::それは俺ではない
「じゃあ、頼んだわね緑間くん」保健医である女性がそう言って、小走りで階段を降りて行く。
あの保健医は、なまえと仲が良い。俺となまえが仲が良いのも知っており、なまえの相談にも色々とのってくれていると本人から聴いたことがある。
「真ちゃーん、授業始まっぞー」
教室から廊下に顔を出して、俺にそう言う高尾に対して、呆れたような溜め息を吐く。「何その溜め息!?」と煩い高尾を放って置き、自分の席へと座る。高尾は俺の前の席なので、煩いのは変わらないが。
「高尾、授業が終わったら言いたいことがある」
「へ」
間抜けな声をあげて間抜けな顔をする高尾を無視して、学級委員の号令に従い立ち上がる。慌てて立ち上がった高尾は、自分が俺に何かしたかと記憶の糸を辿っている様子だった。
「真ちゃん、言いたいことって何? 俺なんかしちゃった?」
「いや。…なまえが保健室に居る、昨日のどしゃ降りの中を傘もささずに帰ったそうだ。…高尾、お前がなまえを家まで送り届けろ」
授業後。首を傾ける高尾に、教室内に人がまばらになるのを見計らい静かに口を開いた。高尾の目が見開かれる。
あの保健医も、なまえと高尾の複雑な関係を知った上で俺に頼んできたのだろうが、それは間違えだ。なまえが求めているのは高尾だ。…俺ではない。
「…真ちゃんが保健室の先生に頼まれたんだから、真ちゃんが行けよ」
「お前の方が効率が良いに決まっている。親戚だろう?」
いつもはちゃんと目を見て話す筈の高尾が、珍しく俺から視線を外してそう話した。盗み聞きでもしていたのだろうか。今はそんなことどうでも良いが。
…それよりも、さっき「親戚」という単語を俺が口にした途端、高尾が一瞬苦しげに顔を歪めた。…まさか。
「…自分の想いから逃げるのか?」
まさかと思いそう口にすると、高尾が驚愕の色に染まったその顔をこちらに向けた。
…俺はどうも、勘違いをしていたようだ。高尾はなまえの想いに気付かなかった訳じゃない。むしろ反対。なまえの想いに気付いたからこそ、気付かないフリをしていたのだ。
コイツもコイツなりに考えていたんだな、と、今までの考えを改める。
「高尾、自分のみで決め付けて行動する前に、なまえと話してから行動に移す方が、俺は良いと思うが」
そこまで俺が言うと、俺と高尾しか居ないこの教室は静寂に包まれた。
…何分経っただろうか。唐突に高尾が、大きく息を吐き出した。そして、勢いよく椅子から立ち上がる。いきなりどうしたのかと目を見開いて高尾を見上げると、いつものように軽薄そうに笑っていた。
「やっぱ真ちゃんには敵わねぇな。…俺保健室行ってくっから、真ちゃん先輩には宜しく!」
そう鞄を持って教室を駆け出ていく高尾の姿を見て、溜め息が無意識にこぼれ出た。何故か、溜め息と共に笑みも。
「…これで良い」
小さく呟いて、立ち上がる。鞄を持って廊下へと足を踏み入れ、教室のドアを閉める。ガラガラという音が、やけに大きく廊下に響いた。
250803