優しい優しい隼人くんはよく出来た俺の自慢の兄である。
隼人くんはいつだって俺に優しかった。ひとつしかないドーナッツは半分に割って分けてくれるし、父さんが買ってきてくれたお土産で隼人くんのやつの方がいいと俺が駄々をこねれば優しく笑って「悠人にあげる」と言って譲ってくれる。そこには隼人くん自身の優しさもあったとは思うけど、隼人くんは隼人くんである前に俺の兄だった。兄とはどうあるべきなのかをよく知った聡い人なのだ。父さんや母さん、周りの大人たちから求められるような兄であるべく振る舞える隼人くん。そして隼人くんと同じくそこそこ聡かった俺は、そんな隼人くんをよく利用していた。無茶苦茶な我儘を言ったことだってある。隼人くんはどんな俺の我儘もきいてくれる、きくしかないのだと知っていたから。兄とはそういう生き物だと、弟に生まれた俺は知っていたのだ。俺より長く生きてるのなら、俺が欲しいものは譲ってくれ。俺が欲しくて仕方ないものを貴方は持っているだろう。俺の方が先に生まれていたら、手にしていたかもしれない名声を持っている。弟に生まれた俺にはきっとこれから先もずっとずっと手に入らない。俺は一生新開隼人の弟なのだから。そんな風に俺がいじけていることを隼人くんはやっぱり知っていたし、隼人くんが知っていることを俺も知っていた。
だから、俺は訴えたのだ。隼人くんが断れないと知っていたから、


「はやとくん、俺からなまえちゃんを獲らないでよ」


眠っている隼人くんの耳元で囁く。優しい優しい隼人くん。どうか、なまえちゃんのことも俺に譲ってくれよ、と。

なまえちゃん、だなんて呼んでいたのはいつまでだったか。気がつけばなまえと呼ぶようになったけれどきっとそれも隼人くんのせいだったんだと思う。隼人くんがそう呼ぶと、なまえはキラキラした目で綺麗に笑うから。俺にもそんな顔を向けてほしくて、最初は真似をするようになまえと呼ぶようになった。
なまえに対する自分の胸の中にあったこのどうしようもなくどろどろした感情を恋と呼んで良いのであれば、俺はもうずいぶん前からなまえに恋をしている。少女漫画にあるような眩しく美しい感情ではない。どす黒くて、胸の中に抱えておくには重たすぎるようなこれを恋と表現して良いのか、俺はいまだに分からない。
好きだとか、愛してるとか。そんな安っぽいものでは物足りないのだ。隼人くんに向けられたその目を俺に向けてほしい。俺だけに笑ってほしい。俺の手を取ってほしい。なまえが辛い時も苦しい時も嬉しい時も、どんな時も俺のことを思っていてほしい。
そんな俺の気持ちを、なまえは気にしたこともないだろう。だってなまえの目はいつだって隼人くんを追っていた。口を開けば出るのは「隼人くんが」「隼人くんも」「隼人くんと」。
なまえの世界には隼人くんしかいないんじゃないのって、そんな馬鹿げたことを思うくらいにあまりにも近い距離で、なまえの恋心を目の当たりにしてきた。挙げ句の果てには俺にその気持ちを打ち明けて相談までしてくるんだから、思いっきり顔を顰めたこともある。まぁそんな抵抗をしたところで、なまえが俺を見ているわけがない。
しかし不思議で仕方ない。なまえのその気持ちは決して報われることはないのに、どうしてそんな風に隼人くんを好きだと言うのだろう。
なまえがどんなに隼人くんを好きでいても、隼人くんがなまえの気持ちを受け取ることは絶対にないと俺は知っている。だって隼人くんは、俺に何だってくれるのだ。どんなに自分が欲しいものがあったって、俺がくれと強請れば譲ってくれる。兄という生き物は、そう出来ているのだと俺は知っているから。


「俺でいいじゃん」


声をあげて泣きじゃくるなまえを抱き締めながら囁いてみる。
これが、俺が幼い頃から望んでいた結末だ。ずいぶんと時間がかかったけれど、こうなることは分かっていた。なまえの気持ちが報われることはない。いつか隼人くんに拒絶されるだろうということ。分かっていたはずだった。なまえが泣くだろうということも、全てを分かっていて望んだ結果のはずだった。だから俺は優しくなまえを抱き締めなければならないのだ。なまえが甘えたくなるように優しい力で抱き締めて、そうすればようやく俺の番だ。俺を見てくれる。隼人くんではなく、俺を。
頭の中では分かっているのに、どうしてか自分自身が上手くコントロールできない。潰してしまうのではないかと思うほどに強い力でなまえを抱き締めてしまうし、俺の声は驚くほどに小さく弱々しい。まるで俺が泣いてるみたいじゃないか。そんなバカなことがあるかよ。


