植え付け



朝、5時きっかり。スマホのアラームが鳴る。

布団から手だけを伸ばして、手探りで探し出したスマホの画面をタップすればアラームが止まって、しんと静まり返る部屋の中。聞こえるのは小さく、自分が息をする音。カーテンの向こうから聞こえる鳥の声。
頭はどんより重たくて、おまけに瞼も重たくて目を開けられない私はまだまだ起きられそうにない。ひょっこり、まるで亀のように布団から出していた頭をもう一度引っ込めてぬくぬくした布団の中で丸くなる。

起きなくちゃという自分と、いやいやなんでこんな朝早く起きなきゃいけないんだという私の中の天使と悪魔が言い合っている声が聞こえる。もう一眠りすればいいじゃん、なんて天使が勝ったところで鳴り響くスマホ。今度はさっきのアラームの音ではなく、アプリからの着信音を告げるそれに嬉しいような悲しいような、寂しいような複雑な気持ちがお腹の中でぐるぐる回って襲ってくる。それでもどうしたって、ニヤけてしまう顔はもうどうしようもなくて。せめてもの抵抗で意味もなく眉間に皺を寄せつつスマホを引き寄せて、着信を知らせている画面をじっくり5秒間見つめて目に焼きつけてから、ようやく通話ボタンを押して耳に押し当てれば。すぐそこから聞こえてくるほんの少し掠れた声。

普段とは違う声に、ぎゅっと心臓が締め付けられる。
この声を知っている人が、この世にどれだけいるんだろう。女の子でこの人のこの寝起きのような声を知っているのは、私だけがいいのに。

そんなバカみたいなことを考えたりする日もあることを、きっと相手は何も知らない。


「…もしもし」
「起きたァ?」
「…うん」
「早くしろヨ。遅刻したら殺す」
「分かってますー」
「ん。じゃーな」


たったそれだけで終わった会話。私はまだスマホを耳に当てているのに、ぷちりと一方的に切られて虚しい音だけが聞こえてくる。

画面を見れば通話時間は15秒だけなのに、この15秒の通話のために私は早起きが苦手なフリをする。

声とかもろもろのおかげでもうとっくに覚めた目と頭。のそのそと布団から抜け出して、腕を天井へと伸ばしてふんと大きく伸びをする。ベットから立ち上がって、カーテンを開ければ眩しい日差しが部屋に降り注いだ。
パジャマから私服に着替えて、歯を磨いて髪の毛をまとめてメイクをして。そうして、鏡に映る自分。アイラインで大きく見せた瞳に、ほどよく顔色を整えるチーク。この前買ったばかりのデパコスリップが唇で艶々と輝いているのに満足してから、昨日と中身が変わらないリュックサックを背負って家を飛び出した。

大学がある駅から一駅隣のこの自分の家を、私は気に入っている。大学のすぐ側に家を借りた友人はすぐに溜まり場になってしまったと頭を抱えていたけれど、一駅分離れればそんなことになる心配もない。たった一駅だから、たとえ終電を乗り過ごしたとしても歩けないこともない距離での新生活。
新しく買ったお気に入りの家具に、雑貨屋さんで買ったふわふわしたカーペット。テーマパークで買った可愛いマグカップ。部屋の中はお気に入りで溢れている。
だから私は自分の家が好きだ。落ち着くし、安心し出来るし、居心地が良い。入学前は初めての一人暮らしに期待半分不安半分だったけれど、今は楽しさかなく私は一人暮らしを満喫していた。
駅までは徒歩5分。改札を通り抜け、電車に乗って次の駅までだいたい6分。ICカードをかざして改札を出て、また徒歩でだいたい10分。大学の門に着くのがきっちり7時30分。いつも通りのルーティンで門をくぐり、がらんとまだ人気のない大学内を歩いていれば、背後から聞こえてくる車輪の音。


「遅ェッつの」


キィっとブレーキの音がして振り返れば、不機嫌な顔をした荒北がロードバイクに跨っている。

ここまでが、私の朝のルーティン。


「遅くないし。まだあと30分あるし」
「イチネンは15分前集合ですケドォ?」
「だとしてもあと15分ありますけどぉ」
「サッサとしろヨ」
「うるさいなぁ。荒北こそさっさと行けし」
「オレはみょうじが間に合うか確認に来てやッてんの」
「はぁ?間に合うし!」
「もう5分経ちましたァ」
「…荒北のせいじゃん!」


