Romance_01


1.


平日が好きやった。
カーテンから射しこんでくる光に、ああ、今日も平日がやってきたんやな、と思う。外からすっかり穏やかになった風の香りが流れてきたで、夏まであと少しっちゅうところ。それって恋の季節っちゅうやつやんな、とか、ほくそ笑む自分が気色悪い。
リビングに置いてある植木鉢をベランダにだして、水をやった。あんまり植物の世話は得意やないけど、先週買った観葉植物があの人を思いださせるで、それだけで愛着がわいてきとる自分がおる。あ、それも気色悪いかな……。
平日が好きな理由はただひとつ。もちろん、仕事やない。そんな真面目ちゃうし。やのにここ最近の俺は、めっちゃきっかり7時半に起きて、めっちゃきっかり8時半には家を出て、絶対に同じ電車に乗るようにしとった。いつもたらたら支度して、時間もだいたいで出勤しとったこの俺が。
ただ、あの人に会いたい、それだけで……。

「そういうの変態って言うんだよ、忍足」
「変態ちゃう……ちょおかわいいなって思とるだけやもん」

同僚にからかわれる午前9時。職場の扉を開ければ、もう俺の1日は終わったようなもんやった。
彼女に会えるのはいつも朝の電車に乗っとる10分だけ。声をかけたいけどかけられへん俺のピュアな恋心を、篠原は一蹴した。

「いい歳してひとめぼれかよ? 女は外見じゃないよー?」
「ひとめぼれともちゃうんやってば」ほんで誰がええ歳や、まだ27歳やっちゅうねん。
「でもその彼女を見たくて、めざまし鳴る前に目が覚めるんだろ? 変態じゃねえかよ」
「変態ちゃうっ」
「わあたわあた。それよりお前、今月決算3つ抱えてんだからな? 恋もいいけど仕事も頼むよ?」
「はいはい、わかってます……」

『忍足税理士法人』の代表税理士は一応、俺。せやけど篠原は共同経営者で、立場は同じ。自分の名前が屋号になるんは嫌やっていうからいろいろ考えたんやけど、なにを頭にもってきてもサブくなる。結局、「もう『忍足税理士法人』でよくね?」という篠原のひとことに屈したのは、数年前のことや。
とはいえ、篠原との出会いはもっと前にさかのぼる。大学のころから独立という将来を視野に入れとった俺は、とにかく効率にこだわっとった。資格取得の必須条件となる実務経験は大学在学中に積んで、資格取得後にちょこっと修行したらさっさと独立したいと思っとったクチや。
そんな俺とまったく同じ考えを持っとったのが、当時、税理士事務所でアルバイトをしとった同級生の篠原やった。

――忍足、オレと一緒に独立しようよ。
――嫌やわそんなん、俺は自由にやりたいねん。
――オレとお前なら束縛ないって。うまくいくかわかんない不安も資金も半分だし、うるさい上司もいない。事業主で独立するより、法人にしたほうがメリットもでかい。面倒なのは手続きだけ、あとの自由も利益もその倍だって。相性いいじゃんか、オレら。
――んん……まあ、たしかに。

卒業と同時に、俺と篠原は見事、税理士試験に合格した。そこからお互い別の税理士法人に転職入社してノウハウ盗んで3年が経ったころ、二人で仲よく開業したいうわけやな。

「ところで忍足、その彼女を見つけたの、いつだよ?」
「は? なんでそんなこと言わなあかんねん」
「相談してきたのお前だろ?」

開業したてはめっちゃ忙しくて、そこからの2年はあっという間に過ぎていった。そんで、事務員のおばちゃんも雇ってようやく安定してきたつい最近、俺はあの人に出会ったんや。

「ん……半年前」
「きも……」おい、殺すぞ。「もう、声かけろよ」
「かけられへんもん気色悪いやんけっ」逆の立場やったら絶対にきしょい。
「ま、『ひとめぼれしました』っていきなり言われたら気持ち悪いかもなー」
「せやからひとめぼれとちゃうって……」
「話したこともないんだろ?」
「ない」
「ひとめぼれじゃん」

ちゃう、と心を閉ざしたところで、篠原はクツクツ笑いながら自分の席についた。そろそろ事務員のおばちゃんたちがやってくるからやろう……あいつに相談した俺がアホやったか。
「声かけろよ」って、そんなんわかってんねん。それでもいきなり声かけたら絶対に怪しまれる。「誰やねんお前!」ってなるに決まっとるから……。

