砂埃を纏った風が一陣吹き抜けた。それは私の前髪をふわりと擽ってもとの位置に戻す。閉じていた瞼をゆっくり上げて、再び閉じる。未だ後ろ背の障子の奥では太閤を始めとする豊臣の中枢が軍議を続けていた。元々身体の弱い大谷様は今回体調が優れないとのことでご欠席だが、何の因果か私はここにいる。


「………」


大谷様の家臣の、私がここにいるのかは、私自身よく分かっていないので特に追記する事項は無い。大谷様がお仕えしている石田様の護衛がまあ、理由でもあるが。正直あの人に護衛が必要なのかそれが一番疑問だ。戦場に立てば彼の人の後ろには屍の道が出来るという。凶王。それが石田様の呼ばれ名。…さもありなん、分からなくもない。大谷様も何を考えているのか分からないと他軍のものに言われるが、一番近くにいる私に分からないのだからそれは当たり前だろう。
別に、分からなくてもいい。ずっとそう思っている。あの方たちの考えていることなど凡人の私たちには分かるはずがない。ただ信じてついて行けば良い。そう思う。
ちよちよと姿の見えない鳥が遠くの方で鳴く声が聞こえる。きしり、と床板を踏む音が聞こえたので瞼を持ち上げて気配のするほうに目線を上げると、そこには黄金を纏った男が立っていた。目線が合うと、にこりとこちらに笑いかけてくる。


「いつも仕事熱心だな」
「………」
「たまには息抜きしないと身体を壊すぞ?」
「………」
「…まぁ、ワシが言えた義理ではないが」


くすりと苦笑いを零すとそのまま襖を開けて軍議中の室内へと入っていく男。その姿を横目で追いながら、閉まる戸を確認して、再び目前に広がる緑と白の庭園を眺める。東照権現、徳川家康。石田様とは対極のような男だ。後ろの室内がガタガタと騒がしい。恐らく遅れて入ってきた徳川に石田様が激昂してまた黒田あたりが巻き込まれているのだろう。目に浮かぶ。太閤に忠誠を一身に捧ぐ石田様と、のらりくらりと交わし続ける徳川。何故あんなに対極だというのに石田様は徳川と肩を並べ続けることができるのか。…不思議でしかたがない。漸く後ろが静かになった。恐らく竹中様辺りが石田様を宥めたのだろう。再び木々がざわざわと風に揺れる音のみでで支配された静かな空間で私は深く息を吸い込み吐き出す。瞬きをゆっくり数回繰り返し、青く青く広い空に目を向ける。それでも。


「…変わり者だな」


瞳に焼きついていたのは困ったように笑う太陽のような男の顔だった。



***



「………それは、真ですか」
「ああ」
「……そうですか」


ゆらりゆらりと揺れる蝋燭に映し出される影が広がり大きな蜘蛛のようだと思った。床に臥せていた大谷様からの呼び出しとのことだった。自室に向かい、許可を得て室内に入り込めばそこにはいつもどおりの主君の姿があった。…病床と聞いていたけれど。それを問いただすような権利は私にはないので黙って頭を下げて到着を告げると、大谷様はゆったりとした動きで私を見つめた。包帯に覆われた痛々しいお体が視界に入る。何事かと自分の足元を見ながら問うと、大谷様は特に変わりないように告げる。徳川に離反の動きがあると。


「殿には、お伝えしたほうが?」
「いや…三成には未だ伝えぬほうがよい」
「………」
「そう黙るな。…うぬを怒らすと怖いなァ」


ひっひっひ、と喉を引きつらせて大谷様は笑う。別に怒っているわけではないけれど。黙って大谷様の笑いが収まるのを待っていると、漸く笑い虫は治まったらしい。大谷様は再び口を開く。


「三成は不器用な男だ」
「……私には、よく分かりませんが」
「まぁ、そうだろうなァ」


大谷様はふよふよとこちらに近づき、私の瞳をのぞき見る。深い深い霧の中を歩くように混迷した色を帯びた瞳。ごくりと思わず唾を呑みこんだ。


「あれは素直な男だ」
「……はい」
「そんな男にあるがままを伝えれば本人だけの混乱ではなく城内すべてに波紋する」


今の太閤にとってそれは痛手だろう。そう続ける大谷様。私は黙って大谷様の言葉に頷いた。世界進出を果たそうとしている太閤。城内にも不安視する声がなくもない。全てをもみ消しているだけにすぎない。もし、石田様がことを起こしてしまったら。…大谷様の言い分も分かる。反乱分子が勢いずく要因になりかねない。


