青くさい、だけど甘酸っぱい | ナノ

 自惚れないで。
 小さな写真立てを抱きしめながら、女は言いました。
 あなたが彼を遠くへやってしまっても、二度と会えないような遠くの遠くへ旅立たせてしまったとしても、わたしの唯一は生涯あのひとだけなのよ。
 小さくてみすぼらしいアパートメントの一室で、彼は茫然としてしまいます。写真の中の男を、僻地に赴かせたのは彼でした。それは参謀本部から下りてきた命令そのままに人選したのみで、そこには何の他意もないつもりでしたが、女に指摘されてから初めて、とても愚かなことですが本当に初めて、自分の中で息衝いている暗闇の存在に、彼は気づいてしまったのです。
 あなたはわたしの唯一に足り得ない。
 女の厳かな声はまるで神からの啓示のようにも聞こえました。
 彼は滑稽なほどに震える指で、女に向かって手を差し伸べます。
 それでも、おれの唯一は君なんだ。
 女は盾のように写真を抱きしめ、決して彼の手を取ることはありませんでした。



 ミニチュアサイズの人形たちがわらわらと蠢いているみたいだった。
 赤は一年生の学年カラーなので、赤色のジャージを着ているあれらは、今月入学したばかりの新入生たちだろう。風に乗って教室まで吹き上げられてくる歓声は高いトーンのものばかりなので、いま校庭に出ているあの子たちはおそらくみんな女の子だ。女子が屋外にいるということは、男子はたぶん屋内――体育館か道場で体育をしているのだと思う。
 おれは欠伸を噛み殺した。
 黒板とチョークのぶつかる硬い音、先生のあまり上手ではない英文の読み上げ。
 午後の授業は眠たくなるぐらいに平和だ。おかげで撃沈してしまっている生徒も少なくない。せっかくレベル別に分けられた少人数制の授業だというのに、この先生はあんまりやる気がないみたいで、和訳と重要な文法を平坦なトーンで説明しながら、ひたすら板書を繰り返すだけなので、さすがのおれも眠たくなってしまう。
「自惚れないで。小さな写真立てを抱きしめながら、女は言いました」
 物語は佳境へと差し掛かっているみたいなのに、全然ドキドキもワクワクもしないのは、上手とは言えない英語の発音と、その後に続くちょっと訛った日本語訳が、魅惑のボイスとしておれたちを眠りの世界へ誘っているからだと思う。
 ほんの少し気を緩めただけで落ちそうになる目蓋をこすっていると、前の席の黒髪がこくりこくりと船を漕いでいることに気がついた。思わず小さく笑ってしまう。
 ハルの背中をじっくりと観察できる貴重な時間は、教室と席を移動して受ける、この英語の授業中くらいのものだった。
「あなたが彼を遠くへやってしまっても、二度と会えないような遠くの遠くへ旅立たせてしまったとしても、わたしの唯一は生涯あのひとだけなのよ」
 居眠りしているハルのために、ノートを取っておいてやらないと。
 そう思ってプリントに目を落とすのだけれど、潮騒のようにやってくる眠気は消えてくれない。寄せては引いて、引いては返して。
 また欠伸を噛み殺してから、意志を込めてプリントを凝視する。
 たくさんの中のたった一つ。
 そんなタイトルの付いた短い文章は、どこかの小説の一場面を抜き出しているみたいだった。なかなかにヘビーな内容のそれは、今日の授業の始めに先生が配ったものだ。
 たくさんの中のたった一つ。たくさんの中の唯一。
 書き写す手を止めて、おれはもう一度校庭を見下ろした。授業中に校庭を見下ろせる窓際の席も、この時間だけの特権だ。
 今までは男子が屋外でサッカーをしていた。でもちょうど今週から切り替わったのだろう。
 校庭に散らばるミニチュア人形みたいな女の子たちを見下ろす。
 おれの唯一はすぐに見つかった。
 豆粒みたいなサイズでしか見えないのに、どうしてなまえのことだけはすぐにわかってしまうのか、上手く説明することはできない。でもどこにいたってすぐにわかってしまうと思う。見つけ出す自信がおれにはある。たとえば無数に空いた小さな穴の向こうから、たくさんの人の手だけを差し伸べられたとしても、おれはすぐになまえの手を見分けてしまうと思う。
 そういえば昔、そんな実験をしている番組があったな。春の陽光に炙られて、とろとろに溶けだしてきた頭で思い出す。たくさんの赤ん坊が穴の向こうから一斉に手を差し出す。壁のこちら側にいるお母さんは、その手の中から唯一の我が子を見つけ出す。決定的な何かを試されるようなそんな実験。
「あなたはわたしの唯一に足り得ない」
 校庭に散らばる生徒のひとりが、こちらを見上げた気がした。



