愛しさ故_01





1.


伊織と付き合いはじめて、2週間が過ぎた。全国大会もすっかり終わって、9月上旬。学校でも部活でも伊織に会えるうえに、部活後も一緒に過ごしとる俺らは、めっちゃラブラブな毎日を送っとる。「まいーにちがスペーシャール」いうて歌いたくなるほどの竹内まりや状態で、俺は今日も、部活後にせっせと1年C組まで足を運んだ。

「伊織ー?」
「えっ……ちょ、おしっ……先輩!」

伊織はいつも、部活が終わると窓際の席で部誌を書いとる。教室を覗きながら声をかけると、目をひんむいとった。
こらこら、なんちゅう恐ろしい顔してんねん。それが愛しの彼氏を見る目か?
あと、いま普通に「忍足先輩」って言おうとしたな? お前、付き合い初日は「侑士先輩」呼び完璧パーペキパーフェクトやったのに、気い張っとったんか? 菊丸もびっくりやで? 気い抜けたらそうなるんか?
「忍足先輩」言うたら謙也も「忍足先輩」になるやんけ。あかん、そんなん絶対あかん。
次はないで……? まあ俺、優しいから、いまのは聞かんかったことにしたるけどもやな。

「わ、来たよ……忍足先輩だ……!」
「うわあ、ホントに来た。じゃあ、やっぱり噂はホントってこと?」

とっくに下校時間も過ぎとるっちゅうのに、なぜか1年C組には、ぎょうさんの女子たちがたむろしとった。
しかも、小声で話しとるつもりなんか、地獄耳の俺には聞こえてくるザワザワ声。ホントに来たってなんやねん。なんで俺がここに来るって知っとるんや? 教室に入った途端、一斉にこっちを向いてざわつきはじめよってからに。うっとうしい。
3年が1年の教室に来ることやなんて、俺やなくても滅多にないせいやろか。めずらしそうに全員が俺に注目しとる。
ほんで、噂ってなんやろ。俺と伊織が付き合っとるって噂やろか。
うんうん、それな、ホ・ン・マ。くく……もっと広めてええで? 伊織が俺のもんやって、学校中に知れわたったらええねん。そしたら伊織に変な虫がつかんで済むわ。

「超ショック。あー、あたしもやっぱりマネージャーオーディション受けるんだった……」

お嬢さん、なにいうてんの? 自分アホなん? お前が受かっとったとしても、俺の彼女になれるわけちゃうで。せやけど、俺を応援してくれとるんやな、おおきに。そこだけはお礼を言うとくわ。
けどな、俺には伊織が必要やったんや。ちゅうか、伊織しか必要やないねん。伊織がどこにおったって、絶対に俺が見つけて惚れあっとった。俺と伊織はそういう星のもとに生まれたんや……。
とか、ついつい心のなかで語りつつ、ようやく伊織の席の前までたどりついた。ギャラリーおるから長い道のりやったわあ。伊織、会いたかったで。

「なんや、千夏ちゃんはまた伊織に押しつけて帰ってもうたんか?」

話しかけてんのに、伊織は目を逸らした。ソワソワ、キョロキョロ、オドオドして、そっと席を立つ。距離を取るように、背を向けて教室の扉に向かって歩きだした。
おい、どないしたんや。

「いや……千夏は、跡部先輩とケンカしたみたいで、怒って帰っちゃったみたいなんですけど」

なんでやか、申し訳なさそうに、ちょこちょこ振り返りながら言うた。
あいつらケンカしたんか。アホやなあ。せっかく部活がいつもよりはよ終わったのに、ケンカしてもうたら一緒におれる時間が無駄になるやん。
それはそうと、どないしたん伊織? どこ行くねん、こっち向きいや。照れてんの? かわいいなあ。このままチュウしたろかなあ。そしたら真っ赤になるんやろなあ。ああ、その顔、はよ見たい。ふたりきりになれるまで待ってられへんわ。はよ帰ろ、俺のマンション。ほんでイチャイチャしよ?

「んん……どっちにしても伊織に押しつけとることに違いないわな」
「あの……そんなことより、先輩」
「伊織、どこ行くん? もう部誌、書き終わったん? なあ、こっち向いて?」

あと数歩で教室の扉にたどりつく伊織の手首を、ぐっとつかんだ。伊織の体がビクッと震えて、動かんようになる。なんやあ、なにをそんなビクついてんねん?

