大切_01
会ったその時から、きっとあなたが全てだった。
だから、景吾があたしの手を握って、「俺と一緒になって欲しい」って言ってくれた時。
本当に夢みたいだったんだ。
こんなに幸せなことないって。
だから、あたしの精一杯で景吾を支えるって決めたの。
大切
1.
「景吾」
「………ん」
「景吾?起きたの?」
「…あぁ」
「…目が開いてませんけど」
「頭は起きてんだよ」
ベッドの上でまだ目を閉じている景吾を覗き込んで、あたしは思わず笑ってしまう。
一緒に暮らし始めて知ったこと。
景吾は意外と朝に弱い。
それはもちろん、あたしには考えられないようなハードスケジュールで仕事をこなしていることもあるし、睡眠時間自体が短いこともある。
だけど、普段隙なんて見せないこの人がこんな姿を見せてくれるのは。
あたしに心を許してくれているからだって分かるから。
それが嬉しいんだ。
「景吾、」
もう一度名前を呼んだその瞬間、ふいに景吾の手があたしの頭の後ろに回されて。
優しく引き寄せられたかと思えば、頬に景吾の唇が触れた。
「け…、」
「起きる」
ふっ、と真っ赤になるあたしを見て笑った景吾に。
今でも見とれてしまうなんてどうかしてる。
結婚して『跡部』の姓になっても、実感なんてなかなか沸かなくて。
あたしはまだ、嘘みたいに景吾にときめいてる。
「昨日ね、ポトフを作ってみたの」
スーツに着替えて、テーブルについた景吾の前に朝食を並べる。
トースト、コーヒー、サラダ、フルーツ、ポトフ。
少しでも、景吾の奥さんとして相応しくなれるように。
どんなことでも手を抜きたくない…というよりは、抜けないというのが本音で。
結婚するまで実家で暮らしていたあたしにとって、一人で家事をするのはかなり不安なことだった。
ましてや、景吾に出す料理なんて緊張して仕方ない。
ドキドキしながら、景吾がポトフをスプーンで口に運ぶ様子を見つめる。
「………」
「…景吾?」
「…あ、あぁ。何だ?」
「お、美味しくなかった?」
ポトフを食べた瞬間、景吾の眉毛がほんの少し動いた気がして。
口に合わなかったのかと、不安になる。
「いや、美味い」
「よ、良かった…」
景吾がすぐに優しい顔で笑ってくれて、あたしはほっと胸を撫で下ろした。
「お弁当も出来てるからね」
「毎日悪いな」
「ううん、全然!」
景吾の為なら、何でもしてあげたい。
こんなあたしを景吾は選んで、お嫁さんにしてくれたんだもん。
頑張らなくちゃ罰が当たる。
それに跡部家にも顔向け出来ない。
そんなことを考えながら、あたしも席についた。
◇
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
「今日は会議があるから、帰りは遅くなるからな」
「はい」
あたしが返事をすると、景吾が小さく笑って。
鞄を持っていない方の腕で、あたしを抱き寄せた。
お互い、何を言う訳でもなく。
ただ、お互いの体温を、匂いを抱き締める。
「…じゃあな」
赤くなった顔を隠しながら、あたしは景吾の後ろ姿に手を振った。本当に、あたしにはもったいないぐらい完璧な人だ。
あたしを甘やかすタイミングだってちゃんと分かってる。
「さてと、」
午前中のうちに洗濯と掃除を済ませてしまおう。
少し前に、面倒くさがって家事を午後に回したら、突然景吾のお母さんが遊びに来たことがあって、すごく慌てた記憶がある。
それ以来、なるべく早め早めに行動することにしていたり。
「そう言えば…」
洗濯機に洗濯物を入れながら、昨日景吾が持っていくハンカチにアイロンをかけ忘れていたことを思い出した。
景吾は何も言わなかったけれど、次から気を付けなくちゃ。
反省しながら、そのハンカチを手に取る。
「あれ…?」
あたしの手の中にあるハンカチは、きっちりとアイロンがかけられていた。
アイロンをかけたハンカチの、ストックがあったのかな。
ここ最近は家のことを完璧にこなすことばかり考えているから、記憶も曖昧になっているんだろうか。
何はともあれ、アイロンがかかっていたのならそれで良い。
あたしは自分のミスがなかったことにほっとして、洗濯機を回した。
夕方に差し掛かる頃には、一通り家のことは終わっていた。
景吾は今日遅くなるって言っていたから、軽めに夕食も準備して冷蔵庫へしまってある。
ちょっとのんびりしようかな、と思ったその時。
