大切_02


俺の気持ちは、お前には届かないのか……?
俺はなんだっていいんだよ。

お前が、傍にいれば。

























大切






















2.





何度電話しても繋がらない、メールをしても返事はない。
そういう状況のまま深夜の1時に、いくら元チームメイトとはいえ、あの変態メガネ……基、男から、お前の嫁さんが酒でつぶれてるから迎えに来い、と電話があったら誰だって頭にくるだろう。
しかも関西弁でだ。余計にイライラする。


「あ、跡部!こっちや、こっち……」

「…………」

「あ、あんな、いや、跡部……いろいろな、伊織ちゃんにも理由が……」

「聞いてねえよ」


今日が一緒に暮らし始めて一ヶ月の記念日だからと舞い上がっていたのは俺だけだった。

俺が会議で遅くなると知り、その隙に忍足とふたりきりでバーだと?
この俺様をコケにしてんのか。
「ラッキー!今日は景吾遅いんだ!ちょっと外で飲んでこよ」ってなもんか?
それがいつの間にか酔いつぶれちまったくらいのことなのか?
そうは思いたくないがどうしてもネガティブなことしか思いつかねえ。
このメガネ面を見ると余計にな!!


「い、いや跡部ちょお聞いたって……」

「聞きたくねえんだよ。伊織はどこだ」

「そ……お、奥のカウンターや……」


忍足が指差した方向を見ると、確かに伊織がそこでぐったりとカウンターに突っ伏していた。
マスターらしき人間が俺を見るなり伊織に声をかける。
遠慮がちに肩に手を置き、跡部さま、ご主人がお迎えにいらしてますよ。
ん〜、と唸りつつ頭をあげない伊織に、俺の後ろから駆け寄るように忍足が起こしにかかった。


「伊織ちゃん、跡部が迎えに来てくれたで」

「まったまた、そんな、帰らせようたってそうはいかないんだから!」

「い、いや伊織ちゃん、ホンマ……」

「景吾が迎えに来るわっきゃないってのー!だって今日遅いっつってたもん。遅いってときはとことん遅いんだから。ほら!忍足くん!朝までつきあ――――……ッ!!景吾!?」

「………………」

「せやから、言うたのに……」


バカでも察しがつくような展開だ。
酔っ払いの典型とも言える口振りで俺を見つけ、見つけた途端に目を見開いて固まってやがる。
アーン?忍足に朝までつきあえだと……?
俺が遅く帰る日は、いつもこんな風に調子に乗り上げてんのかよてめえは……。


「……帰るぞ」

「……っ、いやだって、言ったら?」


な ん だ と ?


「……バカ言ってんじゃねえぞ。忍足にいつまで迷惑かけるつもりだ」

「い、いや俺は別にアレやけど、アレや。な、伊織ちゃん、帰り。今日は、な?」



わかるやろ?跡部の顔見てみアレ。すんごい顔しとるでー。
と言わんばかりのメガネの奥の目が伊織を容赦なく突き刺した。
伊織は酔いが段々と覚めてきたのか、それでも多少ふらつきながら腑に落ちない表情で席を立つ。
いつもなら車までエスコートしてやるところだが、今はそんなことしてやる気には当然なれやしない。
俺は乱暴に背中を向け、後を追ってくる伊織を待ちもせず車に乗り込んだ。


































「…………」

「…………」


当然のように車の中は沈黙だった。
何をキレてやがんのか全く検討がつかないが、むすっとしたままの伊織は窓の外を見ている。
キレたいのはこっちの方だ。これが所謂、逆ギレというやつか。理不尽にも程があるじゃねえの。


「今度から、出掛けるならメールのひとつくらい入れておけ」

「………………」


そりゃあ毎日あれだけの家事をこなしていれば時にはハメでも外したくなるだろうよ。

俺は別にそんなことを咎めたりはしない。
だが、今日に限ってだ。
挙句の果てに忍足とふたりきりでだと……?
何が気に入らねえって、それを俺に何の報告もなく、遅くなることを知った上で実行してたことが許せねえ。
いや、遅くなるからこそなんじゃねえのか。
そういうことが、俺にバレなきゃいいとでも思ってんのかよ。