正月が明けてから2週目、社会人全員が休みボケしとるようなころやった。朝の電車に彼女が乗ってきて、「綺麗な人やな」と目についたのは。
せやけど、そんなん男なら誰でも一度はあることや。単純に好みのタイプやってだけでキュンとする。別にそれだけでこんなに恋焦がれとるわけやない。なんなら最初は別に「綺麗やな」って感想だけで、さして気にもしてなかったんや。逆に、偉そうに新聞を眺めとるおっさんとか、音漏れも気にせんとロックを聴きまくっとる若手サラリーマンとか、揺れる電車のなかでアイライン引いとる女とか、そっちのほうが気になっとった。どんなメイク技術やねん、天才か。
せやけどいつからか、彼女を目で追っとる自分に気づきはじめた。ちょっとしたことが日に日に積もっていったんやと思う。
たとえば、彼女は毎日だいたい同じ場所で、本を読んどる。たまたま座席が空いて座ったときも、老人や妊婦さんが乗車してきたら、「どうぞ」と声をかけることもなく静かに立ちあがって、すっと離れたところで背筋をピンと伸ばして立ちながら、また本を読みはじめる。もちろん、「ありがとうございます」と告げてきた人には笑顔で会釈をしはるんやけど、気を遣わせん雰囲気に好感が持てて、俺のキュンが、キュンキュンに変わることは何度もあった。
せやけど、ここまでもあるっちゃある話。男ならわかってくれるやろう。でも、まだまだ。こんなに頭のなかが彼女だらけになったのには、理由がある。

「彼女な、篠原」
「え、まだすんのその話?」おばちゃんたちそろそろ来るよ? と、心配そうに事務所の入口を見た。
「めっちゃ心が綺麗やと思うねんか」
「は……」
「ん、間違いないねん、それだけは」
「……わかった、わかったからお前、仕事しろ」
「はい……」

聞いてくれる様子もない。しゃあなし、俺は心のなかであの日を思いだすことにした。
いつやったっけ……そんなに前やないんやけど、たぶん2ヶ月前くらいやろか。俺がいつもどおり電車に乗っとるときのことや。

『まもなく……』

もうこのころには、電車のアナウンスは俺からしたらカウントダウンやった。来るで、来るで、と胸が高揚していくたびに、「す、好きとかちゃうし」と自分に言い聞かせる日々。
彼女はいつも8時43分、俺の最寄り駅から3駅目の3号車、進行方向の一番端の扉から乗ってくる。
その日も彼女はパンツスーツで、ビシッと決めとった。なんの仕事しとるんやろう、とか考えとったと思う。
彼女のスカート姿は見たことがない。いつもピシッとパンツスーツ。肩よりちょい長めのセミロングに優しいパーマをかけとるんやけど、その髪をなびかせることもなく、うしろでビチッとくくっとる。「わたしはいまから仕事しに行くねん!」みたいな強さも、俺は好きやった。
そうそう、このとき彼女が読んどったのが『珍奇植物 ビザールプランツと生きる』っちゅう本で、俺、ぎょっとしたんや。完全に男のアレみたいなんが表紙やったで、おいおい、どうなっとんねんって、そのギャップもキュンやけど、ドキドキもしてな……ん、それで俺、ビザールプランツとかいうの買ったんや。種類もアレみたいなんばっかりとちゃうかったで、ホッとした……まあ、それはそれとして。
ブックカバーをあげたくなったときやった。ふと、彼女がなにかに気づいて本から目を逸した。なにか見つけたんやろうかと、スマホ見る振りをしながらじっと彼女を見つめはじめた直後、俺は目を見開いた。やって、予想もしてなかった行動やったから。
彼女の目の前の座席の端に、糸くずがついとった。派手な糸くずとちゃう。すぐそこに座っとる人はなんも気にせず寝てはったし。
せやけど彼女の指は、そのまま糸くずに向かって一直線に動いていった。やがて糸をそっと取って、なんと、自分のポケットにしまいこんだ。そう、しまいこんだんや。

――俺……絶対、あの人が好きや……。

あまりにもその行動に見惚れて、俺は彼女をガン見した。たぶん、それで気づかれたんやろう。彼女と、目が合ったんや。はっとして、俺の肩がピクッとうなったのと同時に、彼女は目礼とも会釈ともつかん程度に首を揺らして、微笑みかけてきはった。
このときばっかりは、膝から崩れ落ちるかと思った。
心のなかで静かに眠っとったカジュアルな俺の恋心が、本気の恋へと爆発したあの日……。





跡部から電話があったのは、篠原にふつふつとした想いを相談してから1週間後のことやった。

「そろそろ中間決算だろ。その前にM&Aについて相談がある」
「またやるんか。とりあえずそっちの経営陣で相談したらえんちゃうの?」
「それじゃ決め手に欠けんだよ。なんのための顧問税理士なんだてめえは」

これが税理士先生に向かって吐くセリフやろか。金払ってもらっとるのはこっちやから、俺の言いぐさも大概やけど。
せっかくこの時期は仕事も落ち着いとってのんびりマイペースでいけるっちゅうのに、跡部の依頼はいつもそんなときにやってくるのが定番やった。

「というわけで、今夜、銀座の久兵衛にでも行かねえか?」
「嫌やわあんな1貫3000円もするようなとこ」なんならもっとするやろ。
「心配しなくても、俺が払ってやる」
「そうやって毎回お前に餌付けされんのも癪やねんけどなあ……」
「貴様……どうせ暇だろうが」
「はは……めっちゃ失礼」ホンマ、しばいたろか。
「金曜の夜にデートする相手もいねえだろって言ってんだ。なに意地はってやがる」

カチン、とくる。
そうなんやけど、そうやからこそ、ちょこっと苛立つ自分がおった。ああ、あの人には花金デートする相手がおるんやろか。おるに決まっとるよなあ、あんな見た目もようて、心の綺麗な人やもん。はあ……嫉妬。

「跡部、俺ちょおいま傷ついた」
「アーン?」
「俺さあ、好きな人はおんねんか」
「……ああ、そう。切るぞ」
「ちょ、待ってやひどないっ?」
「くだらねえ話に付き合ってる暇はねえんだよこっちは。だいたいてめえはいつもそうして恋愛話を俺にしてきやがるが、どういう神経してんだ。男同士で惚れた女がどうだの、いい歳して恥ずかしくねえのか。おまけにいつもいつもグダグダ、ダラダラと重たすぎる執着心をぶちまけやがって。そんな話をかれこれ15年も聞きつづけているこっちの身にもなってほしいもんだな……どんな女だ!」

なんだかんだ言うて、跡部は優しい。いつも的確なアドバイスをくれるから、俺もついつい、跡部にだけは話してまう。ちゅうか、いつも相談ってより予防線なんやけど。「跡部、俺あの子が好きなんや」って言うだけ。うっかり跡部と同じ女を好きになったら最悪(ちゅうか勝ち目なくなる)やで、学生のときはそうしとった……けど、跡部と好きな女がかぶったことはなかった。趣味がまったくちゃうからや。
せやから社会人になってからは単に話の流れで話すようになったんやけど、そういや社会人になってからは、一度きりやったな。

「心の綺麗な人」
「は?」
「見た目もええねん」
「なにしてる女だ」
「知らん」
「は?」
「知らんねん、仕事、なにしてはるか」
「アーン? じゃ、何歳だ」
「それも知らん」
「……名前は?」
「知らん」
「おい、どこで会った?」
「電車のなか」
「切るぞ」
「ちょ、跡部、待ってや!」
「気持ち悪いこと言ってんじゃねえぞてめえは……ストーカーじゃねえか!」
「す、ストーカーちゃう、そんなことしてへんっ」

おかしな濡れ衣を着せられそうになったところで、俺は跡部に経緯を話した。事務所やとおばちゃんも篠原もおるから恥ずかしい。わざわざ応接室に入って鍵をかけて、こそこそと。
跡部は相槌を入れることもなく、ただ黙って俺の話を聞いてくれた。ひょっとしたらスピーカーフォンにしてラジオさながらに別の仕事さばいとったんかもしれへんけど、それでも電話を切られんだけマシか、と、結論づける。

「忍足よ」
「はい……」やっぱり俺、気色悪い?
「お前、27歳だぞ?」俺とタメだよな? と、嫌味までお見舞いしてくる。
「……わかっとる」篠原と同じこと言うなや。
「電車でいつも顔を合わせる女が好きだと?」
「やって、絶対ええ人なんやもん」
「中学生かてめえは!」

そ、そんなん言われても、好きなもんは好きやし……中学生のときやって、こんな恋したことない。あかん、俺やっぱり夢見がちすぎるんやろか。せやけど気になってキュンしとったら、すんごい人柄が見えてきたんやもん。

「やって、糸くず……」
「糸くず、じゃねえよ。いい歳して糸くずみたいな恋しやがって! てめえが糸くずなんじゃねえのか!」

なにを言われとるんかわからんくて、混乱する。跡部も混乱しとるんかもしれへん。
せやけど普通、あんなん、見つけても取れへんし。でもあの人は取った。相手は人間とちゃう。電車や。電車の座席さんや。感情もないただの物質やで。誰になにを思われても関係ないのに。その優しさ、すごない?
百歩譲って取ったとしてもやで? そんなん、指をこすってポイ、やろ。どこからついたんかわからんゴミを自分のポケットにしまいこむとか……ありえへん。なんちゅう美しい女性やろうか。

「声、かけたあかんと思う?」
「通報されて終わりだ」
「はあ……篠原と意見が食い違っとる」
「篠原はてめえが面倒くせえからそう言ったんだ。あるいは面白がってるだけだ」それは、ありそうや。「いいか忍足、不審者にだけはなるな。いやもう十分、不審者だけどな。あきらめろ」

そこで、跡部との電話は切れた。
恋の終わりを告げるような悲しい音に、すっかり振られた気分になった。





あきらめるしかないんやろう。そんなこと、相談はしても頭の片隅ではわかっとる。平日の朝に10分だけ電車で顔を合わせる彼女。論理的に考えてもうまくいくはずがない。
せやけど篠原にも話してついに跡部にも話したことで、俺の恋心は逆にテンションがあがってきとった。好きやと自覚するたびに燃えていく、ようある話や。

『久兵衛、20時』

連絡が入ったのは、夕方やった。ホンマなら定時でさくっとあがろうと思っとったのに、跡部のせいで残業するハメになる。誰もおらん事務所の電気を消して銀座に向かう電車に乗ったのは19時半。
都営地下鉄銀座線は金曜の夜のせいか、そこそこの混み具合やった。ぼーっとしながら車内を見渡すと、疲れ果てたサラリーマンやら、すでに酔っぱらっとる学生やら、これからデートなんやろうおめかしした姉ちゃんやらの姿がそこかしこに点在しとる。
銀座まで7駅。いうて10分ちょいくらいやと思って、乗車口すぐの空いとる背もたれを見つけて寄りかかる。これから跡部と面倒くさいM&Aの話をするんかと思うと気が重かったで、スマホを見るでもなく、ただひたすら流れる景色を見とったときやった。
2駅目、青山一丁目で、電車が止まる。駅のホーム、その外側に、むきだしの小説を手にしたパンツスーツの女性が立っとった。しかも、俺が乗っとる車両の、すぐそこに。
そう……あの人、やった。
見間違いかと思って、何度か盗み見して確認したんやけど。絶対、どう見ても、あの人やった。扉が開いて、彼女は本を読みながら乗車してきた。俺の正面の背もたれに寄りかかって、本をペラっとめくっとる。
朝の電車では絶対に会うけど、帰りの電車で会うのは、はじめてや。おまけに、俺の自宅の進行方向とも、彼女の自宅の進行方向とも違う(たぶんやけど)。
恋心を人に打ちあけた今日という日に、めっちゃ偶然、めっちゃ奇跡。ちゅうか、これ、もう、こんなん言うたらまた跡部にバカにされるやろうけど……運命ちゃうん!?