携帯電話が鳴った。
携帯のディスプレイを確認すると、『忍足侑士』の文字。
「もしもし」
『あ、伊織ちゃん?』
「うん、久しぶりだね」
『せやな、結婚式以来やな』
「その節はお世話になりました」
『あぁー、そんな堅っ苦しいのやめやめ!跡部の影響受けすぎやで!』
明るい忍足君の声に、思わず笑ってしまう。
忍足君はあたし達の結婚式の二次会の幹事をやってくれた人で。
結婚式は跡部家の体裁や意向もあって、かなり豪華なものだったのだけど。
二次会は、今までお世話になってきた友人たちとこじんまりとやりたい、って相談したら。
「任しとき!」と、何から何までやってくれたのが忍足君だった。
「本当にありがとう。すごく楽しかった。景吾も喜んでたよ」
『ほんまに?アイツちっとも顔に出さへんからなぁ』
「今日はどうしたの?」
『せやったせやった!二次会ん時の写真とDVDが出来たんやわ』
「えー!見たい!」
『見たいやろー、めっちゃよう撮れとるで!』
「わー、ありがとう忍足君!」
『お礼は見てから言うてや。ほんまは跡部に連絡して渡そかと思うとったんやけど、アイツ仕事やろ?』
「うん、今日は遅くなるって言ってたよ」
『せやから、跡部のお許しが出るんやったら伊織ちゃんに渡そかなーと』
「?平気だよ?あたし取りに行くよ?」
『あ、跡部に怒られん?』
「どうして?大丈夫だよ、まだ夕方だし」
『いや、そうやなくて…』
「?」
『……ま、まぁ、ちょっとの時間やしな!そんなら駅前の、新しく出来たカフェ分かるか?』
「うん分かる!そこ行きたかったんだ!」
『そこに一時間後でどうやろ?』
「分かった!」
『そんなら、また後で』
電話を切って、急いで支度を始める。
景吾が帰ってきたら写真を一緒に見よう、そんなことで頭がいっぱいで、ワクワクする気持ちを抑えられなくて。
あたしは忍足君が気を遣ってくれていたことに、この時は全く気付くことが出来なかった。
◇
「すっごく綺麗に撮れてるね!誰が撮ってくれたの?」
「これは滝やな。アイツ意外にこういう才能あんねんなー」
「へぇー!」
一時間後、約束通りあたしは忍足君と新しく出来たばかりのカフェに居た。
アルバム五冊分もある写真を見ながら、忍足君と思い出話に花を咲かせる。
「何だか結婚式挙げたのが随分前のことみたい」
「まだ一ヶ月半くらいやろ?」
「そうなんだけどね」
冷えたアイスティーを、何度かストローでくるくるとかき混ぜる。
そんなあたしを見ながら、忍足君がニヤニヤと笑っているのに気がついて。
あたしは首を傾げた。
「なぁに?」
「跡部と一緒に暮らすの、思ったより大変やったやろ?」
「大変…うーん、まぁ、ある意味?」
「せやろなぁ。アイツ、世間一般とはかけ離れた考え方持っとるやんか。恐ろしく金持ちやしな」
「それは言えてるかも」
クスクスと笑うあたしに、忍足君が「せやろせやろ!」と身を乗り出す。
確かに景吾とあたしは育ってきた環境が違いすぎて、時々感覚のズレを感じることもあるけれど。
景吾があたしに合わせようと、努力してくれてるのも分かるから。
あたしも、景吾のこともっと分かりたいって思えるんだ。
「一緒に暮らし始めたばっかりの頃ね、朝ごはんに卵焼き作ったらすごい不思議そうな顔してた」
「跡部、卵焼き知らんかったん!?」
「みたいだね」
「何食べて今まで生きて来たんやろか…しかもアイツ朝飯食べへんやろ?」
「……え?」
「俺、長いこと跡部と一緒におるけどな、朝飯食べとるとこ見たことないで。なんや食べると調子悪なるとか言うてな。合宿とか行っても、コーヒーだけ飲みよんねん。そんであんだけテニス強いねん、卑怯やんなぁ」
「そ、そうなんだ…」
「多分、レギュラーの奴らもそうなんちゃうかなぁ。あれ…伊織ちゃん?」
景吾が朝御飯食べないなんて、知らなかった。
そんなこと、景吾一言も言わなかったから。
もしかして、景吾無理してたのかな。
そう言われると、思いあたる節があったりして。
今日だって。
忍足君がまだ何か話していたけれど、あたしの耳にはそれ以上入ってこなかった――――――。
「跡部専務も一緒にどうですか?」
12時も過ぎた頃、営業部に顔を出したらそう声をかけられた。
まだ腹も減ってきてねえってのに昼がきたかと思い知らされる。