「先輩……」
「なに? なんか冷たない? 侑士、寂しいんやけど」

しゅん、と大げさにリアクションすると、伊織が慌てだした。
なんやボソボソ言うとる。なにそれ。いくら地獄耳でも聞こえへんで。

「なに?」
「だから……教室に来ちゃダメですよって、言ったじゃないですか……っ」

教室の隅まで移動して、俺を見あげて、めっちゃ小声で、叱るようにそう言うた。
そういやなんか、言うとったな?

「なにそれ? 全然、聞いてへんでそんな」
「も……先輩っ! お願いしますっ……!」

しれっと言おうとした俺にかぶせるように、めちゃめちゃ困惑した顔で、また小声で言うた。どうやら、しらばっくれた俺が気に入らんらしい。
もう、冗談やん。わかっとるわかっとる、おやすみの電話で言うてきたことやんな?
それは、昨日のことやった。どういうわけか伊織は、教室に来るのをやめてくれと言いだしたんや。

――二学期がはじまってから、侑士先輩が迎えに来てくれるの、すごく嬉しいんですけど……それを見たクラスメイトから、一斉に噂が広まっちゃったんです。
――ふんふん、そんで?
――そ、ですから、顔見知りの子も、まったく知らない子も、先輩女子とかからも、もう質問攻めにあっちゃって、大騒ぎになってるんです。
――ふんふん、それが?
――いや、それがって……だから、わたしの教室に来るのは、お控えいただけ
――嫌や。
――せ、先輩っ!

だってさあ……。
そんなん言うたって付き合うとるんやし、別にええやん? せやから、食い気味で「嫌や」と言うたんやけど……強情な伊織は、まだ俺を納得させようとしとる。
そんなん言われてもなあ……なんでそんなしょうもないヤツらを気遣って、俺が伊織に会うのを我慢せなあかんねんな。どう考えてもおかしいやろ。
ほんで、なんでほかの連中に、俺と伊織の交際をごちゃごちゃ言われなあかんねんな。それも、どう考えてもおかしいやろ。
そら、伊織の親御さんとかなら、まだわかるで? まだ、な。まあ、たとえ親御さんやっても、俺は引き下がるつもりはない……そういや、まだ挨拶もさせてもらってないけどやな。それやって、いつんなったら会わせてくれるんや。あっちも嫌、こっちも嫌……なんなん? なにが嫌なん? 伊織は俺と付き合うとること、周りに知られたないんか?

「きょ、教室、出ましょうか、とりあえずっ」
「やから、嫌やって」
「も、いいから……! 早く……出てくださいっ」
「ちょちょちょ、ちょ、伊織なにすっ……、ちょおっ……!」

俺の抵抗に聞く耳もたんと、背中を押してきよった。結局、そのまま教室の外まで追いだされたんやけど……廊下には誰もおらん。安心したんか、伊織は深いため息をついて、ぷっと頬をふくらませてきた。
なーんや、怒ってんの? かわい。

「すぐ終わらせますから、ここで待っててください……!」
「嫌や」

俺も伊織の真似をしてぷくっとふくれてみせた。どない伊織? 侑士かわいい?

「も、お願いしますって……!」

って、全然ツッコんでもくれへんやん。なんやあ、もう。

「伊織の傍で待ちたいねん、俺は」
「侑士先輩……!」
「嫌やってば」

全然、いうことをきかん俺に、伊織はさらに困ったんか、眉を八の字にした。「うう」と小さく唸りながら、またキョロキョロと周りを見渡しはじめとる。
もう、ええやん……なに気にしてんねん、と、思ったときやった。
校内シューズがキュっと鳴ったと思ったら、伊織の背が伸びた。直後、俺の唇に、やわらかい唇が重なる。チュ……と、控えめな音と、一緒になって。
ほんの、一瞬やったけど……それは伊織からの、はじめてのキスやった。

