わがままな及川

「別れない」


耳に入ってきた言葉は、想像していたものとは正反対のものだったので私は次に言おうとしていた「うん。ありがとう」という言葉をぐっと飲み込んでしまった。私が用意していたこの言葉は「別れない」に対しての言葉ではなく「別れよう」に対しての言葉だったから。
目の前に立つ男を改めて見つめてみると、到底高校生とは思えない、まるで子供のように不貞腐れた顔をしている。眉間に皺を寄せてキッとこっちを睨みつけているくせに、圧がまるでないのはどうしてだろうか。180pを超える大男を見て子供みたいなんてバカだと思うけれど、それでもやっぱり目の前の及川は子供のように見えた。


「別れないよ、絶対」


この人は何を言ってるんだろうか。考えが何ひとつ理解できなくて、こちらも眉間に皺を寄せて及川のことを睨みつける。
及川の頭は悪くないはずだ。理性的だし視野も広い。他人をよく見ていてたくさんの選択肢の中から最善のひとつを選ぶことが出来る人。バレーだけではなく日常生活でもそこは変わらないし、そのおかげか誰とでも一定の距離を置きつつ仲良くできる。クラスメイト、先生、普段の女の子、相手チーム、バレー部の先輩、後輩、岩泉たち。それぞれに合わせて最善の及川徹でいてくれるし、だからこそみんなが及川のことを好いている。私だって、そうだった。
だからこそ、及川が言っている言葉の意味を理解することが難しい。どう考えたって、おかしいのだ。


「…本気で言ってるの?」
「当たり前じゃん。こんな時にふざけたりしないよ」


また、及川の眉間に皺がよる。2人きりの放課後の教室はやけに静かだった。いつもなら吹奏楽部の演奏や運動部の掛け声が聞こえてくるはずなのに、今日に限ってなんの音も聞こえない。そう言えば、今日は雪が降ると言っていたっけ。もしかしたら早く帰るように先生たちが指導しているのかもしれない。なら私たちも早く帰らなくちゃ。部活を引退した3年生は図書室や自習室にいることが多い。きっとこの教室にもそのうち先生が来て「早く帰れ」と言われるのだろう。

放課後の教室で、2人英語の自習をしていた。私は志望校の赤本を開いていたけれど、及川は赤本ではなく参考書を開いていたから、なんとなく聞いたのだ。「そろそろ赤本解いた方が良いんじゃない?」と。


「…そうだねぇ」
「及川は東京?地元?」
「んー…名前はどっちがいい?」
「え、どっちでもいいよ」
「え?」
「及川が決めるべきだよ。及川の進路だもん」
「…俺、名前のそういうとこ好きだよ」
「なんだそりゃ」
「俺のこと甘やかさないところ。真っ直ぐなところ」


要領を得ない会話を不思議に思って顔を上げれば、及川はニコリと笑って言った。


「俺ね、アルゼンチンに行くんだ」


行こうと思うでも、行こうかなでもない。行くんだ。っていうのが及川だなぁと思った。及川は私のことを真っ直ぐだと言ってくれたけれど、それは及川のせいだよ。及川が真っ直ぐだから、そんな及川が好きだから私も背伸びをして及川のように振る舞おうとしている。及川のことが好きだから、及川のことを尊敬していたし及川の見ている世界が見ていたくて、及川になりたかった。
どっちがいいって、そんなの一緒がいいに決まってる。離れたくなんかない。近くにいたい。聞かなくても分かるでしょそんなの。離れたい恋人なんていないし、離れていくのを心の底から応援できる恋人だっているわけがない。私たちは高校生なんだから、仕方ないじゃん。
東京と宮城で離れ離れなら、まだ頑張れる自信があった。寂しさよりも、別れたくない気持ちが勝った。そばにいられなくてもいいから別れたくないなって思えたけれど、アルゼンチンなんてそんなの想像もしていなかったしどこにある国なのかも分からない。


「別れない」


正気じゃないと思った。どうしたらそう思えるのか教えて欲しかった。今何を考えて、及川はそんなことを言っているのだろう。どうするつもりなんだろう。何がしたいんだろう。及川の考えていることが、何一つ分からない。


「名前、俺のこと好きじゃん」
「…うん」
「俺も名前のこと好きだよ」
「…」
「別れる理由なんてなくない?」


そうだね。私も及川のことが好きで、及川も私のことを好きだと言ってくれている。普通だったら、愛を確かめ合ってこの愛が続くまで一緒にいようと約束をするんだろう。それが間違っていると思わない。正しい選択だと思う。正しくて美しくて、まぶしいほどの恋愛だと、そう思う。
私は及川のことが好きだ。優しくて頼れる及川のことが好きだ。どんな時も私が欲しい言葉をくれる。手を貸して欲しい時は手を貸してくれるし、ただ見守って欲しいだけの時は優しく見守ってくれるだけ。余計な手出しはしないしお節介もしない。触れて欲しい時だけ、私の心に触れてくれる。もっと強引でも良いのに、と思ったこともあるけれど私はそんな及川のことが好きだったし、そんな及川と過ごす時間が心地良かった。
そんな時間を懐かしく思うくらいなら、寂しくなってしまうのなら、苦しくなるくらいなら。手放してしまいたいと思うのは悪いことだろうか。私は普通じゃないんだろうか。


「名前は何が嫌?言ってよ」
「嫌なこと…なんて、」
「何?」


シャーペンを持つ自分の手が震える。目の前で真面目な顔をしてそんなこと聞いてくる及川はやっぱり正気じゃないと思った。この人はどうかしてる。
アルゼンチンに行く。別れるつもりはない。嫌なことがあるなら言ってくれ?
無茶苦茶だ。嫌なことなんて山ほどある。良いことなんて一つも浮かばないけれど、嫌なことなら幾つでも言える気がする。何が、とかそんなレベルじゃないんだよ。分かるでしょ。普通に、だって、そんなの、


「無理でしょ」
「何が?」
「無理に決まってるじゃん。無理だよ、私そんなの、無理だもん。及川が思ってるほど私真っ直ぐじゃないしいい子でもない。嫌とかそんなんじゃないの。無理なんだよ」


私は及川みたいに器用じゃない。会いたい時に会えないのも。声が聞けないのも。私の知らない場所に及川がいることも。知らないうちに及川が何者かになることも。全部が無理なんだよ。


「でも俺、別れたくないもん」


私の勇気の告白を一蹴する及川の言葉も態度も、やっぱり子供みたいだった。唇を尖らせて、頬を膨らませて私を睨みつけている及川。
及川だったら私に何かをくれると思っていた。私の無理を納得させるための何かを丁寧に根気良く優しく教えを説いてくれると思っていたのに、そんなことは全くない。ただ、別れたくないと子供みたいに駄々をこねるだけ。


「名前がいないと、俺は幸せになれないよ」


とんだくどき文句だと感じると同時に、まるで呪いの言葉のようだなとも思う。
私が及川のことを手放さないように、じわりじわりと蝕んでくる。脅しのようだ。私は私のために及川を手放すことはできるけれど、及川がダメになると知って手放すことはできない。私は及川を自由にすることが及川のためだと思った。だから手放したかった。好きだから。
それなのにそんな風に言われてしまったら、私は及川を見捨てることができない。好きだから。


「別れない。絶対、手放さない」
「っ、いたっ…!」


シャーペンを握る私の手に、及川の大きな手が重なる。そのまま指を滑らすようにして私の手首を掴んだその手。私の手首をへし折りそうなほどの強い力に思わず声が出てしまったけれど、そんなのおかまいなしで及川は言うのだ。


「別れない。ずっと一緒にいて」


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