「おい、聞いて……」

「聞いてます。ごめんなさい」


……アーン?なんだその返事は。なんだその逆ギレの声は。
そんな風に謝罪されて俺が許すとでも思ってんのか。
そういや考えてみりゃこいつとまともに喧嘩すんのも久々だな。
だが恋愛時代から喧嘩したってこんな風に突っぱねられたことなど一度もない。
何が気に入らない。俺の何が不満でそんな態度を取りやがる?
この怒りだって、100分の1くらいに抑えてんだぞこっちは。


「家事を疎かにして男と飲みに出てつぶれて旦那に迎えに来させておいてその態度はなんだ」

「…………」




もっと縮小するつもりが、らしくもねえ、意地になって区切ることすら忘れて早口に言っちまった。
伊織を待っていた約7時間、朝食で出てきたポトフの味付けを変えたり、伊織の目が行き届かないんだろう窓枠の掃除だの玄関先の掃除だのをしていたせいもある。
ベランダの花だって枯れていた……観葉植物に至っては水をやりすぎて根っこから腐ってやがった。
伊織のエプロンの取れかけていたボタンの付け方もいまいちで、俺が付け直しておいた。
まあいい、そんなことは。俺が気が付いたときにやりゃいい話だ。そんなこと、今はどうでもいい。

そうしてあれこれ思い返しているうちに、俺の挑発的な言葉に反応して何か返ってくるんだろうと踏んでいた。
だが意外にも伊織はしばらく黙り込んでいた。
それにまたイライラが募る。
なんなんだ。くそ、今日の予定はこんなはずじゃなかったってのに。


「……おい、伊織」

「やっぱり景吾は、そう思ってたんだよね」

「あ?」


突然だった。
なんのことに対して俺が「そう思ってた」のかが一瞬わからず困惑する。
だが伊織はあからさまな溜息をついて、正面を見据えたまま言った。


「誰が、無理してなんて言ったの?あたし、バカみたい。忍足くんに聞かなきゃ、景吾に無理させてることなんか気付かないままだったよ」

「おい、何言って……」

「朝ごはん食べないって聞いた!!」

「……っ」


二度目の突然だった。
車はすでに車庫の中に納まっているというのに、話の途中で出るタイミングを逃した空間の中で怒鳴られた。
しかもそれが、朝ごはん……忍足に聞いた?朝食を食べないってことをか?
忍足め、余計なことを……だがそれが、俺が無理してるってことなのか?
それで、俺がどう「そう思ってた」に繋がる?


「……だから、なんだ?」

「なんだ?景吾はそうやって、いっつもいっつも、結婚してから、ううん!付き合ってた時から、本当は朝ごはん食べないのにあたしが作った美味しくもない朝ごはん無理して食べてたんでしょ!?」

「待て、誰が無理してるなんて言った?」


してないとは言い切れねえが、心底無理をしているつもりなどない。
しかも美味しくないという発想はどこからくる?俺はそんなこと一言だって言ったことはないはずだ。
それに、そんなことは問題じゃない。俺は、そうしてくれるお前が……


「さっき言ったよ!家事を疎かにしてって!!あたしの作ったご飯、美味しくないんでしょ!!あたし、時々変だなって思ってた!晩御飯のときに出した煮物とかお味噌汁とか、翌日すごく美味しくなってるときとかある!今日のポトフだって、ひょっとして帰ったら美味しくなってるかも!」

「……っ」


痛いとこを突いてきやがる。
その味の違いがわかるならなぜあんなに……いや、それはいい。それは。


「……それは味が一晩で、しみ込むからだろうが」

「味噌汁もしみ込むの!?」

「……具によりゃ……しみ込むんじゃねえのか」


まさか俺が夜中にこっそりと味を付け直しているなどと言えるはずもない。
アイロンのことと同じレベルで伊織に知られるわけにはいかねえ事実だ。
だが、ここまで来るともう言い逃れは出来ねえか?


