under K roof_06







day 6.








耳が割れる、と思ったまま記憶は途切れていた。

一番最初に感じたのは香りだった。
消毒液をまき散らしたような臭いと共に、僅かに漂ってきたほっとする香り。
近くに大好きな人がいると本能的に感じた直後、重くのしかかっていたまぶたを開いた。
見慣れない天井と、余りにも眩しい日差しがその動きを余計に遅らせる。
さて、ここはどこだろう。

「……やっと起きやがったか」

何かを堪えるように、だけど穏やかな声が耳に届いた。
あっ、と思うのと同時に、そこにいる景吾を視線だけで確かめて、わたしは静かに呼吸をした。
慣れない場所にいる息苦しさと、徐々によみがえる記憶への安堵を平行に整えるために。

「景吾だ……」
「景吾だ、じゃねえよ。いつまで寝てやがる」

どんな時でも、らしい景吾に思わず笑みがこぼれた。
そんな彼に安心もするし、多少は呆れる部分もある。

「こんな時にまで、そんなこと言うんだ」
「アーン? こんな時だから言うんだよ」

その口調とは裏腹に、景吾はそっとわたしの手に触れた。
景吾の掌を見て気付く。
わたしの親指と人差し指には、手当てがされていた。

「あ……」
「悪い、痛かったか?」
「ううん。そっか、怪我してたんだって思って」
「……無茶するからだ」
「だね。ごめん」

笑いながら言うと、景吾はふん、と鼻を鳴らして椅子に仰け反った。
だんだんとはっきりしてきた意識に体が慣れて、指先の痛みも感じてようやく感情が追いついてくる。
少しだけ、目頭が熱くなっている自分がいた。

「伊織……」
「はは、嬉し泣き」

そのとき、静かに病室が開かれた。
見ると、そこには千夏が目を真ん丸にして立っていた。離れている隙にわたしが起きていて驚いたのだろう、わたしの名前を掠れた声で呼びながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
なんて声をかけようか戸惑っていると、千夏は片手にぶらさげているジュースやらアイスやらを景吾に押し付けるように渡した。

「本当に、本当に、めちゃくちゃ心配した……!」

開口一番。目に涙をいっぱい溜めて、その小さな顔を真っ赤にして。

「そうだよね。ごめん」
「別に伊織が悪いわけじゃないけど、心配した……!」
「うん。でもほら、もう、大丈夫だから」

しっかり笑顔を見せても千夏はぴくりとも笑わなかった。そんな彼女を見ているうちに、わたしはなんだか泣けてきた。
わたしに抱きつきもしなければ、椅子にも座らない……ただただ、そこに立ち竦んで、わたしと目を合わせては伏せ、合わせては伏せを繰り返している健気な千夏に、思い切り感情移入してしまったのかもしれない。

「千夏にまた会えて嬉しい」
「ばかたれー! なんてこと言うのあんたっ」
「あははっ。不謹慎かな」
「不謹慎だ」

景吾がむっとして割り込んできて、わたしは首を縮めた。
ごめん、と小さな声で謝っていたら、遅れてもう一人見慣れた顔が入ってきた。
どういうわけかもう一度、目頭が熱くなる。

「おお佐久間、起きたんか!」
「忍足も、いてくれたんだ」
「当たり前や……めっちゃ心配したんやで? え、ちょ、大丈夫?」
「大丈夫、ごめん、さっきからなんか、ほっとして涙止まんなくて」
「……さよか。うん、良かったよ、ほんまに」
「ほんとだよ……跡部も、伊織も、良かった」
「ああ……」
「うん、ほんとにね……良かった」

いつもの顔ぶれを見て、あの時間が過去だと改めて感じて、ようやく確信を持って思う。

――助かったんだ。







しばらくしてから、警察の人たちから事情聴取を受けた。
犯人は跡部家に前々から目をつけていたらしい。
跡部邸の情報を裏ルートから入手し(いわゆる、情報屋というやつ)、計画を立てて実行したそうだが、景吾の察し通り、わたしの存在が想定外だったということだ。
パーティーの内容は当日知ったものの、まさか一緒に誘拐することになるとは思ってなかったのだろう。

