プリーズコールミー | ナノ

お隣に住むおばあちゃんの孫はオーストラリアにいる。私は小学6年生の冬にその彼と出会い、春を迎える前に水泳を学びにオーストラリアへ旅立つのを見送った。かわいい顔をした、わがままで少しキザだった彼は元気にしているだろうか。

***

「おばあちゃん、お母さんが肉じゃがたくさん作りすぎたからって……っ、」

何時ものようにインターホンも押さずに引き戸をガラリと開けると、土間にはちいさいおばあちゃんではなく、大きな荷物を提げたお兄さんが立っていた。きれいなワインレッドの髪の色をしたそのお兄さんというのがとても整った顔をしていて、黒のタンクトップに黒のパーカーを雑に羽織っていてもわかるほど、引き締まっていた体をしていた。黒のタンクトップとパーカーを一緒に着て、しかもそれが似合ってしまうなんて…!地味な黒ばかりを着るなんてのは趣味が悪いと思っていた私を許してほしい。

「……ばあちゃんの知り合いか?」

すっかり見とれてしまっていた私に痺れを切らしたらしい。控えめに声をかけられた。私は隣の家の者で、おすそわけに来たのだと伝える。

「隣の……?間違ってたらわりーんだけど、お前、なまえか?」

まさかお兄さんの口から私の名前が呼ばれるとは思わなくて、おっかなびっくり返事をしてしまった。そんなことなんて気にも止めず、お兄さんは先程までのすました顔とは一変、くしゃっと人懐こい笑顔で話しかけてきた。

「やっぱりな!俺のことは?覚えてないか?」

目を爛々とさせて尋ねる姿に既視感を覚え、記憶を辿る。……実は1人だけ心当たりがあるんだけれど、あの子が成長したとして、こんなに色気むんむんになるだなんて想像できない。それにまだ、あの子のチャームポイントを確認できていないし……。私は意を決して「イ」の口をして彼を見れば、つられて彼も「イ」の口をしてくれた。私は確認したい一心で、断りもせずに彼の口を凝視する。

「凛くん!凛くんでしょ!歯もすごく成長してる!」

特徴的すぎるその歯を忘れるはずがなかった。彼の八重歯ぎみだった歯は全て鋭い形になっていて、なんだか月日の流れを感じてしまう。歯ァ見て思い出すってどういうことだよ…、と呆れた顔をされてしまったが、なまえは全く変わってねえな、と最終的には昔とおんなじはにかんだような笑顔を見せてくれた。彼は昨年日本に戻っていたらしいのだが、環境が変わりバタバタしていたせいでずっとおばあちゃんには顔を見せることができずにいたらしい。やっと時間を見つけておばあちゃん家にやって来たのはいいが、おばあちゃんが居らずどうしたものかと悩んでいたようだ。抱えていた肉じゃがの鍋を受け取ってくれた凛くんはすっかり大人っぽくなってしまっていて、見せる表情や仕草がいちいち絵になってしまっていた。鍋を持つのが凛くんというだけでだけで、我が家の鍋がルクルーゼに見える。

素直にそれを口に出せば、「なまえはびっくりするほど変わってねえもんな」とバカにされた。言い返せない。ムッとした私を放って、なまえの母さんの肉じゃがも久しぶりだな、なんて嬉々としながら凛くんはそのまま家に上がっていってしまった。あれっまさか食べに行っちゃった?凛くんそんなに食べる子だったっけ。どうするべきか土間で様子を伺っていると、再び凛くんが現れた。

「悪い、やっぱばあちゃん今出掛けてるみてーだわ」

おばあちゃんを探しに行っていたのか。食いしん坊かと疑ってごめんね。そういえば、散歩はおばあちゃんが海女さんをやめてからの日課だった。それならもうすぐ帰ってくるはず。とりあえず私の任務は終えたことだし帰ろう。あとどれくらいおばあちゃん家に滞在できるのか尋ねた後、また来るねと引き戸に手を掛けた。

