オラトリオの嘆き | ナノ

「あ、香代起きた?」
「...うざい」
「うわ、起きて最初の一言がそれ? 酷いなあ」
「......」

白々しいばかりのその演技を見て、先程の恨みも込めてじろりと睨むと、いつも通り深夜はへらへら笑った。そこでふと、グレンの視線を感じて振り返ると、彼は鞄を掴んで立ち上がるところだった。ばちりと目が合う。深夜がそれを見て声を掛けた。

「あ、一緒に帰る?」
「死ね」

私も私だけど、これまたすっごい返事するなあ、なんて思って顔をしかめるグレンを見上げると、教室の後ろの入口の辺りから彼に声が掛かった。見てみると、そこには小百合ちゃんと時雨ちゃんがいて。結構大きめな声でグレンの名を呼んだので、二人は生徒達の視線を集めてしまっている。グレンが小さく溜め息を吐いたのが聞こえた。

「まったく、女を二人も従者として連れてくるだなんて、一瀬家の人間は随分と臆病なんですねぇ」

それを見て薄い笑みを浮かべた美十ちゃんが、少し離れたところからそう声を張った。美十ちゃんプライド高いなぁ、入学式で馬鹿にされたのまだ根に持ってるのかな、なんて考えているうちに典人も近寄ってきて、あの二人を紹介しろだのなんだの下心見え見えの言葉を掛けてくる。その一連の光景を、私はグレンの机に頬杖をつきながら眺めていた。

この前グレンが深夜に殴られたとき、咄嗟に身体が動いて医務室へと彼を連れて行ったことを不審がられるかなあ、と思っていたけど、全然そんなことはなくて拍子抜けしたことは記憶に新しい。『椿家は家同士のごたごたの仲介人』という周囲の認識は思ったより強かったらしくて、運ぶのを手伝って貰った典人には、「香代ちゃんも大変だなぁ」なんて言われた。クラスメイトにも何故か労りの言葉を掛けられたし。

そして、ちらりとそのクラスメイト達を窺うと、一様に微妙な顔になっているのが見て取れた。それもそうだ、名家の実力ある人間が揃いも揃って、馴れ馴れしくグレンに接しているのだから。それに私も入っているのか、と考えるだけで溜め息が出る。

「なな、一瀬、お前あの二人のうちのどっちかと、付き合ってたりすんの?」
「何だ。お前等は、汚らわしい一瀬の人間とは付き合わないんじゃなかったのか?」
「美人は別だよ」
「どういう論理だ」
「いいから言えって。アイツ等、アレだろ? お前の直属の従者だろ? ってことはアレか? 夜伽もやってんのか?」
「ちょっと五士の低俗男! 教室で卑猥な話はやめて頂けますか!?」

顔を真っ赤にした美十ちゃんがそう怒鳴ると、典人は不満そうに唇を尖らした。するとそこで私の刺すような視線にやっと気付いたのか、きょとんとした顔で椅子に座る私を見た。

「え、どしたの香代ちゃん、そんな怖い顔して」
「気持ち悪い、最低、女を何だと思ってるの、不快極まりない」
「おい一瀬、香代ちゃんにここまで言われてるぞ!」
「お前のことだろうが...」
「変な言い掛かりはやめて下さいませんか! グレン様はまだ、わたくしには手を出して下さらないんですよ!」

小百合ちゃんのその言葉で、教室が一瞬で水を打ったように静まり返ってしまった。驚いたような顔をしたり、とんでもない野獣を見るかのような目でグレンを睨んだりと、皆の反応は様々だ。そう言う私は、小百合ちゃんの相変わらずの言動に苦笑するばかりだけど。アレ多分、自覚なしの言葉なんだろうから、凄いよなあ。
そんな風に妙に感心していると、深夜が私の横で楽しげに笑った。

「なぁグレン、今の話真昼にして良い?」
「はぁ...俺はもう帰る」

賢い選択だ、と思った。私もとっとと帰ろ、とまだ諦めずにグレンに声を掛ける典人を半眼で見てから、やれやれと頭を振って鞄を手に取った。今日も特に何も無かったなあ、なんて平穏を噛み締めて腰を持ち上げた、その矢先。気配に、気付いてしまう。殺気だ。廊下の方から感じる。波紋が広がるように、廊下に居る生徒達がざわざわと騒ぎ始めていた。思わず深夜を見ると、彼もそれに気付いたようで、前方の入口辺りを見て至極嫌そうに顔を顰めた。

「深夜?」
「......征志郎兄さんだ」

直後、廊下で誰かが倒れるような音がする。聞き覚えのある男の声に、笑い声、時雨ちゃんの怒気を孕んだ声が次々と聞こえてきた。どういう状況なのか冷静に推し量ろうとすると、深夜は引き留める間もなく廊下へと向かってしまった。それを見て少し躊躇したけど、ここにいたって何も分からないので私も後を追う。

野次馬を掻き分けて前へと出ると、深夜が男子生徒の腕を掴んでいた。その男子生徒の蛇を彷彿とさせる細い目や、人を馬鹿にしたようなそのいけ好かない顔には、嫌な見覚えがある。素早く周りを見て状況を判断しようとすると、聞き苦しい、鈍い音がして目を見開く。見ると、深夜の唇に血が滲んでいた。深夜なら、その気になれば避けられた筈だけど、同じ柊と言ったって彼は正当な柊の血筋だ。態と受けたのだろう。しかしそれを分かっていてもやっぱり納得なんていかなくて、顔を強ばらせた。

「同じクラスなら、聞かせろ。この一瀬から来たネズミは、強いのか? 俺は選抜術式試験の二戦目で当たるんだが...」
「......初めは、私も彼には力があるんじゃないかと...何せ、次期一瀬家の当主候補ならば、ある程度の実力は持っているのではないかと疑ったのですが」
「ふむ」

深夜が、床に座るグレンを見下ろす。それはもう、酷く冷たい瞳で。いつものような物腰柔らかな深夜は、そこにはいなかった。

「とんだ買い被りでした。従者の女が殴られそうになっても...仲間が傷付けられそうになっても、動くことの出来ないようなクズ。所詮、堕ちた二流の家柄の人間です」

深夜がそう言うと、征志郎や、その取り巻き達、廊下へ出てきたクラスメイトまでもが一斉に笑い始める。ただ一人、顔色を変えない私は酷く異質に見えた。まあ、このセカイからしたら確かに私のような者は異端なんだろう。
そうして征志郎はつまらないと吐き捨てて、早々に踵を返して行く。その際目があったけど、特に何も反応はなかった。典人は憐れむように、美十ちゃんは怒ったようにそれぞれグレンに声を掛けているのが見えたが、二人は呆れた様子ですぐ去って行ってしまった。野次馬も騒動が終わったことにより散らばり始める。残るのは、深夜と私のみ。

「何か、ほんとつまんねぇ奴だな、お前」
「......」
「もうちょい、期待してたんだが」
「...勝手に期待するな」
「ああ、そうだよな。力のない、ほんとのクズに期待した僕が悪かった。もういいや、お前、二度と僕に話し掛けるんじゃ...」
「話し掛けてきたのは、お前だ」

そこで、深夜の目がさらに冷たくなった。普段の深夜とはどこか雰囲気が違うので、心配になって側で様子を見守る。

「ああ、そうだな。じゃあ僕だけじゃなく、真昼や香代にも近付くな」
「......」
「お前にその資格はねぇよ。大体、そんな何の覚悟も、力もない奴がこの学校に来るべきじゃなかった。真昼や、香代がいるこの学校に...何にも頑張ってこれなかった奴が、来るべきじゃなかった」

ふと視線を落とすと、深夜が拳をきつく握り締めているのが見えた。それに、目を細める。

何も頑張れなかった奴が、真昼や私の前に立つべきじゃなかった、と深夜は言う。生き延びる為に死にものぐるいで今の地位を勝ち取った彼が言うと、その言葉の重みはずっしりと、質量をもってリアルに感じられる。深夜の言葉は、痛いくらいに正しい。欲しいものを手に入れるには力が必要で。何も気にせず笑うのにも力が必要で。それはこの世界では変えられない事実だ。何かを守る為には、力が必要だ。そしてその不変の真理は、私の胸にいつだって、重くて苦い存在感をもって居座る。

(......ああ、気分が悪い)

私が耐えるようにぎゅっと拳を握ると、愚痴のような言葉を吐き捨てたグレンを睨んだ深夜に、腕を掴まれる。驚いて顔を上げるのと同時に引かれて、グレン達に背を向けて歩き始める深夜に無理やり連れていかれる形になる。

「......」

前を行く深夜に何か言おうと口を開いても、言葉が上手く纏まらなくて声にならなかった。何も言ってくれない彼なんて知らなくて、少しだけ、深夜が怖い。肩越しに後ろを見ると、小百合ちゃんと時雨ちゃんがこちら、というか深夜を睨んでいて。その場に腰を下ろしているグレンは俯いていて、どんな表情をしているのかは分からなかった。






「深夜、」

渡り廊下まで来たところで、やっと口が動いてくれた。名前を呼ぶと、それが合図かのように深夜の歩みが次第に遅くなり、そして止まった。掴まれている方の腕を今度は私から引いて、深夜を振り向かせる。思っていたより力を入れなくてもすんなりとこちらを向いてくれて、その顔を見上げて思わず苦笑がこぼれた。

「ははっ、ひっどい顔」
「.........そんな酷い顔してる?」
「してる」
「うえー」

彼が困ったように笑って、綺麗な青い瞳と目が合う。さっきまでの冷たい何かを帯びたものじゃなくて、少しだけ普段より弱った、いつもの深夜のもの。何だか疲れているようにも、助けを求めているようにも見えた。でもそれを見て、私も何だか安心する。いつもの深夜に戻って良かった。
するとふと彼の唇の血が目に入って、懐からハンカチを取り出して拭うと、それ程痛くはない筈なのに痛い痛いもっと優しくしてよなどと喚いてウザかったので、ハンカチを必要以上に押し当てその言葉を本当にしてやった。ざまあみろ。

「...香代って容赦ないよね」
「人聞きの悪いこと言わないで。深夜がウザいのが悪いのよ。お礼は?」
「ん、ありがとう」
「よし、素直なのは良いことだよ」

ふふ、と笑んでなんとなく甘えさせてあげたい気分になったから背伸びをして深夜の頭を撫でると、一瞬瞠目した後、彼はまた困ったように眉を落として笑った。撫でやすいように身体を屈めてくれる辺り、こんな風に撫でられるのはそんなに嫌ではないのだろう。嬉しそうにも見えなくはないので、まあ良しとする。可愛いところもあるじゃない、なんて少し気分が上がっているのを感じていると、不意に携帯が振動したような気がして手を下ろす。それを見て深夜が不思議そうな顔をした。

「どうしたの?」
「や、ちょっと、メー...」
「...香代?」
「.........最悪、」

新着メールの差出人と内容を見て、思い切り顔を顰めた。これを口に出して伝えるのも嫌なので、画面を深夜へと向けると、彼は素早くそれを見た後私と同じように顔を強ばらせた。

「...このタイミングで、暮人兄さんからの呼び出しか」

差出人は、この学校の三年、柊暮人だった。



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