及川と約束する

大丈夫だと思っていた。
刻々と日が迫ってくるたびに、友人たちは心配そうに私の顔を覗き込んできたけれどきっと私はいつもと変わらない顔をしていたと思う。それは強がりでもなんでもなくて、何も分かっていなかったからだ。何も変わることなんてない。だから怖がることもない。特別なことなんて何もないのだ。ただ、私も彼も高校を卒業して、自分の道を進んでいくというだけ。みんなと何一つとして変わらない。ただ、それだけだから。


「泣かねぇんだな」


卒業式の日、後輩や同級生などたくさんの人たちに囲まれる彼を少し遠くから見つめていれば、いつの間にか隣に立っていた岩泉くんがそう言った。顔を上げれば、岩泉くんも私と同じように丁寧にひとりひとりに笑顔で対応する彼を見つめているようだった。いつもだったら眉間に皺を寄せて恐ろしい顔をして彼を見つめている岩泉くんだけど、今日は穏やかな顔をして口元は弧を描いている。
女の子たちに囲まれると、背の高い彼は頭ひとつ分くらいひょっこりと顔を出すので表情も良く見える。もしかしたら卒業式のために少し髪の毛を切ったのだろうか。短く揃った襟足が綺麗だなぁなんて。私が考えているのはそれくらいだ。そんなことを考えていて泣けるはずもない。


「冷たいのかな、私」
「…別にそんな風に思ってたわけじゃねぇべや」
「知ってる。でも、みんなそんな風に私のことを見てくるから」


みんなが私を可哀想な目で見てくる。花巻くんと松川くんも、へらりと笑う私を見ては「意外と平気なんだね」なんて言ったけれどどうしてか2人の方が困ったような泣きそうな顔をして顔を見合わせていたのが不思議だったなぁ、なんて。
でもまぁ確かに。白いブレザーに青いシャツ。真っ赤なネクタイをした彼に会うのは今日が最後なのだからしっかりと目に焼き付けておきたいなとは思うので、改めて真っ直ぐに視線を送ってみる。すぐに思い出すことができるように。目を閉じたら、会えますように。多分とっても簡単なことだ。私は3年間ずっと彼のことを見てきたのだから。目を閉じたら思い描くことができる。得意げに笑う顔も、優しく目を細める笑顔も、ボールを追う真剣な眼差しも。まだまだ私の中にあるから、大丈夫。


「じゃあ、またね。岩泉くん」
「声かけねぇのか?」
「うん。大丈夫」
「…空港には?」
「流石に行けないよ。岩泉くんは?」
「行く」
「そっか。私の分まで、ちゃんと見送ってきてね」


今までのお年玉やお小遣いを使い切れば、空港に行けるだけのお金はあった。どうしようかたくさん悩んだ。だけど現実問題、ただの彼女である私は家族や幼馴染の間に入って着いていくなんてことは出来ない。私よりもずっと彼と長い時間を過ごしてきた人たちとの別れを邪魔する勇気はなくて、空港への見送りはやめることにした。今日の卒業式が、きっと彼と会う最後の日。
何か言いたそうにする岩泉くんの大きくて厚い背中をパシンと叩いて、背を向けて歩き出した。


「俺にお前の代わりなんてできねぇだろ」


岩泉くんの声には聞こえないふりをして、足を止めることはしなかった。校門を通り過ぎて、3年間毎日通った通学路を1人とぼとぼ歩いていく。
学校からの帰り道は1人で歩くことの方が多かったのに、思い出すのは2人で歩いた時のことばかりだ。初めて手を繋いだ時。喧嘩をした時。彼の手が私の頬に触れた時。優しくキスをしてくれた時。誰も知らない彼のことを知っている。私だけが知っている彼が確かにそこにいた。
その時はただ嬉しいとか、幸せだとかそれだけの気持ちでいっぱいで、この時間がどれだけ大切で尊いものかなんて考えたことがなかった。だって当たり前で、明日もきっと同じように過ごせると思っていたし、この時間がいつまでも続くのだと思っていたから。


「名前」


ひらひらと、風に舞っていた花びらが落ちてくる。ぴたりと風が止んで、急に静かになったような不思議な感覚。
頭の中で繰り返し流していたものと同じ声がすぐ後ろから聞こえる。もしかして幻聴かな。それにしてはリアルだし、私が繰り返していたものよりもほんの少し低く、弱々しく、私の知らない声をしている。どういう顔をしているんだろう。どんな気持ちなんだろう。
及川のことなら何でも分かってるはずだったのになぁ。


「置いていくなんて、ひどくない?」


振り返れば、こてんと首を傾げつつこちらを見下ろしてくる及川がズボンのポケットに手を突っ込んで立っていた。何も映さない瞳と何も感情の読み取れない表情をして私を見下ろす及川。これじゃあまるで、私が悪者みたいじゃないか。


「名前」


そんな声で名前を呼ばれたら、もう顔を上げることなんてできそうになかった。ぼたぼたと落ちていく涙が地面の色を変える。
「泣かないのか?」色んな人に何度も言われた。泣けなかった。泣く意味がわからなかった。それは私が現実をひとつも理解していなかったからだ。
私は何も分かっていなかった。及川がいなくなるということ。遠くへ行ってしまうということ。会えなくなるということ。触れられなくなるということ。声を聞けなくなるということ。
そんなの全部が夢のようで、ふわふわと訳がわからないまま今日まで来てしまったのだ。


「…名前」


下を向いている私の視界に、及川のローファーが映る。及川の大きな手が私の頬を包むように優しく触れる。

冷たい手が好きだった。及川は自分の指を、突き指ばかりしているせいで太さもいびつで不恰好な指だからと寂しそうに言ったけれど私は及川のこの指が好きだ。誰よりも努力をしている指も、心も、大きすぎる夢も、全部まとめて及川徹だと知っている。


「及川さ、自分の手が綺麗じゃないって言ってたでしょ」
「え?あぁ…そうだね。まぁ仕方ないけど」
「私は、及川の手好きだよ。ずっと頑張ってきて、色んなものを支えてきた大きな手が、好き」


ぐっと目頭に力を入れて、涙を止める。顔を上げれば、眉を下げて困ったように笑う及川がいた。その目の縁に溜まっている涙を、今度は私が手を伸ばして拭いてあげる。
私だけが寂しいわけじゃない。私だけが、泣いていいわけがない。悲しい思いも、寂しい思いも及川の前だけではしまっておこう。


「私はね、及川がくれた思い出がたくさんあるから、きっと大丈夫だと思う」
「…うん」
「そして及川に負けないくらい、自分の道を見つけて歩いて行く」
「…頼もしいね。お前は」


会えなくても、触れられなくても、私には記憶がある。及川と過ごしたいくつもの愛おしい季節がある。背中を押してくれる人がいるから、私も私の道を歩いて行ける気がする。


「好きだよ」


そう言えば、及川の顔がぐにゃりと歪んでそのまま勢いをつけてぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱き締められた。身長差のせいで及川の胸に押しつけられるように頭を抱かれて、お互い顔なんて見えなかったけれどそれでいいと思った。ドキドキうるさい心臓の音が、すぐそこから聞こえてくる。


「いつかまた、会いに来る。絶対」


耳元で聞こえてきたその声は、もう震えていなかった。私が大好きな、意志の強いハッキリとした及川の声だから、信じてみようと思う。

だからもう、大丈夫。多分及川も私も、何も気にせずに何処へだって行くことができるだろう。













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