入社したての新人が満面の笑みで俺にそう言ったのは、たったいま何気なく聞こえてきた、新しく出来たレストランのことだろうと想像がついた。
「なんだ、奢らせようって魂胆か?」
「ち、違いますよ専務〜!」
完全に否定しきれないような顔をしながらそう焦る新人に思わずふっと笑みがこぼれた。
こんな青臭え時期が俺にもあったら、それはそれで楽しかったのかもしれない。
生憎、そんな青臭さを通り越して今に至っているわけだがな。
「せっかく誘ってもらったのに悪いが、俺はいい」
「あ、お約束ですか?」
「いや、妻が弁当を持たせてくれてるんでな」
「やだっ、専務素敵っ〜!」
目を逸らすと、ワイドショーさながらの好奇心で女子社員が声をあげた。
恥ずかしげもなく言うことで恥ずかしさを誤魔化しているつもりだが、そう言われると結局調子が狂っちまう。
まだ言い慣れねえ「妻」っつー単語は、いつになったら自然と俺の口から出てってくれんだ。
「俺のカミさんも見習って欲しいよなあ」
「それってー、同じこと奥さんも思ってるかもしれないですよ?」
「え〜!俺こんなに昼間頑張ってんのに!?」
「ホントに頑張ってるんですかぁ〜?」
「ひ、ひどいっ」
「にしても羨ましいなあ。いいですねえ、新婚って」
「専務みたいな旦那さんだったら、新婚関係なく、奥様だって張り切っちゃいますよ!」
「専務の奥さんの手料理、うまいんだろなあ〜。張り切っちゃうなら尚更」
「うまいに決まってるじゃないですか課長。あの奥さんですよ!ね、専務!」
「……うん、ああ」
「専務?」
どういう想像をしてか、伊織の手料理が美味いと絶対的に信じている社員達はそれぞれに勝手な納得をして頷いていた。
おかげであの弁当を思い出し、すでに腹が膨れてきた俺はつい曖昧な返事を返しちまう。
まあ、考えられないくらい不味いっつーことはねえけどな……幸い。
「ああ、悪い。この書類、休憩が終わってからでいいから10部コピーしておいてくれ」
「あ、はいっ」
「それで、お前ら何人でランチに行くんだ?ここ全員か?」
「え?あ、グループ内全員なんで……8人、ですかね」
「そうか。これで足りるか?」
「えっ!!」
3万円を出して課長に渡すと、ぎょっと見返された。
「こんなに要りません!というか、受け取れません!」と焦る課長にまた笑みがこぼれる。
俺よりひとつ下ってだけなのに、お前までなんでそんなに青くせえんだ。
「多いってんなら、仕事帰りにグループ会議でもしてその食事代に使ってくれ」
「専務っ、いただけませんって……!」
「いいから。そのかわり、今日、早めにあがらせてもらってもいいか?」
「え、そ、それは、勿論っ……でも専務これはっ」
「お前たちも残業せずにさっさとあがって飲みにでも行け。グループ内の親睦は大切だからな」
ありがとうございます、ご馳走になりますと頭を下げる男性社員と、見習ってほしいと言わんばかりに彼らを見る女子社員の違いにどこか情けない気持ちになりながらも、俺は営業部をあとにすることにした。
こういう気前のいいことをした後は、どことなく照れくせえ気持ちになる。
「ああ、そうだ……」
「どうかされたんですか専務?」
出て行く直前に思い出す。
もちろん仕事内容が本題だが、こっちも忘れるわけにはいかねえ。
「この辺りで、美味しいケーキ屋、知らないか?」
デスクの上にどっしりと置かれた重箱に、軽い溜息がこぼれていく。
どうしたってこれを完食しねえことには、いくら早上がりを社員達に告知していたとはいえ、帰るわけにはいかない。
社員達の想像通りならこの多すぎる食物を配って食べてもらうことも可能だが、こればっかりはそうもいかねえ。
――専務、もしかして奥様にケーキを?
――まあ、ちょっとな。
――も、専務素敵過ぎます!あのですね、ここから五分くらいのとこなんですけど……
ああ、そうだった。
うっかり忘れるとこだったがさっき聞いてきたばかりじゃねえか。
今日はケーキを買って帰るんだ。
だからこの重たすぎる昼食の後に夕食を食べて、その後にデザートでケーキだ。
歩いて帰るか……いや、走って帰るか。
ケーキは届けさせるか。
実家の使用人に電話すれば時間通りに家まで届けてくれるだろう。
「…………さて」
あれこれと考えながらも俺は目の前の重箱を開けた。
ぎっしりと詰め込まれている握り飯が俺の目に飛び込んでくる。
あれほど言ったのに……。
――え、食べきれないってこと?
――いや、あれだ。最近どうも仕事が忙しくて、ゆっくり食事をする暇もなくてな。だから、食べきれないわけじゃねえが、少なめでいい。社員にやるのも、アレだしな。
――アレ……って……?
――あいや……アレだ……勿体ねえだろ。せっかくの、お前の手作りなのに。
――……そ、景吾……すぐそういうこと、さらっと言うんだから。恥ずかしいよ!
甘い言葉で誤魔化して話自体がなあなあになっちまったから、まあ仕方ねえか。
重箱三段を二段に変えてくれたのはありがたいが……この卵8個は使ってんじゃねえかってほどの卵焼きと湿ったような唐揚げ、また入ってやがる……あいつの出番か。
そっと鞄の中に手を伸ばして、俺は塩を取り出した。
卵8個に負けねえくらいの量の砂糖が入っていることを、この1ヶ月で嫌というほど思い知らされているからだ。
少しでもしょっぱさを足さねえと食べきることは困難だ。
さらに、この唐揚げが難題だ。
基本的に油で湿っている。さらに衣が多いせいで湿り具合が半端じゃねえ。
しっかり180℃まで温度を上げているんだろうか。なんなら170℃でもいいんだが。
そしてまず間違いなく下味はつけていない。いや、つけてんのかもしれねえが恐ろしく薄い。
それならからあげ粉でも使ってくれりゃいいものを、そういう手抜きだけは絶対にしねえのが伊織だ。
何故だ。手抜きを俺が今までどうこう言ったことなどないというのに……。
ああ、見ただけで胃がもたれちまいそうだ。このひと口大10個という数にも。
心の中とはいえ、あまりこんな風に言いたくはねえが……本当に、これには参る。
物心ついた頃から今日という日まで、テニスに明け暮れ勉強に明け暮れ、あれだけメンタル面を鍛えてきたこの俺様でさえ、心が折れてしまいそうになるほど……。
細かいことを言えばこの握り飯も、真ん中にある具以外のところには一切塩味を感じない。
手に塩をすり込むかそのまま白米に混ぜるかなんてことは知らねえんだろう。
まあ、米はいい。米は味が無くてもそれで。
「……ああ、もしもし。俺だ。ああ。青山にあるケーキ屋なんだが、あとで詳細をメールするから、俺の指定した時間通りにマンション前まで届けてくれるか?……アーン?ああ、いや、注文はまだだ。……いや、いい。それは俺が店まで行ってする……ああ、うっ……い、いやなんでもねえよ。気にするな。ああ……それと、悪いが、担当医によく効く胃薬を一か月分もらってきてくれ。ケーキと一緒に……ああ、じゃあ頼んだぞ。また連絡する」
今日も親の敵のように甘い……そして唐揚げはすでにもたれそうだ……。
味見してんだろうな……?伊織よ、お前、これで平気なのか。
最初は俺を太らせるつもりなのかと思ったがそうじゃねえ。
伊織が作る甘みを基本とした料理はとにかく甘い。
何度も思うが、本当に親の敵のように甘い。
そして揚げ物は揚げすぎか生揚げか今日のようにべっちょりしている。
焼き物は硬くなるまで焼くか恐ろしく生に近い。何故あんなにまちまちなんだ。
かと思えばスープ類は塩を入れ忘れているのかと思うほど味が無い。
白湯と野菜のだしだけのような味がすることもしばしばだ。
今日のポトフも……コンソメ入れ忘れてんじゃねえか?
……だが、そんなことは口が裂けても言えない。
俺は、伊織の努力を誰よりも知っているからだ。
「……あとみっつ」
この広い専務室に虚しく響く自分の声でふと気が付く。
最近、独り言が増えた。食へ対することへのストレスのせいか、溜息も増えた。
だがその反対に、毎日俺のために頑張っている姿を見せてくれる伊織が愛しいのも事実。
あいつが俺のために料理に腕をかけてくれればくれるほど、その愛しさは増す一方だ。
だから厄介だ。多少の無理はしても、伊織の喜ぶ顔が見たいと思う。
結婚して少しはこの感情が落ち着くもんだと思ったっつーのに……天下の跡部景吾が、この有様だ。
俺は、実は朝はコーヒーしか口にしない。
独身時代から、そういや伊織にそんな姿を見せたことは無かった。
伊織と一緒に朝を過ごすことあれば、あいつはいつも簡単な朝食を作ってくれていたからだ。
本当にただ焼いただけの目玉焼きにトースト。市販で売られているヨーグルトと歪な形に切られたフルーツ。
初めて朝を共にした時、そんな甲斐甲斐しい伊織が愛しくて、朝は要らないとは言えなかった。
だからあいつは、本来、俺が朝食を口にしないことなど微塵も知らない。
知らなくていい……俺が幸せだからだ。あれだけしてくれる伊織を見る度、そう思う。
だが……思い返せば、あの独身時代に作ってくれていた簡単な朝食が懐かしい……。
◇
「景吾さま、こちらで宜しかったですね?」
「はあ……はあ……ああ……時間通りだな。ありがとう」
「いえ……大丈夫ですか?走って帰られたのですか?」
「ああ……はあ……まあな……はあ……た、体力、作りだ……はあ……」
「さようで……しかし、お仕事もお忙しいのですから、あまり無理をされませんように」
「ああ……ああ、わかっている……また、……はあ……何かあれば、……連絡する」
「かしこまりました。どうぞ、奥様にもよろしくお伝えください」
「ああ……」
マンション下でケーキの箱を受け取って、汗を拭き取りエントランスへと入った。
エレベーターのボタンを押すまで、エントランス内で冷房にあたることにした。
さすがにこの汗だくじゃあ、伊織に怪しまれちまう。
ハンカチを取り出して汗を拭く。
ああ、そういやこのハンカチもアイロン掛けられてなかったな、などと思い出し後悔した。キリが無いからだ。
最近は伊織も疲れてきてんのか、時々アイロンを忘れていることがある。
いや、考えてみれば最近というより最初からか。
まあシャツに関してはアイロンを掛けてもらったところで夜中やり直しちまうんだが……あんなところだけは絶対に伊織に見られるわけにはいかねえな。傷付けちまう。
……鶴の恩返しか、俺は。
あれこれと考えながら多少涼んだところで部屋に帰った。
ネクタイを外しながら玄関に目をやり、伊織が出掛けていることにすぐに気付いた。
「買い物か……?」
――え、景吾!?会議で遅いんじゃなかったの?え、なに!なにこれ!――
なんて言葉を期待してたせいか、どことなくがっかりしている自分に苦笑する。
今日は会議で遅くなると言いながら、伊織が油断している時間に早く帰って驚かせるつもりだった。
あいつの驚きと喜びを交ぜた表情が見たかった。見るたびに、たまらなく愛おしくなるからだ。
にしても、いつもこんな時間から買い物に行って、晩飯の用意をあれこれ考えながら支度してんだと思うと、さっきまでの文句も全部どうでも良くなって、早く会いたくなっちまう……結局惚れたが負けか。
今日は一緒にキッチンに立つつもりだが、さて、何買って帰ってくるんだか。
いい機会だ……やんわり、料理を教えてやろう。
「早く帰って来いよ……伊織」
独り言をそのままメールにして送信した。
1分待っても返事は来ない。やっぱり買い物してんだな。
ったく、今日って日に焦らしやがって。
「……4号じゃやっぱり小せえな」
伊織のことを考えながら、さっき受け取ったばかりのケーキ箱を見下ろした。
店頭で注文したときは自分のことばかり考えて、4号サイズにしたことを実物を見て後悔する。
まあ、ふたり分ということを考えればそれで問題ないが、見た目はどうしても物足りなくなっちまう。
これも俺の家庭環境が影響してんのかもしれねえな……ケーキなんか出てこようもんなら、基本8号サイズだった。
冷静に考えてみりゃおぞましいデカさだ。
そうは思いながらも、我慢できずにこっそりとケーキ箱の中身を覗いてみた。
甘ったるいピンク色のプレートにチョコレートの文字が流れて、どこかくすぐったい気持ちになった。
―Thanks for you !―
どうにも恥ずかしくて名前を入れてもらうことは出来なかった。
だがこの気持ちが伊織に伝わるかは多少の不安を漂わせる。
おかげで、メッセージカードを会社で書いてくる始末だ。
……どうかしてるぜ、まったく……ただ、一緒に暮らし始めて一ヶ月ってだけで、この俺様が何を舞い上がっちまってんだか……記念日なんて、バカバカしいと思ってたのにな。
けどな伊織……お前が俺のためにやってくれている全ての努力を、俺は受け止めたいと思うんだ。
どんな形であれ、俺はその気持ちが嬉しい。
そして、本当に感謝してる……心から。
「喜んでくれるよな?伊織」
だがその日、いくら待っても伊織は帰ってこなかった。
午前も明けた深夜1時……忍足から電話が鳴るまでは。
to be continued...
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