伝えきれぬ寂しさと愛しさ




勝手知ったる荒北くんの家。最寄りの駅で降りてからスーパーに立ち寄ってたくさんの鶏もも肉を買い込む。2人、いや3人でもおおよそ食べきれないんじゃないか?ってほどの鶏肉をカゴに突っ込んでいくけれど、この鶏さんたちはいつもいつもあっという間に荒北くんの胃の中へと消えていってしまうのだ。

ご飯を食べるとき、荒北くんは必ず両手を合わせて「いただきます」と言ってくれる。それから口の中いっぱいになるくらい詰め込んで「うめェ」と言ってくれるし、食べ終わった後は両手を合わせて「ごちそーさま」と言ってくれる。
きっともともとの育ちの良さもあるのだろうけれど、私が作ったご飯に対してもそうやってしてくれるところが、好きだなぁと思う。
意外としっかりゴミの分別をするところだとか、食器は2人分お揃いにしてくれるところ。部屋はいつ来たって基本的には綺麗だし、トイレも綺麗でトイレットペーパーだって必ず棚の上にストックがある。強いていうなら、シンクに洗い物が溜まっていることは稀にあるけれど…そんなの不満にも何にもならない。むしろそれくらいしか気になるところなんてないくらいに、荒北くんの生活は完璧に出来上がっている。私が近くにいなくても、荒北くんは荒北くんで非の打ち所がないくらいに、正しくて整った生活を送ることができているんだなぁということを、私は荒北くんの家に来る度にひっそりと思い知る。

はぁ、と大きく一度ため息をついてから両手いっぱいのスーパーの袋を気合いを入れて抱え直した。
そんなこと、気にしたって仕方がないんだから。いい事しかないじゃん。荒北くんの部屋が汚部屋だったら困るし、礼儀だってないとちょっと嫌だし。全部全部いい事なんだから。

こんな風に悲しいような寂しいような、変な気持ちになる方がおかしいんだ。

誰に話したって羨ましいって言われる荒北くんとのこと。優しくて、カッコよくて、真面目なお付き合いをしてくれる一途な荒北くん。だから遠距離だって私の気持ちは最初の、高校生の頃から何一つ変わっていないしむしろ大きくなる一方だ。他の男の人が入る隙間なんてどこにもない。会社にいる顔がいい先輩よりも、可愛らしくて人懐っこい後輩よりも、私は荒北くんが好きで好きで仕方がない。
それだけで、いいじゃん。私は荒北くんが好き。その気持ちだけあれば、それでいいんだから。

好きな人に会いに行く。好きな人にご飯を作る。とっても嬉しくて幸せでたまらないはずなのに。

心の隅っこをチクチクと、小さな針に突かれているような奇妙なこの感覚はどうしたのだろう。

もしかして疲れてるからだろうか。最近ずっと仕事に追われていたし、今日のために多少の無理もして休みをもぎ取ってきた。色んなこと蔑ろにして、どうにか今日こうして静岡にたどり着けている。

そんなこと考えて、ふと頭に浮かんだのは最後に見た散らかり切った自分の部屋。山盛りの洗濯物。冷蔵庫の中の腐った野菜。床に広げられたダイレクトメール。

思い出してはまた、チクチクと痛む心臓。

でも、大丈夫。大丈夫だよ。荒北くんに会えばきっとそんなもの吹き飛んでしまうだろう。
だから、早く会いたい。早く会って、ぎゅってしたい。荒北くんの大きな背中に手を回してぴったりくっついて、角張った手で頭を撫でて欲しい。
そうすればきっと全部どうでもよくなってしまうから。好きだから、荒北くんのことが、誰よりも1番大好き。


「早く帰って、唐揚げ作るぞ!」


重たい荷物をもう一度抱え直して、さっきよりも早足で荒北くんの家を目指す。一泊分の荷物を詰め込んだリュックサックを背負って、2人分の夕飯の材料が入ったスーパーの袋を両手一杯に抱えて。思っていたよりもずっとずっと重たく感じるけれど、足は止めない。進めば家に辿り着くんだから。止まってられない。踏み出した右足は、どうしてかさっきまでよりもずっとずっと重たく感じた。

それでもどうにか歩いて、歩いて。たどり着いた荒北くんの家。
いつだか、欲しい欲しいと散々おねだりをして渋々渡された荒北くんの家の合鍵をキーケースから取り出して鍵穴へと差し込む。カチリと、鍵が開く音がしてからドアノブを引けば、目に入るのは靴がひとつもない綺麗な玄関。
置いてあるのは私にはよく分からない、きっと自転車に使うのだろうと思う工具箱がキッチリと壁に寄せられてぽつんと置かれている。

そうしてまた、頭をよぎるのは自分の家の汚い玄関。サンダルもミュールもパンプスも出しっぱなしで、向きすら揃えられていない脱ぎ散らかされた靴たち。


あ、ダメかもしれない。


そう思った時には、もう遅かった。
綺麗な玄関のコンクリートが1箇所だけ色を変える。ぽたりと私の頬っぺたから滑り落ちた雫が、丸く後になってじわりじわりとコンクリートに滲んでいく。


