オラトリオの嘆き | ナノ

(ジジイ共の小言はこれだから...)

恨みがましく腕の時計を眼前まで持ってくると、もう短針が十近くにあるのが見えて舌打ちをした。あの部屋に入ったのが七時近くだから、大分あの空間にいたことが分かる。あそこ、息が詰まって仕方がないのよね、と軽く溜め息を吐き、それまで耐えていた欠伸を人目を憚らずにする。この家にはこんなことを私がしていても、咎める人間なんていない。ジジイ共は良い顔しないと思うけど。廊下を歩きながら伸びをすると、骨が鳴った。

「はは、」

すると、庭の方から控えめな笑い声が聞こえてきたものだから、はたと足を止めてそちらを見ると、和服姿の男性がこちらを楽しげに見ていて。それにむっと私は拗ねたように唇を引き結ぶ。月光に照らされて、深い青い瞳が神秘的に煌めいていた。

「仮にもお前は女なんだから、欠伸はどうにかしろよ」
「...人は環境の動物だから難しいわね」
「よく言うよ、努力次第でそんなの何にでもなるだろう?」
「......」
「怒ったり拗ねたりするとお前はすぐ黙るな、香代。分かりやすい」
「怒ってないし分かりやすくもない」
「どうだかな」

そうまた微かに笑みを浮かべる、父。この家を統べる人間。ああそうだ、この父ぐらいだ、私に女らしく振る舞えなんて普通の言葉を掛けてたしなめるのは。「またお偉い方に呼ばれたみたいだね」そう言って下駄を鳴らして縁側まで来ると、私にも座るように促してから彼は腰を落ち着けた。親子だから私の嫌いなどっかの誰かと声質は似ていたけれど、父の涼やかな低音は耳によく馴染んで、いつも心地好かった。

「......幸先短いのに、ジジイ共はほんとよく喋るわ」
「はは、ジジイか、そうかそうか。でもそんな老いぼれ共でも、今までこの家を守ってきてくれたんだぞ」
「父さん、聴こえるわよ」
「聴こえないさ」

でも、聴こえたら困るなあ。そう他人事のようにあっけらかんと言い放つ当主は、果たして如何なものなのだろうか。私は別に良いと思うけれど、周りは一体どう思うのか。外では当主として他の宗教組織を牽制する為一見冷酷な仮面を被ってはいるけれど、彼の本当の姿はとても人間味に溢れている優しい人だ。この父が居なかったら、私は今頃この屋敷に閉じ込められて、正に篭の鳥状態だっただろう。

「学校はどうだ。あそこ、嫌なところだろう?」
「...教師も生徒も腐り切ってるわ。ほんと、胸糞悪いったらありゃしない」
「やっぱりな、今も昔も変わらない。......一瀬は?」

父はちらりと周りを窺って、声を幾分か落として私に訊く。流石にこんな話を聴かれたら、後々幹部共が面倒だ。どういう思考でいるのかと無表情で父を見ると、彼もまた考えが上手く読み取れない顔をしていて。人気がないことを充分に確認してから、口を開いた。

「......父さんに以前聴いたのと、すっかり同じよ」
「......」
「扱いは最悪、教師はネズミ呼ばわりする、生徒は柊様が第一。......仕方がないとは私も分かってるけど、へらへら笑ってその理不尽な扱いに甘んじるグレンを、正直...私は見てられない」
「......」

言い終えてから、樹齢何百年だと聴く枝垂れ桜が花を散らすさまを、ぼんやり見つめた。舞い散った桜花は池に浮かんで、最後には底に沈んでいく。それを見ている間に何か言うかと思ったら、隣の父は、予想に反して何も言わなかった。椿の人間がそんなことを言うなんてと、流石に叱責されるものかと思っていたのだけど。父は暫く黙り込んでから、ふうんと何とも歯切れの悪い返事を零すだけだった。

グレンのお父様と父は、同い年で同級生だったと聴く。父は母校の第一渋谷高校が頗る嫌いなようだったから、あまりその頃の話を進んではしてくれないけれど、父はこの通り優しい人だから栄様がされるその行為に胸を痛めていた。「俺も複雑な立場だったから、表だっては助けることが出来なかった」と、私が中学に入る少し前に彼はぽろりと零したのだ。そしてそれに、「いや、これは言い訳だな」と何かに耐えるように笑ったその顔を、私は忘れない。