「……え」
「も、わがまま言わないで……」

目が、点になった。
うつむいた伊織はバタンと扉を閉めて、教室のなかに戻っていく。俺は自然と、口もとに手をあてた。
あかん……も、もう俺、死んでまうかも。絶対いま、真っ赤になっとる。どないしよう、心臓、バクバクいうてきた。
伊織から、キスしてきよったで。「わがまま言わないで……」って、めっちゃ、かわいかった。わあああ、役得やあ。こんなん、こんなんしてくれるんやったら、死ぬほど教室訪問して、わがまま言いまくったろかな!
心のなかでジタバタしてしまう。ほんまやったら、また教室のなかに入っていこうかと思っとったんやけど。あんなキスされたら、いうことをきくしかない。もう、伊織ずるいわあ……反則や。
結局はそのまま、両手で顔を覆いながら余韻に浸りつつ、おとなしく1年C組の前で伊織が出てくるのを待つことにした。帰ろうとする伊織の同級生たちがちょこちょこ俺を見ていくのも、なんも気にならん。

「忍足先輩」

廊下には1年女子たちが多かったせいやろう。それとも気持ちが浮かれすぎとったせいか。俺は話しかけられる直前まで、その存在にまったく気づかんかった。

「ん……?」

名前を呼ばれて、真横を見る。同時に、その男は俺に会釈をして、わずかに微笑みながら言うた。

「伊織、なかにいます?」

……誰や、お前。





ていうか、ていうか、ていうか、なんかわたし、すっごいことしてしまった!
はああああ……すんごく、思いきっちゃったよ。だってもう、侑士先輩、全然わかってくれないんだもん……。
始業式当日、侑士先輩はこの1年C組の教室に、なんの前触れもなく現れた。部活後だったので生徒の数は少なかったけど、それでも目撃者たちからの噂は、すぐに広まってしまったのだ。
おかげさまで、わたしはちょっとした被害を受けている。

――ねえ佐久間さんさ、忍足先輩と付き合ってるの?
――アンタ1年だよね? 忍足くんとどういう関係?
――なんかさ、吉井さんもそうだけど、最近、調子ぶっこいてない?

そんなの、調子ぶっこくに決まってんじゃん……だって侑士先輩の彼女になっちゃったんだから。しかも侑士先輩、「将来は……」とか言ってくれたんだぜ!? ああ、うっかり口調がおかしくなっちゃったよ。要するに、調子にのりまくってるんだぜ、こっちは! ワイルドだろう!?
まあ、だからって……そんなことを堂々と言えるはずもない。
そりゃ、本当だったらみんなに自慢しまくって、わたしが侑士先輩の彼女なんです! ってゼッケンつけて学校中を歩きまくりたいところなんだけど……この学校では……というか、相手が相手だけに、それにはリスクが大きすぎるのだ。
侑士先輩はそのへんが、全然わかってない。わたしも余計な心配はかけたくないので、千夏が跡部先輩にそうしたように、侑士先輩に相談もしてないから、無理ないのかもしれないけど……。

――景吾に相談してみる?
――いや、いいよ。そんなの、跡部先輩には関係ないことだし、申し訳ないし。
――ん……伊織がそういうなら。景吾は、すぐ対処してくれたんだけどねえ。けどなんかあったら、遠慮なく言ってよね?
――うん、ありがと千夏。

