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ドライヤー片手にリビングに戻ると、樋口がゴミをまとめていた。
ちらりと流しを見れば食器類はすでに片付けられ、樋口が持ってきたタッパーも綺麗に重ねられている。
「あ。先輩、ちょうどいいところに」
きゅっとゴミ袋の口を結んだ樋口が、俺のほうを向いた。
「洗濯物が溜まってたんですけど、それって──……」
「?」
樋口の言葉が途切れた。それを不思議に思って首を傾げれば、俺の髪からぽたりと一滴、水が落ちる。
「……先輩。とりあえず、まず、髪を乾かしましょう」
そう言った樋口は、立ち上がると流しで手を洗った。それから俺に近づいて、俺が肩にかけていたタオルを取って俺の手を引く。
樋口はそのままリビングのソファーに座ると足を開いた。
「どうぞ」
手を引かれて誘導されたのは、樋口の足の間。
幼子にするようなそれに、少し躊躇したが導かれるままに床に座った。
樋口は、髪から滴り落ちる水を受け止めるようにタオルを広げた。そしてタオルを頭に押し当てるようにして水気を取っていく。
手持ち無沙汰になった俺は、とりあえず、と思ってドライヤーの電源プラグをコンセントに差し入れた。
視界の端に樋口が水を十分に含んだタオルを置いたのが見えた。試しにドライヤーを渡してみれば、樋口はスイッチを入れて風を確認し、吹出口を俺の頭に向ける。
このまま髪を乾かしてくれるらしい。
……めちゃくちゃ甘やかしてくるじゃん……。
立てた膝に肘をついて手の平で顔を覆った。
「すみません、熱かったですか?」
樋口がドライヤーを少し遠ざけて言う。
「え? あー、ちがう、大丈夫だ」
熱かったわけではないと伝えると、樋口は「熱かったら教えてください」と言って、再び温風を俺に向けた。
頭頂から側頭、襟足と風が流れていく。水に濡れた髪が、少しだけ湯冷めした体が、温まる。
髪が乾くまでの、たかが数分。しかしその数分で、俺は睡魔に襲われた。
体が温まったのと、髪に差し込まれる樋口の指が優しいから、こくりと船を漕ぐ。
「終わりましたよ」
かくん。肘が膝から落ちたところで、後ろから声が掛けられた。
触れて確認してみる。しっかり乾いているのに、髪が熱くなりすぎていない。弱冷風で髪を整えてくれたようだ。
「ん。ありがとな」
のろのろと手を伸ばしてコンセントからドライヤーのプラグを抜く。それを持って振り向けば、樋口が手を差し出していたのでプラグを渡した。
樋口は電源コードを器用にまとめて紐で束ねた。
「先輩、もう寝ます?」
ドライヤーを脇に置いた樋口が、そう問うてきた。
「……寝るには、まだ早いだろ」
「そうは言っても、めっちゃ眠そうですよ」
時刻は間もなく21時。
「先輩、お疲れなんですから、早く寝たほうがいいんじゃないですか?」
小学生ならまだしも、なんて考えていたら樋口に先手を打たれた気がした。
「今日はろくに授業、聴けなかったから復習と、明日の予習……それから生徒会の──」
「仕事だけはさせません」
そんなつもりはなかったから、遮られて苦笑した。
「……生徒会の仕事の、打ち合わせを」
「打ち合わせ?」
何かあっただろうか、と樋口が首を傾げた。
「お前、明日も生徒会室に来られるのか? 部活があるだろう?」
「あー……ですね」
「今日は俺もそこまで気が回らなくて部活をサボらせたが、本業はそっちだろ。今って総体の時期で、追い込みしてるんじゃないのか?」
そろそろ県大会があったはずだ、と脳内の行事予定表を引っ張り出す。
「そうなんですけど、メインは2、3年生ですからね。総体期間中の1年は体力づくりです」
俺はベンチに入れなかったから行かなくても大丈夫といえば大丈夫です、と続ける樋口に待ったをかける。
「体力づくりって一番大事じゃないのか……?」
「うっ……それを言われたら、生徒会室に行けなくなっちゃうじゃないですか……」
樋口があからさまにしょんぼりしてみせるから、つい笑ってしまった。
「生徒会補佐になったとはいえ、部活動優先にしてもらって構わないからな」
「でっ、でも、今は体育祭前なので、クラスの役割がある人は体育祭準備を優先していいって顧問が……それに臨時の補佐とはいえ、俺だって生徒会役員になったんですから、仕事が残っているなら俺にもやる義務があります!」
「必死か」
思わず吹き出してしまった。
どうにか理由をつけて生徒会のほうを優先したいらしい。
「俺としては助かるけど……後でお前が困るだろ?」
「え? たとえ先輩を優先したことが理由で俺が何か不利益を被ったとして、俺は気にしませんよ。むしろ先輩の役に立つのならば不利益でも本望です」
真顔でそんなこと言うな。なんか怖いから。でも反面、俺を優先してくれることが嬉しいのも事実だ。
きっと俺がNOと言っても、樋口は何かしら理由をつけて手伝いに来るだろう。今日の昼のようになることは想像に難くない。
だったら、はじめから承知しておけばよいのだ。
それにあそこまで言い切るんだ、こいつに頼っていいよな。
「……わかった。じゃあ、生徒会のほうに来るのなら、休む理由を顧問と部長にちゃんと伝えること。それが条件な」
できるなよな、と視線を向ける。
「はい! ありがとうございます!」
すると樋口があまりにも目を輝かせて返事をするから、俺は目を細めた。
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