 いいですね、合図がきたらその穴から手を出してください。
 わかりました、と頷いて男の子はドキドキする心臓を宥めます。
 ここがどこなのかはよくわかりませんが、とても狭く小さなところで、そしてすごく暗いことだけはわかります。だって、自分の手もよく見えないくらいなのです。
 目線の高さにある穴だけが、そこから漏れてくる光だけが、唯一の光源でした。ぽっかりと空いているその穴は、まるでドアに付いている覗き穴みたいに小さくて、こんな小さな穴におれの手は入るのかな、と男の子は不安になったのですが、自分の手を触って確かめてみると、まるで赤ん坊みたいにいとけなく柔らかな手になっているではありませんか。
 男の子はびっくりしてしまいました。びっくりしているうちに合図のブザーが鳴ったので、慌てて目の前の穴に片手を突っ込みます。
 ドキドキしながら待ちます。選ばれる瞬間を想像しながら待ちます。おれの唯一はどんなふうにしておれを選んでくれるのだろう。ぎゅっと両手で握りしめるのかな、それとも怖々触れてくるのかな。
 零れてくる笑みを抑え切れずに待ちますが、男の子の手に触ってくれる人は一向に現れません。
 どうしたのだろう。だんだん不安になってきた男の子は、めいっぱい手を差し出します。何か間違いがあったのかな。それともあのブザーは合図ではなかったのかな。
 ドキドキと高鳴っていた心臓が、嫌な感じのドキドキに変わっていきます。冷たい汗が噴き出してきて、男の子はパニックを起こしそうになりました。
 それでも諦めきれなくて、肩が出そうなほどに手を差し出します。頬が壁に当たってとても苦しいのですが、どんなに手を開いても、どんなに腕を振っても、それが誰かに当たることはありません。ただ虚しく宙を掻いているだけなのです。
 誰も男の子を選んでくれません。
 どうして。どうしてなの、なまえ。
 ほとんど絶望的な気持ちで男の子が叫んだ瞬間、天から声が降ってきました。
「自惚れないで」



「真琴」
 揺さぶられて顔を上げると、呆れた顔のハルと目が合った。
 一瞬、ここがどこで、おれが誰で、あの穴はどうなったのか、本当に何もわからなくてポカンとしてしまった。そんな間抜け顔のおれを見下ろして、ハルは教室の出入り口を顎で指す。
「授業、終わった」
「……ああ、うん」
 広げていたプリントや筆記具をまとめて席を立つ。まだ夢と現実の境目が曖昧にまどろんでいる気がする。踏みしめた教室の床が急にすっぽりと抜けて、夢の中に逆戻りしていくんじゃないかとおれは不安になった。
 暗い闇。丸い穴の形に零れている光。合図がきたらその穴から手を出してください。
 赤いジャージを着たミニチュアサイズの人形たちの姿は、もうどこにも見当たらなかった。
「――ハルちゃん! マコちゃん!」
 移動教室の行き帰りでごった返す廊下を歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。立ち止まって振り返ると、人波の中に赤いジャージが見えて、その瞬間どうしたっておれは、救われたような気分になってしまう。
「なまえ」
 百年ぶりに恋人の顔を見たような嬉しさで、おれはなまえの名前を口にしていた。
 なまえは子犬のような懸命さと健気さで、人波を掻き分けてこちらに寄ってくると、おれを見上げてきらきらとした笑顔を浮かべる。
「あのね、わたしさっきまで体育だったの」
 うん、知ってるよ。
 という言葉を呑み込み、おれは感じが良いと評判の笑顔で先を促した。うん、それで、どうしたの。
「先週までは体育館でバリボーしてたんだけどね、今週からは校庭でソフトボールをすることになったの」
 それで今日校庭に出て気づいたの。校庭からって、ハルちゃんたちの教室が見えるんだね。
 後ろ手に指を組んだなまえは、少し首を傾げた愛らしい姿で、残酷な言葉を無邪気に続けた。
「わたし、ハルちゃんに向かって手ぇ振ったんだけど、気づいてくれた?」
「ああ」
 そんなこと、ごく当たり前だと言わんばかりの無造作で、ハルは頷く。
「ちゃんと振り返しただろ」
「えぇ? そうだったの? ごめん、それには気づけなかった」
 声を立てて笑うなまえと、目元を和ませて会話に応じるハルと。二人は気安い雰囲気で談笑を続けていく。
 でもいつもの教室と場所が違うみたいだったけど、どうして?
 リーダーの授業だったんだ。一年だって、英語はレベル別で分けられるだろ。
 やだ、ハルちゃんとマコちゃんってそんなところでも一緒のクラスなの?
 いかにも親密そうな会話を聞きながら、おれは木偶の坊のように突っ立っていた。まだ汗ばむ季節ではないというのに、嫌な汗がじっとりと肌に浮かんできていて、呼吸がつかえる。
 自惚れないで。
 動悸が速くなる。笑顔が強張る。指先から血の気が引いていく。
 おれの中のたったひとつ、たったひとつの唯一が、またおれのことを唯一として選び返してくれなかったら、その時おれは、どうしたらいいんだろう。
 それは今まで考えたこともない可能性でした。とても愚かなことではありますが、初めて、生まれてから初めて、彼はその恐ろしい可能性に思い至ってしまったのです。幼馴染として三人の関係がとこしえに続いていく可能性は考えていました。もしくはその三が、二と一に分かれてしまうことはあるだろうとも思っていました。しかし、たとえそうなったとしても、自分は一にはならないだろうと、一になることはないだろうと、彼は根拠もなく信じていたのです。
 自惚れないで。
「真琴?」
 あなたはわたしの唯一に足り得ない。
 なまえとハルが、不思議そうな顔をしておれを見ている。不思議そうな顔をしておれを見ている。
 いいですね、合図がきたらその穴から手を出してください。
 夢と現実の境目が曖昧にとけていく。
 いいですね、合図がきたらその穴から手を出してください。いいですね。いいですね。いいですね。
 覗き穴めいた光が見える。暗闇の中に丸く穿たれた点。そこから漏れる光。
 合図がきたらその穴から手を出してください。
 今おれはどこにいるのだろう。今おれは何をしようとしているのだろう。
 たくさんの中のたったひとつ。たったひとつ。そのひとつに選ばれたかっただけなのに。
 誰も握り返してくれないとわかっている穴に、しかし男の子は手を差し込まなければなりません。
「マコちゃん?」
 女の訝しげな声はまるで神からの啓示のようにも聞こえました。
 彼は滑稽なほどに震える指で、女に向かって手を差し伸べます。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -