軽い彼 | ナノ



六限目終了のチャイムの直後、「黄瀬の奴、シメとくか」などと物騒なことを言いつつ手の骨を鳴らす修造を、何とか押し留めた。「余計なこと言わないでよ、しないでよ」と念を押しておいたが、果たしてそれは無駄に終わらないだろうか。






期限がもうすぐ切れそうな本を持って、図書室へと続く最短ルートの廊下を歩いていた。図書室なら黄瀬くんも居ないだろうし、早く本を返してすぐに帰れば会わないだろうと、安易な考えをしていた私だった。

カウンターの文学少女の雰囲気を纏わせた図書委員の子に声を掛けて、私のカードに判を押して貰う。
手元の本はどこにあっただろうかと記憶の糸を辿りながら適当に室内を歩いていると、ふとどくりと心臓が勝手に跳ねた。読書スペースで机に伏せている、黄色の頭には嫌な見に覚えがあった。

『(だい、じょうぶ…)』

声は出していないから、バレていない…筈。踵を返してすぐさまその場を離れようとしたとき、何かに掴まれてつんのめった。

『!』
「…せーんぱい。こんにちは」

にこりと、そう黄瀬くんは笑う。彼は横目で隣の席を見て、再度私を見る。隣に座れ、ということだろう。
今すぐ逃げたかったけれど、黄瀬くんに腕を掴まれているし、無駄な騒ぎを図書室で起こしたくない。彼を警戒しながら、なるべく音をたてないように腰掛けた。

『…何のようですか』
「ふふ、なーんか、大分嫌われちゃってるみたいっスねぇ」

頬杖をついてさも楽しそうに、愛想の良い笑顔をこちらに向ける黄瀬くん。一体何が面白いのか。モデルをやっている人の頭の中は、私には理解し難い。同級生の女子生徒からは支持率が高いらしいが。

「俺、この前のテスト悪くて。課題出されちゃったんス」

そう困ったように、黄瀬くんは語を重ねる。彼と青峰くんは、毎回毎回赤点ギリギリで大層苦労すると、かつて修造がぼやいていたのを思い出す。

『じゃあ、私に構ってないでさっさとやったらどうですか?』

半ば睨むようにそう彼に意見すれば、「そうっスねぇ…」と目を細めて、どこかへと視線を投げる。この余裕ありげな悠々とした態度が、私は気に入らない。

「……先輩、俺に勉強教えてくれませんか?」
『ごめんなさい、死んでも嫌です』
「即答って!ひっどいなぁ…」

クスクスと、彼は控え目にそう笑う。ていうか、私に頼むくらいなら他に頼んだ方が断然喜んで引き受けてくれると思うのだが。黄瀬くんって性格云々は置いといても、顔だけは良いからな。しかも軽いし。

…そう、図書室だから、黄瀬くんも派手なことはやってこないだろうと、私は完全に油断していた。彼の前では、少しの油断も命取りなのに。「先輩」と呼ばれて、今度は何だろうと彼の方を見ようとした。
でも見られなかった。何でこんなに黄瀬くんの声が、近くに聞こえるんだろう。

「…ね、先輩のこと、名前で呼んでいい?」

突然のことだった。
ぐい、と肩に腕を回されて、耳に彼の唇を押し当てられる。とてつもなく甘い吐息と共に、耳朶に直接言葉が響いた。空気を震わす体積が酷く小さくて、その感覚に肌が一気に粟立つ。

…火事場の馬鹿力というやつだろうか、それともただ単に、黄瀬くんが手加減していただけなのだろうか。今の私にそれを正確に判断する頭は持ち合わせていないが、無理な悪足掻きだと思いながらも力一杯彼の腕を振り払った。
すると案外簡単に払えて、私は図書室だということも構わずすぐさまその場から逃げ出した。

…本当に、モデルのやることは意味が分からない。

251029