「……ん、んん」

とりあえず、咳払いをしてみる。せやけどまったく気づいてくれへん。本に夢中や。一方で、違和感を覚える。彼女の今週の本は『和解/志賀直哉』のはずやった。どんだけ渋いねん! ほんでブックカバー誰か買うたれや! って思っとったけど、ブックカバーされたら彼女がどんな本を読んどるんか俺が確認できんようになるで、そのままでええわ、とかノリツッコミで考えとったんや。せやからよう覚えとる。
けど、彼女が朝に読んどったはずの志賀直哉はすでに読み終わったんか、本のタイトルには『PRIDE AND PREJUDICE/JANE AUSTEN』と書かれとった。
洋書、読んではる……『PRIDE AND PREJUDICE』ってなんやろ。ちゅうか洋書が読めるとか、かしこやん。まあ俺も、読めるけど? ふふっ。結局は俺も、跡部と一緒でボンボンやからなあ。氷帝で鍛えられた英語力はなかなかのモンやで。
えーと? 直訳すると『誇りと偏見』……は、なんや変な言い回しやな。あれ、なんやこれ……どっかで聞いたことあらへんか…?
誇りと偏見……いや、ちゃう……誇り、自尊心、唯我独尊……いやいやちゃう、得意、うぬぼれ、高慢……あ、高慢! 『高慢と偏見』や!
性懲りもなく、また、運命やと思った。
『高慢と偏見』は、俺が気に入っとる映画の主人公の愛読書やで、学生のとき影響されて、1回、図書室から借りて読んだことがある。
はあああああ、どないしよう! めっちゃ声かけたい! せやけど跡部から通報されるとか言われたで、あかんかな。いきなり「好きです」とか頭ふいとること言うわけちゃうからええんやない? いやでも、でも、やっぱり気色悪い? そもそも俺のことなんかまったく覚えてない可能性やってあるやん。目、合ったことはあるけど1回やし。
ああでも、このチャンス逃したら……いや来週からまた平日には会えるやろけど、せやけど、せやけど、いまな気がする、どないしよう……友だちからでええねんけど、自然な声かけってなんやろ。

『まもなく……虎ノ門』

あああかん! あと2駅で銀座についてまう! もう考えとる時間がもったいない! こ、ここここうなったら、忍足侑士、人生ではじめての大博打やろ。当たって砕けろや!

「あの……」
「えっ……」

思い切って、一歩前に出て、声をかけた。本から顔をあげて、めっちゃ目をまるくしてはる。うわあああああ、絶対にいま、気持ち悪がられとるよな、俺。

「あ、あの……」
「は、はい……」

あかん、あかん、言葉がつづかん。あかんってもう、めっちゃ怪しいやん俺、怪しいって!

「あの、あ、朝、その、電車で、よう一緒になる方やなって、お、思っ」
「あ……」

あかん、もう最悪や……唖然としてはる。しかも黙ってはる。終わりや。俺、通報されるかもしれへん。
地獄の時間やった。体内時計では5分レベル。それがホンマなら銀座駅をとっくに通り越しとったんやけど。実際はほんの、数秒のことやった。

「あ、ははっ。そうですよね」
「えっ」
「いま、そうかなってわたしも、思いました。こんばんは」

彼女は、予想外にめちゃめちゃ優しい笑顔を向けてくれた。
キラキラと、世界が輝きだす。むっちゃくちゃかわいい……この数ヶ月モヤモヤしとった、気持ち悪いと評判の俺の心が、一気に癒やされていった。

「こ、こんばんは。すんません、いきなり声、かけて」
「いえいえ。お仕事帰りですか?」
「そうです」これからまた仕事っちゅうか、飲みやけど。「あの、それ……ええ話ですよね。僕も最近、読んだことがあって」嘘やけど。そういうことにしといた。
「え、そうなんですかっ?」
「はい、それで、つい……話しかけてもうて」出来心で、と伝えたつもりやった。まるで痴漢のいいわけや。
「そうだったんですね。和書でお読みになれたんですか?」
「そうです。僕が読んだのはー……筑摩書房のほうやったかな。和訳がええって聞いて」
「あ、それはそうだと思います。わたしも岩波と筑摩と、両方とも読みましたけど、筑摩の方がよかったです」
「どっちも読まれてはるんや。それで、ついに洋書になったんですか?」
「そうなんですよ。といっても、あまりスラスラ読めないんですけど、ふふ」照れくさそう。かわいい。なにこの人。むっちゃ素敵。「でもやっぱり、原作には敵わないってレビューを読んで、つい」

はじめて近くで彼女を見た俺はもう完全に、今度こそ完全に、恋に落ちた。

『まもなく……新橋』

はっ……あかん、あと1駅。残すところ2分程度や。いや1分かもしれへんっ。

「あの、あなたも、お仕事帰りなんですか?」
「はい。金曜だし、映画でも観に行こうかなと。ちょうどこの本の映画が上映されてるんです、いま」
「え、ホンマですか?」
「はい、なんだっけ。ちょっと古い映画を改めて上映したりする映画館ってあるじゃないですか」
「ああ、リバイバル上映ですね」
「そうそう、そうです。たまたま今日、見つけて。せっかくだし、観に行こうかなって」
「そ、近いんです? 映画館」
「ええ、有楽町で」
「ああ、ほな次で、降りはるんかな」
「はい、そうなんです」

心臓は、バクバクやった。仕事帰り、今日たまたま見つけて映画を観に行くって決めたっちゅうことは、たぶん、8割方、ひとりのはずや。た、たぶんやけど!

