軽い彼 | ナノ



黄瀬くんとの待ち合わせ場所の手前まで来た。遠巻きから待ち合わせ場所である何かのオブジェの下を眺めると、そこに彼は居た。黄瀬くんより前に来て、悠々な態度で何か言ってやろうと考えてたんだけどな。こんな早くに来てるなんて、私の思惑はバレバレなんだろうか。変に本当にデートなんだと実感してしまうから、こうゆうことはやめて欲しい。

『まだ20分もあるのに…』

ぼそりと呟いた言葉に、無論返事はない。「馬鹿じゃないの」その言葉にも返答はなし。でもまあ、こんな早めに来てる私も充分大概。人のことなど言えない。
楽しみ? そんなまさか。冗談。自分にそんな風に言い聞かせて、オブジェ下に近付く。

『それ、伊達眼鏡?』
「あ、なまえ先輩。そうッスよー、似合ってます?」
『眼鏡で誤魔化せるなんて、眼鏡は実に偉大ですね』
「わー、スルー」

眼鏡を摘まんで決め顔でこちらを見る彼。それが様になっているのだから、更に腹が立つ。そんなことをしている今この瞬間にも、横を過ぎ去る人々がこちらを見てくるが、本当に眼鏡だけで誤魔化せているんだろうか。不安になってきた。

「まあ、なまえ先輩がつれないのは今に始まったことじゃないしなー」
『私はつれなくしているつもり、ないけど』
「いやいや、良いっスよ、別に。じゃ、行こ」

恐ろしく自然な所作で黄瀬くんは私の手を取って、前を歩いて行く。あまりにも違和感がない動きだったから、思わず反応が遅れてしまった。口を開きかけたそのとき、彼が振り向いた。

「あ、そだ、言い忘れてたっスけど、」

なおも重なる手のひらの温度は、前にも感じた覚えがある。数日前の、中庭で。

「先輩は、どんな服でも似合いますね」

くすぐったそうな笑顔。いつもファンの子に向けてる、大人っぽいキラキラしたのじゃなくて、あどけない、笑顔。私に向けられたそれに、チクリと胸が痛んで、私は無理矢理笑う。


「…しょーがない。じゃ、デートしてくれたら、これから会わないっス」

「会わないから、一回だけデートしてくれないっスか? 」



黄瀬くんとこうやって話すのは、これっきりだ。
これで、最後なんだ。





『(やっぱ、慣れてたなあ…)』

何か、いろんなことに。主に女の子の扱いとか、女の子の扱いとか。帰り道の暖かい夕日に背中を照らされながら、少し目線を下げてゆらゆら動く自分の影を見ながら、考える。黄瀬くんは私の少し前を歩いていて、目線を下げているお陰で彼のおしゃれな靴が見える。

『……』
「…先輩」
『え、あ、なに?』

完全に自分の世界に入っていたせいで、自分でも驚くくらい体がびくついて、顔を上げた。対するそんな私を呼んだ黄瀬くんは、速度を落としたもののそのまま前を歩き続けながら、首を捻って肩越しにこちらを、その綺麗な双眸で見ていた。澄みきったその瞳を向けられて、別にやましいことを考えていたわけではないけれど、何でか居心地が悪くなって、今すぐに目を逸らしたくなってくる。

「あのさ、今日さ、」
『…はい』
「楽しかったっスか?」
『、え?』
「だからさ、楽しかった?」

何を聞くかと思ったら、そんなことか。てっきり、やっぱりこの前のもう会わないってのナシ! みたいなことかと思ってた。拍子抜け。

『…たのしかった』

今まで変に黄瀬くんを拒否するような態度をとってきてしまったから、今さらそういうキャラから外れるような言葉を言いたくはないなとか、グルグルグルグル頭のなかで考えて、咄嗟に喉から引き出したのはそんな簡単な言葉だった。仕方がなかった、これが今の私の精一杯。

「…そう。…それなら、良かったっスわ」

夕日が眩しいのか、はたまたそうではなく違うもののせいなのか、黄瀬くんは悲しそうにも見えるような色をその目に浮かべ、それを優しげに細めて、唇をゆるりと弧に結んだ。そしてそれを最後に前を向いて、速度を落とした足をまた元のスピードに戻して、歩き続けた。


本当はみょうじ先輩の家まで送って行きたいけど、先輩俺に送られるのとかヤでしょ、そんなことを言って、恐らく私と彼の家の別れ道である交差点の歩道橋の下で、黄瀬くんは笑った。さっきのもの悲しげな微笑みをした人と同一人物なのかと言いたくなる程に、明るい笑みだった。それに何故か胸が苦しくなったけど、私もいつものように彼を突き放すような言葉を返す。私は、ちゃんといつもみたいに無表情でいれているだろうか。

「じゃあ、さようなら、…みょうじ先輩」

軽く頭を下げて、黄瀬くんは私に背を向け歩いて行った。私もさっさと帰ろうと思ったけれど、体が疲れたような、怠さに似た上手く言い表せない感じに襲われて、足が動かなかった。もし黄瀬くんが振り返って、訝しがられたらまずいなという感情も勿論頭にあったけど、私は黄瀬くんの姿が道の角に消えるまで、洋服店の袋の手提げを、ただぎゅうと握って見つめていた。

「先輩の笑顔、好きだな」

喫茶店での黄瀬くんの話の面白さのあまり、ついいつもの仏頂面を作るのを忘れて私が笑ってしまったとき、黄瀬くんが言ったその言葉が、何故か今になって頭に響いた。

260812