自転車が好きだった。坂が好きだ。誰にも汚されていない綺麗な頂に1番に登ってオレのものにするのが好き。オレは自転車が何より大切で、好きで、どうしても失いたくなかった。他の何をなくしても良い。自転車に乗るためなら、何だってできるし、それしかいらない。
そう思ってたんだずっと。

だからあなたのことも、手放してしまった。

自由に好きなように走るだけじゃダメなんだ。速く、誰よりも速く走らなきゃ。結果を残して、オレの存在をみんなに認めてもらわなくちゃいけない。オレの価値をこの世界に、この場所に、認めさせなければならないなら。

なら、オレは澪さんを捨てて、自転車に乗ることを選ぶよ。




「真波、起きて」


身体を揺すられて、ぼんやりと目を開ければ真上からオレを真っ直ぐに見つめる澪さんがいた。いつもとは雰囲気が違う。よく見ればスーツじゃないからかな。ラフな格好をした澪さん。オレの顔にはくるくると巻かれた澪さんの茶色い髪の毛が柔らかく触れる。
服装だけじゃなくて、顔もいつもと違う気がする。女の人は化粧もオンとオフで使い分けるのだろうか。少しだけ幼い顔をしている澪さんは、オレが隣にいた時のようだ。


「んん…澪さん、早くない?今何時ぃ?」
「出かけようって言ったでしょ!ほら、起きて」


そういえば昨日そんなことを言ってた気がする。
約束したんだった、一緒に出かけるって。家に置いてもらってる身だし、約束くらい守らないとなぁなんて思って身体を起こせば素肌に触れるシーツの感覚。布団の中を覗き込むとオレはパンツしか履いていなかった。そこでハッキリと意識が覚醒。

あぁそうか。昨日、澪さんと。


オレがここに来てから澪さんは何も聞かずにただ家に置いてくれた。オレを置いたまま澪さんは澪さんの日常を過ごして、朝起きたら仕事に行き夜はクタクタになって帰ってくる。偉いなぁ。ちゃんと大人として頑張ってる。当たり前なんだけど。
オレはその間少しだけ散らかった澪さんの部屋を片付けたり、夕飯の買い出しに行って料理をしたりお風呂をピカピカに磨いたり。時間が余れば自転車を綺麗にもしている。
そんなふうに気ままに過ごしているけどそれについて澪さんに咎められたことはない。
「何してんのよ」って、叱ってくれてもいいのに。何も言わない澪さんは昔からオレに甘いんだ。それが分かってて、オレは何も言わずに澪さんのところへ来てしまった。

高校時代もそうだった。オレがどんなに遅刻しても澪さんは笑って「真波ならしょーがない」なんて言うんだ。その時の笑顔が可愛くて、優しくてオレは澪さんに夢中になった。東堂さんや荒北さんはそんなふわふわした澪さんに呆れていたけど、オレは澪さんと一緒にいるのが心地良かった。気づけば誰にも渡したくないと思っていて、あぁこれが恋なんだって気づいたんだ。

オレにとって澪さんは初めて恋をした人。


顔を洗って歯も磨いて、適当に着替えれば玄関で澪さんが手招きをしている。引き寄せられるように駆け寄って、一緒に部屋を出た。
何も言わずに隣を歩く澪さんは、昔よりも髪の毛が短い。昨日の夜も思ったんだ。髪の毛が短いと顔が良く見えるなぁって。
ぼんやりと昨日の最中の綺麗な澪さんを思い出しては、頭の中から記憶を追い出すようにブンブンと首を振る。
本当は、あんなことしたらいけなかった。分かってたのに。でも、どうしても欲しくなって止められなかった。

ちらりと澪さんを見たけど、気にしてなんかないのかいつも通りのまま。
朝起きたら殴られるんじゃないかと思っていた。もしくは起きたら澪さんがいないんじゃないかとも考えた。だけどそんなことはなくて、何も変わらずに、昨日のことなんてなかったかのようにいつもの澪さん。
他の誰ともそんなことよくあることってこと?それともオレだから、また「真波ならしょーがない」って思ってるんだろうか。それもどうなんだ、オレ。
当たり前だけど、しばらく見ないうちに変わってしまった澪さんのことが分からない。
昔は手にとるように分かって、オレに夢中になってくれてる澪さんを揶揄うのが楽しかったはずなのに。今はそんなことない。オレの知らない澪さんばかり見せられて、何だか悔しいなぁ。

なんて、オレがそんなこと思うのは間違ってるというのに。
そもそもさよならをしたのは、オレなんだから。


「ねぇ澪さん、どこに行くの?」


外はまだ少しだけ薄暗い。時計を見れば朝の6時半。出かけるのには早すぎる気がする。こんなに早くちゃどこのお店もやってないし、オレたち以外に歩いている人もいない。朝の散歩のつもり、なんだろうか?そういえば行き先を聞いてなかった。どこに向かって歩いてるんだろう。


「箱根だよ」
「…え?」
「ほら、見て。ロマンスカー予約しちゃった」


澪さんがへらりと笑ってスマホの画面を見せてくる。そこには確かに予約完了画面が映し出されていた。小田急ロマンスカー。新宿から箱根まで。2人分の座席と料金が書かれている。


「ちゃんと今日のうちにこっちに帰るからさ。付き合ってよ」


辛い時も苦しい時も嬉しい時も楽しい時も、思い出すのはいっつも箱根の山と青空。

キラキラ笑って、ゴールで待っててくれる澪さん。








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