「犯人、やっぱり何人かいたんだね」
「ああ。しかもあの金庫の中身は、結局知らねえらしい」
「え」
「それでもうちの金庫と聞けば、誰だって開けたくなるだろう」

景吾が腕組をしながら溜息をつくように言い放った。
わたし達はげんなりし、景吾の後を追うようにそれぞれが溜息をつく。
開けたくはなっても罪を犯してまで奪ってしまおうとは、普通は思わない。
……当然か。普通じゃないから出来るんだ、あんなこと。

警察によれば、犯人は三人。うち、二人が借金苦で、一人は「面白そうだから」と参加したらしい。
考えられない思考回路だ。

「中身が何か知らなくて、それが自分たちに必要のないものでも、跡部さえ誘拐しときゃなんとかなると思ったのかな」
「まあ、そうやろな」
「考え浅くない? ホントにむかつく!」

千夏は目の前に犯人がいるかのように怒っていた。
考えは浅いと思うけど、犯人はそれなりに計画していただろう。
しかも、中身が必要ないものなはずはない。跡部家にあるあんなにすごい金庫に、しょうもない物が隠されてるはずないと考えるのが普通だろう。そういうとこだけは、普通なんだ。

「あいつらの計画めっちゃシンプルやったみたいやな。跡部誘拐して、身代金変わりに金庫を開けさせ中身を強奪」
「そのまま地下駐車場へ移動し、仲間の車に乗って逃げるつもりだったようだ」
「景吾が必要で、跡部家のセキュリティが甘くなったパーティーの日を狙ったんだね」
「普段よりはうちに入れる確率はあがる。入ってしまえば俺さえなんとかすればなんとでもなるしな。こういう犯罪は人が多い方がやりやすいのは確かだ」
「物騒な世の中やな」
「考えられない! ホントに極刑でもいいくらいだよ! 伊織を跡部をこんな目に遭わせて!」

話しているうちに、千夏がだんだんとヒートアップしてきた。
予想はしていたことだけど、彼女の感情が揺さぶられているのを間近に感じて、わたしは少しだけ悲しくなった。
わたしのせいで、千夏が憎しみに埋もれるのが耐えられない。

「でも、あれだね。ヘリポートはさすがに考えてなかったみたいだね!」

だから敢えて、思い切り笑いながら言ってやった。
ヘリポートからヘリで逃げるんじゃないかという推理を景吾がしていたことを暴露すると、ようやく千夏も忍足も笑顔を見せてくれた。
景吾だからこそ思いつく手だったんじゃないかと思うと、突っ込みたくなるのは事実だ。
ネタにされた景吾はムスッとしながら、「庶民だから考えも及ばなかったんだろうな」とかなんとかぶつぶつと言っていたけれど、わたしの意図を感じとってくれたのだろう、その役目を引き受けて、話を上手に逸らしてくれた。

一方で千夏は、わたし達のその陽気さに何か感じたのか、そのまま静かに口を噤んだ。









夕方近くに、忍足と千夏は帰った。
わたしはその後、もう一日病院で安静にするようにとしつこく主治医に言われたのも聞かず、我侭を言って退院させてもらった。

「忍足と千夏を引き止めて、一緒に帰れば良かった。ね?」
「ね、じゃねえよ……ったく、我侭言いやがって」

景吾が帰る背中を見るのが嫌だったんだよ、なんて言えない。
どうしても傍に居たかっただなんてことも、言えない……。
あの状況下ですっかり気持ちは通じあってると思ったのに、日常に戻った途端、どうしてこんなに臆病になるんだろうと自分でもうんざりする。

「だって今日で跡部家最後の合宿日だよー? 美味しいご飯食べなきゃ損じゃん」
「女のくせにその食い意地どうにかなんねえのか」
「酷い、差別だ。男も女も食い意地は関係ない!」

それでも笑いながら景吾と跡部邸へ帰宅できる幸せを、わたしは噛み締めていた。
当たり前すぎて心を通り過ぎていたことが、こんなに嬉しいなんて。

「手、大丈夫なのか?」
「うん、ちょっとチクチク傷んでるけど、もう平気」
「あんな無茶、二度とすんじゃねえぞ。ドレス血だらけにしやがって」
「ごめんってば。そのときは必死で、全然気が付かなかったんだよ」
「……ったく」

景吾のお説教を聞きながらやがて跡部家に到着すると、おじさんとおばさんがわたしを待っていた。
事情聴取のため、二人はずっと警察に拘束されていたようだ。疲れきった顔をして、だけど誠心誠意でわたしに頭をさげてきた。
とても耐えれそうになくて、わたしは「お腹すいちゃいました」とおどけてみせた。
やっと笑ってくれたおじさんとおばさんの顔を見て、わたしもようやく安心した。

