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かく、と先輩の体から力が抜け、寝息が聞こえてきた。
そっと肩から手を退けて先輩の様子をしばらく観察する。
起きる気配はなく、詰めていた息を吐いた。
やっと、寝てくれた……!
達成感が押し寄せてきて、静かに両の拳を掲げた。
すぐに落ちると思ったのに、思いの外時間を取られてしまったな。
でもまあ、先輩に堪能してもらえたからよし。うん。
さて。確か生徒会室には、仮眠室なるものが備え付けられているらしい。
部屋の奥の扉を開ければ、給湯室とその隣にもう一つ扉が。それを開くと、簡易ベッドが置いてあった。
小窓はあるものの、日差しは入らないようで薄暗い。寝るのにはちょうどよさそうだ。
室内を確認してシーツを整え、布団を捲っておく。
先輩のもとに戻って、抱き上げてベッドまで運んだ。
俺と先輩の身長はあまり変わらないから、持ち上げられるか心配だったが杞憂だった。部活動で鍛えられた俺の体は、根を上げることはなかった。
ただ、軽々と言えないのが残念だ。もっと鍛える必要があるな。
それにしても、と眠っている先輩を見る。
すやすやと穏やかな寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
その顔の輪郭をじっと見つめて、改めて確認する。
──せ、先輩の顔、ちっちゃ……!
スタイルがいいのは知っていたが、思ったよりもすっぽりと手に収まってしまって驚いた。マッサージしていて気がついたが、頭が丸く丸顔だからだろう。
少しつり上がっている目は、閉じられると途端に幼い印象になる。鼻はすっと通っていて高いのに、口が小さいせいでそう見えるのだろうか。
髪の毛は細いが絡んだりせず、指を差し入れればさらりと指が通った。
先輩が目を瞑った時、キス待ち顔に見えてしまったのには焦った。マッサージを進めていったときに、段々と先輩の目がとろんとしたのもやばかった。
口付けしそうになって堪えた俺、えらい。
先輩をそっとベッドに寝かせて布団をかけ、物音を立てないように仮眠室を出た。
さて、先輩にはしっかり寝てもらって。
その間に俺ができることは全部終わらせてしまおう。
まずは体育祭のパネル台の設営を業者に連絡しなきゃ。依頼はしてあるって言っていたから、来校の日程とか詳細を確認しないと。連絡先は昨年の資料に記載があったはずだ。
それが終わったら来賓リストを出力して、先輩が確認済みの書類に押印して、追加の書類とともに職員室と理事長に書類を届けよう。
先輩が作ったやることリストを参考に、項目を一つずつこなしていく。
一段落したところでちらりと時計を見れば、15時半を過ぎたところだった。
ハンコを押すだけの作業が、あんなに時間がかかるとは思わなかった。あと初めて知ったが、ずっと紙を触っていると指の油分を紙に持っていかれるのか……。
少しカサつく指を擦り合わせた。
──そういえば、午後の授業を丸々サボったな。
一瞬頭をよぎったが、俺にとっての最優先事項は先輩なので気にしないことにした。成績は悪くないし、半日くらいサボったところで大した影響はないだろう。
授業中だから各委員会の委員長に書類を渡しに行けないことが唯一の懸念だ。
授業が終わるまで、あとちょっと。
……ああっ、先輩が起きちゃったらどうしよう!
先輩が目覚めたときに、任された仕事が一通り終わっていることが理想なのだ。
急ぐ案件の内、父兄向けの生徒会だよりは俺じゃ書けないから、それだけは先輩にお願いするしかない。それ以外で残っているのが各委員会への体育祭の協力依頼と打ち合わせ。
これが一番、骨が折れそうである。
放送委員会と体育委員会の委員長はノリがいいから二つ返事で承諾してくれるはずだ。美化委員会も問題ない。
悩みは、先輩も言っていたが、風紀委員会。
転入生が来てから、その騒ぎの対応やそれに乗じた事件に毎日駆り出されているせいで、風紀委員長がかなりご立腹らしい。噂を聞いた感じだと、温厚な副委員長でさえも最近は笑顔が怖いとのこと。
──先輩は、風紀委員会には自分が行くと言っていた。
でも、ただでさえ風紀委員会と生徒会は仲が悪い。先輩に虎穴に入ってほしくなくて、俺が行きますとは言ってある。
愛しの先輩のためだ、たとえ昨日、風紀委員長の鬼の形相を見たかけたとて、俺に向けられたものじゃないから大丈夫。たぶん。
……うん、先輩の寝顔を見て、癒されてから行こう。
風紀委員長の怒った顔を思い出してびびったわけではない。決して。
そっと仮眠室の扉を開けると、先輩はまだ眠っていた。
寝かせたときとは異なって横を向いて寝ている。眠る前よりも、かなり顔色が良い。
粥とはいえご飯を食べて、マッサージでリラックスしてもらったし、何と言っても睡眠がとれたのなら、いつものかっこいい先輩に戻れるだろう。
復活した先輩の姿を想像して、嬉しくなって顔がにやけた。
声を出さないように口元を押さえながら先輩を見る。とても穏やかな寝顔だ。
……ていうか、布団を抱き込んで眠っているの、可愛すぎないか!? く、口も半開きになっていて可愛いぃ……。
思わず、すっとスマートフォンを取り出した。
えっ、写真撮っていいかな……いやでもシャッター音で目覚めちゃったらいやだな……でも、納めておきたい……。
スマホ片手に散々悩んだ俺は、先輩を起こさないことを優先させるべく、泣く泣く眠る姿を目に焼き付けた。
先輩の寝顔を存分に堪能した俺は、仮眠室を出た。時計を見て、あらびっくり。とっくに16時を過ぎている。
先輩の姿を見に行っただけで時間が消えるなんて不思議。
俺は急いで書類をまとめ、各委員長の元へ向かった。
果たして最難関であろう風紀委員会の協力は、驚くほどあっさりと得られた。警備の配置など仔細は、会長を混ぜて話し合うそうで、書類を渡して少し話しただけで解散となった。
というかさすが風紀委員長。生徒会の惨状をしっかり把握なさっていた。もし会長が倒れて生徒会が回らないようならリコールも視野、だそうだ。
あと、『今日の下校時間までに生徒会から資料が回ってこなかったら、会長を説教するつもりだった』とも言っていた。風紀委員長、容赦がない。こっわ。
叱られる先輩は見たくなかったから、俺が来て正解だった。
組織のトップ同士とはいえ、京ヶ瀬先輩は2年生で風紀委員長は3年生。例年は生徒会長と風紀委員長が同学年になるから、より対立するらしい。
そんな中、昨年の生徒総会で1年生なのに生徒会長に抜擢された京ヶ瀬先輩を、風紀委員長は一目置いているらしい。
今期の生徒会役員は2、3年生が混じっているから、2年生で会長な先輩はやりにくそうである。今回の件があって、風紀委員長も少し先輩を心配していた。
風紀委員長との別れ際、会長と生徒会を頼んだと言われた俺は自信満々に「もちろんです!」と返した。
──先輩は独りじゃない。俺はもちろん、風紀委員長も味方だった。風紀委員会と生徒会が連携を取れるのなら、もう怖いものなしだ。
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