Painful sweet jam
!ATTENTION!
*twst二次創作
*捏造したトレイの妹がでしゃばります。要注意。
*トレモブ
*ト輩元カノアンソロ企画なる素晴らしい企画様に寄稿した作品
初恋は早摘みの苺の味。
「初恋ってレモンの味なんだって」
妙に裏返った声が宙に引っかかって、空々しい顔をした。なんだか私の声じゃないみたいだ。「彼」が訝しげに振り返る。不自然じゃなかったかな……ううん、不自然だったに決まってる。今の今まで眺めていた「それ」をポケットの中に仕舞い、私は慌てて目を逸らした。心なしか頬が熱い。所在無さげに足を組み替えた私に「彼」──トレイさんはきょとんと目を丸くして、そしてぶはっと吹き出した。
「どうしたんだ、突然」
面白がるような声に思わず頬が膨れて、リスみたいだな、なんてさらに笑われる。トレイさんのばか。私はむくれた。
「笑うなんてひどーい……大事な話なのに」
「はいはい、笑って悪かったよ。で?」
机の上に整然と並んだ生クリームの絞り袋が、蛍光灯の光をまっしろに照り返す。トレイさんは頬の端っこに笑いを収めて、そこに最後のひとつを並べた。
「うん、あのね……」
唇に乗せた言葉がことごとく上滑りしている気がして、ひどくきまりが悪い。心なしか頬も熱くてたまらない。向こうの作業台の皆に聞かれてるんじゃないかって思ったら、もう胸が破裂しそうで気が気じゃなくて。素知らぬ顔でぱちん、ぱちんと弾いたプラスチックのパックがやけに大きな音を立てて、ほんの一瞬身が竦む。
「──苺味だったらいいのになって思ったの」
「何が?」
「初恋が」
あーあ、言っちゃった。喉をすり抜けた言葉は宙に落ちた瞬間あまりにも陳腐で虚しく聞こえた。こんなはずじゃなかったのに。丸太のように並んだ生クリームの隣で、ボウルにこんもりと盛られたつやつやの苺が私の失言を嗤っているように見える。あなたたちのせいだよ、あなたたちがそんなにもきらきらして艶やかで甘そうだったから。心で呟いたそんなお門違いの恨み節も妙に安っぽく聞こえて私は恥じらった。行き場のなくなった視線がリノリウムの床を滑る。いたたまれない沈黙を破るようにトレイさんの弾けるような笑い声が響いた瞬間、私はむしろ、ああ助かったと思ったのだった。
「もう!トレイさんたら、やっぱりそうやって笑うんだから」
「悪い悪い、つい……」
三つ子の魂百までってやつか、なんてしみじみと言われて顔を上げていられるはずがない。トレイさんはずるいんだ。眼鏡の奥に隠れた涼やかな目元にがっしりした肩。それからちょっと意地悪で、優しいみんなの人気者。小さい時から遊んでもらった幼馴染のキティのお兄ちゃんで、あと……私の初恋の人。
「お前もセカンダリースクールに入って大人になったと思ったんだけどなあ」
「いいでしょ、少しくらい夢を見ても」
「はいはい、ところで最近学校はどうだ?」
思わずとはいえ拗ねるのは子供っぽかったかな。あからさまに話題を逸らされて、私はちょっと反省した。次からはしない。そう、いい子ね私。よく分かってる。何事も引き際がカンジンなのだ。
「毎日、楽しいよ」
「そうか、キティとこれからも仲良くしてやってくれると嬉しい」
トレイさんがそう笑った時、背後がにわかに騒がしくなった。
「ちょっとぉ、お兄ちゃんこっちきて!」
「兄ちゃん!これどうすればいいの!?」
「あー、はいはい。今行くから」
ああ、せっかく二人きりになれたのに。思いの外あっさりとトレイさんが向こうに行っちゃうのを眺めて、ため息が口をついて出た。少しでも離れるのを惜しんでくれたりしないかな、なんて、夢見がちも大概にしたいところだ。したいところだけれど……やっぱり期待はやめられない。
