Romance gray_02


2.


木目調のテーブルの上に、彩りの美しい朝食が並んでいく。ひとり暮らしのときはまったく口にせんかった朝食を、この2週間、俺はしっかり食べるようになっとった。

「伊織さん、ミルク入れとくな?」
「ありがとう。パンもできたよ。さ、食べようか」
「ん。いただきます」
「いただきます」

エプロンをさっと外して、伊織さんはにっこりと両手を合わせた。
心地ええコーヒーの香りをいっぱいに吸い込みながら、目の前の卵を口にする。はあ、今日もバターと塩のバランスがばっちり決まっとって……至福がえらいことになっとる。

「ねえ、侑士さん」
「ん? ああ、このぐちゅぐちゅ卵、ホンマうまいな」
「あははっ。侑士さんスクランブルエッグ好きだよね。簡単だよ?」
「そら俺かてこれくらいつくれるけどやで。こんなうまいのは伊織さんしかつくれへん」
「もう、大げさなんだから」

大げさなんかやない。ここにはたっぷりの愛が入っとるねん。そのエッセンスがあるとないとでは大違いや。くすくす笑う伊織さんが目の前におるのも、エッセンスのひとつやし?

「それで? なんか話そうとしてへんかった?」
「あ、うん。あのね、社労士の先生、お知り合いにいない?」
「え、しゃ、社労士?」
「そう、社労士。侑士さん税理士さんだし、社労士の先生、どなたかお知り合いにいないかなって」

あれから1ヶ月が過ぎとる。
伊織さんと同棲しはじめて2週間。そんで伊織さんは先週からうちの事務所で働いてくれとる。
案の定、彼女は仕事のできる人やった。おかげで、ここんとこは俺の体調も回復してきとるし、仕事はめちゃめちゃ楽になっとる。
おまけに早起きして朝食をとるようになっとるとか、健康的やしなんや爽やかやし、しかもそれが愛しい愛しい彼女の手づくりとか、もう、エクスタシー! ……とか、叫びたくなるほどの幸せの最中に、急に、愛しの彼女が急に、妙なことを聞いてきた。
いや、妙やと思うのは俺の問題やろう。それにしてもピンポイントすぎたで、ホンマにドギマギした。

「なん……なんで?」なんで急に社労士?
「うん、叔父がね、前の会社の人たちと一緒に起業することにしたようなんだけど、起業者が40歳以上だとほら、国からお金もらえるでしょ? 200万くらい」
「あー……支援助成金のことやろか」
「そうそう、助成金。それでね、わたしが税理士事務所に転職したって知った叔父がね、先生に聞いてみてくれないかって。社労士と税理士さんって、よく提携とかもするからって」

一応、説明しとこか。支援助成金制度。正式には生涯現役起業支援助成金ちゅう制度や。
起業日に起業主が40歳以上やと、いろんな条件がつくものの、上限150から200万円の助成金がでる中年のためのありがたい制度なんやけど……。
その申請には、伊織さんの叔父さんが考えとるように、社会保険労務士にやってもらうのが確実や。あいつら専門家やから。
それはそれとして……なんで俺に紹介を頼むんや叔父さん。あかんって。

「ん、んんっ……あー、なるほどな」変な咳払いしてまうやないか。
「どうしたの侑士さん? 体調、大丈夫? 顔色が悪いよ?」

顔色を悪くしとる場合ちゃうど俺……せやけど無理もない。社労士とか、言われた瞬間に固まってしもたやないか。不意打ちやめてほしい。はあ、ホンマにハラハラした。伊織さん、俺と暮らしはじめたことで、なんか気づいたりしたんやろかとか、余計なことまで考えてもうた。

「いや、大丈夫やで。せやけど、そういう助成金の申請やったら、社労士に頼むと結構かかるで。たしか1割くらい取るんちゃうかな。それやったらプロに頼まんでも、ちょっと調べたら自分たちでできる」
「え、そうなんだ!」

伊織さんが、綺麗な顔をぱっと輝かせる。俺は心底ほっとした。その様子からして、なんも知らんと聞いたことがわかったからや。
ああ、ホンマにビビった……朝からスリル満点な会話やったわ……はあ、よかった。