千夏は経験者なので、いろいろと気遣ってくれている。それだって、心配かけて申し訳ないなと思っている。
跡部先輩はそのへんの自覚がある人なので、千夏が相談しなくても察していたらしい。だから千夏は被害を自分で解決したけれど、その後の彼女に被害がないのは、きっと裏で跡部先輩が動いているんだろうと彼女は推測していた。自分で解決した千夏にも、跡部先輩は密かに惚れなおしている気がする。本当にお似合いのカップルだ。
それはそれとして、とにかく侑士先輩にも自分がモテるという自覚を持っていただきたい、と思う。
現に、侑士先輩があの日に教室に来ただけで、翌日からわたしはたくさんの生徒(主に先輩女子たち)から、呼びだしを受けていた。
校舎の裏、トイレ、屋上、なんだか使われていないような教室、などなど……呼びだされるたびに、「コロンをつけてくるな」だの、「スカートが短すぎる」だの、「ネクタイの長さが間違ってる」だの、「はいてる靴下が気に入らない」だの、「体操服のシャツはズボンのなかにしまいこめ」だの……至極どうでもいいことを注意したあげく、最終的には侑士先輩とのことで罵られまくるのだ。
侑士先輩が教室に来た翌日はとくに被害が大きいから、せめて教室に来るのだけは控えてほしいと言ったのに……。
あのとおり、「嫌や」の一点張り……あああああああもうそんな侑士先輩、愛しいけど!
愛しすぎるんだけど、でも! ……はあ、どうしろっていうんだろう。
なんか最近、気持ち悪い手紙とか届いちゃってるし。
こないだなんて、机のなかにわたし宛ての手紙があると思って封を開けると、A4サイズのコピー用紙に赤い大きな文字で『祝』とか書かれていたし。思わず、「あ、ありがとう……」とか言っちゃったし。きっと『呪』って書きたかったんだ……。
今日だってこれだけ女子たちがたむろってるのは、それをひと目見ようという人ばかり。
結局、侑士先輩を追いだす形になってしまった。廊下に誰もいないことを確認して、超勇気をだして、先輩にキスまでしちゃったよ。いまはなんとか外で待ってくれてるから、効果あったってことかな……。
でも、ホッとしたのはそれだけだ。教室に入ると、全員がこちらをしっかりと見ていた。
その視線を強気に無視しながら、机に座って部誌のつづきを書きはじめる。だけど無視したところで、ヤジが止まるわけでもない。その声は、しっかりとわたしの耳まで届いてきた。

「いいよねえ……マネージャーになっただけで、あんな彼氏ができちゃうんだから。たいしてかわいくもないくせにさ」

ええ、ええ。どうせ、たいしてかわいくないですよ。でも、いいだろう。うらやましいだろう。とは、もちろん言えない。こういうのはとにかく、シカトに限る。なに言われたって、侑士先輩と別れる気なんて、微塵もありませんし。
先に跡部先輩と付き合うことになった千夏を見て、勉強になったとこも大いにある。変な流れだけど、千夏、感謝……南無南無、南無三。使いかたは間違っているだろうけど、そんな気分だ。
とはいえ、あまり侑士先輩を待たせるのは嫌だし、わたしだって先輩と早くふたりきりになりたいわけで。急いで部誌を書いてから、すぐに荷物を持って教室を出た。

「侑士先輩お待たせし……っと……竜也」

そこに、侑士先輩と、いとこの竜也がいた。思わぬ組み合わせに、わたしは目を見開いた。

「よ、伊織」
「……たつ、や?」先輩が、首をかしげながらつぶやいた。
「え、どしたの?」
「や、お前にこないだ借りてたCDさ、今日お前ん家に行って返してもよかったんだけど、1年全員で残って自主トレやることになって……遅くなりそうだから」

いつもの調子で、竜也はそう言ってきた。
そういえば、1週間前に竜也にCDを貸していた。わたしが音楽好きなので、竜也にはよくCDを貸すことがあるのだ。とくに、めずらしいことでもなんでもない。だからわたしもいつもの調子で、竜也に応えた。

「えー、そんなのいつだってよかったのに。それにうち、遅くに来てもらっても全然」
「ん、なんだけどさあ、うまい具合にカバンに入れてたんだよな、これが」

悪戯っぽくニッと笑いながら、彼はバッグのなかからCDを取りだした。
その笑顔に、お愛想のように一緒になって微笑んでしまう。竜也は昔から、ちょっと生真面目なところがある。借りたものは1週間で返さなきゃいけないと思っているのか、それ以上の期間をあけることがない。絵に描いたようなA型なのだ。
侑士先輩もA型だから、うちの両親に挨拶したがるんだろうか。生真面目、の度合いがどうかしてる気がするけども。

「そうなんだ。わざわざありがとね」
「ん。ってか、このバンドいいな。今度さ、ツアーで日本に来るらしいってオフィシャルサイトに出てたよ」

CDを返しながら、竜也は嬉しそうにつづけた。アーティストの話題になると、わたしも見境をなくしてしゃべってしまう。ツアー、という言葉に、そして知らない情報に心が躍り、両手を合わせてはしゃいだ。