「煮物だって、しみ込んだってあんなに美味しくなんないよ!なのに今日まで気付かなかったあたしだってバカだけど、そんなにやり直すほどマズイなら言ってくれたら良かったのに!あたし本当に情けないよ!考えてみれば思い当たる節いっぱいある!洗濯物のたたみ方がちょっと違うなって思った時もあった。自分がたたんだはずなのに、なんか綺麗になってたり、今朝だって、ポトフ飲んだとき、一瞬、眉間に皺が寄ってたよ!あれマズイってことでしょ!?そうだよね!?あたしじゃ景吾の奥さんに相応しくないってことだよね!?それならそれで厳しく言って欲しかった!黙ってやり直されてるあたしの気持ち、景吾わかる!?わかんないでしょ!?景吾にずっとずっと、イヤイヤ無理して付き合ってもらってたり、景吾に全部やり直されてるあたしの気持ち!!」

「ちょっと待て」

「酷いよ!」


言いたいこと言ってくれるじゃねえの。
俺は、お前の頑張っている姿を見て、傷つけたくなかっただけだっつうのに……そういう俺の気持ちは、お前にはわかんねえのか。


「なら、俺の妻としてお前は相応しくないといえば、それでお前は満足だったのか」

「……っ、やっぱり、そう、思ってるんだ……」

「話をすりかえてんじゃねえよ。俺が思ってる思ってないの問題じゃない。俺にとって、お前の作る料理が美味いとか不味いとか、そんなことに俺はお前の価値を見出したりなどしない」

「意味がわかんない!」


な ぜ だ !?
かなり良いことを言ったつもりだったっつーのに、その一言で一蹴するのか!


「おい伊織、いいか、お前の家事に俺が手を加えたからってなんなんだ?料理の味変えたり、シャツのアイロンやり直したりすんのが悪いことだってのか?」

「やっぱり変えてたんだ!それって美味しくないからってことでしょ!?無理してるってことじゃん!無理し……え、アイロン?アイロンまで!?」

「あ、いや……」

「料理だけじゃなくて他のことも無理してるんじゃんやっぱり!そうだ!ハンカチ!え、シャツも……?お、おかしいと思ってた!景吾だったんだ、やっぱりそうだったんだ!」

「待て、そうじゃな……」

「もういいよ景吾なんか!それなら景吾に相応しい奥さんもらいなおしたらいいよ!どうせあたしなんか何やったってダメなんだから、完璧な景吾の奥さんなんて、完璧じゃないあたしには出来ないよ!!」

「……っ、……」


俺の愛する妻の口からそんな言葉が飛び出してきたことに、俺はショックを受けた。
こんな俺のどこが完璧なんだ……?お前まで俺に完璧でいろというのか?
俺は不完全だからこそ、お前が必要だってのに……。
お前の前でしかそういう俺でいられねえから、傍にいてほしいってのに……。

どうでもいんだよ。
お前のやる家事が、俺の妻として相応しかろうが相応しくなかろうが。
……それを決めるのは、俺じゃねえのかよ……。

俺の妻にはなれない、出来ないだと?
俺なんかもういいだと?俺に相応しい妻を、お前じゃない誰かを、もらいなおせだと……?