「あの……ひょっとして、おひとりで行かれるんですか?」
「え?」
『まもなく……銀座』

あかん、もう着く。着いたら、同じとこに降りても出口が別方向かもしれへんやん。いやそれでも付いていけばええけど、そうなったらホンマに通報されるかもしれへんし。
間に合ってくれ、頼む。あと30秒そこらやろ。

「はい、ひとりですけど……」せやんな!
「あの、あの、それやったら……いまから僕と、行きませんか?」
「えっ……!」
「あ、すんません変なこと言うて! あの、迷惑やなかったら、ですけど。僕もラブロマンス好きやから。あの僕、怪しいモンちゃいます、ちょ、ちょお待ってくださいね、名刺を、あの」

ホンマに人生初の大ギャンブルやった。ここぞとばかりに誘った俺を、彼女がどう思っとるかやなんてわからへん。たぶん気持ち悪いやろうけど、ほんでこんなん、完全なナンパやねんけど、それでも絶対に、このチャンスを棒に振りたくなかった。

「大丈夫です」
「え」

結構です、ひとりで行きますから。そんな意図をふんだんに込めたような「大丈夫」の言葉に、俺は固まった。あかん、かった……そら、そうか。こんなん嫌に決まってる。ああ、俺、舞いあがりすぎや。めっちゃチャンスを棒に振っとるやん! 自ら!

『銀座、銀座です』

乗車口が開いて、彼女はささっと電車を降りた。俺も少し遅れて、電車を降りる。これ以上、嫌われたくなかったからやけど……俺も目的地は銀座やったから。
最後に、「それじゃ、どうも」とか言うべきなんやろう。それでもうまく顔があげられへんくて……曖昧な笑顔を向けたものの、困惑したまま背中を向けて、改札に向かおうとしたときやった。

「あ、そっちじゃないんです」
「え」

ぎゅっと、肘あたりのスーツをつかまれる。めっちゃびっくりして、目を見開いて振り返ると、彼女は慌てて手を離した。

「あ、ごめんなさいっ」
「え、あの……」
「映画館に近い改札、あっちなんです」
「え……つ、付いていって、ええんですか?」
「え、あれ、だって……え? 一緒に観てくださるんじゃ……」

ポカン、とした彼女の顔にどんどん熱があがっていく。「大丈夫」は便利な言葉やけど、誤解を生みやすい。あの「大丈夫」はつまり、OKって意味やったんや。

『跡部、ホンマに堪忍! 今夜はキャンセルで頼むわ』





映画鑑賞後、俺は当然のように彼女を食事に誘った。「ぜひ」と、はにかんだ彼女とめっちゃいろいろ話したかった俺は、気さくな店をチョイスした。ムード抜群、やと気持ち悪いやろし、あんまりうるさいと品がない。カジュアルなバルで、向かいあって仲よく乾杯したときには、もう俺、有頂天やって。

「やって、あの流れで『大丈夫です』って言われたら、そら断られたと思いますやん」
「あははっ。ごめんなさい。名刺を探されてたようだったので……怪しいと思ってませんって意味も込めたつもりだったんですけど、たしかに勘違いしちゃいますよね」

会話は尽きんかった。映画デートってそういう利点がある。このバルに移動するまでも、俺らはずっと映画の感想を言い合っとった。彼女とは気も合う。女優の演技がすごかったとか、あのシーンは胸にぐっときたとか、一方で、原作の大事なところを飛ばしとるとか、あの登場人物に腹が立ったとか。お互いのどの意見にも、お互いが共感した。
好きなポイントが同じなのは大事なことやけど、嫌いなポイントが同じっちゅうほうが、俺は相性がええと思う。せやから、なおさら舞いあがった。

「ああ、そやった。僕らまだ、名前も知りませんでしたね」
「あ……ホントだ。すごくお話のテンポがいいから、聞きそびれちゃってました。わたし、佐久間伊織と言います」
「はじめまして。ようやく、名刺をわたせますね。僕は、忍足侑士って言います」
「じゃあ、あのわたしも……ふふ」と、彼女も名刺をだしてきた。「怪しい人間ではありません」と、おどけた。はあ、かわいい。
「そんなん、思ってませんって」