「えっ、本当!? すごい! 見たい! 行きたい!」
「な、見たいよな! 去年はフジロックに出演してたらしい……もっと早くに知ってればなー!」
「え、そうなの? ああん、わたしも行きたいフジロック! 今年なんかさ、ビョークが来たんだよ!」
「うわあ、伊織の好きなヤツじゃん!」
「そうなの! でも部活もあったし、お小遣いもカツカツだったから、あきらめた。そのかわり配信で、しっかり観たけどね!」
「配信、よかったよな? でも生で観たいよなあ、やっぱり」
「だよねえ! なんとか来年は行きたいと思ってるんだよ。でもほかのフェスもあるし、やっぱり出演アーティストで決めちゃうから」
「全制覇は、小遣いだけじゃキツイしなー。てかバイトもなかなかできないしさあ」
「そうなんだよー。でも竜也、来年こそは一緒に」
「げえっほん! ごおっほん!」

そこまではしゃいで、はっとした。
竜也との会話で盛りあがりすぎちゃったせいなのだけど……しばらく横でわたしたちの会話を黙って聞いていた侑士先輩に、このとき気がついた。いや、高い身長のおかげで、いることにはもちろん気づいていた。が、竜也を紹介することをそっちのけでしゃべっていた自分に気づいたのだ。
大きな咳払いにびっくりして、慌ててしまう。見ると先輩は、目を一直線にして竜也を見ていた。

「あ、忍足先輩すいません、話しこんじゃって……」
「ごめんなさい侑士先輩、お待たせし」
「いやいや、ええねん」

侑士先輩は軽く微笑んでいた。少しだけホッとする。どうやら、喉がイガイガしちゃっただけらしい、と判断したからだ。
ああ、びっくりした……怒ってるのかと思っちゃったよ。でも侑士先輩がそんなことで怒るわけないよね。いつも温厚だし、とにかく、めっちゃくちゃ優しいし。わがままなところはあるけど、それもきっと、先輩なりのじゃれ合いだもんね。
しかし、胸をあたたかくしたのは、つかの間のことだった。侑士先輩はその高い身長で、竜也を見おろしながら言ったのだ。

「竜也くん……? 伊織の友だちか? はじめましてやな」
「えっ」
「えっ」
「え?」





ごっつい気分が悪くなったのを押し隠すように、俺は「竜也くん」とかに、伊織の顔を立てるためにも律儀に挨拶をしたった……いうのに。なんや、二人して俺をポカーンと見つめとる。
おかげで一瞬、三人の間で時間が止まった。なんか変なこと言うたか? と、急激な不安に襲われとると、伊織が慌てるように俺を見あげた。
……やっとこっち向いたな、お前。それもめっちゃ気になっとったで、さっきから。

「先輩あの、竜也は前に話した、ていうかあの部活の」
「いやいや、無理ないって伊織。俺には雲の上の人だから」
「は?」

ほんでなんやねん、こいつは。伊織が言いかけたことにかぶせて偉そうに。しかもさっきから「伊織」って呼んでんのも、どういうつもりやねん。
あと、雲の上の人とか言いつつ、めっちゃ余裕かまして見えるんは俺だけか?
で、なに? 前に話した……? ほかの男の話を俺の前で、話したやと? はは、アホ言うたあかん。そんなん俺が忘れるわけないやろ。

「1年D組テニス部所属、小野瀬竜也っていいます。こいつのいとこです」
「え」
「です、先輩。前に話しましたよね? いとこで、テニス部に入りたいって言ってた……彼のことです」

へえ……そういうことか。そういや、初デートのとき聞いた気がするわ。
まあ、それはええとして……ツッコみたいことがようけあるんやけど、ええよなあ? 心のなかやったら、なに言うても。
まず、1年D組ちゅうことは、伊織のとなりのクラスっちゅうことやんな。あかん、それだけでめちゃめちゃ腹が立つんやけど……。大人げないか? まあええわ、俺まだ17歳、未成年やし、大人なわけあらへん。ほんで心のなかのぼやきやし。
しかも、「小野瀬竜也」やて……? どんだけカッコええ名前じゃ自分……あかんあかん、めっちゃ腹立つ……。
しかも、しかもやで? 「伊織」呼びも許せへんっちゅうのに、「こいつ」やと? 誰に向かって誰のことを「こいつ」言うとんじゃ。くらわすどボケ。なんで伊織をお前の所有物みたいに言うとんじゃ。ああ? 俺のやっちゅうねん。
ほんで、テニス部て。まあ、それはええわ。200人も覚えられるかっちゅう話や。
で、あげく? さっきの会話の、「一緒に」ってなんや、伊織。俺以外の男とフェスに「一緒に」行くやと? 絶対に許さん……まだ実行してないだけ、なんとか怒りは沈めたる。
せやけど、これが極めつけや。さっきからこれが、いちばんネックやねん。
なあ、伊織……。「竜也」やと? 「竜也」? おいおい、いっちょまえに呼び捨てやないか。
俺のことは「忍足先輩」って思わず言うくらいやのに、いつまで経っても「侑士先輩」から「侑士」に昇格せえへんのに、こいつのことは「竜也」か? なんでや? なんで? なあ、なんでなん伊織。
なんで、こいつは、呼び捨てなん? なんで?