もしかして。いや、もしかしなくても。

私って、荒北くんと結婚できないかもしれない。



***



この間、新開たちに溢した東京への異動の件はあの後とんとん拍子で話が進んでいってしまった。俺としては別に話が早いに越したことはないのだが、仕事はそうもいかず。持っていた案件を後輩に引き継ぎするのに平日だけではどうにも終わらず、こうして土曜日も出勤する羽目になっているのは会社が悪い。
そういったことも踏まえてきちんとスケジュール組めヨこのボケナス!なんて誰に言うわけにもいかないので突然の引き継ぎに半泣きになっている後輩に一から百まで丁寧に仕事を叩き込んできたら気がつけば俺が想定した時間を大幅に過ぎてしまっていた。時計を見ればあっという間に昼の12時を回っていて、目の前の後輩もしょんぼりと眉を下げてしまっている。


「悪ィな。今日はもういーわ。また月曜分かんねェことあったら聞いてくれるゥ?」
「はい!分かりました!」


俺が切り上げる言葉をかければ後輩はぱぁっと笑顔になって、デスクの上をテキパキと片付けていく。そうして俺が椅子に座って伸びをしている間にカバンを引っ掴んで、「お先に失礼します!」と今日1番の元気な声を出してオフィスを出て行った。あー…アレがゆとりってやつなのか。いやもうゆとりなんかじゃねェよな。じゃあさとりか?よく分かんネェけど。けどまぁ、土曜に呼び出すことになっちまったのは悪いことをしたなという気もするので何も言わずに手を振って送り出す。

俺もサッサと帰ろ。つーか時間すぎちまってるし、きっと家でブーブー文句垂れて待っているだろう江戸川のことを思い浮かべたら、なんか笑えた。
アイツはいつだって単純で、想像しやすい。どうして欲しいとか、何して欲しいとか、そんなん全部顔や態度に出るもんだから俺としてはそういうところがめんどくさくなくて、分かりやすくていい。
分かりやすいから、こういう時簡単に頭の中に江戸川を思い浮かべることができる。笑ってンだろーなとか、怒ってンだろーなとか、自然と頭の中に浮かんでしまう。勝手に俺の頭の中に棲みついている江戸川。高校時代からずっとそうだ。気づけば棲みついていて離れないし消えもしない。俺の生活の中の至る所に江戸川がいる。

小さい掌を合わせて「いただきます」と言うところ。美味いもんを食ったら目をまん丸にして「美味しい!」と口にするところ。食べ終わったら箸を置いてまた手を合わせて「ごちそうさまでした」と言うところ。俺のごちそうさまに対して嬉しそうに笑うところ。
1人で飯を食おうと思う時、俺の頭の中にそうやって江戸川がいるから、俺も同じように手を合わす。プラスチックゴミを燃えるゴミに入れようとすれば「あ!荒北くんそれはこっち!」なんて怒った声がどこからともなく聞こえてくる気がするし、玄関で靴を脱いだ時には俺の家に上がった時に小さく丸くなって綺麗に自分の分の靴を揃える江戸川のことを思い出して俺も自分が脱いだ靴を整える。

そうやって、俺の生活の中に少しずつ少しずつ、だけど確実に江戸川が棲みついている。
それはルールなんかじゃなくて、ただ自然とそうしようと思うから別に苦になんて感じねェし、それでいいと思う。
それが苦じゃねェってことは、俺はきっと江戸川と暮らす未来が想像出来ているということだ。


「アー…アー…」


デスクに上半身を倒して息を吐く。

もし、今日江戸川に東京へ異動が決まったと言ったらどんな反応をするだろうか。
めちゃくちゃに笑うのか、それとも泣き出すのか。どちらにせよ、喜ぶだろうということだけは分かる。俺だけじゃない。江戸川だって俺とどうなりたいのか。未来のことを考えてないわけないってことは分かる。

けど俺のこれは保険だ。
仕事が忙しいけれど楽しいという江戸川を追い込むものでも、焦らすものでも何でもない。
アイツが仕事を続けたいのであれば続ければいいと思う。今が楽しいのなら今を楽しんで欲しいと思う。

でもきっと、江戸川は俺には見えないところで無理をするだろう。頑張るだけ頑張って、後のことなんて考えられないくらい頑張ってしまう江戸川のために、俺がかけた保険。
見えないところで倒れたり泣いたりするなら、見えるところに俺が動けばいいだけだ。肩を押して欲しいなら押してやれるような、そんな位置に俺がいけばいい。今までたくさんもらってきた分、今度はこっちが与えてやりたいと思う。


「…めちゃくちゃ喜びそうだな、アイツ」


脳内ではバンザイして部屋中を走り回り、その勢いのまま俺に抱きついてくる江戸川が浮かぶ。

フッと口だけで笑ってから、カバンを背負って誰もいないオフィスを後にした。会社の下の駐輪場に停めていたビアンキに跨ってペダルを漕ぐ。

踏み込んだペダルは、いつもよりずっとずっと軽く感じた。



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