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箱根学園に1番近いバス停でバスを降りる。休日だからか、静かな学校。校門の前から中を覗いてみたけど生徒たちがチラホラといる程度だった。
「中入らないの?」
私の後ろから校内を覗いた真波の言葉に首を横に振ると、意外だったらしくびっくりした顔の真波。
箱根学園にも、すごくたくさんの思い出がある。高校時代の3年間はやっぱり私の人生の中で1番大切な3年間だった。辛いことや悲しいこともたくさんあったけど、楽しくて仕方なかったし、あんなにも何かに一生懸命になったのは初めてだった。
どうせ部活に入るなら全力で取り組みたい。私の3年間全てをかけれるものを見つけたい。そんなふうに思って私は箱根学園の自転車競技部のマネージャーになった。やるなら1番になりたいし、何かを目指して一生懸命頑張る人を支えたい。間近で見たい。
結果は大正解だったと胸を張って言える。尊敬できる人たちに出会えて、キラキラ輝く眩しい思い出だらけ。
でも、真波と行きたい場所はここじゃない。
「登るよ、真波」
「え?」
「自転車ないからハイキングになっちゃうけどいいでしょ?」
ぱちぱちと瞬きをした後、ギョッとした顔をする真波。今日は珍しい真波がたくさん見れる日だ。いっつも真波に振り回されてばかりなんだから、今日くらいは振り回すことを許して欲しい。
真波は気づいたんだろう。私が行きたい場所に。
「…ねぇ、澪さんが行こうって言ってるとこ、結構距離あると思うけど」
「なんとかなるでしょ」
気乗りしない真波の手を引いて、校門を出て歩き出す。バス停の反対側、学校よりずっと奥の山道を2人並んで歩いて登る。
私たちがこれから登るのは自転車競技部お決まりの外周コースだ。何本かあるコースの中でも、真波や東堂が1番好きなこの山道のコースは季節によって色が変わる。私も車や部のママチャリでこの道を通ることが多かったけど、夏の道が1番好きだ。生い茂る緑と、その隙間から太陽の光が差し込んでできる木漏れ日。全部が綺麗。
私がこの道を通ることが多かったのは、真波がいたからだ。真波は特にこの道が好きで、山も好きで、部活以外でも一緒にこの道をよく登った。もちろん真波の後ろについてくことなんてできなくて私は最終的にママチャリを降りて押すことになるんだけど、それでもぐんぐん坂を駆け上がる真波を見送るのが好きだった。
途中休憩もせず、特に会話もなく、だけど手は繋いだまま2人で一気に山道を歩いて上がって行く。この道を2人で歩くのは初めてだ。私たちにはいつだって自転車があったから。
隣を歩く真波をチラリと見れば、いつものまま涼しい顔して歩いている。私はそれどころではなくて、肩で息をしてしまうくらい疲れているけど、それでも足を止める気にはならない。
私は真波に教えてもらったんだ。頂上から見る景色の綺麗さを。
てっぺんにいれば絶対に真波が来てくれる。誰よりも速く、1番に飛び込んできてくれたから。
だから私も山頂が好きだ。
「…はぁ、ついたぁ!」
たどり着いた道のてっぺん。少し開けていて景色を楽しむような高台もあるこの場所もあの頃と変わらない。
膝に手をついて乱れた息を整えていれば、隣にいた真波がどこかへと歩いていってしまう。私は情けないことにまだ息が整わなくて、足もガクガクでしばらく動けそうにない。仕方なく目線だけで真波を追いかけると、高台になっている柵にぺたりと張り付くようにして山の下を見下ろしている。
そのまま落っこちてしまうんじゃないかって怖くなって、名前を呼ぼうとしたらそれより先に真波がポツリと言葉をこぼした。
「澪さん。オレ、走れなくなっちゃった」
へらりと、下手くそな笑顔で笑う真波に胸が締め付けられる。
「なんかもう、分かんなくなっちゃって、調子も悪くて…でも、仕事だからそんなこと言ってらんなくて、がむしゃらにペダルを回して」
「…うん」
「オレには自転車しかないから。これがないと生きてる意味なんてないって、そう思って、何をなくしてもいいから自転車だけは失いたくなかった」
ぽつぽつと、真波が言葉を紡いでいく。
そんなの全部知ってるよ。私がずっと好きで、大好きで、見てきた真波はみんなが思うような人じゃない。
意外とプレッシャーに弱くて、少しでもバランスが崩れてしまうとボロボロになってしまうような繊細な人。
だから今なら分かるの。あの日、さよならを告げた真波の気持ちが。
「オレは怖かったんだ。自分がいつかこうして走れなくなったとき、その理由を澪さんにするんじゃないかって」
「…なに、それ」
「だから、いつかあなたに嫌われるぐらいなら、オレはあなたを手放そうと思った。あなたに甘えたくなかった」
「…」
「なのに結局、オレは澪さんに甘えちゃった。ごめんなさい」
そこまで話して、顔を上げた真波はひどく苦しそうな顔をして私を見つめるから、私は堪らなくなる。いろんな感情が湧き上がってきて、それらが涙になって溢れてきてしまった。ぼろぼろ涙が溢れるのが分かるけど、拭うのもめんどくさい。
そんなことより、私だって真波に言いたいことがある。
「…なめないでよ」
「…澪さん?」
「なめないでって、言ってんの」
真波へと距離を詰めて、私より上にある真波の胸ぐらをグッと掴む。ギラリと睨みつければ真波は怯んだようで、されるがままの体制でぴたりと止まった。
「私は、好きで真波といたの。好きなの。ずっとずっと真波が好き。今だって好きで好きで仕方ない」
走れないのを私のせいにしたくない?