佐久間伊織さん……と、わたされた名刺をじっと見つめた。もうこの字面も好きや。

「忍足侑士さん……うわあ、税理士の方! すごい!」
「すごないですよ。伊織さんかて、弁護士事務所やないですか」
「はい。お互い、お堅いですね」たしかに。せやのに、こんな出会いかたしとるとか。彼女もまあまあ、大胆なところがあるんかもしれへん。
「弁護士、目指してはるんですか?」
「いえいえ。わたしなんてとても。ただ、法学部を卒業したので、それが活かせればと思って」
「法学部卒で英語もいけるとかすごいわあ」
「いえいえ、ちょっとだけ、留学してたことがあるだけです。あ、そうだ、ねえ忍足さん、聞きたいことがあったんです。映画のことで」
「ん、なんやろ?」
「忍足さんは、ああいう身分を超えたロマンス、どう思います?」

伊織さんは、俺にめっちゃ気を遣ってくれとった。自分の話になると、さっと避けるようにして映画の話に絡めて、俺が話しやすいように促す。要するに、自分のことばかり話す状況に恐縮しとった。

「ん……侑士」
「え?」

そういう気遣いができる人、俺めっちゃ好き。伊織さんの話やったらずっと聞いときたいくらいなんやけど、1対1やからこそ、相手を飽きさせんようにしとる。距離感が適切なんや。コミュニケーション能力が高い。はあ、好き。
と、しみじみ思ったついでに、俺は欲張りにも、口にしとった。

「僕、伊織さん、って呼びます。せやから伊織さんも、下の名前で呼んでくれませんか? それやったらほら……少し、親近感わくやないですか」

ほぼほぼ告白くらいの感じで、俺は伊織さんを見つめた。一瞬、きょとんとされたけど……もう俺のことも警戒してへんってわかったで、口説きたおしたい。

「ふふ。そうですね、侑士さん」
「せやろ? 伊織さん」

顔を見合わせて、笑い合って。めっちゃええ雰囲気やん!

「身分を超えたロマンス、でしたね……。僕は、現代社会やとちょっと理解しがたい部分もあるって思ったんですけどね」
「うん、うんうん」

話を戻した俺に、興味津々の顔をして、伊織さんはうなずいた。
『高慢と偏見』の舞台は18世紀末のイギリス。自立心が旺盛で利発やけど、そんな自分を過信する嫌いのあるエリザベスと、ホンマは良識と思いやりがあるのに、プライドが高うて打ち解けにくいダーシーのふたりが、高慢と偏見を克服しながら恋を成就させていくラブロマンス作品。
せやあ、ラブロマンス。俺の大好物。初デートでこの映画っちゅうのも、最高やない?

「200年前とかに書かれとるから、無理ないけど。ただ、あの話の面白さって、単に困難を乗り越えて、上流社会に迎え入れられる玉の輿とは違うって思うんです。ざっくり言うと王道やけど、現代の王道とは違うっちゅうか」
「たしかに、もっと奥深さがあるお話ですよね」

俺の偉そうな口振りに嫌な顔ひとつせんと、耳を傾けてくれる伊織さんに見惚れていく。
上品な人やわあ……ワイン飲んだあとも、きゅっとグラスについたリップを拭いてはるし。
ああ、そのリップ、俺が取りたい、唇で……あかん、ホンマに通報される。

「心の……機微みたいなもの、ですかね」と、彼女は首をかしげながらつづけた。「主人公の成長は、どんな話にも必ずあるものですけど。この場合はテーマが『愛』だから、パッと見は単純に感じるけど、実は違うというか、ああ、うまく言えないな」
「いや、わかりますよ。ホンマに尊敬して、愛することができる相手を見つけるまでに至る、主人公の認識の過程みたいなものとか、めっちゃ共感できるのってすごいと思うんですよ、200年も前やのに。ラブロマンスのそういうところが、僕は好きなんです。時代が変わっても、人を想う気持ちって変わらんから」
「本当にそうですよね。なんだろう、『こんな娘を好きになるとまずいぞ!』とか警戒してるのに、段々と深みにはまっていくダーシーの心境の変化も、結局はエリザベスも高慢と偏見を持っていたんだって気づく流れも。現代の恋愛に当てはまるところがたくさんあるなと思いました」
「あれ、ええですよねえ。それがこう、なんか、単純やないから」
「うん、すごく上手にほのめかされてて。繊細っていうんですかね、ああいうの。やっぱり傑作だなと思いました」

伊織さんも、映画や小説が好きなんやろう。俺と一緒。それも嬉しい。
目を熱っぽくして、一生懸命に話しとる姿が……はあ、ホンマに綺麗。全部、ほしい。全部ちょうだい? 俺に。あれ……俺、舞いあがりすぎとる?

