喪失






 精神科病棟に足を踏み入れてすぐに叫び声が聞こえた。アンダーソンは「混乱しているのです」と言った。精神がどこかずれてしまった人々が、ここに集められているのだと改めて思い知らされる。
「ここには、戦争のショックで記憶を失った人も入院しているんです」
「記憶喪失?」
「はい。それで記憶の回復の為の治療を行います。ただ、この病院も人数がいっぱいなので、患者さんの身元が分かり、尚且つ傷が治っているようならば退院してもらっています。通院はしてもらいますけどね、なかなかに歯痒い現実です」
 イシエレ軍事病院は国内でも有数の大病院だが、それでも入れる人間には限りがある。日常生活を送れるならば記憶が無くとも返さなければならないのは、医者としても辛いところだろう。それだけ次から次へと患者がやってきているということだ。
「怪我をする前後の記憶をなくす人が多いですね。要は外傷、あるいは一時的なショックと考えて良いでしょう。戻る人はすぐに戻って、一般の病棟に移ることが多いのですが、戻らない人はずっと戻らないままですね」
「へぇ……」
 歩きながら話す。周りには病室から抜け出した患者が看護師によって取り押さえられている光景があり、あるいは空中を見て楽しげに話す患者がおり、確かに不気味だが――少し悲しくもなった。
「ここが記憶喪失患者の部屋です」
 部屋の中には看護師と仲良く話している者、あるいは呆然とベッドの上で横たわっている者、あるいは必死に写真を見ている者がいた。記憶を失ったことを受け入れている者と、記憶を取り戻そうと苦悩している者、そういう違いなのかもしれない。
「…………」
 アビが俯き加減に、現実から目を背けるようにメモに目を向けた。右手に大事そうに握られた万年筆は、少し薄汚れている。

「ここが問題の部屋です」
 アンダーソンが、ある扉の前で立ち止まった。扉には「関係者以外立ち入り禁止」と大きく書かれ、厳重に鍵がかけられていた。まるで危険な物をそこにしまいこんでいるようだった。
「この部屋は――アトロスエ出身と思われる人々を集めているのです」
 扉の向こうから大きな声が響く。叫び声、というより怒号に近かった。出せ、ここから出せ、そんな言葉が聞こえてくる。ガシャン、ガシャンと、牢獄のような音が鳴り響く。ここは病院のはずだ。
「許可を取ってすぐ、アトロスエ出身者専用の部屋を用意したんですが、実は……ほとんど使っていません。理由は見て頂ければ分かるでしょう」
 アンダーソンがそっと扉の鍵を開けていく。そして「すぐに入ってくれ」と小さな声で二人に言うと、ドアノブを回した。扉の先は、二人の想像のつかないものがあった。
 鉄格子。
 本当に、囚人を牢獄に閉じ込めておくような場所だった。
「この部屋はもともと、精神病の重篤患者を入れる為の物だったのです。しかし――」
 アンダーソンの言葉をかき消すように、患者の一人が鉄格子を握りガチャガチャと大きな音を鳴らしていた。そして次に出た言葉が
「殺してやる――!」
 だった。あまりに殺気に満ちた言葉に思わず血の気が引く。
「……このような状態の人が、あまりに多くて。こんな有様ですよ」
 アビが恐る恐る
「原因は何か分かっているんですか」
 と尋ねた。するとアンダーソンは首を振り、「わかりません」と悔しそうに口を開く。だがその言葉に「ただ」と続けた。
「彼らを搬入した際、皆アトロスエの軍服を着ていたんです。恐らく、全員兵士です」
 つまり敵国の軍人であるが、ひどく血走った眼でこちらを見てくる。敵意なのだろうか、いや、それにしても違和感がある。
「……おかしくないですか、いくらなんでも」
「…………」
 カナスは思わず、アンダーソンを睨んでしまった。
「ここに居るのはみんなアトロスエの軍人なんですよね。じゃあなんで皆が皆――こんな有様になってしますんですか」