そんなのどうだっていい。私のせいにしたいならすればいい。私はそんなことで傷つかない。あんたが走れるのも、走れないのも私が理由ならこんなに嬉しいことはないって思っちゃうの。
自転車だけの真波の世界に少しずつ私が入り込んでいって、いつか私も真波の一部になりたい。
私はあんたが思ってるよりずっと図太くて、強欲な女なの。
それに、そんな私とおんなじくらいあんたも強欲で、自由。
でもね、
「あんたは、私がいるから自由なの」
真波の目が見開かれる。その大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が溢れた。
だけどそんなのも気にせずに、グッと胸元をさらに引っ張って真波との距離を縮めてその勢いのままに口付ける。
「今さら、私なしで走れると思わないで」
私があんたを自由にしてあげる。
私に真波が必要なように、真波にも私が必要でしょ。
そう言えば、だらりと垂れていただけの真波の腕が伸びてきて、 ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに力強く抱き締められた。息もできないくらいに強い力で抱き締められると、心臓までも握り締められているような感覚になって、また訳もわからずにぼたぼたと涙が溢れてしまうのだ。
肩に乗った真波の頭。柔らかい髪の毛も、ふわりと香る匂いも全部全部忘れられるわけなんかない。好き。好きなの。
だから何があっても絶対に、私はこの腕の中に引き寄せられてしまうんだよ。他にはどこにも行けない。私の場所はずっと、ここしかない。
「…澪さん、好きだよ」
「うん」
おでことおでこをくっつけるようにして目と目を合わせる。
真波の目は、もう迷ってはいなかった。
いつも私が待ってる、ゴールに飛び込んでくる瞬間のギラギラした瞳。
「ずっと、好きだよ。きっともうオレ、この先もずっと、あなた以外愛せない。あなただけが、オレの全てだ」
私も同じ。
今までもこれからも、真波だけを愛してる。
どんなことがあっても、何をされても、どれだけ傷ついてもきっとこの気持ちが変わることはない。
だからずっと、そばにいて。私を待っててよ。
「ふふ、それって、プロポーズみたい」
「いいよそれでも。オレは、生涯一緒にいるなら澪さんがいい」
キラキラの笑顔を見せる真波の口から飛び出した言葉に驚いて、今度は私が腕の中で固まっていればさらに強い力でぎゅうっと抱き締められた。
真波の肩越しに見えたのは箱根の青い空と白い雲。あの頃と同じまま。やっぱり私の思い出はいつだって箱根にある。
私と真波が出会った場所。大切な時を過ごした場所。
そして今日、私たちがもう一度やり直した場所。
「…山岳、好きだよ」
「え、」
「山岳が好き」
「…やっと呼んでくれたね」
だってこれからは私も真波になるんでしょ?なんて言えば山岳はまた嬉しそうに笑って私にキスをした。何度も何度もキスをして、そうしてまた私の名前を呼んで「好き」を繰り返す。
きっと明日になれば私の部屋から山岳はいなくなってしまうだろう。白いLOOKと一緒に、何も残さず消えてしまう。
それでもいい。山岳がもう一度自転車に乗って誰より速くなるなら。そうしてゴールのたびに私を思い出してくれるならそれでいい。
ずっと、ずっと、自転車に乗るあなたに、私は恋をしている。