「ああ、堪忍な。200人もおるし、俺も覚えきれんねん」

心のなかで悪態をつきまくりながらも、俺は思いっきりポーカーフェイスを発動して、なんとか、そう言うた。
せやけど胸の奥がどろっどろの感情でうずまいとるのが、自分でもわかる。

「や、オレ、全然、気にしてないですから。全然!」

はははははは……ああ、そうですか。
あのなあ、「全然」って、2回も言うたらめっちゃ気にしとるように聞こえるんやけど。嫌味か? それとも俺が気が立っとるからか? ……まあええ、それはええ。ちょお、この怒り、どこで沈めたろか。

「いとこやけど、名字は違うんやな?」
「はい! 小野瀬です!」

何回も言うな。小野瀬とか、カッコよすぎるやろ。しばくぞ。ああ、あかん、また言うてもうた。いくらなんでも、やつあたりが過ぎるか。ふう、冷静にならなあかんな。
そう、なんとか努めようとしとるっちゅうのに、や。

「母方のいとこなので、違うんですよ。侑士先輩、竜也ね、部活すごく頑張ってるんです! わたしもマネージャーになってから竜也の練習姿をはじめて見たんですけど、あの、この機会に……!」

目の前の伊織が、これまた、めちゃめちゃ嬉しそうに話しだした。俺のどろっどろうずまきが、また、胸の奥を支配していく。
おい伊織……「竜也」って、何回も言うな。ほんで部活を頑張っとるやと? あたりまえやろそんなもん。なにをお前はそんなに、嬉しそうに話してんねん。

「やめろって伊織、忍足先輩はそんなの気にしてらんないの!」
「いいじゃん、チャンスだよ!」
「やめろって……失礼だろっ」
「えーでも竜也、ずっと侑士先輩と試合してみたいってー」
「あああああ……ったく。余計なこと言うなって!」
「よく言うー! 竜也、わたしに頼んでみてくれってこないだ!」
「言ってねえよ、やめろって!」
「また竜也すぐ嘘つくっ、言ったくせにー!」
「げえっほん! ごおっほん!」

お前ら、わざとか……? 俺に嫉妬させたいんか、伊織、なあ? 違ういうても、もう遅いで……とっくにめっちゃ嫉妬してんで……なあ。いくら、いとこやいうてもな……俺にはそんなの関係ないで?
そんだけ俺の目の前で「竜也」連呼されて、気分がええわけないやろ……?

「あ、また話しこんじゃってっ……ごめんなさい」

いまさら謝られても、もう遅いっちゅうねん……。
しかも伊織が謝っとるん、このぐっちゃぐちゃになった俺の心のことやないもんな?
はあ……クソが。付き合っとる女のことで嫉妬なんかしたことないで、自分でもびっくりするわ。嫉妬って、こんなに腹が立つもんなんか。そら、伊織が跡部のこと好きやないかって勘違いしとったときも嫉妬はしたけど、俺の伊織になったあとや、あのころの比やないわ……。

「ええで」
「えっ」
「えっ」
「……試合、したるよ」

いつもの俺なら、コンディション的にも、時期的にも、絶対に断る。
せやけど、俺は承諾した。瞬間、伊織と小野瀬の目が見開かれた。そこから、二人が顔を見合わせる。いまにも抱き合って跳ねあがりそうなほどに、笑顔になって。