「やってみたら結構、簡単やと思うから。ちょっとそれで試すように言うてみて?」
「そうなんだ、よかった、侑士さんに聞いておいて」

安心したのと同時に穏やかな笑みが投げられて、俺はすっかり調子に乗った。

「それにな……」
「ん?」
「俺、社労士の知り合い、おらんねん」

それは俺がはじめて伊織さんについた、自分のための嘘やった。





楽観的な嘘がバレるのはお決まりのコース。おまけにバレるまでの時間も早い。
俺たちの試練のきっかけとも言える風が舞い込んできたのは、さらに1ヶ月後のことやった。『忍足税理士法人』の仕事にもすっかり慣れた伊織さんのデスクの上で、スマホがぶるぶると震えとる。

「佐久間さん、スマホ、鳴っとるよ?」
「あっ、すみません」ドタバタと、コピー機の詰まりを直しとる。
「あらら、慌てちゃって。あたしやっておくから、佐久間さん電話にでたら?」
「すみません、ありがとうございます」
「いいのいいの」

伊織さんはおばちゃんに頭をさげて、スマホにでた。一瞬、ぎょっとした顔をしながら席をはずす。ちょっと気になるけど……ま、なんかあったら相談してくるやろし、ええか。と、このときの俺はまだまだ楽観的やった。

「ねえ先生、佐久間さんって仕事もできるし、よかったですね、いい人が見つかって」
「ホンマに助かります」おかげで決算報告まであと1ヶ月やけど、余裕やし。「せやけど、おふたりがようしてくれるから、めっちゃ仕事が覚えやすかったって、佐久間さんも言うてましたよ」
「やだあ、本当ですかあ?」
「ホンマですよ、昨日、言うてはった」
「昨日? いつのまにそんな話してたの先生?」
「え?」
「だって先生、跡部さんが来たからずっとここで跡部さんと話してたでしょう? その前は外出してたし、戻ってきたころには佐久間さんとあたしたち、みんなで帰ったし」
「そ……一昨日やったかな!」
「もう、ボケボケなんだから先生は」
「すんません……」

午後のひととき、なんとかごまかして切り抜ける俺。先生とか呼ばれとるのに、ボケボケとか言われて情けない……どっちやねん。

「でも先生ね、あたし気になってたの」もうひとりのおばちゃんが、器用に手を動かしながら聞いてきた。
「ん、なにがですか?」
「佐久間さんの面接もしてなかったでしょう? どこで見つけてこられたんです? ご紹介?」
「あー……知り合いの、知り合いの、知り合いに紹介されて」ごまかし下手すぎやろ俺。不意打ちに弱いの、どうにかならんやろか。
「あら、そうだったんですか」

せやけど納得してはる。ま、お気楽なのがこのおばちゃんたちのええところ。
伊織さんはおばちゃんたちの受けもめっちゃよかった。二人からしたら小娘やろうけど、それでもある程度は大人やから、先輩をちゃんと立てながら謙虚なコミュニケーションを取ってはる。せやから仕事内容のスキルは彼女のほうが上やのに、まったく嫌味がない。
そういう人は年上に気に入られるんや。さすが、伊織さんやで。

「とっても32歳とは思えないしっかり者ですよねえ。もう3人目も産んだあとだったわあたし」全然、関係ない話に飛ぶのもおばちゃんならでは。まあ俺、そういうの嫌いやないけど。
「あたし3人目が生まれたときだったわ。上の二人が男なのにまた男でさあ」
「ちょっと地獄じゃないよ、それ」
「地獄よっ! いまだって地獄だもんっ」うちのオカンなんか俺だけでも地獄やって言うてたからな。男の子を育てるのは大変なんやろう。知らんけど。
「お二人とも結婚が早かったんですねえ」とりあえず、話を合わせといた。
「あら先生、最近の若い人たちが遅すぎなんですよ。佐久間さんだってすぐにでも結婚できそうなのにしてないし、先生だってダメよ、いつまでも独身でいちゃ」おっと……ようわからんストレスが急にこっちに向かってきよったで。
「ん……せやけど俺、今年28やし」このご時世、世間的にはそこまで遅いとも思わんけど。
「遅い遅い」
「男の腰が重いのよ、最近は」
「はは……あー、コーヒー注いでこよ」
「ほらっ、ほらあ、逃げるっ」

逃げるってなんや……彼女でもないおばちゃんたちに責められる意味がわからへん。と、俺がすっくと席を立ったのと同じタイミングで、スマホを耳に当てたままの伊織さんが戻ってきた。助かった。俺やと処理できへんおばちゃんたちの鬱憤は、伊織さんに任せとこ。