「そんなこと、私が知りたいぐらいですよ。精密検査をしようにも、彼らはひどく抵抗して――なまじ訓練を受けているものだから、女性の多いこの現場じゃどうにもならないんです」
「…………」
 出せ、ここから出せ、そんな声が絶え間なく聞こえてきて、心が苦しくなる。お国の為だ、王の為だ、戦え、命を散らせ。狂気的なものに聞こえてくる。何でだ、こんなこと、普通あり得ない。皆が皆だなんて、信じたくない。
「何でこんなことになっちゃうんですか。どうして……」
「……私どもは、彼らが洗脳のようなものを受けたのではないかと考えています」
「洗脳……」
「かつて、この国が最も誤っていた頃にも起きていた事です。可能性として無くはないでしょう。国の頂点に狂気的な尊敬の念を植え付け、頂点の為に命を捨てさせる暗示をかける。それが己の意思であるかのように」
 確かにそう考えるのであれば、納得はいく。この狂気が誰かによって作られたものなら『皆が皆』という状況が起きてもおかしくはないだろう。ただそれが事実ならば、人が人を意図的に壊していることになる。
「人を殺しているのと同じじゃないか……」
 戦地へ赴くことがそこまで綺麗な事ではないことぐらい理解している。だが、己の意思で国の為に手を赤く染める事と、己の意思を改竄されて兵器のように扱われるのと、一体どちらが良いのだろうか。どちらも正しくないことぐらい分かっている。だけど
「せめて自分の意思だったら――」
 自分の意思だったら、罪に対しても割り切りが付くだろう。生き残った時に、償おうという意思が生まれないとも限らない。だが、意思そのものを壊されて、それが万が一戻った時、知らず知らずのうちに手を汚していたことに対して一体どうしていけばよいのだろうか。想像が付かなかった。
「こんなの許されていいんですか……」
 アビから出た苦痛の言葉に、当たり前に共感する。こんなこと許されるはずがないのに。
「まだ確証ではありませんけれど、でも、事実であった場合は早急な対応が求められます。いち早く解決しなければならないでしょう」
「いち早く戦争が終われば、こんなこと続かないんですかね」
「分かりません。そうであってほしいとは願います」
 アンダーソンは溜め息を混じらせる。目の前の現実に悲観させられる。隣の国の兵士の心は、誰かによって殺されている可能性がある事。一体どうすればいいのだろうか。
「……更に過酷な事を言いますと、比較的症状が浅いなと思った人もいたんです。それで傷の治療等を行いながら精密な検査を始めたんです。しかし」
 声を押し殺すような声だった。アンダーソンは詰まりながら続けた。
「大抵、その翌日に亡くなっています」
「え……何故?」
「自殺しました」
 あまりに衝撃的な言葉だった。症状が浅いと思われた人間が、皆自ら命を絶つ――何でそんなことになってしまうのだろうか。
「そんな暗示をかけられた――ってこと、まさか」
「その可能性もあり得るでしょう」
「信じられない……」
 人の命をなんだと思っているんだ。どうして、そんなことを平気でさせる事ができるのだろう。そんなとき、あのメイドの言葉が頭に浮かんだ。
 ――『一概に人は責められませんよ。あの国じゃ、良心的な王様も無力ですから。議会が一方的に物事を進めちゃっているんです。今あの国は、少人数の人間の意思によって回されているんです』
 少人数の意思が自分の国の人々を殺すなら戦争自体に意味がないじゃないか。自分の国の人間を殺すぐらいなら――領土なんかいらない。
「…………」
 以前ここに来た時よりも、衝撃を受けた。こんなに胸が苦しい。
「……。まだ見て頂きたいものがあるのです。大丈夫ですか」
「大丈夫です。アビ、お前は?」
「僕も、大丈夫です。行きましょう」
 苦しい胸の中を必死に抑えながら、アンダーソンの言葉に従った。

 精神科病棟の中に併設された、ほとんど使われていないというアトロスエ病室へ案内された。部屋は暗くされており、使われていないようにみえるが
