瞬間、その顎を抑えて、銃口を男の口の中に突っ込んだ。

「ああああああああああああああああっ!!」
「景吾やめてっ!!」

景吾は大きく目を見開いたまま、瞬きひとつしなかった。

「……許さねえって言っただろ」

景吾の声が遠くなっていた。
わたしの耳を、今度は銃声が劈いた。





to be continue...

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