水やり



自分から誰かに優しくすることが、苦手だ。
優しい言葉をかける自分や、手を差し伸べる自分を想像したら全身がむず痒くなる。そういうことを進んでやるタイプでもない。もしかしたら、それは昔自分がエースという立場であったことも関係があるのかもしれない。
弱みなんて見せたくないし、見せるやつの気がしれない。そういうことが理解できない。
どちらかと言えば、困ったことは1人でどうにかしてやろうと思うし、思うことがあったとしても誰かに相談しようなんて滅多に思わない。何かあったなら、何かを変えたいのなら、自分でどうにかすべきだ。自分の行動次第で世界は変わる。他人には関係ない。応援されなくたって、自分がやりたいと思ったことをやればいいだけ。
そんな考えだから、人に対しても同じように思う。俺が手を差し伸べなくたって、自力で立ち上がれなければ意味がない。誰に何を言われようと、貫き通す強さや、やり切る気力がない奴のことを助けようなんて思わない。そういう奴らを見て、優しく声をかけたりそっと背中を押したりするというのはどんな気持ちなんだろうか。理解できない。


しかし、世の中には俺には理解できない優しい人間というのが存在する。

大学で出会ったみょうじなまえというのは、そういう人間だった。

純粋で、真っ白。人を疑うことを知らない、他人に優しすぎる人間。


出会ってすぐ、面白半分で自転車競技について話してやれば、ほんの一瞬みょうじの目がきらりと光った。それが面白くて、半ば強引に手を引いて自転車競技部のマネージャーに引き摺り込んだ。
もともと、マネージャーがいた方が色々と楽だというのは高校時代に学んでいたというのもある。率直に言えば誰でも良かった。ちょうどよく目の前にいたみょうじでいいや、という、その程度の気持ちでしかなかった。今思えば最低だけど、正直言って男が思うマネージャーなんてそんなもんだ。女子と仲良しこよしでやりたいわけじゃない。言い方悪いかもしれないが、雑用をやってくれて気を利かせて自分たちをサポートしてくれる奴。まぁ顔も可愛ければ、それは嬉しかったりやる気を出すような男もいるだろうけど。

マネージャーなんてやったことがないし、自転車競技についても無知なみょうじにとって、大学の部活に入るのなんて相当勇気がいることだっただろう。
無理やり引き摺り込んだ身として多少罪悪感もあったので、なるべく面倒は見てやることにした。自転車についても、基本的なことは俺が教えてやる義務があると思ったから、なんとなく隣に置くようにしていた。


けれど、思った以上にみょうじが隣にいるのは心地が良かった。
気づけば自分から隣にいることが増えた。隣にいるのが当たり前になって、自分の生活にみょうじという人間が存在するようになる。

大人しそうに見えて、意外と口が達者。たまにやたらと口が悪い時もあるし、俺や街宮に歯向かってくることもある。そのくせ文房具やハンカチなどは女っぽいものが多い。キャラクター物だったり、色がピンクだったり。ひらひらと風に靡くようなスカートを履いていることもある。まぁ、部活になればジャージに着替えてしまうので記憶の中にいるみょうじはほとんどジャージ姿なのだけれど。

一瞬頭に浮かんでは、かき消されていく。ちらりちらりと垣間見えるみょうじのとある一部分は、日常の中に埋もれていく。

自転車競技なんて何も知らなかったみょうじに、ひとつひとつ丁寧に知識を与えた。基本的なことから、きっとただのマネージャーであるみょうじが知らなくてもいいようなメカニックのことも、レース中にあった駆け引きのことも…全部全部与えてやったのは俺だ。
話を聞く時、みょうじは目を丸くして適度に相槌を打ちながら、ノートに文字を書き進めていく。そんなの必要か?っていうことまで書き込むのを見るのが面白くて、ついつい無駄な話までしてしまうけれどみょうじは真剣に聞いていたし飲み込みも早かった。殴り書きのくせに丸っこく読みやすい字を目線で追いかけつつ、チラリと視界に映り込むつむじ。ほんの少しお互いの汗の匂いがするけど、不思議と嫌な気はしない。

みょうじは人との距離の取り方が上手いのだと思っていた。俺とも、待宮とも金城とも、それこそ他の部員やマネージャーの先輩とも上手くやっていたと思う。俺より優しい奴なんてたくさん身の回りにいるのに、気づけば隣に収まっていて「荒北、これ教えて」と頼ってくる。


「…今ァ?」
「え、ダメだった?後にする?」
「…まァ、イイけどォ」
「やった!」


ローラー終わって数秒後。パタパタと駆け寄ってきたみょうじがパッと笑う。
他の奴だったら「今良いわけねェだろボケ!」で終わりの会話。そんなアホみたいなタイミングのくせして話しかけてくるみょうじは、俺がみょうじに対してコイツはいい奴だと思っていて、心を許しているのだということを理解しているのだと思っていた。金城や待宮に聞けばいいことも俺に聞いてくること。遠慮なく、気の合う仲間として、友達として俺のことを頼ってくる。
みょうじに頼られるのは、素直に嬉しい。そりゃいろんな奴に話を聞くよりも1人決まった奴から話を聞いた方が効率が良いっつーのもあるが…ただ単純に、こっちをまっすぐ見つめてくるみょうじの目は綺麗で、それを見ていると何となく心が晴れる。面倒くせェと言いつつ説明してやれば目尻を下げて笑いながら、楽しそうに相槌を打つ#苗字。