「俺にしてよ、ねぇ、なまえ」


なんで俺がなまえに懇願しなくてはならないんだ。ちがう、こんなはずじゃなかった。ちがう、ちがう。
俺が欲しかったのは、なまえだ。なまえのキラキラした視線が欲しかった。隼人くんを見つめるあの目で俺を見つめて欲しかった。だって、俺だって隼人くんと一緒にずっとなまえといたのだ。隼人くんと同じように、なまえのことをずっと見てきて、なまえのことがずっと好きだった。なまえの口から出る「隼人くん」が羨ましくて、その甘くて心地の良いソプラノで「悠人」と呼んで欲しかった。


「悠人」


さっきまで泣きじゃくっていたくせに、やけにはっきりとした声で俺の名前を呼ぶ。強い力で俺の腕の中から抜け出そうとするなまえを必死に、押さえつけるように腕の中に閉じ込める。
いやだ。行かないで。ここにいて。俺のそばにいてよ。俺の名前を呼んでくれ。俺を見てよ。隼人くんを見つめるあの目で、俺のことを見てくれ。


「悠人は、隼人くんにはなれないでしょ」


嗚呼クソ。ふざけんなよ。
そんなこと、とうの昔から痛いほど知ってるよ。なまえだけには、言われたくなかったというのに。


俺が見たかったのは、こんな結末ではなかった。だけど心のどこかでは分かっていた。いつかこうなることを。なまえの恋心が報われないように、俺の恋心が報われることもないのだ。

なんでなまえは隼人くんが良いのだろう。

そんなこと、俺が1番知っている。絶対に受け入れられることがないと分かっていても、長年大きく大事に育ててきたこの想いを捨て去ることは到底できそうにないから。俺も、なまえも同じだ。小さな頃から今まで、俺たち2人は小さな世界で生きていた。隼人くんとなまえと俺の3人だけの世界の中で、お互いに譲れない気持ちを抱いて、ここまで生きてきてしまった。
俺は、いつだって隼人くんには勝てない。何をしたって、どんなに譲ってもらったって、本当の意味で隼人くんに勝てたことなんて一度もない。
悔しい。どうして。どうして。ぶちぶちと腹の中で黒い感情が育つのが分かる。昔からよくあったことだ。隼人くんが羨ましい。隼人くんになりたい。隼人くんだけ、ずるい。そんなことを思うたびにこの感情が膨らむけれど、だけど同時に優しくて最高にかっこいい兄の隼人くんが好きだというあたたかい感情を持っている。

俺は、本当は隼人くんになりたい。誰よりもかっこよくて、俺よりずっと大人な隼人くんになりたい。


だけど、俺は俺だ。なまえのことをずっと好きでいた。ずっと見てきた。泣き顔がブサイクなところも、わがままなところも、大人ぶって似合わないメイクをしてるところも、隼人くんを振り向かせようと一生懸命なところも、全部近くで、1番近くで見てきたのは俺だ。


「…俺は、隼人くんにはなれない」
「は?」
「だって俺は隼人くんじゃないんだ。隼人くんみたいに大人ぶってなまえを諦めることなんてできない。別に、それでもいいだろ。だって俺は新開悠人だから。隼人くんと同じ道を辿る必要なんかない」
「…悠人?」
「そうだよ。俺は悠人だ。ねぇ、なまえ」


抱き締める力を強くする。ずっと触れたかった、細くて折れてしまいそうな肩を守るのは俺でありたい。

ねぇ、隼人くん。取り消すよ。なまえを獲らないでよってお願いしたけど。そんなのどうだって良い。なまえが隼人くんのことを好きだろうが、隼人くんだってなまえを好きなこととかどうだっていい。

なまえは泣いていた。隼人くんが好きだと、そう叫んで泣いていたってことは、なまえは隼人くんとは幸せになれないんだから。だったら、


「俺なら、なまえを幸せにできるよ」
「ゆうと、?」
「幸せにする。絶対に泣かせない。どんなことがあっても泣かせない。俺がずっとなまえを幸せにする」


俺が隼人くんに今勝てる、唯一のこと。


「俺の方がずっとずっと、なまえのことを愛してる」


ぶわりと、さっきとは違って静かに涙を流すなまえが何を思っているのかも全部わかる。
優しいなまえは隼人くんへの想いを捨て切ることはできないだろう。だけど俺はそんななまえの気持ちだって誰よりも理解できる。
だからいいんだ、捨てなくても良い。ゆっくりゆっくり、想い出にしていって、それら全部を俺で塗り替えていけば良いよ。


「…っ、私、隼人くんが好きだよ」
「うん。知ってるよそんなの」
「でもね、ずるいけど、最低だけど」
「うん」
「いま、悠人のことを好きになりたいって、そう思ったの」


身体を離して、なまえの涙を指でそっと拭う。
あぁ、やっぱり泣き顔はすごい不細工だ。メイクもよれてるし、妖怪みたいだし、どろどろだけど、俺はそんななまえも丸ごと愛してる。


「いつか、新開悠人を愛してもらえるように、頑張るよ」


だから俺を信じて、どうかこの手を離さないで。








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