「マジですか忍足先輩!?」
「ああ」
「やった竜也!」

しかも伊織と小野瀬は、ごく自然に、両手でハイタッチをした。そのまま手を握りしめて、お互いを揺らし合いながら歓喜の声をあげはじめる。おい、ちょお待て……。

「わああああ、やったね竜也!」
「やべえ、オレ泣きそう!」

ええ加減にせえよ……。
なにを仲よさそうに見つめあって、強うに手を握り合っとんねんお前ら。そのまま抱き合うつもりやないやろな? 殺すぞ。

「おい、小野瀬」
「あっ、はい!」

声のトーンが変わったのが、自分でもわかる。名前を呼んだら、小野瀬が伊織からパッと離れて、直立で俺に向き直った。
……遅いねん、もう。

「いまから1年だけで練習すんねやろ? コートで待っとき」
「あ……ありがとうございます忍足先輩! すぐ、準備します!」

俺の心の闇にも気づかんと、小野瀬は足早に消えていきよった。
アホが……喜んでんのもいまのうちやわ。ちょうどええ、やったろうやないか。この怒り、どこにぶつけようか悩んどったとこやねん。

「侑士先輩、本当にありがとうございます!」

伊織の声を無視して、俺は小野瀬の背中を睨みつけた。
俺にやって、プライドがあんねん。そんな高いプライドとちゃうけど……伊織、お前の恋人は、俺ちゃうんか。
伊織にとって特別なんは、俺だけでええ。俺以外の特別やなんて、絶対、許さへんからな……。





竜也の憧れは、跡部先輩じゃなく、ずっとずっと、侑士先輩だったから。
「いつか忍足先輩と試合したい!」って言いつづけてた竜也のこと、わたしは間近で見てきてる。
わたしが侑士先輩と付き合うことになったとき、「オレにもチャンスが来るかな」なんて期待して、いちばんワクワクしていたのは、竜也だった。それだけ、先輩は竜也にとって特別な人なんだ。
その侑士先輩と、侑士先輩に憧れつづけてきた竜也が試合することになって、わたしは、ものすごくテンションがあがった。

「侑士先輩、本当にありがとうございます!」

いろんな思いをめぐらせながら、感謝の気持ちいっぱいで、侑士先輩に深々と頭をさげた。
だけど、先輩は無言のままだった。その視線が、ずっと竜也の背中を見ている。

「……侑士先輩?」
「伊織、一緒に部室に来て」
「あ、はいっ!」

先輩は、眉間にシワを寄せていた。くるっと踵を返して、ぐんぐんと部室に向かっていく。
闘志が満ちているうしろ姿に、胸がドクドクと音を立てはじめた。
だって、だって、どうしよう、すっごくカッコいい、侑士先輩……!
名前も知らなかった下級生なのに、やっぱり先輩にとってテニスの試合には変わりないってことだ! ああ、すごい! あんなに表情が変わるなんて!
ああああああ、どうしよう、どうしよう、むっちゃくちゃカッコいいよおっ。あの人がわたしの彼氏? もうー、何度だって思う、信じられないっ!
足早に部室に向かう侑士先輩の背中を、わたしはせっせと追いかけた。いつもは歩幅を合わせてくれる先輩だけど、そんなことにかまってられないんだろう、集中してらっしゃる。
もうもうもう、こんなカッコいい人の彼女だなんてっ。たまんなすぎるっ!

「伊織」
「はい、なんですか?」

部室に入りながら、先輩は背中を向けたまま話しかけてきた。いつもより声のトーンも低くて、本気モードだってことがわかる。くううう、しびれるうううっ。

「小野瀬と、どんだけの付き合いなん?」
「あ……えっと、生まれたときからですかね! 同い年だし、母とおばさん、すごく仲よしだから、小さいころからよく一緒に遊んでたんです」
「ふうん……」

侑士先輩は、さっそくロッカールームに入っていった。
手前の部屋で待機しながら、えへらえへらと応えてしまう。シャキッとしたいけど、あんなにカッコいい先輩の姿を見せられたら、もう無理だ。顔がニヤけちゃって、しょうがない。
だって、あの人が、わたしの、彼氏……! くはあっ!