「さっきのレースは、そういう駆け引きがあッたってワケ」
「へぇ。そういうのもあるんだね」
「奥が深いだろ?」
「うん。面白い」
「ん。またなんかあれば聞けヨ」
「ありがとう。荒北は、優しいね」


優しくも何ともない。ただ聞かれて答えただけ、もしくは勝手に教えているだけの俺に対してそんなことを言って笑う。おかしな奴。

真っ直ぐ、まん丸の大きな瞳。その目で見つめられると、何とも言えない気分になる。
やめて欲しい。やめて欲しくない。ぐちゃぐちゃした腹の奥が気持ち悪くて、知らないふりをする。

全部全部、みょうじが優しい人間なせいだ。
俺だけじゃなく、きっと全人類に優しくできるような人間だから。

そんな奴に対して、良からぬ何かを抱くのは心苦しくて、知らないふりをする。




***




「…来ないな」


朝、いつものように学校の周りを走っていた時、俺の前にいた金城がポツリとそう呟いたのが耳に入る。その言葉が何を指しているのか、分からないほどアホでもない。それはきっと金城の前を走る待宮も同じだろう。

来ないのは当たり前だ。朝が苦手なみょうじが1人で起きられるはずがない。
昨日、バイト帰りのみょうじに言われた「朝の連絡も、もういい」という言葉。今朝、起きてから電話をかけるかかけないか、たっぷり10分くらい悩んだ末に、かけるのをやめた。そうしたら案の定、朝練の時間になってもみょうじは現れなかった。

正直、マネージャーがいなくたって朝練は出来る。
そもそも朝練は選手も含めて強制ではないし、先輩の代のマネージャーが来ているところなど一度も見たことがない。むしろ今までみょうじが朝練まで付き合っていた方が異常だったのだ。朝が弱いくせに、バイトだってあるくせに、俺が電話をすればなんやかんやで顔を出し、ボトルの準備やらを進んでやってくれる。
いつだったか先輩に言われたことがある「なまえちゃんがマネージャーで羨ましい」という言葉。自主的に朝練まで付き合ってくれて、自転車に対する意欲もあって、気遣いもできる。誰にでも出来ることじゃなくて、それはみょうじが優しい人間だから。


「来るわけないことくらい、分かっとったじゃろ」


いつもより、尖った街宮の声が聞こえてくる。まだ短い付き合いだが、分かる。これは怒っている時の声だ。


「なぁ荒北。分かっとって、お前は昨日みょうじに会うたんか」
「ア?」


そういえば昨日、みょうじのバイト先まで行くことを待宮に伝えた時、コイツは俺に「やめろ」と言っていたことを思い出す。

「やめろ」と言われても理由が分からない。バイトで帰りが遅くなるみょうじを迎えに行くことなんて別に珍しくも何ともないし街宮だってそれを知っていたはずだ。
普通のこと。昨日はバイトに行く前、学校であったみょうじの様子がおかしかったのが気になったから直接話したくて迎えに行った。そうじゃなくても、俺のバイトの上がり時間と被ったり、なんとなく気が向いたらみょうじの迎えに行くことはよくあること。バイト終わりの時間も遅いし、静岡の通りはどうしても自分が住んでいた実家と比べると薄暗く街頭も少ない。(高校の頃は寮だったし、そもそも山の奥にある高校だったので灯なんて気にしたこともなかったけど)女子1人で歩かすのは危ない。友人なんだから、心配するのなんて当たり前。迎えに行くのなんて普通のことだと、いまだに俺はそう思っている。

今までそれに対して今更街宮に何かを言われるなんて思ってもなかったので驚きはしたものの、無視して会いに行けば最悪な結果に終わった。

自分より随分下にある丸い頭。
へにゃりと頼りなさげに下がった眉毛。
こっちを見上げてくる、ほんの少し潤んだような目。
目と目が合えばいつもなら笑ってくれるはずなのに、昨日は無理したように、下手くそな引き攣った笑顔になったみょうじ。

そんな顔をさせたいわけじゃなかった。
いつもみたいに笑って話がしたかっただけなのに。
くだらない話をして、名前を呼んで笑って欲しかった。バカみたい笑って、隣にいて欲しかった。



「彼女おるなら、もうみょうじに優しゅうするなぁやめろ」
「なんでオメェにンなこと言われなきゃなんねェンだヨ」
「言わんと分からんのか?」
「…」
「げに、言わんと分からんのか?なぁ、荒北」


ペダルを緩めることはなく、ふり返ってギロリとこっちを睨みつけながら、強い口調でそう言われて、言い返せないのは俺にも自覚があるからだ。


今の彼女と付き合ったのは、告白されて別に断る理由もなかったから。
同じゼミにいた、割と美人で気がきく女が自分のことを好きだと言う。付き合ったからといって最後まで面倒を見なければいけないわけじゃないし、もし気が合わないだとか何かすれ違うことがあれば別れればいい。
ただ、それだけだから付き合うことを了承した。

もしこれが、相手がみょうじだったら、そうはいかない。付き合って、別れて、はい終わりになんてしたくない。
そんな簡単に終わらせたくないし、拗れるのも嫌だった。せっかく繋がったもんを複雑にするのも嫌だし、切ることになる可能性があるなら、その可能性ごとなくしてしまえばいい。

だから俺は見て見ぬ振りをした。
みょうじの赤く染まる頬も、ふわりと香る甘ったるい匂いも、じっと見つめてくる熱のこもった視線も。


「やっぱり、ワシはこがいなビビリのどこがええのか分からん」


俺だって。

みょうじみたいなあんな優しい人間が、どうして俺が良いのかなんて分かんねェヨバァカ。





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