「あっ、」

凛くんのその声に、どうかしたのかと控えめに振り返ったその瞬間、目の前は黒く染まっていた。いいにおいがする。私に密着するあたたかな体温が心地いい。これがハグだと気付くのにそう時間はかからなかった。かと思えば、ただいまの言葉と共に私の頬に1回、凛くんの唇がくっついた。おお、これが噂に聞く異国の挨拶。不思議とこれも嫌な気持ちにはならなかった。「おかえり」頬に触れた凛くんの唇はとても柔らかかった。

***

「いいなあなまえちゃん!凛ちゃんってば、僕たちにはそんな挨拶してくれなかったよ〜!」

先日、再会した時のことを江ちゃんら2年生組に話したところ、いいないいなと羨ましがられてしまった。どうやら彼らと再会した時の凛くんは反抗期を迎えた中学生男子さながらに不機嫌だったらしい。ということは知り合いの中で凛くんの唇の柔らかさを知っているのは私だけ……!?思わず頬に熱が集まる。ほっぺにチューされて意識しない方がおかしい、というかそれまでそんな経験がなかったせいで私はあっという間に凛くんを意識するようになっていた。でもそれって。

「それって凛くんの機嫌が良ければ誰でもぶちゅっとしてもらえたってこと……」

私はただ運がよかったってこと……。嬉しいような、切ないような。いやいや特別な意味がなかったとしても、良い思いさせてもらっただけ私はしあわせものだよ。自分に慰めの言葉をかけるなんて虚しすぎる。

「人をキス魔みたいに言うんじゃねーよ」

「異国の地で洗礼を受けてきた人がなに言ってるの。日本では挨拶にハグもチューもしないんだよ」

凛くんのおばあちゃん家の居間であついあついと言いながら2人して扇風機の前を奪い合う。おばあちゃん家は午後からしかクーラーを付けないという決まりがあるのだ。あと2時間か…。凛くんはといえば、私の気持ちも知らずに気持ち良さそうに風を受けていた。凛くんから視線を外し、風鈴の鳴る縁側に目をやる。縁側からは庭が見えた。おばあちゃんの植えた朝顔はすでに眠ってしまったようだ。私も現実逃避に寝てしまおうかな……。

「知ってるか?」

まぶたがくっつき始めた頃、ずっと静かだった凛くんが空気に溶け込んでしまいそうな声で話しかけてきた。

「オーストラリアでも挨拶にハグはしてもキスは滅多にしねえ。つーかいきなりキスとか失礼にあたる」

さっきの話はもう終わったものだとばかり思っていたから、心臓がキュッと縮むような感覚に襲われた。というか、失礼だとわかっていてなぜ私にそれをしたのだろう。実は嫌われていたのだろうか。思わず横で風を受ける凛くんを見つめる。髪がなびいてどこぞのCMかと見紛ってしまった。

「俺だって誰彼構わずキスするわけじゃねーってこと」

ちらりと横目で私の様子を伺う凛くんの表情は読めない。ただ、真面目な顔をしている……とは思う。思うのだが、髪の毛が似た色をしていてわかりにくいけど確かに耳が赤くなっている。

「ねえ、耳」

「……うるせえ」

短くそう口ごもると、耳を隠すように髪をぐしゃぐしゃとかいてそっぽを向いてしまった。私の自意識過剰な恥ずかしい勘違いでないならば、はやくほっぺだけでなく私のこともまるっと盗んでしまえばいいのに。鳥取の民家に居ながらお城に住む姫さまのようなことを考えてしまった自分に思わず吹き出す。「なに笑ってんだよ」凛くんの拗ねた声にますます口角が上がってしまう。勘違いさせてしまった彼に私の気持ちが少しでも伝わればいいなと背中にくっついた。暑いと怒られるかと思ったのに、聞こえたのは焦った声。……期待してもいいのだろうか。しかしこんないい雰囲気での私の無意識の一言は、あつい!であった。その後「お前がくっついてきたんだろーが!」と引っぺがされたのは言うまでもない。
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