「……そうかよ」

「…………だって、そうでしょ」

「…………先に戻る」


もう、わかってもらおうなどと思わなかった。
少なくとも、今夜は。
車のキーを伊織に渡して、俺は乱暴にドアを開けた。


「伊織」

「……っ」


怒った俺に怯むように、伊織は頬を膨らませたまま、ようやく視線を合わせてきた。
その瞳に投げかけた俺の言葉は、嫌味以外のなにものでもねえ、子供じみた問いかけだった。


「お前はそんな俺に、無理してないって言えんのかよ?」


泣いている伊織を車に置き去りにしたまま戻った部屋で、俺は真っ先に冷蔵庫を開けた。
それを手に取る。
デスクの上であれこれと悩んで書いた自分の文字に、思わず鼻白んで呟いた。


「……何が、記念日だ。バカバカしい」


ケーキ箱に挟んであったメッセージカードを、ぐしゃぐしゃにしてゴミ箱に捨てた――。








忍足君から話を聞いて、胸のどこかに引っ掛かっていた小さなものの正体が分かったような気がした。


『景吾…一緒に暮らし始めてから、ずっと朝ご飯食べてる…』

『え?』

『あたし知らなかったから…景吾も一言も言わなかったし…』

『あ、あぁ!そうなんや?じゃあ、食べることにしたんちゃうかな?俺が知ってるいうても学生の時の話やしな!』

『…そうなのかな…でも…』


時々、食事をしている時に一瞬表情が曇る時があって。
そう、今日の朝みたいに。
実は、それがずっと気になっていた。
まさか、元々朝ご飯を食べないなんて。
そんなことも知らずに、張り切って毎朝ご飯を作って。
しかも蓋を開けてみれば、味付けにまで手を加えられていて、更にアイロンまで。

空回りしてたことにも気付かずに、景吾の為に、なんて思っていた今までの自分が恥ずかしかった。
何より、景吾があたしには何も言ってくれなかったことが。
悲しくて、寂しかった。

















大喧嘩した翌朝、いつも通りの時間に起きたあたしを待っていたのは。
電気もついていない、静まり返ったリビングだった。


(…やっぱり)


景吾がいつになく怒っていたことと、昨日寝室にすら入ってこなかったことを考えれば。

今日の朝、あたしが起きるのを待たずに景吾が会社へ行くのは何となく想像が出来た。

リビングにあるソファの上には、綺麗に畳まれた毛布があって。
昨夜ベッド代わりに使われていたことを教えてくれた。


「………」


顔も合わさず、言葉すら交わさず。
ぽつんとこの家に残されたことに、やけに胸が痛んだ。
結婚してから、今までこんな大きな喧嘩したことなかったから。
いつもは、あたしが怒ったってすねたって、景吾はちゃんと話を聞いて仲直りするきっかけを作ってくれた。


『お前はそんな俺に、無理してないって言えんのかよ?』


景吾の言葉に、ドキっとした。
無理してない、なんて言えなかった。
景吾の妻として、跡部家の嫁として、相応しい人間で居なければといつも思っていた。

それはただ景吾のことが好きでずっと一緒にいたい、とそれだけを思っていた恋人時代とは明らかに異なる点で。
出来ないなんて言えない。
何でもやらなくちゃいけないんだって。
そればっかり考えるようになってた。

でもそれは、景吾が恥ずかしくないようにって。
あたしみたいな、普通の家で育って、特に秀でたものがある訳でもない、普通の子を。

一生一緒にいることを選んでくれたのだから。
景吾が、幸せでいられるように、ただその一心だったのに。


(何か飲もう…)


油断したら朝から泣いてしまいそうで。
一度鼻をすすってから、気持ちを切り替える為に冷蔵庫を開けた。


「……?」


見覚えのない、白い箱が冷蔵庫の中に入っていた。
形から、恐らくケーキだろうと予想がついた。
あたしは買った覚えがないし、昨日出掛ける前にはなかったはずだ。

ということは、昨日景吾が買ってきた、ということになる。
でも何の為に。
お互いの誕生日からはずれているし、記念日でもない。

そっとその箱を取り出して、テーブルに置く。
胸がざわざわと騒ぐのを感じた。
震えそうになる指先にぐっと力を入れて、箱を開く。
姿を見せたのは、紛れもなくホールのケーキだった。
ケーキの上にちょこんと載せられたチョコレートのプレートに、可愛いらしく描かれた文字。