「ほんの数日前、搬入された患者さんをここに入れました。どういう人かは見て頂ければお分かりいただけます」
 そうアンダーソンは扉を開けた。今度は特別気を遣っている訳ではないようだ。部屋は黒いカーテンが掛かっており、日中であるのにもかかわらず夜のように暗かった。
「患者さんを見てあげてはくれませんか」
 言われた通り、ベッドに力なく横たわる患者を見た。
「女……女の子?」
 ベッドの上には少女――フウロと同じぐらいの少女がいた。力なく、光の無い目をみせていた。周りをよく見てみると、同様に少女達が横になっている。
「彼女達もアトロスエの軍服を着た状態で搬入されたんです」
「つまり――少女兵?」
「恐らく」
 隣国はとうとう、少女まで兵にするのかと思った。カナスは、自分自身は戦地に行きたいと願っていたが、弟や妹にはむしろ行ってほしくないと思っていた。弟や妹たちには、こんな現実知って欲しくない――それが兄冥利というものだ。
「彼女達は他の人とは違い、暴れる事はありません。負傷が比較的軽い子ならば、歩くことだってできます」
「……動こうとはしませんね」
「はい。問題はそれなのです」
 少女達はただ息をしているだけで、動こうとしない。ピクリとも動かない。
するとアンダーソンが、一人の少女に近づき、一言「歩いて」というと、その少女は突然起き上がる。そしてベッドから降りると、しっかりとした足取りで歩きだした。
「……!」
 察した。彼女達は、人の命令でならば動くのだ。
「……もうベッドに戻って」
 アンダーソンの言葉通りに少女は再びベッドに戻り、横になると再び動かなくなった。まるで人形のように。
「……このように、彼女達は私達が声をかければ動きます。恐らく、カナス様やアビくんの呼びかけにも応じるでしょう」
「そんな……」
「彼女達もおそらく、洗脳の類を受けた物を思われます。ただまだ入院してから日が浅く、完全に彼女達がそうだとは言い切れないので、精密な検査は行っていません」
 横たわる少女達は、動かない。一体彼女達は何をされたのだろう。カナスは想像した。彼女達もきっと意思を殺された――だけどあの元兵士達とは違い、あらゆる人間の意思に従属するように仕向けられている。何故、何故なのだろう。そう言えばあの元兵士は全員男性だった。血走った目で怒鳴りつけていた彼らは、全員男だった。ただここに居るのは全員少女。無条件にどんな相手にも従う。どんな相手にも無抵抗。男たちは暴れ、下手に放せば殺されるかもしれない。しかし彼女達は違う。無抵抗、無条件。決して暴れない。何も言われなければじっとする。抵抗しない、抵抗されない――
「――!!」
 カナスはそこで気が付いた。彼女達が生き残り、兵士としての役目を終えた時の末路に。
「……アンダーソン院長、例えば、例えばですよ。決してやらせろとは言いません。ただ可能性だけを述べてもらえませんか」
「……何でしょう」
「例えば彼女達に『服を脱げ』と命じれば、彼女達はそれに無抵抗に応じますか」
 するとアンダーソンは少し苦しそうに
「はい」
と答えた。そこで推測は少しずつ確信に変わっていく。
「まさか……役目を終えたら、男達にひたすら手篭めにされる……?」
「え……」
「抵抗しないから、何しても抵抗しないから、男達に遊び道具になるんじゃ……」
 顔が一瞬で青ざめる。きっとそういうことなのだろう。まだ女性の立場が弱い時代、こんなことまで――。人道に反するというレベルを逸脱している。最早人じゃない。カナスは心からそう思った。
「…………」
 生きている人間の、生きる権利を奪うなんて。意思を奪って、戦わされ、体は遊ばれる可能性がある。そんなの、一体どこの誰が許すのだろう。どうして許せるのだろうか。
「これが現実ならあんまりじゃないか」
 少人数の意思が、年端もいかない少女の未来さえ奪うのならば、あんまりだ。
 滅茶苦茶だ。


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