「うぬは、賢い」
「………」
「徳川と交友が深いようだが?」
「それは全く根拠なきことでございます」
「そうだろうなァ」


大谷様の瞳の奥の暗闇がぶわりと広がった。それを見て、背筋がぞっとする。おかしい。私は、何に怯えているのだろう。この人のこの笑い方は前からだというのに。そっと頭を撫でる手がふわりと顔の輪郭をなぞり、頬に触れる。熱とともに伝わるのは汗と乾いた血の匂い。そうして薬品の匂い。大谷様の香り。


「これまでどおり徳川とは接せ」
「………畏まりました」
「時を見て、動くぞ」
「…はい」


俯き傅く。握った拳が震えているのはどこの感情から来るのか全く分からなかった。



***



穏やかな日だった。遠くでぴちぴちと雀が連なって楽しそうに飛びはね、羽ばたいて姿を消していく。日に日に深くなっていた緑は触れるとひらりと落ちていく。乾いた風が広い庭に吹き抜けた。暖かな日差しに妙な違和感を感じながら、瞼を閉じる。別室では、太閤を中心とした者たちで軍議が開かれている。本日は大谷様も体調が良いとのことだったので共に城に上がり、軍議に入られた。いつもだったら、すぐ外で警護をしているのだけれど、今日はいいと竹中様に言われてしまえば私のような者は下がらずにはいられない。頭を深く下げて、とりあえず廊下を挟んで一番近くの別室で待機をしているのだ。…お供をした意味はあったのか。とりあえず行き返りはお守りできるけれど。まぁ、私の警護なんて最終的には盾になるくらいのものなのだけれど。ふわ、と新しい畳の井草の香りとは別の匂いが鼻に届く。瞼を持ち上げてそちらを見ると、今一番見たくない顔がそこに立っていた。


「今日も熱心なんだな」
「………」
「ワシは一足先に軍議が終わったんだ。…少し、話さないか」


そう言うが早いか、徳川は隣に腰を降ろした。一足先に、ということは、まだ大谷様は終了ではないのか。まあ、当たり前といえば、当たり前だけれど。ちらりと隣に座る徳川を盗み見る。徳川は徳川で、こちらを気にするようでなく、のんびりとした動きで青い空を見やっている。ふわりと吹いた風は、徳川の髪を少しだけ揺らした。


「ははっ、そんなに畏まらなくてもいい」
「………失礼ですが。そのように易々と声をかけられるのは、如何なものなのですか」
「うん?」
「…ですから、貴方は一軍の将なのでしょう」
「ああ、まぁな」
「そのようなことで下の者に示しがつくのですか」


我ながら、つっけんどんな物言いだった。口を一文字に結んで黙った後に後悔した。生意気なことを言ってしまったが、この男も一応石田様と並ぶ武将なのだ。出過ぎた真似をすれば、逆鱗に触れてもおかしくない。しばらく何も言わず、ただ静かな時間が過ぎていく。何か反論があってもよさそうなのではと思い、ゆっくり徳川のほうを見ると、ぱちりと目線があう。いや、目線が合うとかいう問題でなく、徳川は私の顔をまじまじと観察するように頬杖をついて見つめていたのだ。これはこれで居心地が悪い。


「………なんでございましょうか」
「やっとお前と話せた」
「は」
「ずっと話したいと思っていたんだ」


お前は仕事中だから、口をきいてくれないし困っていたんだ。徳川は朗らかに笑った。何故だかちぐはぐに感じるそれに私は思わずあっけに取られる。それでも構うことなく、徳川はにこにこと笑顔を見せる。何にこの男が笑っているのか、全く理解が出来なかった。私は何1つとして愉快なことなどないのに。


「でも、怒ると怖そうだ」
「……さようでございますか」
「お、不機嫌になった。さては他にそう言う人間がいたんだな?」
「………」
「図星かぁ」


お前は面白い。はは、と朗らかに笑う。だけれど、じっとその顔を見つめているうちに、見つけたひっかかる部分。笑った顔の合間に見せる、少し疲れたような困ったような顔。その顔を知っている。何かを決意した顔だ。だけど、それを迷う顔。徳川に離反の動きがある。大谷様の声が脳裏を横切る。そうだ、この男は。…こんなに脆く脆弱そうな男が。だけれど、その軟弱な表情とは裏腹にその両の手は歪に歪む。赤黒くなったその拳を装甲で誤魔化している。弱さを隠して、輝き続ける。それが尊いもののように見えてしまう。私は、おかしい。おかしくなってしまったのかもしれない。だから、徳川がそっと私の髪に手を伸ばしたのを気づけずにいた。いかつい手が髪に触れたところで私の意識は弾かれたように戻ってくる。優しい手つきで触れる手。まるで、触れることを恐れているように。じっと徳川の瞳を見つめる。瞳の奥でゆらゆらと不安気に揺れている。


