動揺
一騒動終えた後、アビが電球を替えながら語る。
「僕は結局何が変わったわけじゃないんですよ」
語る相手はフウロだった。
フウロとアビ、この二人は実のところ仲が良かった。年齢が近く、まだこの屋敷に来てからお互い日が浅かったので、気が合ったのだ。
「僕は今でも何かを踏み台にして、高く昇りつめたいと思っています。でも、そんな踏み台を快く用意してくれる人々がいるといないとでは、随分違って見えるんです。なりふり構わず、誰それ構わず敵視して、踏み台を見つけては利用するより、ずっと世界は輝いて見えるんです」
フウロはアビのそんな言葉を聞くと、にこりと笑う。
「それを変わったって言うんだよ、小僧」
蒸れる帽子の下の頭をかきむしり、フウロは返した。
「それがアビの世界の輝かせかたなんだね」
慌ただしく巡る日々に、カナスは翻弄される。イシエレ軍事病院提案の記憶喪失者専門の病院の件で、アンダーソンは信頼なのか嫌がらせなのかカナスを設立委員会の人間に指名してきた。生憎カナスは未成年なので一応断っておいたのだが、設立には時間がかかる。一方カナスはもう間もなく成人を迎えるので、委員会入りはそう遠くなさそうである。
カナスは溜め息をつく。
記憶喪失者の件はほぼ解決だ。専門病院が開設されれば行き場のない患者をそこに入れて、新たな社会進出を応援もできる。ただ、まだ問題は山積だ。
アトロスエ政府が率先して行っている可能性のある洗脳という人格破壊。あの現状は、結局またアンダーソンの頭を悩ませ続けるのだろう。一体どうすればいいのだろうか。
「そんなにひどいんですか、彼らは」
フウロが顔をこちらに向ける。
「そうだな。話もできない」
「……そうですか。あの国は、そこまで堕ちましたか」
フウロは窓を見て、俯く。フウロはアトロスエの植民地マニスカで育った。ある意味、アトロスエは祖国だ。しかし、フウロの様子にどこか違和感を覚えた。
「……フウロ、お前何か知ってるか?」
「…………」
フウロは何も答えなかった。カナスはそれ以上聞くのを止め、自ら語る。
「アトロスエももう降伏したほうがいいんだけどな。この戦争であの国は何を得たんだ」
兵士になりたいと望んではいるが、あそこまで人を不幸にするなら戦争なんてしなくていいとは思っている。
「病院で少女兵を見た。あの国は少女にまで手を出してるって知って、正直恐ろしかったよ。なんか自我も――」
そう言った途端、フウロの動きがぴたりと止まった。
「フウロ?」
一瞬で、フウロの様子がおかしい事に気が付いた。フウロに近寄り表情を伺うと、カナスの方もまた驚いた。
顔は血の気が引いて蒼白になり、驚愕やら焦燥やらが混じった表情を見せ、呼吸は乱れ、小刻みに震えていた。フウロの様子の大幅な変化に戸惑う。今まで見せたことがなかった姿を、どこか見てはいけなかったものの様に思えてくる。
「フウロ、大丈夫か?」
カナスはフウロの肩に触れる。一瞬フウロの震えが腕に伝わって、恐ろしく思う。フウロははっと正気に戻り、冷や汗を浮かべた額に触れる。
「……え?」
フウロはしばし動揺したまま、小さく呼吸する。何も答えられないままだった。
「フウロ、急にどうしたんだ」
しばらくしてようやくフウロは呼吸を落ち着かせることができた。そしてなんとか答える。
「大丈夫です……大丈夫です」
二回繰り返したのは、自分に言い聞かせる為だったのか。今まで見せてこなかった表情を見せてしまったことへの動揺もまた含まれる。カナスは言う。
「無理はするなよ」
心配せざるを得ない。フウロがそんなふうに豹変した。心配してしまう。するとフウロは、笑った。
「――っ、やーだなぁ旦那様ったら! 私の心は鉄の塊ですよぉ? 心配しないでくださいよ!」
無理をしているのは目に取れた。だから無理はするなと言ったのだ。カナスは言葉を返せなかった。フウロは結局、動揺の理由を語らない。隠し続けてしまう。
フウロが普通の人生を歩んでいないことは既に分かっていることだ。極端な優秀ぶり、常人離れした運動神経、戦闘能力。彼女がいったいどのような人生を送ってきたかは分からない。だが、あの動揺を見る限り、彼女の心の奥に、開けてはいけない扉があることは、わかった。
その扉が開かれた時、カナスには一体、何ができるのだろうか。
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