今日、私はキティの家にお呼ばれしていた。お兄さんのトレイさんがお菓子作り教室を開いてくれるからって。二人の家はケーキ屋さんだ。受注に失敗したイチゴがたくさん余ってて、どうにか悪くならないうちに消費したいんだそうだ。クローバー家のちびちゃんたちや近所の子たちも沢山いるから私一人がトレイさんを独り占めするわけにはいかない。でもキティがこうして気を利かせてくれたんだし、今日はできるだけたくさんお喋りしたいんだけど……
再び大きなため息をついたその時、視界の端でトレイさんと同じ深い色のくせっ毛が跳ねる。背後から飛びつかれる気配を察知して横に飛びのけば、唇をとがらせたキティがひょっこり私の視界に映り込んだ。
「あーもー、あとちょっとだったのに!」
鼻に寄せられたしわが、彼女のご不満を声高に主張する。ご苦労なことだ。いつも表情豊かなキティだが、こうやって私を困らせて楽しむところはトレイさんとよく似ていると思う。ああ、いけない。私ってばまたトレイさんの話して。
大袈裟にしかめっ面をしていても、キティはやっぱり可愛かった。
「キティってば。さすがの私でも何度も同じ手には引っかかんないよ」
からかうようにつんと鼻先を押し返した私の手を、キティがうっとおしそうに避ける。さらにとんがった唇と渾身の変顔が面白くて、それからどこまでも素直なキティが可愛くて、私は笑った。一度笑い出すと笑い声はあぶくのように次から次へと溢れて止まらない。ああもう、これだから好き。ひとしきり笑ったところで、顔のパーツを真ん中に寄せたキティから仕返しとばかりに爆弾が落とされた。
「そんなことより、さっきのなぁに!」
「なんのこと?」
「しらばっくれたってダメ。お兄ちゃんと笑ってたでしょ!いい感じだったじゃん。何話してたのー?」
「な、何も!」
「あーまたこの子はそうやって誤魔化す!」
ひと思いに白状しちゃえと脇腹をくすぐられ、私は悲鳴をあげた。
「ちょ、ちょ、ヤダ、ほんとに何にもなかったんだってば!」
「あやしい!」
「ふ、あははは!ちょ、キティ!ほんとに、……」
じたばたと振りかぶった腕に鈍い衝撃が走った。がたんと呆気ない音を立てて机の上のボウルがひっくり返る。真っ赤な波しぶきのように軽やかにステンレスの檻から飛び出した苺の粒が、慌てる私たちを尻目にそこかしこへと転がっていく。
「おい、大丈夫か?」
「ご、ごめんお兄ちゃん」
事の騒ぎに駆けつけたトレイさんに手伝ってもらって、調理台から落ちる前の子たちを拾い集めてボウルに戻していく。そこに楽しそうな気配を嗅ぎつけたおちびたちも向こうの台から一斉に押し寄せて、てんやわんやの大騒ぎになった。
「ごめんなさい、トレイさん。こんなつもりじゃ……」
「あー、うん。そんなに気にしなくていいんだぞ」
「……でも」
一気に落ち込んだ私の肩をキティが軽く叩く。
「あたしが悪いの。だからほんと気にしないで!こういうアクシデントも面白いし」
「うん、そうだな。強いて言うなら謝るのは俺にじゃない。いくら沢山あるからと言って、無駄になった食材にちゃんとごめんなさいが言えなきゃな」
はぁいと舌を出すキティの隣で、私は顔があげられなかった。私は今日、この人の前で何回失敗をしたんだろう。無言でうつむいた私に、トレイさんがぽんと頭を撫でてくれる。
「まあ、反省してるもんな」
ずるい、ずるい。私は頬に熱が集まるのを感じて更にうつむいた。
私を見ないで。でもずっとこうしていて。あなたの眼差しで私が焼け焦げてしまうまで。
「うん。……ごめんなさい」
そういうことをサラリと言えるトレイさんは大人だと思った。クラスの男の子たちは皆ガキっぽくてこんな風には話せないもの。何を言ってもやっても、馬鹿にしたり笑ったりするもの。
