青くさい、だけど甘酸っぱい | ナノ

5月の風に運ばれてカルキの独特な匂いが私の鼻を掠めた。久しく嗅いでいなかったこの懐かしいかおりに夏はそろそろ来るのだということを知らせてもらったようだった。そうだ、そろそろ夏がくる。我慢比べのようにお互いが意地を張りながら子供じみたことをいつまでも続けている、ちょっぴり辛い、夏が。





「またこんなとこいたの。風邪ひいたって知らないからな」
「お風呂の中で遥みたいに寝ないし大丈夫だもん」
「大丈夫だもんって……」

屋上から、きれいに整ったプールをずっと眺めているとさっきまでそのプールにいた真琴が私に気づいたのかジャージ姿のまんまやってきた。プールはうちの学校の授業でも当分使用していなかったため、数日前まで荒れ果てていたが、新設水泳部により今日やっとプール掃除が終わったらしい。透明な水が太陽の光に反射してプールの底に影を作りながら、波打つような模様を描いている。こうやってあの真ん中にいる遥のやる気を取り戻したことで真琴も再び水泳を始めるのか。遥がどうして水泳を辞めたのか私たちは知らないが、それでもお風呂に水を溜めてわざわざ水着を着用してまで入っていた彼は水に触れたくて、感じたくて仕方がないのだ。それを今まで一番近くで見ていたのは紛れもなく真琴で、彼はそんな遥の中のくすぶっている水への想いを解放してやりたくて堪らないのだ。だってさっきも、感激のあまり5月だというのに冷たいカルキの匂いのするプールに戸惑いもせずに飛び込んでいった遥を見て、真琴は驚きながらもきっと今までの自分の辛い思いが報われたと思っただろう。

「なに?人の顔見てぼーっとして」
「べっつにー。まこっちゃんは遥、遥ばっかりで私の相手してくれないからむくれてただけだもん」
「こーら、まこっちゃんって言わないの」

子供のようにわざとらしく頬を膨らませると真琴は困ったような顔で笑う。そしていつも戸惑うように私に触れる。風船ように膨らませた頬を両手で挟み、そこから空気を逃がしてやるとそのまま片手を私の頭の上に置く。真琴がこうやって頭を撫でてくれるのは嬉しいけど、急に子供扱いされているようで距離を感じ、もどかしくなるのだ。底の見えない透明な水に溺れ、どんどん深層へと落ちていくような。酸素の届かない水中で生きようと必死にもがく哺乳類のようだ。黙っていると真琴が訝しげになまえ?とだけ私の名前を呼んだ。屋上からは今でも新設水泳部(主に渚くん)の声やさまざまな部活の喧嘩が聞こえている。

「真琴が好きだよ」
「知ってるよ」

いくら私が真琴に好きだと告げたって彼の心には何らそれが響かない。むしろ普段は温厚である彼が冷静さと少しの冷たさを孕んだ声色が私に向ける。その普段とかすかに違った声が優しい彼の僅かな拒絶だということを私は知っていた。知っているにも関わらず懲りずにこの3年間真琴に伝え続けているのだ。自分でもしつこい女だという自覚はあるが、真琴が声色以上になにか私にプレッシャーをかけてこないので私もそれ以上はなにもしない。この均衡をいつもいつも保っていることに目の前の幼馴染みは必死なのだ。私は真琴の保っている子供の頃の距離を崩して、壊したくて堪らない。彼とこのままの関係だなんて嫌なのだ。幼い頃から一緒に育った彼だからこそ私はその些細な変化にも気がつくことができる。彼が私をもうただの幼馴染みだと思っていないことくらいすぐに分かった。いつになるのか分からない独りよがりの願掛けに私はいつまで付き合うのだろう。

「なまえ、帰ろ」

いつものように納得できない私の手をとって真琴が屋上から出ていく。ひっぱられるようにして私もそこから離れていく。気だるそうに二人分の上履きの音を響かせながら真琴に握られている手を眺めた。いつのまにか私たちは身長も違う、体つきも、声も変わった。そして、今握っている手の大きさも。でも私が真琴を思っていることだけは変わらない。

「どーして知ってるのに返事をくれないのかなあ、真琴は」

冷たい空気に水を指すためわざと声のトーンを高くすると真琴もこわばることをやめたのかいつもの眉を下げた笑い方をしてくれる。それだけで私は真琴に許されたような気がして胸を撫で下ろしたくなる。しかも、返事をする前に真琴がより一層握った手の力を強くしてくるものだから私はいつも勘違いしてしまう。もしかしたら、今日こそは私の欲しかった答えをくれるんじゃないか、と。そしてその期待はいつも彼の困ったような笑みと同時に崩されていく。

「また優勝できるまで、オレは水泳一本って決めたから」

泳がなくなった、遥のために?とは聞けない。遥は今は水泳をする気になったみたいだしこのことについて私がとやかく言う必要も資格もないのだろう。ただ真琴は物腰の柔らかそうな顔をしながら、見かけによらず頑固な一面を持っている。だからきっといくら私が言ってもその考えを曲げる気はなさそうだ。

「狡い返事」
「我ながらそう思うよ。……っと」

真琴の手が一瞬離れた。
びっくりしたのもつかの間、階段を勢いよく女子生徒がかけあがっていく。彼女たちも屋上から目当ての男子のいる部活を見学するつもりなのだろうか、真琴にも目もくれずスカートを揺らしながらかけ上がる様は数時間前の自分のようだ。真琴は気まずそうに自分の右手とにらみあった末に再び私のところへ腕を差しのべてきた。少し照れているのかくしゃっと歪んだように笑う真琴に釣られて私も恥ずかしくなる。そっとその大きな手に自分の手を重ねると今度はすっぽりと包むように握られて驚いた。少し動かせば指を絡めることもできるけど、なんだか今日の真琴の手の繋ぎ方が妙に落ち着いてそのまま真琴に歩幅を合わせた。

「へへ」
「嬉しそうにしないの。照れるから」
「真琴が返事をくれないから、ちょっと甘やかされただけでも調子乗っちゃうんですー」

なんてゲンキンな奴だ。真琴もきっとそう思っているのか否定してくれないところがなんとも彼らしい。階段をゆっくりと降りると自然と解かれる手。私たちはまだ幼馴染み以上恋人未満なのだからそれは仕方のないことだった。それでもやっぱりこうやって突き放したあとにすぐ優しくするだなんて彼は私の心を一生離さないつもりなのだろうか。このまま、この中途半端な関係が続けば、私は真琴が与えてくれた酸素しか満足できないようになってしまうのだろう。真琴というもがけばもがくほど逃げられない水のようなもに囚われてしまったのだ。だけど、それでもいいと割りきって、真琴がプールの更衣室で着替えるのを待ち、一緒に帰る。遥と渚くんはどうやら先に帰ったらしい。真琴とは一定の距離を保ちながら歩いていると不意に彼が口を開いた。

「よくずっとオレのこと好きでいられるよね自分ではなにがいいのか分かんないよ」
「今さらそんなこと言われても分かんないけど、真琴は真琴だから。だから好きなんだよ」

きっと私の答えは彼の求める返事ではなかっただろうがうっすらと微笑んでくれた。飽きられたって、呆れられたって私が真琴を好きなことは変わらない。

「飽きないね、お前も」

その時の真琴の声はわずかに震えていた。真琴の言葉にそうだね、と返事をしながら彼を見上げる。……真琴にどんな言葉をあげれば私に好きだと言ってくれるのか、毎年そんなことばかりを考えながら私はカルキの匂いを感じている。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -