君の手を握ってしまったら



金曜日、早出をして昼休み返上で仕事をして、それでも定時に仕事は終わらず残業して。
浮腫んだ足はぱんぱんできつくなったパンプスでなんとか家まで辿り着きそのままベッドへとダイブした。疲れた。とにかく疲れた。もう何が疲れたか分からないくらいに疲れて今日一日結局自分が何をしていたのかよく分からないくらい疲れた。はぁっーっと重く長いため息を吐き出して、ベッドから部屋を見渡してみるけれどあの日決意したのは何だったんだってくらいに何も片付けなんて進んでいない。というかむしろあの時より散らかったような気もする。机の上が綺麗になったのはあの1日だけ。次の日にはダイレクトメールや不在通知でまたいっぱいに。部屋には脱ぎ散らかした部屋着とブラウスが散らかっていてなんだか悲しい気持ちになる。頑張るって、決めたばかりなのにこの有様。
こんな部屋で明日荒北くんに会いに行くなんて…どんな顔して会いに行ったらいいのさこんなの。まぁ、明日は荒北くんがうちに来る予定もないしこの部屋がバレることもないんだけど。荒北くんにさえバレなければいいよね。私はこれで生活できているわけだし。

私がやりたいのは私がきちんと正しく生活をすることじゃなくて、荒北くんに正しく生活をしてもらうこと。

そのために私ができることをすればいいだけだし。荒北くんのためになればいい。荒北くんのためにできることをしてあげたいし、荒北くんがこの先の人生で隣にいる女の子で、私を選んでほしい。


「あー…明日の服…この前買ったワンピースどこやったっけ…」


あぁ、後で。後であのダンボールの山の中から探さないと。それから前に荒北くんにもらったお気に入りのバングルもつけたい。そろそろ季節的にサンダルも出したいし…いやでも足の指のマニキュアちゃんと塗ってたっけ。荒北くんに会うのならちゃんとした私でいないと。こんなだらしない女だなんてバレたくない。会った時に少しでも可愛いって思って欲しいし、好きだなって思って欲しい。
それは結婚したいとか、ずっと一緒にいたいとかそんなんじゃなくて。それとは別。

ただ純粋に、好きな人に可愛いって思われたい。
好きだって思われたい。

慌ててベッドから起き上がって、苦しい仕事用の服を脱ぎ捨てる。きちんと洗濯されたバスタオルと特別な日にしか使わないスクラブ、洗顔を手に持って向かうはバスルーム。


「…ふふ、デート、楽しみ!」


入念にマッサージをして、保湿もして。荒北くんに可愛いって思ってもらえるような私を作り上げなくちゃ。



***



新しいワンピースに綺麗にセットした髪の毛。肌艶もバッチリだしメイクもオッケー。もし今仕事関係の人とすれ違っても誰も私に気づかないんじゃないかなってくらいに立派に仕上げた私は待ち合わせ時間より5分前にたどり着くことができた。キョロキョロとあたりを見渡せば、目に入ったのはみどりの窓口の前の柱に寄りかかっている荒北くんの姿。
私がどれだけ綺麗に着飾ったって、普段の荒北くんのカッコよさには敵わない。足も長いし髪の毛サラサラだし外で自転車漕いでるとは思えないくらいに肌も綺麗だし、黙っていればキリッとした目元もカッコいい。もちろん私にとっては喋ってようが怒鳴ってようが何してようが荒北くんはカッコいいんだけども。


「荒北くん!」


声をかければスマホの画面から目線を上げて、細い目が私のことを見つけてくれる。
私は、その瞬間の荒北くんが好きだ。ほんの一瞬、無表情からフッと少しだけ口角を上げて笑ってくれる荒北くんを知っているのが私だけなんだと思うと心がふわっとする。
手を振って駆け寄り、その勢いままに抱き着こうとすればいつものようにおでこを掌でぺしんと叩かれてしまったけれど。いつも通りの荒北くんがそこにいて安心する。
静岡と東京。距離が離れてても、荒北くんはいつもと何も変わらない。どれだけ長く付き合っても、高校生から大人になっても、荒北くんは荒北くんのまま。優しくて不器用な、私が好きになった荒北くんのままだ。



「ごめん!待った?」
「待ったヨォ」
「え、いや、でもまだ5分前!」
「じゃあ何ィ?イマキタトコ。とでも言って欲しかったわけェ?」
「んんんんそれはそれでいいけどなんか荒北くんっぽくないから却下!」
「だろ。事実俺は江戸川より早く来て待ってたからな」
「うっ…すみません」
「ジョーダンだッつの。俺のが近ェし」


今日のデートの待ち合わせ場所はみなとみらい駅。行きたい場所はたくさんあったけれど、荒北くんがご実家に用があると言っていたのが気になってなんとなくご実家に近い方がいいかなと思い横浜デートをすることにしたのだ。


「なんかしたいことでもあんの?」
「うん!赤レンガでやってるイベントに行きたくて…美味しそうなのやってるんだって!」
「ん。じゃあ…バスで行くか」


そう言う前に荒北くんの目線が一瞬だけ私の足元に動いたことを、私は知っている。私がサンダルを履いてることを見てくれたからバスを選んでくれる荒北くんはやっぱり優しい。
バス停目指して歩き出した荒北くんの左手を目掛けて手を伸ばして、そのままそっと指先で触れれば自然と指と指が絡まって、きゅっと優しい力で結ばれる手と手。細いけれど、男の子らしく節張っていて関節が太い荒北くんの指が好き。手を繋ぐ時に、優しく込められる力が好き。高校時代と違って、普通に当たり前のように手を繋いでくれるところも好き。手を繋ぎたい!と駄々を捏ねていた高校時代が懐かしい。
あの頃は手を繋ぐのにも一苦労で、学校の近くなんて絶対ダメだったなぁ。隣を歩くのはいいのに手を繋ぐのはダメって、どういうことだったんだろう。私たちが付き合っているのは割ともうバレバレだったのに。
けれど、いつの間にか隣を歩く時は手を繋ぐのが当たり前になった。荒北くんは左手。私は右手。繋いでいないとちょっと寂しくて不思議な感じがする。


「ふっふ、荒北くーん」
「なんだヨ。ご機嫌だな江戸川」
「だってデートだもーん!久しぶりのデート!久しぶりの荒北くん!」
「…アッソォ」
「荒北くん、最近元気にしてた?仕事どお?」
「あー、まァぼちぼち…っつーかオメェだろ」
「え?」


バス停に辿り着き、列に並んでバスを待っていれば荒北くんが腰を屈めて私へと顔を近づけてくる。えっ、なに?え、ここで!?突然!?!?もしかしてもしかする?えっ、私リップ塗ったっけ?塗ったな!お気に入りの可愛いやつ!
突然の出来事に頭がパンクしそうになりながら、すぐ目の前にある荒北くんの顔にびっくりしてぱちくりと瞬きを繰り返して固まっていれば…荒北くんの自由な右手が伸びてきて私の目元をそっと指でなぞった。


「くまあるケド、寝てンのかァ?」
「……」
「…ア?江戸川?」
「…こ、この雰囲気で…くま…」
「…どの雰囲気だヨ。まだ朝だぞ」


いやでも顔が!長いしたまつ毛がよく見えるくらい近くに顔が来たらちょっと期待しちゃうっていうか、そりゃここは外だし周りに人もいるし路チューなんてこと荒北くんがするわけないって分かってるけど!あれは完全にチューする時の顔の近さだったしそれになんか会うの久しぶりすぎてチューしたいって思ってたからちょっとなんか…っていやそんなんじゃなくて!くま!?くまってあのくま!目のくまってこと!?最悪じゃんちゃんとコンシーラーしたはずなのにくまって…嘘でしょ可愛くなさすぎる。


「…後でトイレでどうにかします」
「いやそうじゃなくて。ちゃんと食って寝てンのかヨ」
「…チャントクッテネテルヨ」
「……」
「…うっ、ちょ、ちょーっとね。先週忙しかっただけだから!」


ジトリとこっちを見つめるまっすぐな視線に耐えきれず、嘘を認めるしかなくなってしまったけれど大丈夫。ちゃんと食べてるし。コンビニのおにぎりとかパンとかお弁当とか。やろうと思えば料理はできるし。それは荒北くんもよく知ってくれているはず。そしてちゃんと寝てもいるし。むしろ寝てるから部屋が汚いままなんだけども。それはこの会話ならバレないからセーフだし、うん。


「仕事はァ?」
「仕事?」
「ん。仕事は楽しいのかヨ」


真っ直ぐに、目を逸らさずにそう聞いてくる荒北くんの言葉にハッとする。
毎日毎日忙しい。どれだけやっても終わらないし、新人を教える立場にもなって大変なことも多いけれど。


「…楽しいよ!私、仕事楽しいんだと思う」


忙しくても、自分の生活がちょっとおろそかになっていても。改めて聞かれると、ずっとやりたかった仕事を今、楽しいと思ってるんだってことに気付かされる。


「この前もね、仕事でちょっと良いことあったんだ。だからもっと頑張ろうって思ったの」
「…ふぅん。良かったジャン」
「ふふ、荒北くんありがと」
「ナニがァ?」
「えー、私やっぱり荒北くんのこと好き!」
「バスでデケェ声出すンじゃねェヨバァカ」


やっぱり私にとって荒北くんは特別。
好きってだけじゃなくて私に大事なことを教えてくれるし気づかせてくれる。荒北くんといると私は自分も知らない私に気づくことができて、私自身のことをちょっとだけ好きになれる。

そんな荒北くんだから、私はこれから先もずっと一緒にいたい。荒北くんと一緒ならどんなことでも乗り越えられる気がするし、私の人生もっともっと楽しくしてくれるんだろうなって思うんだ。


「ねぇ、荒北くん」
「ンー?」


私も荒北くんにとってそんな人になりたい。荒北くんが人生預けられるような、荒北くんの人生を楽しくできるような人になれたら…私は荒北くんと結婚できるのかな?


「…次の休みは私がそっち行っていい?」
「ハァ?忙しいんじゃねェのお前」
「いや、行く!絶対行く!好きだし!」
「あーハイハイ。分ァったから静かにしろ!」


繋いだ手にぎゅっと込められた力。呆れたような顔してるけど、ほんのり耳が赤くなっている。

荒北くんの手を離したくない。

荒北くんのことが好きだよ。何回言っても足りないくらい、仕事も楽しいけど、ずっとずっと荒北くんのことが好きで荒北くんと一緒にいたいって思ってるから。

だから私のこと、荒北くんのお嫁さんにしてほしいよ。






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