プライマリースクールの時から、時折キティのお迎えに来るこの人が好きだった。ずっと、ずっと好きだった。きゅっとおさえたスカートのポケットの中でかさこそと隠し事めいた音が鳴る。
屈むように視線を合わせる姿勢、調理台に置かれた大きな手。子供扱いされてるようで、どうもちょっぴり面白くないけれど、触れる手の温もりに、今この瞬間は私だけを映す眼鏡の奥の瞳に、甘い陶酔を味わった。
「次は、気をつけるから」
トレイさんは惰性なのか、おーとかなんとか言いながら、わしわしと私の頭をかき混ぜた。息ができない。そろそろ限界だ。髪に触れる手にそっと指先を添えて、離してほしいと促してみる。触れたところから、ぴり、と甘い刺激が駆け抜けていくようで背筋が震える。どうか、私の手が震えていませんように。嫌がっていると思われませんように。そう神様にお願いをした。教会になんてそこまで真面目に通ってないけれど、こんな風に一心に祈れば神様もきっと見放されはしないだろうと、私は一途に思った。
「おっと、ごめんな。……つい」
笑い声と共に傍の熱が離れていく。私の全身にトレイさんの移り香が残ってるんじゃないかって、そう思えて仕方がなくて胸が苦しい。私はポケットの中のざわめきを更に強く押さえた。
「お兄ちゃんたら花の乙女の頭ぐちゃぐちゃにするなんて。かわいそうでしょ!」
「なんだ、急にませたことを言うじゃないか」
「は〜?いい加減にしたら、この朴念仁!」
「おいおい、そんな言葉遣いの悪い子に育てた覚えはないんだがなあ」
途端に言い合いを始めた兄妹の後ろで、私は叫び出しそうなのを堪えていた。ああ、頭が爆発しそう。まだ顔が火照ってる。たった今味わった甘酸っぱさに心がほわほわバクバク跳ねて、なんだか幸せな気持ちだった。今日死んでもいいくらい。ああ、でも死んではダメだ。少なくとも、このポケットの中身を捨ててしまってからにしなくっちゃ。誰にも見せられない、見られたくない「それ」は私にはひどく重い。
「ねえ、私ちょっと外の空気を吸ってくるね」
まだ息ができなくてくらくらするような心地がする。この部屋少し暑くって、と断りを入れた私に皆が口々に気遣うような言葉をくれた。ひらひらと手を振って裏口の方へ駆け出す。
ポケットの中身は手紙だった。この前の秋、トレイさんのお誕生日に書いて、結局渡せなかったかわいそうな手紙、花柄の便箋。だって、だって、この気持ち、本当は言葉になんてできないから。
小さい時は、会うときには必ず手紙を書いていくのが習慣だったけれど、それは歳を重ねるごとにどんどん無邪気とはかけ離れたものになっていって。渡すたびにいつも「困ったな、嬉しいよ」って。そうやって笑顔で喜んでくれたトレイさんは、私が十一になった時、初めて本当に困った顔をした。
もう、とっくに子供の戯れなんかじゃなくなってたんだ。だから、渡せるはずなんてなかった。無邪気に好きって言えたあの頃とは何もかもが違う。この気持ちは私にも、トレイさんにも、きっと少しばかり重すぎるの。それでも好きなんて言葉では、きっと少しばかり軽すぎるんだ。
だからこうしてずっとポケットに入れている、これは私の恋のお守り。
恋に恋などしないため。
トレイさんを困らせたりなんかしないため。
それは重くても、苺のように真っ赤でつやつやで、宝石みたいな魅力的なかたまりだった。熟れたらどんな味がするんだろう。今はこんなにも甘酸っぱいけれど、実った瞬間の甘さを想って私の心は疼いた。
・◇・◆・◇・
それから、みんなで出来上がったスイーツを囲んでバカみたいにはしゃいだ。ショートケーキにババロア、つやつや輝く大きなタルト。クローバー印の最高傑作に、私たちは大喜びでフォークをつけた。あんなに沢山あったのに、消えるのはほんの一瞬で、一時間もすれば綺麗にみんなのお腹の中に消えてしまったそれらにトレイさんは嬉しそうだった。
