貴方を選ぶ前の私に戻りたい


直接的な原因なんてなかった。
多分、ただお互いが疲れ切っていただけ。仕事も繁忙期で帰ってくるのはお互い21時をすぎるのが当たり前で2人一緒にご飯を食べたのは何ヶ月前だっただろう。少し時期をずらすべきだったなぁなんて後悔しつつ、2人して結婚式の準備を進めていた時のこと。くだらないことだった。私は招待状を一枚ずつ手描きをしてイライラしていたし、靖友は靖友で動画の編集をしてイライラしていて、売り言葉に買い言葉。私も靖友も疲れと今までの愚痴が止まらなくなって、気づけば立ち上がって喧嘩になった。普段なら、お互い言いたいことを言い合って、言い尽くして満足して、どちらかが消えるような小さい声で「ごめんね」と言って、それで収まるはずだったのに。


「やっぱ新開の方が良かったんじゃねぇの」


靖友が言ったその言葉で、お互いピタリと動きが止まった。ヤバイって顔をした靖友が、チラリと私を見る。
自分の腹の中が煮え繰り返るような感覚。グツグツ何かが溢れかえってきて、頭の中でパチンと弾ける音がしたのが分かる。きっと今の私は、靖友が見たことないような顔をしているだろう。

なんだ、それ。ありえない。どうして今更、そんなことを言うの。私が何をしたって言うの。私が、どんな思いでアンタと。


「…最低」
「オイ、待て」
「知らない。もう、知らない」
「唯、ごめん。俺が悪かった」
「ふざけないで!知らない、アンタなんて、もう、知らない」


しゃがみ込んで、手当たり次第部屋の中にある自分の物を仕事用の鞄の中に詰め込んでいく。靖友が何か言っているけど私の耳には何も届かない。財布やスマホに手帳、お揃いで買ったマグカップやアクセサリー、誕生日にもらった時計も全部詰め込んで、上着を着て立ち上がる。スタスタと玄関へと足を進めれば、パシリと右手首を掴まれたけれど勢いのままに振り払った。
そこで初めて、私は顔を上げて靖友と目を合わせた。
じわりと滲んで歪んで、靖友が部屋の中に溶けていく。あぁ、私泣いてるんだ今。どうして泣いてるんだろう。悔しい?悲しい?ムカつく?なんだろうか。色んな感情がごちゃ混ぜで言葉にしようがないこの気持ち。

靖友、アンタは分かる?今の私の気持ちが。


「アンタはずっと、私のことをそうやって思ってたんだ」
「違う」
「私が、新開くんの妥協で靖友を選んだって」
「違う」
「そうでしょ!」


私の手を掴んでいた靖友の手が、力なく垂れ下がった。
私たち結婚しようって言ってたよね。式の準備だって進めてた。2人の思い出を振り返って、色んなことがあったねって。これからも一緒にいたいねって、そうやって思っていたんじゃなかったの。

私がどれだけ靖友のことが好きで、靖友を思って、靖友を見て笑っていても、靖友は私の中に新開くんがいると思っていたんだ。ずっと。


「…違う、違うんだ唯。ごめん、悪かった」


玄関のドアに右手をかける。ここを開けて、外に出てどうなるんだろう。どこに行けばいいのか、靖友との関係をどうするべきなのか。私は何一つ分からない。けどただ一つ分かるのは、今靖友と一緒にはいられないってこと。
言葉は鋭利だ。呪いだ。取り消すことはできない。靖友が言った言葉は私の胸に突き刺さっていて、ジクジクと心臓を蝕んでいく。
苦しい。どうしてそんなこと言われなくちゃいけないの。私は間違えただろうか。靖友が静岡の会社に就職して、静岡で暮らしたいと言うから私だって静岡の会社を受けた。式場は親が来やすいように横浜でやりたいと言うから、横浜の式場を一緒に探した。招待状は手書きで書いて欲しいと言うから靖友の分まで私が手書きをした。

ねぇ、それって愛していたからじゃないの?
私が靖友を愛しているから、そうやって、全部受け入れて、靖友と一緒の未来を選んだのに。


「…やめる、もう」
「唯」
「そうだよ。あのね、私だって」
「唯!」
「靖友じゃなくて、新開くんが良かった」


バチン。と、すぐ近くで乾いた音がした。

頬っぺたが燃えるように熱い。思わず自分の右手を添えると、チリッとした痛みが走った。
靖友は自分が振り上げた手を見てハッと目を見開いて、そのまま右手が私の方へと伸びてくる。それが私を捕まえる前に、玄関のドアノブをガチャリと回して外へと飛び出した。
足を動かしてアパートの階段を駆け降りていく。すぐ後ろからも私と同じように階段を降りる音が聞こえてくるけど、止まることも振り返ることもしたくない。くだらない荷物を詰め込んだ鞄が、肩からずり落ちる。それに気を取られて、あっと思った時にはもう遅い。
右足がずるりと滑り階段を一段踏み外す。よくドラマで見るみたいな、スローモーションで周りの景色が進んでいく感覚。


このまま落ちたら、どうなるんだろう。死ぬかもしれない。いや、階段から落ちたくらいじゃ死なないか。でも頭を打ったら死ぬこともあるんだろうか。大きな声で、後ろから名前を呼ばれている気がする。

さっきから靖友は何度も何度も私の名前を呼んでばかりだ。うるさいなぁ。そんなのいいから、ねぇ、私が聞きたいのは名前じゃない。そんなことも分からないなら、やっぱり私たちはもう無理なのかもしれない。

だって私もね、靖友に言われてから思ってしまったんだよ。そうだよ。アンタじゃなくて新開くんを選べば良かった。何度も何度もチャンスはあった。眩しいくらいに純粋で、楽しくて、キラキラした高校時代。あの頃に戻って、私は新開くんを選びたい。

そうすれば私だって、こんな惨めな思いをしなくて済むでしょ。

ねぇ、私が新開くんを選んでいたら、靖友はもっと楽しそうに笑ってくれたかなぁ。あんな悲しそうな顔で私の名前を呼ばずに済んだかな。思い返せば靖友はいつだって、不安そうに私の名前を呼んでいた。確かめるように名前を呼んで、手を繋いで、抱き締めてくれるけれど、それは全部全部私のせいだね。


「唯、俺と結婚してくれ」


1年前、あの不器用な靖友が顔を真っ赤にして、夜景の綺麗なレストランで指輪を差し出してくれたことが私は本気で嬉しかった。
嬉しくて堪らなくなると涙が出ることを生まれて初めて知った。靖友が私を選んでくれた。私と同じように、私と歩む人生を選んでくれた。私が靖友を幸せにしたい、幸せにできるんだって、そう思ってたのに。


「やり直したいなぁ…」


やり直したい。全部やり直したい。
全部無かったことにできるなら、私はきっと、靖友が心から笑ってくれる未来を選ぶ。

私が一緒にいなくても、靖友が笑っているならそれでいい。


「唯、



コンクリートに打ちつけた身体中が痛くて堪らない。地面に仰向けになって倒れ込む私の耳には、また靖友の声が聞こえてきた。

おかしいなぁ。ずっとずっと聞きたかった言葉のはずなのに、何にも聞こえないよ、靖友。



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