チッとなぜか大きな舌打ちをして私を追い払うように手を振る荒北をギロリと睨みつけてから、リュックを背負い直して部室へと走り出す。荒北が私の背中を見ているかどうかなんて分からないけれど、としかしたら見られてるかもしれないなんて考えたら背中がチリチリと焦げ付くように熱い。



****




荒北は、大学に入って出来た気の合う男友達の1人だ。

入学してすぐ、サークル勧誘が盛んに行われている中でたまたま通りすがりに手渡されたチラシに描かれていた自転車のイラストと、洋南大学自転車競技部の文字。私の知っている自転車とはだいぶ違うイラストがなんとなく気になって、チラシを手にしたまま次の教室へと向かい席に腰を下ろしてからもじっとそのチラシを見つめていた。

サークルには入ってみたいなと思っていた。大学生といえばサークル活動みたいな印象があったし、サークルならやったことないスポーツをやってみるのもありかもしれないなぁなんて。そう思っていたのに、なんとなく気になる自転車競技部。自転車競技って、何をするんだろうか。部ってことは、部活動のことだろう。大学にも部活があるなんて知らなかったけれど、部活ってことはサークルよりもしっかりとしているものなんだろうか。高校の部活に近いものがあるのかな。上下関係とか、そういうのもあったりするんだろうか。大変そうなのに、大学まで来てこんなマイナーな部活に入る人っているのだろうかと失礼なことを考えていれば、上から聞こえてきた声。


「チャリ部、入ンの?」


ぴくりと肩を跳ねさせて、反射的に声のした方へと顔を向ければ、こちらを真っ直ぐに見下ろしている目と目が合う。吊り上がった眉毛に、真っ黒い瞳と羨ましいほど長い下まつ毛。

想像していたより鋭い目付きにビビってしまった私のことなんて気にしていないのか、その人はそのまま私の隣の席へと腰を下ろしてリュックを机の上に置きごそごそと中から筆箱やルーズリーフを引っ張り出した。どうやら同じ授業を受けるらしい。
この後の授業は、全学部共通のものだけど学年は一年生のみのはずなので、この人が留年さえしていなければきっと私と同じ一年生ということになる。顔は見たいことない。だから話したこともないはず。怖い見た目の割に随分フレンドリーに話しかけてくるんだ、なんて思って隣の人をただ見つめていれば、授業の準備を終えたのかリュックを机の下に置きくるりとこちらを見て、またあの目でジッと見つめられる。


「で?」
「…え?」
「だからァ、チャリ部!入ンのかって聞いてンだケド」


バンバンと机を右手で叩きながらそう言う彼は、どうやら見た目通り短気らしい。眉も目も吊り上げて口を大きく開けて大声を出すものだから、周りからの視線が痛い。私だってまだ入学したばかりで、これから先普通に大学生活を送りたいと思っている。普通に友達を作って、先輩と仲良くなって、彼氏だってつくったりして。そのためには目立つことなんてごめんなのでやめてほしいけど出会ったばかりの人にそんなことを言えるわけもなく、ただ少し姿勢を丸くして彼に隠れるように縮こまった。そして出来るだけ小さな声で、会話の続きをする。


「えっと、別に。入るかどうかは決めてないかな」
「じゃあ何でそんなずっとチラシ見てたンだヨ」
「えー、なんか、どうなのかなって思って。自転車って何すんのかなーってあんま想像出来なくて」
「フーン…」


そう答えた途端、外れた視線。さっきまでジッと真っ直ぐに私を見つめていた彼はその一瞬で、興味なさそうにスッと私から視線を逸らしてしまった。

その瞬間、私の心臓がヒュンッと縮こまる。

会ったばかりの人だけど何となく分かる。今の私の返事で、この人の中の私に対する興味は一瞬で無くなってしまったのだ。

見たことも話したこともないこの人が、私に話しかけ隣に座った理由なんて今私の手に握られている紙一枚だけだろう。きっと彼は、自転車競技部に入るのだと思った。そして自転車競技というものが好きなのだろう。ただチラシを持っている名前も知らない女に話しかけるほどに。
ここで話を終わりにしてしまったら、隣にいる彼は私と関わってくれることなんてこの先一度もないのかもしれない。

出会ったばかりで、名前も知らない。それなのに、どうしてか、それは寂しいと思ってしまった。
せっかく話しかけてくれたのに。まだ入学したばかりで友達もいないし、こんなチャンスなかなかないのに。もったいない。

この時は本当に、私の中にあった気持ちはただそれだけの簡単なものだった。


「…面白いのかな、自転車競技って」


そう呟けばまた、彼の黒い瞳が私を映す。さっきまで吊り上がっていた眉も目尻も、ほんの少しだけ優しく下がる瞬間を見た。


「おもしれェに決まってンだろ」




****


そこからあれよあれよという間に授業終わり、荒北に腕を引かれて自転車競技部のマネージャーとして入部することになってしまった。今思い出せばなんとも強引だけれど、新しい世界を知ることは大学に入ってやってみたかったことの一つだったので文字通り背中を押してくれた荒北には感謝をしている。

大学の部活は思ったより複雑で、例えば大会の企画とかは色んな大学と協力しながら運営を回していく必要があるし部費の管理や庶務など、マネージャーとしての仕事は多岐に渡る。幸運なのは、マネージャーが1人ではなかったことだ。私の2つ上、3年生にマネージャーの先輩がいてとても優しく仕事を教えてくれるおかげでどうにか日々をこなせている。

けれど、そんな目まぐるしい雑務をこなせるのはその先輩のおかげだけじゃない。

私を引きずり込んだ荒北は、同期の金城、待宮と共に1年生ながら試合にも出るほどの実力があった。知らない先輩が走るレースよりも、同期が走っているレースの方が面白かったし熱くなれる。もっと自転車競技について知りたくなるし、この人達のためにもっともっと頑張ろうとも思えてしまう。


「みょうじ」
「金城、おはよう」
「みょうじ、ワシも居るけ」
「待宮もおはよう」


マネージャー用の部室でジャージに着替えてから部室を出れば、自転車を手で押す金城と待宮と鉢合わせした。自然とそのまま3人並んで歩き出す。


「いつも朝からすまないな」
「別にいいよ。楽しいし」
「そうか。それはありがたいな」


フッと笑った金城に続いて、待宮は私の顔を覗き込むようにしてニヤニヤと笑う。
荒北、金城、待宮とは自然と一緒に過ごす時間が増え、気づけば気の置けない友達へとなっていった。マネージャーという立場であっても仲間として私を認識してくれることは嬉しい半面、こうして遠慮なく踏み込んでくる待宮のことはムカつきもするけれど。


「誰を見るのが楽しいんじゃみょうじ」
「うるさい」
「あんなののどこがええのかさっぱり分からん。なぁ、金城もそう思うじゃろ?」
「そうか?荒北はいい奴じゃないか」


金城の言う通り。荒北靖友という男はいい奴だった。
あんな見た目のくせに情に熱く、そしてくだらないことから真面目なことまでよく喋る。一度懐に入れた人間に対して真摯に向き合い、不器用にも優しさをくれる。
朝練のための早起きが苦手だと、そう愚痴をこぼしたマネージャーの私に毎朝電話をくれるようになったこと。朝練前、私が登校する時間に門の近くへとわざわざやって来て待ってくれていること。自転車競技が右も左も分からなかった初心者の私に、一から丁寧に説明してくれること。

そういう何気ないことが積もりに積もって、じわじわと私の中に恋心が育っていく。

いつの間にか大きく膨れ上がってしまったそれは上手く隠しているつもりだったのだけれど、どうやら待宮と金城にはバレバレたったらしい。
マネージャーのくせにとか、結局男目当てなのかとか、そういうことを思われるのじゃないかと怯えていたけれど金城も、意外と待宮もそんなことは一切私に言わずにただこうして揶揄うように相談に乗ってくれるところは本当にありがたいし、この2人だって荒北に負けず劣らず優しいのだ。

それでも、私は荒北のことを好きになった。
荒北とくだらない話をして笑う時間が楽しくて、大きく口を開けて笑う荒北の笑顔を見るとこっちまで嬉しくなる。


「みょうじ」


名前を呼ばれて顔を上げれば、視線の先に荒北がいる。

3人で歩み寄って行くと、荒北は自然と私の右隣へとやって来る。まるで決められた場所のように、当たり前に私の隣に並んで自転車を押しながら歩き出す荒北ことが好きだから、私は毎日が充実している。

自分好みにカスタマイズした居心地の良い部屋。
毎朝荒北からのモーニングコール。
4人で過ごす大学での時間。


私は今の自分の日常が好きだ。
全部ひっくるめて好きだから、いつまでもこのままずっと、こんな日々を過ごせますように。









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