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 目の前に、紙の山がある。
 来週はもう体育祭なのに、細かい処理がまだ終わっていなかった。

 風紀委員会に警備の配置について聞かないといけないし、放送委員会には当日のアナウンスの依頼、体育委員会にはグラウンドの白線引きと当日の生徒の誘導を頼んで……。

「……ええと、」

 やらなければいけないことが、まだたくさんあるのに。

 ふと気がつくと、脳に靄がかかったようにぼんやりしてしまっている。
 もう時間を無駄にできないことは理解している。けれど、動くことができなかった。
 どうしてこんなことになっているのだろう。

 ……考えても、わからない。

 ふと、手元の書類に視線を落とす。
 書いてある内容が理解できなくて、しばらくその文字列を眺めてしまった。

 ──ああ、またぼうっとしている。

 ううん、何から処理すればいいんだっけ。
 来賓用と運営本部のテント設置は、美化委員会あたりが手伝ってくれるといいんだけど。今から行って了承してくれるだろうか……あれ、各クラスのパネル設置用の組手って──。

 ゆらゆらと視線を漂わせて、辿り着いた先で思わずため息が漏れた。
 ああ、体育祭後は、反省会と次の行事の予算を確認しないと。弱気になっている暇はないぞ。しっかりしろ、自分。

 ……でも、ちょっと疲れたな。体育祭が終わったら、少し休めるかな。

 あ、来賓リストも確認しないといけないんだったな。

「うーん……」

 思考が散らばって、収拾がつかない。

 えっと、何をやればいいんだろう。
 嗚呼、何も手につかない。どうしよう。
 ──どうしたら、いいんだっけ。



 ほとほと困り果てて、情けない顔をしていたと思う。
 突然開かれた生徒会室の扉から現れた顔が、俺を見つけた途端に目を見開いたのだから。

「先輩!?」

 一目散に俺の目の前まで来ると、そいつは眉を下げて俺の顔を覗き込んだ。

「……おまえ、は」

 見覚えのある顔に、思考を巡らす。

「──はっ! まさか俺のこと覚えていましたか!?」
「バスケ部の樋口、だろ?」
「うっ……ああ! そうだけど、ちがう……!」

 言い当てたはずだが、樋口は顔に手を当てて天を仰いだ。
 何が違うんだよ。

「ていうか先輩、ちょっと見ないうちに、滅茶苦茶やつれているじゃないですか!」

 『先輩』なんて呼ばれるのは初めてだなと思っていたら、がしりと両肩を掴まれた。

「えっ?! なんでこんなになるまで一人で無理したんですか!? あああ、表情暗いし顔色も良くないし、いつもの自信までどこ行っちゃったんですか……!」

 肉が落ちた体に気づかれたのだろう。そんなことを捲し立てられた。
 樋口は俯いて、動きを停止する。しかし数秒後にはばっと顔を上げた。

「──先輩。何より先にとりあえず、何か食べましょう」
「は……?」

 次はどんな叱責が飛んでくるかと身構えていたから、思わぬ提案に間の抜けた声を上げてしまった。

「お昼ご飯はもう食べました?」
「……いや、まだだが」

 最近はあまり食欲がなくて、簡単なもので済ませていた。今もそんなに腹は減ってないので、食べなくてもいいかと思っていたのだが。

「んー……生徒会って、食堂からご飯持って来られるって噂で聞いたんですけど、本当ですか?」
「え……あ、ああ。……え?」
「では持ってきますね! 先輩は、そっちのソファーに移って待っていてください。絶対に仕事に手をつけちゃダメですよ!」
「え、いや、」
「文句でもなんでも、言いたいことはご飯食べた後に聞きますから、先輩はまず、絶対安静!」

 有無を言わせない力強い声と視線に、反論ができなかった。

「……わか、った」

 俺の返事に満足したのか、樋口は笑顔で頷いた後、あっという間に生徒会室を出て行った。



 促されたソファーに腰を下ろすと、思ったよりも体が沈んで背もたれまで倒れてしまった。想像以上に疲れているのだと実感して、そのまま天を仰ぐ。

 ため息をひとつこぼして手持ち無沙汰になった俺は、先ほど頭に思い浮かべたやることリストを紙に箇条書きで書き出すことにした。
 あれもこれもと、思ったよりも多くなった項目に再び頭を抱える。

 設置設営は最悪前日でもいいとして、風紀委員会には早めに確認に行かないといけないか。風紀委員長、最近機嫌が悪いからあまり行きたくないんだよな……。

 風紀委員長の不機嫌そうな顔を思い出してしまい、頭が痛くなった。

「……はあぁぁ」

 少しはこの頭痛が緩和されないかと、こめかみを揉む。ここを押さえている間は痛みが治まるような気がした。

 あれ……なんか、視界が揺れている気がする。
 何故だろう。強く揉みすぎたかな。

 頭を押さえたまま目を瞑っていると、軽いノック音が聞こえた。
 こちらの返事を待つことなく開いた扉から、樋口が入ってくる。小さい土鍋をトレーに乗せて持ってきたようだ。

「あっ、仕事しちゃダメって言ったじゃないですか!」

 目敏く俺の手元を確認した樋口は、そんなことを言いながら室内に入ってくる。
 樋口はローテーブルの端にトレーを置くと、俺の手元から筆記用具と紙を取り上げた。そして、それらと引き換えるように俺のほうにトレーを寄せてくる。

「おばちゃんに頼んで、たまご粥を作ってもらいました。さっきゴミ箱ちらっと見えちゃったんですけど、先輩、携帯食で食事済ませていたでしょう?」
「……目敏すぎないか」
「まあ俺、先輩のこと大好きなんで!」

 とてもいい笑顔でそう言った樋口は「なんでも知りたいし気付きたいんですよねー」と軽い口調で続ける。
 俺はというと、さっき言われた一言に驚いて固まっていた。
 大好きなんて、こんな直球で言われたのは初めてだ。というか笑顔が眩しい。直視できなくて目を逸らした。

「熱いんで、ゆっくり食べてくださいね」

 かぱ、と音を立てて土鍋の蓋が取り除かれる。
 途端に漂う、塩と卵のいい香り。

 今までなかった食欲が、嘘のように戻ってきた。
 樋口によって粥をよそわれた椀が、レンゲと一緒に手渡される。

 誘われるようにレンゲを手に取って、黄金色の粥を掬い上げた。

「……いただき、ます」

 こくりと唾を飲み込み、レンゲに唇をつける。

「っ、」

 すぐに口を離した。思った以上に熱かった。

 ふうふうと冷まして、再度口に運ぶ。
 粥はとろりと煮込まれていて、けれど米粒の形は損なわれていなかった。
 ちょうどいい塩加減に、口の中に広がる卵の香り。それをゆっくりと噛みしめていれば、米の甘みが優しいことに気がついた。

「……うまいな、これ」

 そんな感想がこぼれていたとは知らず、もぐもぐと、無心になって食べた。

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