「………綺麗な髪だ」
「…………、ご冗談を」
「嘘じゃない。ワシは好きだ」
「…髪が、でございますか。変わったご趣味ですね」
「…ははっ!お前は天邪鬼みたいな奴だな」


ふわりと徳川の手が離れる。それを私は目で追って、何事もなかったようによそを向いた。徳川はまだ笑い続けている。それが本当の笑みでないのに。そう思うと、胸の奥にどろりと嫌な感触が溢れては溶け出して心のうちを満たしていく。気持ちが悪い。眉間に思わず皺が寄る。嫌悪するような感情が、私の中にあふれ出していく。今日は悪い日だ。こんな風に苛立ってしまうなんて。せっかく、大谷様が共に来てもよいとおっしゃってくださったのに。石田様にも、日ごろはかけられないようなお優しい言葉を朝にかけてもらったというのに、台無しだ。すべてすべてこの隣に座る男のせいですべてが台無しだ。こんなにも心のうちを乱して波立たせるなど、それだけで許せない。何故私はこんなにも許せないと思ってしまうのだろう。徳川は太閤の下についていて、石田様と肩を並べるほどで。今までも、他愛の無い話をあちらが一方的に話しかける程度の関係で。今日のようにこんなに言葉を交わしたことは今までに一度たりともないというのに。離反。ぐるりと胃液がさかのぼるような感覚だ。気持ちが悪い。気持ちが悪い。…この感情に気がついてはいけない。そう直感的に思った。これ以上思考を追及していっても、私自身が使い物にならなくなるだけ。そう思った。それなのに。隣の男は、ゆっくりと口を開く。重く重く、その呟きは私にとっての枷でしかなかった。


「ワシは人間としてお前が好きだよ。…お前がついてきてくれたら、ワシは嬉しいよ」



好きだと呟いて笑うきみが憎い



女に殴られたのは、その日が初めてだった。
いつも軍議室の外で座って、ただ静かに景色を眺める女。興味を持たないふりをして、いつも理不尽に拳を震わせていた。ああ、コイツも堪えているのか。そう思った。初めて声をかけたのは、ワシが行動を起こそうと準備をしているのが露見しかけたころだった。軍議を途中で外され、恐らく半兵衛殿や太閤、大谷には勘付かれているのだろう。覚悟を決めた以上、もう後戻りはできないと思っていた。だが、軍議室から少し離れたところにある部屋に待機していたアイツを見て、こみ上げるのは、苦しさだった。大谷の部下のアイツ。これからワシが成す事は、コイツと敵対することだ。直感的に、それだけは嫌だ。そんな子供のような思いが沸いてきた。訥々と話す様子は、想像とは全く違っていたが、それはそれで面白いと思った。ワシが率直な言葉を言えば、居心地の悪そうに視線をさ迷わせた。それが照れているのだとすぐに分かった。だから、つい口をついて出てしまった言葉を、今でも後悔している。
瞼を閉じれば思い出す。殴られた反動で後ろに倒れた身体。思わず顔を上げると、泣きそうな顔をしてワシを見つめる顔。言ってはいけない言葉を言ってしまったのだ。それを漸く分かった。
瞼をゆっくりと持ち上げる。日がさんさんと降り注ぎ、あの日と何一つ変わらない。ただ変わったのは、太閤や三成がいなくなったこと。そうして、アイツも。ワシが、殺した。…殺したのだ。視線を自分の手に落とす。歪に曲がった手。人を殺めた代償だ。もうこれをどうにかしようなど考えることもやめた。それでも、思い出すのは、あの日触れた柔らかな感触。細くて柔らかな髪。ささくれたった指の皮に細い髪の毛が少し絡まった。そのときに胸の奥底が跳ねた。確かに、そう感じたのだ。


「…お前を殺してまでワシは何を得たんだろうな」


本当の問いの答えは、誰も答えてくれない。



ブラウザバックでお戻りください。

曰く、様提出。
×