「せやったら、ずいぶん付き合い長いねんなあ?」

ロッカールームを隔てて、先輩はつづけた。それすら嬉しくて、わたしも元気いっぱいに応えた。

「そうですね。もう16年ってとこです!」
「ふうん。16年……ホンマに生まれたときからやん」
「なんかそう言うと、双子みたいですけど。でも本当に物心ついたら、そこにいたって感じなんですよ」
「……さよか。まるで一心同体か?」
「いやあ、っていうと、ちょっと大げさかなって思いますけど……でもたしかに、竜也との絆は強いかもしれません。うちの兄弟よりも、竜也に相談したりすることのほうが多いですし」

ていうかいま、侑士先輩、生着替え中なんだよね……。ああ、想像しただけで昇天しそう。ダメダメ、エッチなこと考えてる場合じゃない。先輩は真剣モードなのに、不謹慎だ、わたしは!
でも、あの人、わたしの、彼氏……! たはあっ!

「ふうん……ずいぶんと仲がええんやな?」
「たしかに、仲はいいです! でもだから、侑士先輩のこともずっと聞いてきたんですよ!」

そう、だから侑士先輩は、男が憧れる男である。それだってすごくカッコいい。竜也が侑士先輩を褒めるたびに、ちょっぴり優越感に浸っちゃっうんだよねえ。えへへ。

「さよか……」
「今日は遠慮がちでしたけど、竜也って昔っから、ちょっと照れ屋なとこあって! でも本当は侑士先輩と、ずっと……きゃっ!」

ロッカールームの扉に背を向けて、意気揚々と話していたときだった。わたしの腕が突然に引っ張られて、大きな声をあげてしまう。
いつのまにか着替え終わっていた侑士先輩が、わたしを正面に振り向かせて、思いきり壁に押しつけてきていたからだった。

「ン……!」

そのまま、唇を強くふさがれていた。いきなりのキスに、頭がまわらなくなっていく。先輩の手が、わたしの両手首を痛いくらいに握りしめている。
な、なにこれ……! な、なんで!? 嬉しいけど、な、えっ!?

「せんぱっ……」

一瞬は離れても、それはまた訪れた。貪るように、何度もくり返される噛みつくようなキス。
やがて熱を持った先輩の舌が唇を割って無理やり侵入したときは、全身に緊張が走った。

「ふ、あ……」

付き合ってまだ間もないわたしたちだ。こんなに強引で激しいキスをされたのは、はじめてだった。
息ができないほど、激しい。苦しくて、涙がでそうになる。わたしはつい、身をよじらせた。

「舌、だせや」
「……待っ、せんぱ」

なぜこんなことになっているんだろう。戸惑う気持ちと裏腹に、体が熱くなっていく。
先輩は舌を絡めたまま、離してはくれなかった。部室中に、ちゅる、くちゃ……と、乱暴なキスの音だけが響いていく。
どうしよう、ちょっと、怖い……。

「ふっ……はあ……せん、ぱ」
「やめや、それ……」

激しいキスが、一瞬、力を弱めた。ゆっくりと、唇が離れていく。
息切れしているお互いの唇から一筋の糸がたれて、このときわたしは、ようやく気づいたのだ。
彼の様子が、いつもと違うことに。

「えっ……」
「侑士って……いい」

なんでいま、そんなことを言ってくるんだろうか。

「呼び。侑士って。言うてみ?」

このおねだりを、最近は聞かなくなっていた。
いまだに呼び捨てできないわたしに、昨日まで先輩、「かわいいな」って、言ってくれてた、よね……?

「……侑士、せんぱ」
「先輩いらんって」

怒ってる……あきらかに、これまでとは違う目の色だ。わけがわからない。なんで急に?

「……その」

怖かった。怖くて、言葉を詰まらせた。呼ばなくちゃ……思っているうちに、侑士先輩の表情が、変わる。
彼は、冷めていた。あきれたような、見放したような、失望の色。
ゾクッとわたしの肩が震えた刹那だった。先輩が、ついにわたしから手を離したのだ。

「あっそ」
「えっ……」
「行くわ……竜也くん待っとるやろしな」

困惑で、動けずにいた。
わたしを振り返りもせずに、先輩が、部室から出ていく。
バタン、という激しい扉の音と同時に、体が波打って、反射的に目を閉じた。

「侑士先輩……」

指の背を口に当てた。液体が唇の外まで濡れていて、泣きそうになってくる。
壁に背中をつけたまま、わたしはしばらく、息を切らして呆然としていた。
彼のなかで揺らめく青い炎が、このときのわたしには、見えていなかったのだ。





to be continued...

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