「うんわかった……うん、あとでね」
「佐久間さん、ひょっとして彼氏?」
「えっ?」
「電話の相手! 男の名前だったものー」

おばちゃんたちはめっちゃめざとい。ちょうどそういう話をしとったからやろうけど、ほどほどにせんとセクハラんなるで。伊織さん優しいからええようなもんやけどさ。
ちゅうか、誰やねん男って……! と、俺もコーヒーを注ぎながら思わずブンッと振り返る。口に出さんだけで、マインドはおばちゃんたちと一緒やっちゅうねん。

「あははっ。違いますよ、叔父です、叔父」なんや、叔父さんか。はあ、ヒヤヒヤしたわ。
「またそんなこと言って。彼氏いるんでしょ? 今度あたしたちに見せて!」それやったら目の前におるで。とは言えへん。
「いやいやそんな、お見せするような人では……」こらこら、どういう意味やそれ。「あの、先生」
「ん?」

素知らぬ顔で背中を向けてコーヒーを注ぐ俺に、伊織さんは声をかけてきた。毎回、思うんやけど、この「先生」呼びもきゅんきゅんする。今度ベッドのなかでも呼んでくれへんやろか。はは……言うたらめちゃめちゃ変態扱いされるんがオチやろな。妄想だけでやめとこ。

「ちょっとだけ、出てきてもいいですか? ちょうどこれから休憩に入ろうと思っていたので」
「そら……全然ええけど」別に休憩時間やなくても、外出になんの文句もない。「どないかしたん?」

伊織さんの顔は、やけに焦っとった。なんや緊急事態やろか。電話の相手は叔父さんやったみたいやし、親戚の不幸やろうかとか、ぐるぐる考えたのはこのときだけやった。
要するに俺は、1ヶ月前の会話なんかなんも覚えてなかった。そう、あのときは最終的に、調子に乗ったから。

「大丈夫? 大変なことなら早退でも。ねえ先生?」おばちゃんたちも同じ心配をしとる。
「せやで佐久間さん。こっちは大丈夫やから」
「あ、いえ違うんです。叔父がちょっと、近くまで来ていて。実は、社労士の事務所に飛び込みで行こうと近くまで出てきたらしいんですけど、迷っちゃったみたいんです」

俺はようやく、ここでドクンッと心臓が跳ねた。みるみるうちによみがえってきた記憶。
そんでもって、この状況に……あかん、なんか嫌な予感しかせえへん。

「あらあらそれは大変。早く行ってあげなさいな」おばちゃんが伊織さんを促した。
「はい、すみません」
「社労士事務所に飛び込み? でもそれなら……ねえ? 先生」せやけど、もうひとりのおばちゃんが俺を振り返る。
「えっ……」

直感的に、体中がビリビリしはじめた。これは……あかんやつ!

「先生のお友だちにいらっしゃるじゃない。わざわざ飛び込まなくても。すぐそこに」
「ああ! そうですよね先生! そうだわ、あの先生を先生に紹介してもらえばいいのよ佐久間さん!」先生先生、うるさいなっ!
「そうそう、ほら、先生の!」
「いや、あのっ……」

おばちゃんたちがニヤニヤと、キャッキャとしはじめとる。そうや、こいつらめざといねんっ。やであかん、あかんあかんあかんあかん!
伊織さんの目がまんまるになる。俺のことを一直線に見て、呆然としとる!
あかんって! このおばちゃんたちの口を誰か止めてくれ!

「先生……社労士のお知り合い、いらっしゃるんですか?」
「いやそ……」あかん、喉になんかへばりついて声がでていかん。
「佐久間さん、すぐそこだから。場所。教えてあげる」
「えっ、あ、はい……」

おばちゃんに腕を引かれた伊織さんは、俺から背中を向けとる状態になった。
ああああああああかん、もう絶対にやばい! 伊織さんの表情が見えへんっ!

「あそこのビルのね、5階。ほらここからよく見えるでしょ? 『吉井社会保険労務士事務所』って看板」
「はい……見えます」
「お綺麗だし、腕もいいって評判よ」

待ってくれ、頼む。俺は急いで3人に近づこうとした。
もうそれ以上、余計なこと言わんといておばちゃん、絶対に言わんといてな!? わかっとるよな!? いやわかっとるわけない!