景吾も同じく、事情聴取が大変だったらしいのだけど、わたしが寝ている間、わたしの分までしっかり話していてくれたらしい。
わたしは警察から告げられる確認事項に頷くだけで良かった。

跡部家についてからは、景吾とわたしはあまり会話を交わさなかった。
不安そうにわたし達を見るお手伝いさん達に気を遣わせたくはなかったし、事件現場となる跡部家で事件のことを振り返るのは躊躇われた。
暗黙の了解で、景吾も同じように考えていたんじゃないかと思う。

……だから夜は、すぐに訪れたのだ。

「もう寝るのか?」
「あれ、景吾まだ起きてたんだ」
「起きてちゃ悪りいかよ」

入浴を終えて部屋に入る直前、背中から声が掛けられた。
長風呂のせいですでに午前を過ぎていたから、もう景吾は寝たものだと思っていた。
寝る前に景吾の顔を確認できたことは素直に嬉しいけれど、もちろん口には出さない。

「誰もそんなこと言ってないじゃんか」
「ふん、やけに長い風呂だったな」
「一日入れなかったもん。それに今日が最後の跡部家のお風呂だし」

怪我をしている指先が何本かあるおかげでいつもより時間が掛かったことも、もちろん口には出さない。
またお説教が始まってしまうもの。

「風呂くらいいつでも貸してやる」
「あははっ。わたしそのうち、忍足よりここに入り浸るかもしんないね」
「ふん。厄介者が一人から二人になったとこで大した変わりはねえよ」

普通のトーンで、いつものように変わらない距離で会話をすればするほど、景吾の目を直視出来なくなっている自分に気付いた。
怖い思いをしたから泣きつきたい反面、気丈でいたい自分もいる。
加えて、どうしても頭にこびりついて離れない、あの時の景吾……。

「伊織?」
「え」
「なにぼうっとしてんだよ」
「ごめんごめん。……眠たく、なっちゃったのかも」

考えていたことをごまかしながら照れ笑いでそう言うと、景吾はふっと笑顔を見せた。

「……枕、涎つけんなよ」
「なんて失礼な! つけまくってやる」
「汚ねえからタオルでも敷いて寝ろ」
「はいはいわかりましたよ。おやすみ!」
「ああ、おやすみ」

憎まれ口を叩かれたところで、結局わたしは景吾のあの瞬間が忘れられずにいた。
犯人の口の中に拳銃を突っ込み、冷静さを失った景吾の顔を。

蘇った記憶を散らかすように頭を振って、ベッドに潜り込む。
この高級住宅街が夜はとても閑静で評判がいいということに、今さら気付いた。

……今夜だけは、その静けさが怖い。
いつも真っ暗にして寝ていた部屋も、僅かな灯りをつけないと横になれそうになかった。
布団にくるまっても、いろんなことを思い出して震えが止まらない。
体が芯から冷えるようだった。傷がじくじくと痛み出す。犯人の顔が浮かんでは消える。
本当に死ぬかもしれないという絶望の時間を思い出しては、すべての感情が渦を巻くように灰色の闇となって頭の中を走り回る。

うっかりと漏れ落ちてしまいそうな声を、無理やり押し殺した。
助かったのに、一人で寝ることに恐怖を覚えている。
そんな自分が悔しくて、情けなくて、わたしは泣いた。
安堵の涙は昼に流していたけれど、恐怖からくる涙は流していなかったことに気づいて、また泣いた。

泣いていた、時だった。

部屋の向こう側から、控えめなノックの音が耳に届いた。
はっとして身を起こすと、更に控えめな声がした。

「伊織」
「……景吾?」

震えそうになる声を抑えて、咄嗟にタオルで目元を拭ってベッドから降りた。
ゆっくりとわたしがドアに近づく間に、一枚壁を隔てて、景吾は言った。

「無理してそんな声、出さなくていい」
「え……」
「入っていいか?」

ひとつ深呼吸をしてから静かにドアを開けると、景吾は確かめるようにわたしを見てから、部屋に入ってきた。
眉間に皺が寄っている。どういうわけか、酷く辛そうな顔だ。

「泣くほど怖いなら、無理して笑ったりすんじゃねえよ」
「景吾……」

涙は拭ったはずだったのに。
それでも、目が潤んでいたのかもしれないし、真っ赤だったのかもしれないけれど。
だけどわたしが泣いていたことを、景吾はわたしの顔を見る前から知っていたような気がする。
知っていたというよりも、景吾はわたしを、わかっているから。

