あの夏から抜け出す荒北


電話で母さんにまた部活を始めたいと言えば、震えた声で「やりたいようにやりなさい」と言われた。強い人だ。オレがあんなにグレた時だって何も言わずにただ見守ってくれていた。電話越しで見えないのは分かっていたけど頭を下げて、残りの高校生活全部かけて全力でチャリに向き合おうと決めたその日、母さんは「沙夜ちゃんにも言いなさいよ」とだけ言って電話を切った。

沙夜は、実家の隣に住む所詮幼馴染という関係の女だった。オレの後をついて回って、何をするのも一緒で兄妹のように育った。
オレが野球を始めれば沙夜も真似するかのように野球にのめり込んでいって、プレイヤーではなかったもののいつも試合を見にきてはオレに声援を送ってくれた。キャッチボールだってしたし、夏は一緒にテレビで甲子園を見て、お約束のように沙夜は「靖友と甲子園に行きたい」と言った。照れ臭くて何で返したから覚えてないが、そんなのは当たり前だと思ったのは覚えている。
オレだって同じ気持ちだった。あの頃は甲子園に行く自分をハッキリとイメージ出来ていたし、スタンドには声を枯らして叫ぶ沙夜の姿まで思い浮かんでいたんだ。

肘を壊す、あの瞬間までは。



「…たでーまー」
「あら、靖友おかえり。アキちゃんが待ってるわよ」
「もうさっき突撃されたよォ」


実家のドアを開ければアキチャンがものすごい勢いで飛びついてきて、わしゃわしゃ撫で回すと満足そうに擦り寄ってくる。満足に可愛がってやれてなかったのにそれでもオレに甘えてきてくれるアキチャン。ごめんな、の意味を込めてもっともっと撫で回せば嬉しそうに吠えてきた。
母さん、父さん、うるさい妹たちにも適当に挨拶してから自室へと階段を上がる。ドアを開ければ飛び出すように寮へと入ったわりに綺麗にされた自室。埃もなく、母さんが掃除をしてくれてるのが分かる。ベットに腰掛けて、そのままパタリと仰向けに倒れ込んだ。天井にある硬球の縫い目の跡が、大嫌いだったはずなのに今は真っ直ぐに見つめることができた。
垂直に、天井に当たらないように手首のスナップを効かせる練習をしていたあの頃とようやく向き合う覚悟ができたのかもしれない。昔はこの天井の跡を見るのも嫌で、布団に潜り込んで寝ていたのを思い出す。

ただ、そのためにはやらなきゃいけないことがまだある。これはオレだけの問題じゃない。

沙夜だけ、オレが抜け出したあの夏に取り残すわけにはいかない。


「靖友、まだ大丈夫だよ!頑張ってリハビリして、そしたら野球できるかもしれないじゃん!投げるだけじゃなくて、野手でも良いし…ほら、バッターで極めるのはどう?靖友器用だし練習すれば何だってできるよきっと!」


沙夜は本気でそう言っていた。
周りの奴が諦めて離れていった後も、アイツは本気でオレを信じてたんだ。同情なんかじゃない。
だから余計に苦しくて、そんな目で見られている自分がたまらなく惨めな気がして、突き放した。


「うるせぇ!ウゼェんだヨ!オメーにオレの気持ちが分かってたまるか!」
「靖友、」
「ざけんな!ウゼェ!ウゼェウゼェウゼェ!そんな目でオレを見んな!関わんな!昔からそうだお前は!オレのこと何でも知ってるような顔して、オリコウチャンして…お前のそういうとこが…オレは昔っから嫌いなんだヨ!」


感情のままに吐き出して、ハッとして顔を上げればそこにいたのは大粒の、まるで宝石みたいにキラキラ光る涙を流してオレを見つめる沙夜がいた。
やってしまったと思った時にはもう遅い。手を伸ばすより前に、沙夜はオレに背を向けて走り去っていってしまった。
それがオレが最後に見た沙夜。オレが拒絶して泣かして傷つけた沙夜。アイツはいつだってオレのことを考えてくれていたのに、オレはアイツほど大人ではなかったのだ。どうしようもなくガキだった。
思い返すだけで胸の奥がギリっと痛くなって苦しくなる。気がつけば眉間に皺が寄って、どうしようもない気持ちが押し上げてくる。
これはオレが一生抱えなければならない傷だ。

だけど、この傷を精算しなければオレは前に進めない。進むと決めたんだ。オレは、もう一度やってやる。チャリに乗ると決めた。


「なァ、オレの荷物ってもう捨てたァ?」
「あんたの荷物?特に捨ててないけど…なんのこと?」
「あー…道具とかァ…野球の」


母さんは一瞬だけ驚いた顔をしたが、ふぅっとため息をついてから庭を指差す。


「物置の中にあるわよ。バットとか…あんたが自分で押し込んだんでしょ」
「そうだっけェ…」
「そうよ。捨てるってきかなくて…あ、そうだ」
「ん?」
「グローブはないわよ。あんたアレだけは勝手にゴミ捨て場に持ってっちゃったんだから」
「え。オレ捨てたのォ?」
「捨てようとしたのよ。…沙夜ちゃんに聞いてみなさい」
「は?」
「沙夜ちゃんが持ってるよ。あんたが捨てたグローブ」


お前はいっつもそうだ。沙夜はいつだって何したってオレの味方で、いつもいつもお前は正しい。
オレがどんなにわがまま言ったってついてくるくせに自分はわがまま一つ言わねぇ。
だからオレは、沙夜が唯一言ったわがままである「靖友と甲子園に行きたい」を叶えられなくなった自分が許せなかった。


すぐ隣の家の前で、チャイムも押せずに立ち尽くすオレはそのうち不審者として通報されるかもしれない。
沙夜の連絡先は知らない。あの頃は携帯なんて持ってなかったし、いつでも会える距離にいたんだからそんなもん必要なかった。会いたきゃ、チャイムを押せばいい。チャイムを2回連続で押すのが合図だ。そうすれば沙夜が飛び出してきて、「靖友!」とオレの名前を呼んでくれる。


「靖友」


聞こえた声に振り返れば、見慣れない制服を着てあの頃よりずっと大人になった沙夜がいた。







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