後片付けも終わりがけに近づいた時のことだった。キティが私の手を引いた。
「お兄ちゃんの部屋、見せてあげよーか」
「えっ、悪いよ」
「いいじゃん、減るもんじゃないでしょ」
いけない誘いに胸が高鳴る。一度も見たことがない好きな人の部屋だ。絶対にダメだと心の片隅で囁く声に蓋をして私はこっくりと頷いた。
トレイさんの部屋は思いの外シンプルで、よく片付いていた。壁の白さが眩しい。塵一つ落ちていない床の上に雑に放られたジャージの上や、少し皺の寄ったシーツに、トレイさんの日常がにじんでいるようで、息が苦しくなる。
「楽にしなよ、バレてもきっと怒られないし!」
キティがぼふんと勉強机の前の椅子に腰掛けてくるくる回る。そうだろうか、うん、そうかもしれない。
私はおずおずとベッドの端に座った。ぎしりとベッドのスプリングが鳴いて、途端に私の足元から罪悪感がぞわぞわと這い上ってくる。慌てて立ち上がれば、さっきまで普通に眺めていた綺麗な部屋の中に、そこら中散らかっている「オトコのヒト」の断片がやけに目についた。ハンガーにかかったサイズの大きなブレザー、部屋の隅に置かれたボール。ちょっと端の折れたノートに、机の上に転がったシャープペンシル。電灯は飾り気のないLEDで、椅子の背に無造作にかけられた肩掛け鞄の使い込まれた色が白い光を照り返す。そして何より、シーツから、部屋全体からほのかに漂うトレイさんの匂いが、私の胸をざわつかせた。
────落ち着かない。
「ね、キティ。もういいよ。私、下に戻る」
「えー!いいじゃん。せっかくだしそこのシャツとか羽織ってみれば?」
これは完全に面白がられてる。私は頑なに首を横に振った。
「それは、さすがに」
「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」
入ったばかりの部屋だけど、私はここにいてはいけない。ちょっと魔が差しただけ、それでもいけないことには変わりない。ここはトレイさんの部屋で、プライベートの空間だ。ひとりっこの私だって、もし兄弟の友達が自分の部屋に勝手に入ってきたら嫌だ。
「ほら、行こう」
キティがドアを開けて外に出るように促してくれる。私はドアをくぐろうとして躊躇った。なんだが少し、名残惜しい。
手をかけたドアノブをじっと見つめ、手のひらでゆっくり握り込む。愛おしいものを閉じ込めるように、そっと。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
私はそれで満足した。
足を忍ばせて戻った階下でトレイさんの顔を見たとき、私の胸に再び罪悪感が押し寄せた。多分、バレてはいなかったと思う。キティは怒られるときは自分だけだと胸を張っていた。でも、そういうわけにはいかない。そのあっけらかんとした様子が後ろめたさを加速させた。
その後すぐにお開きになったお菓子作り教室は、おちびたちの希望で来月も開かれることになった。帰りがけに、それでも余った苺をスーパーの紙袋いっぱいに分けてもらって、足取りも軽く昼下がりの街を歩く。「気をつけて帰れよ」だなんて、玄関で気遣ってくれたことが嬉しくて。ありふれた言葉でも、あなたが口にするとトクベツになるの。
少し肌寒い風が赤茶のレンガの間を抜けていく。かじかんだ指の痺れもどこか甘い気がして、私は鈍色の空を仰いだ。緑が茂るにはまだ遠い街並みが、春の訪れを待っていた。
すっかり浮ついていた私が異変に気がついたのは、その日の夕食後のことだった。
「……ない」
スカートのポケットに入れておいたはずの手紙がない。
布地の隙間にしのばせた指先は空を切る。焦燥に震える手でひっくり返したポケットは、やっぱりもぬけの殻だった。
取りに行かなくちゃ。でも、どこに?
誰かに見られでもしたら、それこそ恥ずかしくて死んでしまう。
必死に記憶を手繰り寄せ、家中を回る。自分の部屋、リビング、ダイニング、キッチン、冷蔵庫。玄関までたどり着いたとき、私は嫌な予感を覚えた。否、初めから気づいていたのかもしれない。ここまで探したのだ。もう、あるとしたら、あそこしかない。
・◇・◆・◇・
すっかり日の暮れた街を駆けながら、私はキティの電話番号を呼び出していた。流石にもらいすぎたからと母に持たされた苺のビニールがガサガサと大きな音を立てる。まだ室内のぬくもりの残る手で通話ボタンを押して、ワンコール、ツーコール……出ない。はやる頭で数えていた数字も寒空の中に散っていってしまう頃になって、キティは毎週土曜の夜はバレエのお稽古があるのを思い出した。仕方がない、むしろ好都合だ。だってあんなもの、大親友にだってぜったいぜったい見せられないから。
クローバー家の窓には明かりが一切灯っていなかった。息を切らして腹をくくり、インターホンを鳴らす。でも、誰も出なかった。落胆と絶望で沈む心が止められず、私はアンティーク調の白塗りの玄関扉に寄りかかる。
どうしよう、その五文字ばかりが寒さで鈍る頭を支配して、目にじわりと涙が浮かぶ。私はわずかな期待を込めてドアノブに手をかけた。幾分か重い手応え。次の瞬間、呆気なく開いてしまった扉に、私は面食らった。こんな都合のいいことがあっていいのだろうか。耳をそばだてれば、家のある通りの表側でガヤガヤと聞き慣れた声がする。きっと閉店作業中なのだろう。
誰も居ないうちに、さっさと取って帰らないと。もうそのことしか考えられなかった。
開いたドアの隙間から、私はするりと滑り込んだ。
幼い頃からよく来ていた家に、泥棒のように忍び込む。なんだか悪いことをしている気分だ。だって実際そうなのだからと言われればそれまでだが、どうにも気分が落ちつかない。私がもしおとぎ話に出てくるトランプの兵隊だったなら、きっとすぐに首をはねられてしまうだろう。
心臓は弾けそうなほど早く脈を打っていて、胸がどっどっと嫌な音を立てるたびに、私は泣きそうな思いで震え上がった。幸運なことに、毛足の短い絨毯が足音を消してくれた。そうでなければ、緊張でもつれた足が大きな音を立ててしまっていただろう。
ぱちん、静まり返ったキッチンがワンタッチで白いライトに照らされる。酷く綺麗に片付けられた台の上には何もなかった。恐る恐る足を踏み入れてみたものの、掃き清められたつるつるの床にも、棚の中にも、私の手紙はない。同じように、みんなでケーキを食べたダイニングにも、手紙は落ちていなかった。
じゃあ、あとは────トレイさんのお部屋しかない。
やっぱりドアは開いていた。戸板の細い隙間から廊下の薄暗がりに卓上ライトの橙色が細く射して、白木の木目はとっぷりと闇に沈んでいる。本当にここにあるんだろうか。火傷をしそうな明かりの中にそっと指を差し入れた瞬間、背徳感にぴりりと指先が震える。激しくぶれた指先が当たって、いとも簡単にドアは開いた。
同時に、むっと押し寄せる異臭。さっきはしなかった、香水の臭い。それから、生臭い臭い。
ベッドの上で誰かが身じろぎした。身を固くした私の視界に飛び込んできたのはトレイさんと同じ色の髪。ベッドシーツに無造作に広がったくせっ毛がすうすうと溢れる寝息とともに上下する。────嘘だ。嘘に決まってる。だって二人は兄妹で。
見下ろせば、床にくしゃくしゃになったシャツがまるまってうち捨てられていた。
触れてはならないと脳裏で警鐘が鳴る。だが、どちらにせよ手遅れだ。もう止まることはできなかった。震える手で拾い上げたシャツの襟についた真っ赤な“それ”。息を呑んだ私の背後で、かたりとドアが音を立てた。
「誰だ?」
暗闇の中で光る鳶色の目が私をその場に縫い付ける。口もきけないでいる私の真後ろで、ドアの枠にもたれかかったトレイさんがその手の中にあるものを掲げた。
「ぁ、」
声が喉でつっかえたようになって声がでない。シワのよった薄緑の封筒が淡い電球の光に照らし出され、私は弾かれたように手を伸ばした。
「っかえして!」
ねえトレイさん、それを見たの。見てはいけなかったのに。それを見てはいけなかったのに!
