「なんや、お困り?」


後ろからかけられた声は知らない声だった。バケツをひっくり返したような雨、手持ちの雨具はゼロ。最寄りのコンビニまで500メートル弱。どんなに頑張っても濡れ鼠決定の判子を押された私にとって、その人の出現はイレギュラーそのものだった。こんなに強い雨の日、雨音よりも調子は弱いのに私に届く声。周囲に人はいない。単純に、その人に興味という芽がぽつりと芽吹いた。身体ごと振り返ったら、そこには男の人。長身、黒髪。眼鏡の奥の瞳は、不思議そうに私を見ていた。突然降られて、立ち往生です。私が簡潔に事情を説明すれば、その人は空を仰いで、せやろなぁ、と呟いた。ぱん。開かれる黒い折りたたみ傘。準備がいいんだなぁ。私はため息をついて、制服の上着を脱ぐ。教科書が濡れたら困るから、それで鞄を包み込んだ。部活でいつも走り込みをしているし、コンビニまでなら大丈夫だ。雨の中に飛び出そうとしたら、何してんの?とまたその人が口を開く。雨の中を走る決心が鈍りそうになるから、さっさと行きたいのに。振り返ったら、その人は傘を少し傾けて、私をみた。途中のコンビニまでなら送れるで。芽吹いた芽が、震えた気がした。


▲▽



「若松と同じクラスやったよな?」
「……缶ジュースで手を打ちます」
「何や、物分かりがええなぁ」
「そりゃあもう」


今吉センパイとこれだけ長い時間一緒にいれば分かりますよ。…とは言わずに、私は曖昧に笑って言葉を流した。膝上でスカートが揺れる。若松に、と渡されたプリントには練習試合予定表と書かれていた。ほな、ジュース見に行こか、と歩き出す今吉センパイの後ろを歩く。本当にご馳走してくれるらしい。揺れる後ろ髪と、大きな背中。半袖の学校指定のワイシャツから伸びている腕は細くて、毎日の部活の運動量が窺える。逞しいなぁ、男の子。ぼんやりと今吉センパイの後ろ頭を見ていたら、振り返るセンパイの瞳が私とぱちりと合う。びっくりして動きを止めれば、今吉センパイはニヤリと笑う。何がええの。指差す先には、自動販売機。ああ、そっち。内心冷や汗をかきながらも、それを悟られないように平静を装った。たまたま視界に入ったカルピスソーダ。これにしよう。ぴっと光るランプを押せば、取り出し口に白い缶が落ちた。ありがとうございます、頂きます。私が受け取りそういうと、今吉センパイも自動販売機のボタンを押して飲み物を買っていた。レモンティーを選んだようだ。構へんよ、素直に奢られとき。ゆるやかに笑う表情には余裕があって、それと同時に私が酷く子どもに見えた。たった一つしかない時間の空白が、恐ろしい。埋まることのないこのインターバルを肌で感じて、それを誤魔化すようにプルトップを開けた。


「今吉さんと仲、いいんだな」


教室に戻って、クラスメイトの若松に預かっていた例のプリントを渡したら、開口一番そう言われる。そうでもないよ。私がそう返して、若松の隣の座席に腰掛けたら、彼はイマイチ腑に落ちないような表情でプリントを見つめていた。


「今吉さんとフツーに会話してんだろ、仲良いじゃねーか」
「別にぃ。……中学からの後輩だから、気にかけてくれてるだけだよ」
「あの人がその程度で気にかけるとは到底思えねーけどな、俺は」


若松はそれだけ言って、口を閉じる。来週も練習試合かよ、と零した彼の言葉が教室の喧騒に消えた。手持ち無沙汰になった時のクセ。口内をぺろりと舌で舐める。甘くて、少しぴりりとした感覚。カルピスソーダなんて、普段飲まないものを飲んだから、後味が悪い。はあ。吐き出す息が思ったよりも重たかった。なんとなく触れた、自分の二の腕。先ほどまで視界にあった逞しい腕とは違い、柔らかい。ああ、ここも違うのか。そんな風に思った。季節は夏。今吉センパイと知り合って、早3年が経過しようとしていた。


▲▽



ラッキーやったなぁ、自分。ぽつりと呟いたその人を見上げる。狭い傘の中、お互い身を寄せ合ってコンビニまで到着したら、雨も小雨になりつつあった。傘買うのが勿体無い天気やし、止めとき。そう言って私の手に握らせた黒い折りたたみ傘は、未だに借りたままになっている。いつも返すタイミングを失った傘。高校に進学した先に今吉センパイがいたことも、それに拍車をかけた。いつでもええから、と言われたから、鞄の底に眠ったままのそれ。蓋をされて二度とでてこれないようにも思えるセンパイの言葉に、どこか深い部分が燻ぶっている。