「あの、ちょ……あつっ」

焦るあまり、コーヒーが指にこぼれてもうたやないかっ。

「そうなんですか……」
「そうなの。なんてったって!」
「ちょ、ちょお待っ」ホンマにやめろ!
「先生の彼女なの!」

だあああああああああああああああああ! 

「ねー? まったく先生たち、早く結婚すればいいのに!」
「ち、ちゃいます! ちゃ、彼女やな……!」
「税理士と社労士ってよく一緒に事務所を開いてたりするじゃない。あたしいつかそうなると思ってるのよ!」
「そうよねえ! そしたらいまよりもっと大繁盛!」

とき、すでに遅しとはよう言うたもんで。
地獄にはいろんな種類があるんやろう。子どもを3人も育てたおばちゃんたちの口からでてきた能天気すぎる発言は、俺にとって、子ども10人の面倒を見るよりも地獄やった。
なんでって……背中を向けとった伊織さんがゆっくり、ホラー映画のヒロインみたいにゆっくりと、俺に振り返ってきたから。

「へえ……先生の彼女、社労士さんだったんですか」

いままで見たことないような、ものごっつい目をして……。





「な、なあ伊織さん! 俺の話、聞いてや……!」
「なにもお話することはありません」

おばちゃんたちが帰った17時過ぎの事務所内。伊織さんもいつもどおりおばちゃんたちと一緒に帰るために準備をしはじめたんやけど、俺はめちゃめちゃ職権乱用して、それをなんとか食い止めた。

――佐久間さんっ、ちょ、ちょお待って。ちょっとだけ。15分でええから、残れへんかな?
――あら、先生、そういうのよくないですよっ。終業時間になってからそんなっ。
――そうですよ。どうしてもならあたしたちも手伝いますよっ。
――あいや、それがどうしても、どうしても、佐久間さんやないとできん仕事があって。やで、佐久間さんだけでええんです……佐久間さん、堪忍。手伝ってくれへん?
――わかりました。15分だけなら。

おばちゃんたちの前やからやろう、にっこりと、伊織さんは笑った。せやけど当然のように、目は笑ってへんかった。跡部もびっくりの氷の微笑。おばちゃんたちはなんも疑わんと帰ってくれたけど、ふたりきりになった途端、伊織さんはずっと背中を向けたままで。

「う……な、なあ伊織さん!」
「結局、わたしがお手伝いするお仕事はなかったということでいいでしょうか」

経理ファイル取ったりコピーしたりパソコン打ち込んだり、あっちこっちあっちこっち歩く伊織さんを、まるですりこみされたヒヨコみたいに追いかけ回して必死に話しかけとるのに……。
いやわかっとる。俺が悪い。せやけどもうその口調もなにもかも怖すぎるんやってば!

「誤解やねんっ! おばちゃんたち、勘違いしとってさ!」
「そうですか、それはそれは」

完全に、怒っとる……いや、そらそうなんやけどさ。怒るんも当然なんやけどさ。そら、いくらお姉さんやからって、伊織さんやって仏やないんやから、怒るよな。わかっとるけど……昼からの伊織さん、ずっとめっちゃ怖いんやもん。
俺が外出するときに、いつも言うてくれる「いってらっしゃい」の声もかけてくれへんかったし、見向きもしてくれへんかった。いや俺が悪いんやけど……泣きそうや。

「な、なあ伊織さん……? そんな、彼女なわけないやん? 伊織さんと俺、付き合うとるんやし、同棲までして、仕事も一緒やのに。俺が外に女つくる時間なんてないやんかっ」
「そうですね、いつもお昼の外出先は、一応、お客さまのところになってますし。実際のところなにしてらっしゃるか、我々のような職員にはわからないことですから」
「ちょ……そんなんひどいで、伊織さん!」そんな言いぐさある!?
「ひどい? へえ、ひどいですか」どの口が、とでも言いたげや。
「いや、そ、やって、俺そんな信用ないか!?」
「あら先生、ご自分のことを棚にあげて、話題をすり替えて今度はわたしを責めるんです? というか15分経ったので、帰っていいですか?」

もう伊織さんの口からでてくる言葉とは思えへんほどの冷たいセリフオンパレード。加えて、冷たい背中から向けられる視線。
帰ってええわけないやろっ。このまま帰らせたら俺が帰るころにはマンションごと凍っとるわっ。それも地獄やっ!