渾身の力を込めて振り上げた手が、ぱしりと音を立てて何かにぶつかり、視界が呆気なくくるりと反転する。
「ちょっとおいたがすぎるんじゃないか?」
ぼすっと耳を覆うように軽い音がして、次の瞬間私は先客のいるベッドの上に倒れこんでいた。間をおかずにベッドのスプリングが悲鳴をあげて、目の前に影が落ちる。トレイさんの整った顔がやけに近い。なぜそんなに冷たい目をしているの。なぜ私をそんな風に見るの。私はもがいた。もがけばもがくほど、びくりともしない身体が恐ろしくてたまらない。
シーツの上に縫い止められた手首が熱かった。首筋に当たる息が熱かった。指先に引っかかったシャツをすがるように握りしめる。
いったい何をするの、何が起きているの。
トレイさんの目が怪しく光った。怖い、やめてよ、怖い。
「っイヤ!」
私は死に物狂いで暴れた。渾身の力で頭突きをすれば、思いのほか軽い手応えで私の上に乗りかかっていた身体はバランスを崩してベッドの脇に転がり落ちる。呻きながら乱れた髪で床に手を付き、その人は仄暗い静けさを纏った目でこちらを見返す。その無機質な頬に、卓上ライトの影が落ちた。
「……っ、トレイさんは、私のトレイさんはそんな事しない!」
誰なのあなた、私のトレイさんは、もっと優しくて、紳士的な人なの。
口をついて出た言葉に、自分の胸が切り裂かれたような心地がした。
その人はトレイさんに他ならなかった。私は今何を言ったのだろうか。
思わず言葉につまって落ちた沈黙に、場違いなほど明るい笑い声が響いた。
「ダメじゃないか、こんな無防備に男の部屋に忍んできたら……おいおい、そんな顔するなって」
トレイさんが貼りついたような笑顔で立ち上がる。ゆらり、影が壁に長く伸びる。
「はは、冗談だよ。襲われるとでも思ったか?」
随分とませたな、と嘲るような声がして、節くれだった大きな手が鼻先に迫る。
「来ないで!」
私は震える足でベッドを飛び降りた。床に落ちていた手紙を拾い上げ、荷物を持って逃げるように家を飛び出す。背後でバタンとドアの閉まる音がするのを聞きながら、がむしゃらに夕闇の街を走った。頭の芯が痺れたようになって、夕焼けのように真っ赤になったまぶたの裏が酷く火照っていた。
・◇・◆・◇・
走って、走って、走り疲れて、気がつけばクローバー家からも家からも遠く離れた駅前の公園で、私はぽつりと佇んでいた。ふと何かを握りしめていたことに気がついて、街灯の灯りの下に手を差し出してみる。そこには口紅のついたシャツがあった。
ショックだった。トレイさんがそんな人だと思ったことはなかったから。
私はうずくまった。考えたくもなかった。重たい鉛でかき回されたようにぐちゃぐちゃな心が視界を煙らせる。濃紺の景色の中で私はひとりぼっちだった。
ぐし、と腕で涙をぬぐい、手の中でくしゃくしゃになったそれを広げる。洗濯すれば落ちるだろうか、それともこのまま捨ててしまおうか。
そう思案した刹那、目の前で紅い染みは空中に解けるように霧散し、消えていった。
後に残された洗いたてのシャツはどこまでも白々しい顔をして私を嘲る。おもむろに顔を上げれば、通りの向こうからシニヨンをきっちりまとめ、お稽古の鞄を持った幼馴染が友達とはしゃぎながら歩いてくるのが見えた。
