さよなら恋心


私は、寂しいのだ。
ちらと盗み見た主君の横顔は月光に照らされ普段のななりを潜めていた。薄い唇は躊躇うように震えて、それでもまた寂しいと低い声を紡ぐそれを私は心の底から愛おしいと思う。

 主君はどうしようもないお人よしで、それが仇となったことも一度や二度ではないというのにやはり主君はお人よしのままだった。それは主の最大の魅力であり、汚点でもある。下手な慈悲はかえって残酷だというのに、彼は手を差し延べることを止めようとしない。周りの誰が何と言おうとも、彼はどこまでも清廉で、惨たらしい人だった。だが、それこそが彼の美徳であり、そんな人だから慕われるのだということを私は知っている。

 主君の皮膚の固い大きな手が好きだ。長い腕も、少し頼りない肩も、身を預けると雨上がりの濃い草の香りがする胸板、薄い唇、通った鼻筋、なにもかもを見透かす黒耀石の瞳、烏羽色をした豊かな髪の一本まで、私は主君を形作るすべてが愛おしいと思う。
それなのに主君はもうすぐ私の前から消えてしまう。また、お人よしな性格が仇となったのだ。主君は怒り狂い、我を忘れて、とうとうそれに残りの生命を使い果たしてしまった。

 病床に伏せた主君の息は日に日に少しずつ、確実に頼りなく不規則になっていく。かつては剣を握りしめ華麗に舞っていた主君があったが、最近では剣を握ったその手で筆をとって何かを紙に書き綴っていることが多くなった。以前私は、彼に何を書いていらっしゃるのですかと問うたことがある。主君はそれが解らぬお前ではあるまい言って私を笑ったけれど、主君の筆を持つ腕の細さと白さにばかり目がいって、彼の言葉にろくに反応することも出来ずにいた。

主君の言うとおり、私は彼がそれを何故何のために綴ったものかなどもう感づいていた。



我が人生の最後の月見に、と主君は何処から取り出してきたかわからない酒を片手に、もう片方の手で私の手を引いて二人して庭にでたのはもう数刻も前のことだった。
もう冬は過ぎたといえ夜はまだ肌寒い。いい年をした男二人が暖をとるためとはいえ必要以上に寄り添うなどと端から見ればなかなかに滑稽な画であるだろう(しかも片方は一国の主なのだ)が、私たちはどうしようなく温もりを欲していた。肩から感じる布ごしの微かな温もりに、私たちはそのとき確かに救われていた。
彼が持ち出した酒を嘗めると、口の中に甘味と微かな苦みが広がる。舌がここちよく痺れていく感覚に目眩がした。この人、値の張る酒を盗んできたな。


「私は、寂しい。」
「お前に触れられなくなることが、一等寂しい。」

主君がそう口にしたのは調度体内に程よく酒がまわり始めたころだ。

「月がこんなにも美しいから、感傷的になってしまっているのでしょう。」
「…そうかもしれないな。私はとても寂しいよ。」

ちらと盗み見た主君の横顔は月光に照らされ普段の精悍ななりを潜めていた。
彼がこんな弱音を吐くなど私が知っている中では初めてのことだというのに、何故かその言葉が彼の口から零れることになんの違和感も持たない。月があまりにも美しいせいだろうか。

「雲長も、翼徳も。向こうで私を待っているというのなら死など恐れはしない。ただ、お主を残していくことだけが唯一の心残りだ。」

そう言って私を抱きしめる主君の腕は温かかった。彼の心臓は今も穏やかに脈を打っているというのに、もうすぐそれすらもなくなってしまう。彼の肩にいっそう顔を埋めると、咥内にむせ返るほどの草の香りが広がった。

「私は、寂しい。寂しいよ、孔明−−−」

私を胸に閉じ込めたまま咳こんだ主君の抱きしめる腕に力が篭る。草の香りに混じってもう随分とかぎなれたはずの血の匂いがすることに気付いたとき、私は確かに絶望の産声を聴いたのだ。


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