「何や?難しい顔して」
「………なんでもありません」
「そうか?」


2階の踊場にいる今吉センパイに声をかけられた。見上げたら丁度逆光で、思わず目を細める。そんな私に気がついた今吉センパイは笑いながらひとつずつ階段を降りた。一歩、いっぽ。縮んでいく距離に、らしくなく心臓がざわついた。階段2つ分のところで今吉センパイは立ち止まる。インターハイ準優勝おめでとうございます。私が形式的に伝えた言葉に今吉センパイは笑った。含みのある、笑い方。今吉センパイの笑った顔は大抵これだ。何かこちらの思考を読み取っている気がして、私はこの笑みを向けられると逃げ出したくなる。


「若松、大活躍やったで?見に来えへんかったん?」
「え、まぁ……。結果だけ教えてくれたら充分ですから」
「ドライやなぁ」
「…センパイが思ってるほど私と若松は仲良くないですよ」


私がやっとの思いで出した言葉に今吉センパイは少し空を仰いで、ふぅん、そうかいなと零す。少しずつ近づいては遠のく。それはさざ波のようでもあるし、振り子のようでもあった。縮まらない距離。芽吹いた芽はいつしか宿主の心を知らずすくすくと育っていく。蕾が膨らむたび摘み取るのにも、限界が訪れようとしていた。


▲▽



コートにブザーが鳴り響いた。ゴールネットをくぐって落ちるボールがバウンドして転がる。胸の真ん中で大切に握りしめていた折りたたみ傘に、力がこもる。負けた。3年生最後の試合に、負けた。歓喜に沸く相手チームと、コートの中でゆっくり呼吸をする見慣れた背中。こんな時でも背中のキャプテンナンバーは、揺らぐことなく堂々とそこにあり続けた。あの人は、嘘ツキだ。卑怯、だ。簡単に人の気持ちに入り込んでめちゃくちゃにしてしまうくせに、人の侵入を拒む。手で伏せたまま、蓋を開けようとしない。まだまだ試合結果に沸く会場を、そっと後にする。溜まった熱を、肺腑から吐き出す。白い靄。ローファーの踵が鳴る音が夜空に溶ける。視界の端で扉が開いた。立ち止まったら、あちらも私に気がついて、立ち止まる。今吉センパイ。私の口から出たその人の名前。思っていたより震えていた声に、センパイは小さく笑みを零す。なんや、今日は見に来てたんか。鉄壁の仮面。完全に退けることは困難な腕。当たり前だ、たった1年、それでもセンパイとは埋められないものが確かに存在する。それを逆手にとられたら、何も私はできない。ズルい人。唇を噛み締めて、私は今吉センパイに歩み寄る。一歩、いっぽ。立ち止まり、センパイを見上げる。ずっと借りたままの折りたたみ傘を差し出して、私は、笑う。ぎこちなくて、精一杯の、笑顔。鉄壁の仮面なんて、取り払ってしまいたい一心の、笑顔だった。


「何か、お困りですか?」
「………、なんでこないなタイミングで返すんや」
「すいません」
「なんで………、今、」


ぽつり、と眼鏡のレンズに落ちた雫。堪えきれず伸ばした手首を取られた。引き寄せられた身体。肩に埋まるセンパイの顔。センパイ、ともう一度名前を呼ぶ。手が震えている。キャプテンを背負った背中を丸めて、私に隠れるようにして、声を殺して、泣いていた。こうでもしないと泣けないなんて、やっぱりこの人は、ズルいし、分かってない。センパイがいくら後輩に強い姿を見せても、後輩はセンパイに頼ってほしいと思っているのに。私だって、今吉センパイには、偽って欲しくない、だけなのに。目頭が熱くなって、喉が焼けるようにカラカラとする。本当の姿を見せてほしい、もっと知りたい。そんな欲だけが顔を出す。摘み取り損ねた蕾が震え、薄青の色を纏う。花が、開く。センパイの髪が私の頬をくすぐる。そっと上げた顔が、鼻先が近くにあった。堪忍な、好きや。軽く触れる唇。思考回路がぐちゃぐちゃに破壊されて、私は言葉がでない。それでも頬を伝う涙が、私の感情を決定付ける。私も、今吉センパイが好きなんだ。


慈愛とうつつ様提出。
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