「っ、あはは……なーんだ」
なんだ、そうだったんだ。堰を切ったように溢れた熱いものが頬を伝った。
その瞬間、私はことの一切を理解したのだ。
マジカメのDM通知がピロン、ピロンとけたたましく鼓膜を揺らす。スマホのロック画面にぽこぽこと浮かび上がるメッセージををぼんやり見つめながら、私はおもむろに苺を一粒取り出した。置いてき忘れちゃったな。そんなどうでもいいことが、ぽつりと浮かんでは消えた。
「……酸っぱい」
口の中いっぱいに鋭い酸味が広がっていく。
もはや私にこの込み上がる何かを止める術はなかった。次から次へと口に運んだそれに、大粒の雫が頬を転がり落ちていく。むせかえるような芳香に塩辛い味が混じって私は思わずえずいた。
すべてが汚く、耐え難い事のように思われた。
あとひとつだけ。震える手で口元に運んだ刹那、指先で柔く撫でたそれを躊躇いなく握りつぶす。ぐちゃぐちゃと手が赤く染まる。
そのままビニールの中に手を突っ込んで、パッケージに指を突き立てた。鈍い痛みと共に破裂音がして、右手を鋭い痛みが刺す。だが、そんなことを気にしてはいけない。しっとりと瑞々しい紅い宝石の粒を、私はひと思いに握りつぶした。案外あっけない感触でそれは手のひらの血と混ざりあっていく。味なんてわからないはずなのに、やっぱり酷く酸っぱい痛みが傷口に沁みた。うずくまって涙を流す私に、スマホを手にした本物のキティが駆け寄ってくる。
空が落ちてくるような虚しさに、無垢なビニールにびちゃびちゃと真紅の血溜まりが出来ていくのを眺め、私はただ無心に手のなかのそれらを砕き続けていた。
・◇・◆・◇・
あの日、私の叫んだ言葉にトレイさんはなんとも言えない顔をした。私は後にも先にもあの顔を、あの眼差しを思い出しては恥じ入るのだろう。
きっと私は本当の恋など知らなかった。そしてたぶん、これからも。
他人に恋焦がれたりなどして、私はその人の何割を知っているのだろうか。
トレイさんの魔法は優しかった。トレイさんは、私に諦めさせるためにおぞましい嘘をついたんだ。でも……なんのために?私にはそんなこと、どうだってよかった。
・◇・◆・◇・
お菓子作り教室にはもう行かないと言った。真っ赤なジャムをキティに託した。それが、私の恋の終わりだった。
ねえ、私の煮崩れた恋を見て。こんなに紅く染まったの。
私には、あの人が何をそこまで恐れたのかはわからない。でも、きっとそれでいい。
ただどうか、最後に与えて欲しくって。浅ましいこの恋心の死に場所を。
だって、ねえ、トレイさん。ひと思いに捨ててしまうなら、最後はあなたの中がいい。この恨みは綿々と、決して尽きることはない。どろどろに煮詰めた愛憎で、その内臓が焼けただれてしまうまで。
『Painful sweet jam』2020.11.19(Thu.)
-Special Thanks-
アンソロ企画者あんごら様、そして参加者の皆様へ最上の感謝と敬愛を捧げます。BIGLOVE!
「Painful sweet jam」緋鞠main|
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