「......麻美に、この前言われたわ」
「何をだ?」
「“椿家は中立の立場だということを、どうかお忘れなきように”って」
「それはまた...正論を言われたな」
「ええ、全くの正論ね」
「でも、お前はその立場に居たくはない、そうだろう?」
「......」

ぽちゃん、と鯉が跳ねる音がやけに大きく聞こえた。父の、迷いのない確信を持った声音が、重い響きを持って何度も頭の中で繰り返される。取り繕うようにすぐに口を開くも、言葉に詰まってしまって。ーー静かに、唇を噛んだ。

その間に三日月は雲の陰に入り、僅かに冷たい風が辺りに吹き始めていた。春とは言っても、夜はまだまだ肌寒い。それによって舞い散る桜は、雪のように見えた。

「......」

言えない。言えるわけが、ない。私は本家筋の人間で、次期当主候補で。何にもどこにも干渉せず、無関心を貫いてきたこの家を肯定し、賛同し、付き従ってくれている部下達を、これでは裏切ることになってしまう。そんなことは決してしたくない。
私は、生まれる筈のなかった生命であって、本当ならば、存在をひたすら隠されて静かに生涯を終える身であったのだ。かつての母が、そうだったように。そんな私に、この人は手を差し伸べて、あろうことか外の世界にまで出してくれた。そんな父を、困らせるような、裏切るような真似、...できない。

ーーなのに、この人は。

「......良いんじゃないか、それも」
「は...?」

信じられない言葉を聴いて、我が耳を疑った。唖然として口を開けたまま父を見れば、ケロッとした何ということはないという顔をしていて。それに拍子抜けして、肩の力がすとんと抜けたのが分かった。

「いや、何言って...」
「俺は抗えなかった。...いや、抗ったけど、諦めたんだ」

一瞬だけ、伏せられた父の目に悲しさが窺えて、目を見張る。学生時代、信頼していた友人達をこの家の幹部に殺されたことを、思い出しているのか。あのジジイ共は、父が唯一の当主候補であったことから、馴れ合いを無意味なものだと、椿家の当主には必要のないものだと勝手に判断して、当時の学友を殺めたのだ。

「......でも、お前がやったらどうなるか分からないぞ。なんせ、俺とお前じゃ出来が違う」
「そんなこと...」
「あるよ。じゃあすんなり諦めるか? 大切な人が殺されるのを黙って見てるか? いや、無理だね。お前はそんなに聞き分けがよくないだろう。人からああしろこうしろ言われるのを心底嫌っているからな」
「......」
「香代がずっと俺に感謝してくれているのは分かってる、だがお前の人生だ、俺のじゃない。お前の好きにしろ、香代が正しいと思う道を進め。幸せな道ではなく、正しいと思う道を。もしその道が間違ってたら、そのときは周りの奴が言ってくれるさ」

言いたいことは全て言ったのか、そこで言葉を止めて、父は腰を上げた。一呼吸あけて私が彼を見上げると、それと同時に大きな手が頭に下りてきて、ぐしゃぐしゃと髪を乱してきた。ちょっと! と非難の声を上げてみても、遥か頭上で笑う気配がするだけでやめてはくれなかった。最初は抵抗したけど、何でだか楽しそうな顔をするものだから、私もされるがまま大人しくしていた。だって、抵抗するのも面倒臭いもの。
暫くそうした後に、父は下駄を脱いで縁側に立った。

「だから、仲間の言葉はよく聴いとけよ。他人には、自分のことが自分よりよく見えてるから」

じゃあな。そう言ってひらりと手を上げて去っていく背中を、乱された髪を手櫛で梳きながら半眼で見送る。姿が見えなくなると、足元に残った下駄をなんとなく見下ろして、肺に溜まっていた息を思い切り吐き出した。

(...言いたいことだけ言って、さっさと自分はいなくなるのがちょっとイラつく)

そんな思いとは裏腹に、口元をゆるりと緩めながら今度は空の三日月へと目をやった。爛々と輝く月は、とても綺麗だった。



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