―Thanks for you!―


「何…?これ…」


景吾が、あたしの為に買ってきてくれたんだと分かった。
でもどうして昨日なんだろう。
疑問は消えない。

気がつくと、景吾の部屋に足が向いていた。
この胸のもやもやを解決する何かが、そこにある気がして。
まだ新しい、景吾の部屋のドアを開ける。


『ほとんど使うことはないだろうけどな』


この家に引っ越してきた時、眉を下げて小さく笑った景吾を思い出す。
あれば役に立つだろう、と用意したお互いの部屋。


『ここに籠っているようじゃ、結婚した意味がないからな』


景吾が言った通り、あたし達はほとんど自室を使っていない。
もちろん、着替えや仕事やちょっとしたことに使うことはあるけれど。
二人で居る時は、自然と共有スペースのリビングで過ごすことが多い。
そうしなければならないと思っている訳じゃない。
お互いに知っているから。
隣に居ることが、どれだけ居心地が良く、幸せを与えてくれているるのかを。


「……っ、」


そんなことを考えていたら、益々目の奥が熱くなった。
子どもみたいに、駄々をこねた。
自分の気持ちばっかり押し付けて、自分ばっかり悲しい気持ちになって。
景吾があたしのことを思って、ご飯のことも家事のことも言わないでいてくれたんだって、分かってる。
でも何だか情けなくて、そんな自分が悔しくて、恥ずかしくて。
大切なこと、忘れていたのかもしれない。

景吾の部屋を見渡す。
机に置かれた卓上カレンダーにも、これといった目印はなくて。
ふと視線を下げた先の、ゴミ箱。
そこに、「それ」はあった―――。












―駅まで迎えに行きます。―


お昼過ぎから降りだした雨を理由に、あたしは傘を二本持って家を出た。
景吾に短くメールを打つと、分かった、と同じく短い返事が入ってきた。
あたしが駅に着く頃には、もう雨は小降りになっていて。
あたしのよりも長い景吾の傘、をゆらゆらと遊ばせながら。
その姿が見えるのを待った。

しばらくして、改札の向こうにスーツ姿の景吾が見えて。
ドキンと、胸が高鳴るのを感じて訳もなく恥ずかしくなる。
まるで、初めてデートをしたあの日のようで。


「…悪いな」

「う、ううん」


喧嘩した後の気まずさと、ふって沸いたような恥ずかしさからか。
まともに景吾の顔を見ることが出来なくて。
俯いたまま、ん、と景吾に傘を差し出す。
景吾も、何も言わずにそれを受け取った。