「な、なあ伊織さん、こっち向いて? ホンマ、彼女とかそんなんちゃうねん。そんなわけあらへんやん?」
「どうだか」
「どうだかって……伊織さん、俺が好きなん、付き合っとんのも、伊織さんだけやって」

めっちゃ勇気を出して、パソコンを無言で打ち込む伊織さんにうしろからぎゅうっと抱きつくと、伊織さんは黙った。
どうやら、触れるのは許してくれるらしい。そうやろ……? 伊織さんやって、ホンマは誤解ってわかっとるやろ? 怒るのはわかる、俺が悪いから。せやけど話し合わせてよ。

「いじわるせんとってよ……愛しとんの伊織さんだけや」

同時に、手の動きも止まる。はあ、ちょっと、ほっとした。まだ望みはあるようや。

「な? 伊織さん。わかるやろ?」
「……わからない」
「ぐ……」
「じゃあ聞きますけど、吉井先生? とは、どういうご関係ですか?」

う、と言葉に詰まる。そらそうよな。それ聞くよな。わかっとったで。もちろん心の準備もしとった。せやけど、準備しとったからってスラスラ言えへんねん。面接と一緒でな。
それ言うのはものっそい勇気がいることなんや。たぶん、伊織さんの想像どおりやし……。

「侑士さん?」せやけどあかん、黙っとったら怒られる。
「そ……そらあれや、ほら、知り合い……」
「侑士さん!?」

どっちにしても、怒られた。ブンッと振り返って、鬼の形相が目に飛びこんでくる。
その反動で、思い切りびくついた俺は、伊織さんからうっかり手を離した。

「や、やって知り合いやから……!」
「はい!? いまさら、そんなのが通用すると思ってるんですか!? だったらどうして、あの日、あのとき、あの場所で、わたしに知り合いなんていないって言ったの!?」

興奮して小田和正になってるやん……! トゥクトゥーン、ちゃうねん。いやふざけとる場合ちゃう。あかんもうめっちゃ怖い。ああもうこれは、ごまかしきれんか。そういや俺、ごまかし下手やんっ。おばちゃんには通用しても伊織さんには無理やっ。

「……そ、やから、それは、ややこしいことに」なると、思って。案の定やんか?
「いまもっとややこしいことになってるってわかりますよね!?」
「わ、わかります……」
「往生際が悪すぎ! はっきり言って!」
「わ、わかったからそんな……怒らんで……頼むわ」

そんなん、ピシャっと言えることとちゃうねんか。わかっとるくせに伊織さん……もう死ぬほど怖いやん。はっきり言うても怒るくせになんで言わせようとするん……。
おまけに腕組みまでしとる。眉間にシワまで寄っとる。俺はちょこんと、となりの席に座った。ただ椅子に座っただけやけど、気持ちとしては正座しとる。

「前に……付き合っとって……」
「……」ああああああ、黙っとる。怖い。
「そ、それでも結構、前やんかっ。もう別れてから3年は経っ」
「そんなことはどうでもいい」
「はい……」

職員室に呼び出しくらった学生よろしく、床に埋め込むほど、俺は首を折った。怖くて顔なんか見られへん。どないしよう。どうしたらええんやろ俺。ここから抜け出す方法がわからへん。いくつになっても女の人の扱いを心得てない。
心臓がビリビリしはじめたときやった。長い沈黙をやぶったのは、伊織さんやった。

「どこまで……?」
「え……」
「……どこまで真剣な交際だったのか教えて」

唐突な質問にすぐには反応できへんで、そっと視線だけでたしかめると、目の前の真剣な瞳は、ぐらぐら揺れとった。ぎゅっと、また違う胸の痛みが襲ってくる。俺の小さな嘘が、ここまで彼女を傷つけてしもたんや……。

「あのとき……わたしにわざわざ嘘をついたのは、そういうことだよね?」
「いや……」
「言いたくないんだ?」
「……伊織さん」
「どうして別れたの?」
「伊織さんって……」
「それも言いたくないんだ、わかった」

涙を見せたくなかったんか、伊織さんはまた背中を向けて、パソコンを打ち込みはじめた。
それでようやく、俺は彼女の気持ちを察した。伊織さんは、元カノの存在がどうとか、どういう関係やったとか、そんなことよりも、俺が隠したがった事実が気に入らんのやって。
あのとき、俺がさらっと言えばその場で終わった話やったんや。そしたらたぶん、こんなにいろいろ聞いてきたりもせんかった。
隠そうとしたのは、単純に元カノやったから。それなりに、ちゃんと付き合ったし。伊織さんはそれを見抜いとる。新しい恋をはじめとるのに、隠したがったことで、俺がいまも引きずっとるように思えたんやろう。