「傍に居てやる」
「え」
「俺が一晩中、傍に居てやる」
「景吾、でも……」

その言葉の意味に戸惑っていると、景吾は目の前のベッドに入った。
右側を空けて、片腕を広げてわたしを見る。
僅かな灯りがその端正な顔立ちをくっきりと映していて、どうしたことだろう、さっきまでの恐怖が吹き飛んでしまっている。
全くわたしという女は……本当に現金な女だ。

「ええと……これはその」
「もたついてんじゃねえよ」
「わあっ」

今度はその行動に戸惑っていると、景吾は更に眉間に皺を寄せて、わたしの手を引き寄せた。
泣いてることはわかっていたくせに、こんな状況でどうしたっておかしな妄想をしてしまうわたしを、この人はわかってないのだろうか。

「わかっ、わかった、わかったから」

わたしはおずおずと、その腕の中に落ち着いた。
景吾がそっと、包み込むようにわたしの体を抱きしめる。
逆に、落ち着かないですし、逆に、眠れそうにないんですけど……。

「景吾、あの……」
「怖いか……? まだ」
「……ううん。もう、大丈夫」

怖くない。心臓が煩いのは怖いからじゃなくて、あなたのせいです。
自分の脈を全身で感じながら冷静を装って大丈夫と告げると、景吾は少し、躊躇いがちに口を開いた。

「……そうじゃねえよ」
「え」
「俺のこと聞いてんだ」
「……景吾の、こと?」

不意をつかれて、息を呑んだ。

「俺のこと、怖かったんだろ?」
「……それ……は」

傷つけることがわかっていながら、怖かったなんて言えるだろうか。
あの時の景吾は、本気だった。わたしだってそれくらいのことわかる。
何より景吾の目が、表情か、見たことのないそれだった。憎しみに侵された人間を目の当たりにしたと、本能的に感じた。

「あの時、警察がきたよね」
「ああ」
「警察が突入してこなかったら、景吾、どうしてた?」

聞かなくてもいいことなのかもしれない。
だけどせっかく景吾が歩み寄ってくれているこのチャンスを、わたしは無視したくなかった。
景吾だって、話したかったんだ。心の奥に生まれた闇を、打ち消したいに決まってる。

「……ビビらせただけだ。撃つなんて真似、出来るわけねえだろ」
「うん、そうだよね」
「……頭に血が上ってたのは確かだ。普通の精神状態じゃなかった」
「うん……」

わたしが静かに頷くだけで、きっと景吾の中では整理がついていっているのだと思う。
あの瞬間、あの状況を一番恐れていたのはわたしじゃない。きっと、景吾だ。

「……撃ってやるつもりだった。最初は」
「景吾……」
「だが寸前で堪えた。……堪えてたはずだ。お前や、仲間や、家族……俺という要素の全ての顔が浮かんだからな」

背中に回されてる景吾の掌が、強く握られたのがわかった。
彼の温もりを感じて、わたしはただ頷いた。

「その瞬間、警察が乗り込んできたってだけだ」
「景吾」
「なんだ」
「それ聞いて、もっと安心した」

わたしは素直に気持ちを伝えた。
怖かったなんて、言う必要はない。
言わなくてもわかってるのだろうし、その不安が今この瞬間消えたことも、景吾ならわかっているだろう。

「なら、寝れそうか?」
「うん」
「俺の腕に涎垂らしやがったら承知しねえからな」
「そちらは保証できかねます」

緊張していた空気が柔らかくなって、わたしも景吾も、力が抜けたように思う。笑い合うと、わたしは急に眠たくなった。
本当の安心を得るには景吾の心が砦だったのかと思うと、この人にどっぷり惚れてしまっているんだなあと実感する。
そんな自分に心の中で苦笑しつつ、わたしがおやすみをもう一度言おうとした寸前だった。

「……それと」
「うん?」

それはどことなく、歯切れの悪い口調だった。

「あんなことして、悪かった」
「え……」
「……おやすみ」

どうやらまだ最後の砦が、隠されているらしい。





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