「だいぶ小降りになったな」

「…そうだね」


パン、と小気味良い音を響かせて傘が広がる。
景吾がそうしたように、あたしもそれに従って。
どちらからともなく、ゆっくりと歩き出す。


「景吾?」

「何だ」

「…昨日は、ごめんなさい」


自分の軽率な行動が、恐らく景吾を傷つけた。
きっと忍足君もそれを気にかけてくれていたのに、あたしは考えもしないで。
景吾が怒るのは当然だ。


「いや…俺にも原因はある。伊織だけが悪い訳じゃない」


そこでようやくあたしは顔を上げて、景吾の顔を見ることが出来た。
景吾はただ、前を見て、歩いていた。


「朝の食事のことも、家事のことも、ちゃんとお前に伝えるべきだった」

「うん…」

「…俺はお前を傷つけたくなかった。頑張っていることは充分分かっていたからな。それに、」

「それに…?」


ちらり、と一瞬視線が交わって。
それだけのことなのに、心臓が飛び跳ねた。
すぐに逸らされた瞳は、珍しく照れていたような、そんな気がして。


「…頑張っているお前の姿が、可愛いと思っていたところもある」

「!」

「料理が下手だろうが、家事が出来なかろうが、何だっていいんだ俺は」

「………」

「お前が、傍に居てくれるならそれでいい。こんな俺と居てくれることを、有難いと思ってる」

「景吾…」

「……ん」

「…料理が下手だって言った」

「あ?」

「家事が出来ないって」

「お前…そこを拾うんじゃねぇよ…」

「あたしは、」


呆れたように笑った景吾の手をそっと握る。
手を繋いで歩くなんて、きっとひどく久しぶりだ。
大好きな景吾の手。
大好きな、大好きな。


「…知らなかったけど、料理も下手みたいだし、家事も上手く出来ないし、子どもみたいに泣いたり怒ったりしちゃうけど、でも…」

「伊織?」

「景吾のこと、大好きだから。やっぱり、景吾の為に、何でも上手に出来るようになりたい。無理だってしたいよ」


ぎゅうっと、握りしめた手に力を込める。
何よりも大切な、あたしの景吾。

結婚してから、恋人の頃みたいに、お互いの気持ちだけではどうにもならないことも出てきた。
出来なくたってこなさなくちゃいけないことがたくさんある、跡部家の嫁として。
それは事実だし、覚悟していたことだった。

でも、その前にあたしは景吾の奥さんになったんだ。
つまり、景吾が大好きだってことで。
その気持ちは、出会った頃から何も変わらない。
それが、その想いこそが、大切なことだったのに。


「これからはちゃんと言って。別々に暮らしてきたんだもん。習慣とか…味の、好みとか?違うことなんてたくさんあるよ。だけど、一緒に居るんだから、違うことだって知りたいよ。受け入れたいんだよ。例え受け入れられないことでも、知らないままでいたくない。……景吾のことだから」


二人一緒にいる意味を、その幸せを。
これからもずっとずっと、景吾と感じていきたい。
時には無理したっていいんだ。
そうしたらきっと、景吾は「仕方ねぇな」って笑ってくれるだろうから。
そうやって、笑ったり、怒ったり、泣いたりしながら生きていくんだ。
二人で。


「伊織、傘閉じろ」

「あ、雨止んだ?」


言われた通りに傘を閉じて、空を見上げる。
まだぽつぽつと降ってくる雨粒に、首を傾げていると。
景吾のチェック柄の傘が、空を隠した。


「雨の日に出歩くこともそうそうないからな」


ひとつの傘に、体を寄せ合って収まる。
優しく引かれた手に、頬が熱くなった。


「ねぇ、景吾?」

「何だ?」

「帰ったらお祝いしようね。一緒に暮らし始めて、一ヶ月」

「!」


あたしがそう言ってポケットから、くしゃくしゃになったメッセージカードを取り出して見せると。
景吾はいかにも「しまった」という顔をして、そっぽを向いてしまった。


「あたし、すっかり忘れてた。ごめんね」

「忙しかったからな」

「……嬉しい」


景吾の部屋のゴミ箱から見つけた、メッセージカード。
きっと、あのケーキと一緒にあたしに渡される予定だったもの。
そこには、景吾の几帳面な字が並べられていた。


伊織へ

いつもありがとう。
君を妻として迎えられたことを、誇りに思う。
これからもよろしく。

景吾


「ねぇねぇ、この景吾の名前の上のところ、消した跡があるよね?」

「………」

「やっぱり。何て書いてたの?わざわざ消すってことは、恥ずかしいこと?」

「お前…面白がってるだろ」

「だって気になるし」


気がつくと、目の前に見慣れたマンションがあった。
エントランスで、傘を下げようとする景吾を横目にクスクスと笑っていると。
畳まれると思っていた傘が、ちょうどあたしの顔のあたりで止まっていて。
不思議に思って、景吾を見上げると。
景吾もあたしをじっと見つめていて。


「け、」

「…愛してる、だ」


目を丸くする暇もなく、唇に雨のように優しいキスが降ってきたのだった―――――――。



fin.
2010 collaboration with 柚子 from 不二色

-------------------
執筆は、跡部視点がワイティで、ヒロイン視点が柚子さんとなります。



[book top]
[levelac]




×