「堪忍……俺、伊織さんのこと傷つけたくなかっただけやねん」
「……そう」
「せやけど、それが逆に傷つけたんよな? 堪忍」

もう一度、うしろからそっと抱きしめる。伊織さんは俺の腕に頭をうずめて、鼻をすすった。はあ……泣かせとる。ダメやな俺……恋愛、いっぱいしてきとるのに。なんも学べてない。

「俺がいま好きなの、伊織さんだけや」

せやけどこれだけは、本心やから。もう伊織さんしかおらんって思っとる。伊織さんみたいな人に会ったことない。絶対に手放したくない。思いだけはたっぷり込めた。口にはせんでも、伝わっとるはずや。

「好き。めっちゃ好き。愛しとるよ? それやのに、傷つけてごめんな?」

ぎゅっと腕に力をこめると、しばらくうつむいとった伊織さんが、こくん、と頷いた。子どもみたいになっとる……そういう弱さも、めっちゃ愛しい。

「ごめんな、嘘ついて……」
「侑士さんが優しいからだって、わかってる」
「それでも、ごめん」

ぶんぶん、首を振って。俺のスーツをつかんできた。あかん、めっちゃかわいい。一生懸命に涙を止めようとしとるその負けん気も、俺が一生、守りたくなる。
そっと髪をなでると、ふう、と呼吸を整えはじめた。顔をあげて、やっと俺と目を合わせてきてくれたけど、まだ潤んどる瞳が、切ない。

「ごめんなさい。わたしも大人げなかった」
「そんなことない」俺やったらたぶん、もっと大人げないことになっとる。「伊織さん、ヤキモチしたんやもんな?」ホンマにごめん。
「……少し」強がり。かわい。
「ふふ。少し? せやけど伊織さんかて、300人も相手がおったんやろ?」
「もうっ……そんな話、笑えない」

そうは言いながらも、微笑んでくれる優しい伊織さんが、俺はめっちゃ好き。

「元カノは元カノや。俺にとっては過去。どんな恋愛やったとしても。伊織さんもそうやない? 元カレはおったやろ?」
「……うん」
「俺もおった。せやけど、そやって遠回りして……な?」
「うん」
「いまやっと、ホンマに心から愛せる人を見つけたんやって思っとる。伊織さんとはこれから、一緒に未来を築いていきたいって思っとる。伊織さんは違う?」
「違わない……気持ちは一緒だよ。だから、ごめん」
「いや、隠しとった俺が悪い。せやけど、会いたくないやん?」
「会いたくない」ピシャリと、言い放った。ちょっとカッコええくらいに。
「やろ? せやから、伊織さんと気まずくなんのも嫌やったから、嘘ついてもうた。堪忍」
「わたしこそ、ごめんなさい」
「せやけど、信じて? うしろめたいことやなんて、ないから」
「うん……ごめんね。ちゃんと、侑士さんを信じてる」

伊織さんと俺の、はじめての諍いやった。ケンカってほどでもない、軽い諍い。
お互いが自分の言動に反省して、お互いしっかり謝って。ああ、大人の恋愛やなって、やっぱりこの人しかおらんって思ったら、嬉しなってきて。

「伊織さん、愛しとるよ」
「わたしも愛してる」

俺はそっと、伊織さんに口づけた。誰もおらんし。事務所でこういうことするん、はじめてでちょっと興奮したくらいや。
せやけど……またこうして調子に乗った俺のせいなんか、それとも運命で決まっとったことなんかはわからへん。神様が与えてくれた試練は、こんなことでは終わらんかった。

「侑士いるー? わ、ああっ! ごめんっ!」

扉が開けられて、いきなり事務所に入ってきて、あげく俺を呼び捨てにしてきた女の声に、俺も伊織さんも跳ね上がって距離を取った。
そう、つまり、お察しのとおり。

「おま……なにしに……」
「やあもう、そういうことはほら、ちゃんと鍵を閉めてからにしてよ! あたしが気まずいじゃん!」

3年前の彼女……吉井千夏の登場や。





to be continued...

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