「『最初は嫌いだったアイツ』とはちょっと違うところが、文学作品のいいところなのかも」あったな、昔はそういうの。いまもあるか?
「『俺にケチつけやがって、アイツ』とはちょっとちゃいますからねえ。まあ僕は、そういうベタベタなんも好きやけど」そう、結局、好きやけどね。
「ふふ。うん、わたしもなんだかんだ、好きかもしれない。でもたまには、お高くとまったラブロマンスもいいなあって思います」
「あ、伊織さんそれ、偏見ちゃう?」
「あっ。すみません、高慢でした」ペロッと小さく舌をだした。かわいすぎ。
「くく、冗談です」

そろそろ、ワインのボトルが空になりそうなときやったで、スマホを見て時計を確認した。ここでようやく、俺は跡部からのメッセージが入っとることに気づいた。

『どんな急用か知らねえが、あとで俺の家に来い。いいか。この俺がドタキャンを許してやったんだ』

げんなりする。許してないやん。

「侑士さん、大丈夫ですか?」俺がスマホを見て固まっとったせいやろう、伊織さんが控えめに声をかけてきた。
「ああ、すんません。ちょっと仕事関連で、いまから家に来いって連絡がきとったもんやから。僕にもね、プライドが高うて、金持ちで俺様な友人がおるんですよ」
「ええ? 本当ですか?」

目をまんまるにしとった。そらそうや。いま、23時過ぎやで。こっから跡部と飲んだら絶対に朝やん。

「ん……せやけどそいつも、普通の女の子好きになって。週末はデートやから、なんとしてでも今日中に話がしたいんやと思います。呼びだしくらいました」

まあ、そら俺が悪いからな……行くしかないわ。

「こんな時間から……ふふ、侑士さん、お優しいんですね」
「いやいや、仕事やし……それに友だちやから、飲みみたいなもんですけどね。ただ、そいつのことずっと見てきとるけど、意外とめっちゃロマンチック」
「なるほど……まさに現代版、高慢と偏見?」
「んん……近いもんはあったかもしれへん」跡部が口説きまくったら、彼女のほうはすぐやったけど。あいつええな、モテるから。
「でも侑士さんも、ロマンチストですよね、きっと」
「え、そ、そう思います?」ほとんどナンパみたいなことしとる俺のこと、そんなふうに思ってくれるんや……?
「思います。ラブロマンスが好きな男性は、ロマンチストなはず」
「あ、また偏見や」
「あっ、ごめんなさい。ふふ」

はあ、帰りたない。まだ乾杯してから1時間程度やん。しかもかわいい。俺の天丼に笑ってくれとる。
一方で、伊織さんとの関係は、めっちゃ大切にしたい。家まで送りたいけど、それも変なふうに思われたくないしな……初回はさっとスマートに帰ったほうがええか。
せやけど帰る前に、もう少しだけ……伊織さんのことを知りたい。

「それで? 伊織さんは?」
「え?」
「そういう相手、おらんのですか? ホンマに尊敬して、愛せる人」

いちばん聞きたいことを、ストレートに聞いた。男を見せたつもりや。
左手の薬指にはなんもない。たぶん、独身やろう。それなら、彼氏がおるんかおらんのか。好きな男、おるんかおらんのか……。めっちゃ大事なことやから。
唐突な問いかけに、彼女は笑った。ちょっといたずらっぽい目で、首をかしげてくる。

「ロマンスの相手なら、300人くらいはいますかねえ」
「は……」
「ふふ。世のなかって、広いですから」
「ははあ……そら、伊織さんモテるんやねえ」
「まかせてください! 侑士さんは?」
「俺……? 俺はそんなん、100人ちょっとや。ホンマ、敵わんわ」
「あははっ! さすが侑士さん、関西人」
「東京の人は、しょうもないボケかますわあ」
「あー、それは高慢っ」
「はいはい、えらいすんませんね」

しっかりかわされたことに、苦笑するしかない。
せやけど彼女との距離がぐっと縮んだことに、俺の胸は踊っとった。





to be continued...

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