葦木場のことが忘れられない


「さっさと忘れた方がいいよ」


目の前で酒を飲みながら友人が言う言葉はもう何度目か分からない。何度聞いても、正論すぎて私はぐうの音も出せずに押し黙るしかなくなってしまうのだ。テーブルの上に置かれたハイボールを、グイッと勢いよく喉に流し込む。こんなことしたって忘れられないことをよく知っている。何年も何年も同じことを繰り返している。それでも私は今だに何ひとつ忘れられずにいるのだ。
今も目を閉じればすぐに思い出すことができる。ふわりと風に揺れる髪の毛。大きな掌。私と話す時に腰をかがめて耳を寄せてくれる仕草も、目と目が合うとふにゃりと柔らかく目尻を下げて笑う優しい顔も。「沙夜ちゃん」と呼ぶときの声色も、全てが鮮明に思い出せる。


「ごめん」


しんしんと、静かに粉雪が舞う中で彼が言った言葉も、その時の苦しそうな顔も、それを見た時に自分の心臓が苦しくて仕方なくてその場から逃げ出したくなるくらいに悲しくて頭の中が真っ白になったようなあの感覚も、今すぐに引き出すことができるくらいには、私はあの冬の日に取り残されたままなのだ。

そんな景色も思い出も掻き消すように、ジョッキに残ったハイボールを飲み干した。目の前に座る友人の目が私を見つめている。まるで可哀想な人を見るようなその目が嫌で、気づかないふりをして笑っておかわり!と片手を上げて店員さんを呼んで笑った。
そうやって、笑って別の話を振る。そういえばあの時さぁ…なんて話題を変えてしまえば私の中からあの夏の情景はあっという間にどこかへと消え去ってしまった。頭の奥底に隠すようにしてしまって、そして鍵をかける。

楽しい思い出話で悲しさに上書きするように、久しぶりの同級生との飲み会に集中することにした。


▼▼▼▼


あれからお互い酒が進み、どうしてそうなったかは分からないがもう何人かを電話で呼び出して女だけでやたらと酒を飲んだ。そうなればみんなのテンションは上がってしまって、誰が言い出したのか分からないけれど「学校に行ってみよう」なんて話になってしまった。その時その瞬間は私もだいぶお酒が進んでいて「いいねぇ」なんて返事をした…らしい。恥ずかしながら記憶がないので自分では覚えていないのだけれど。とにかくそんなこんなであれから数日経った日曜に、私は友人達と懐かしのバスに揺られて山の上にある母校の箱根学園を目指していた。
後少しすれば私たちは大学四年生になる。それぞれ進学したり就活したり、こうしてみんなで集まれる時間はきっとなくなってしまうだろう。かなり早めの卒業旅行と言えるほど大袈裟なものではないけれど、日程を合わせて泊まりがけで母校に行くなんてバカみたいだ。バカみたいなのに、どこかドキドキしている自分もいて…はぁっと重たいため息を吐く。

箱根学園には、卒業以来一度も行ったことがない。理由なんて単純で、卒業とともに東京の大学へと進学したために箱根まで来るにはお金も時間も必要だったし用事だってなかった。大体の人がきっと、卒業してから母校に行く予定なんてないだろう。それこそ熱心な部活に入っていたりしたら、OBとして顔を出すこともあるのだろうけれど。
2人がけの席に座る友人達とは距離を取り、1人用の座席に座ってぼんやりと外を眺めていればバスのすぐ脇を何台かの自転車がものすごいスピードで通り過ぎていった。ロードバイクに乗った彼らは、きっと私たちの後輩だろう。水色のユニフォーム、ではなくあれはサイクルジャージというらしい。
坂道をものともせずに駆け上がっていく後ろ姿は、あっという間にバスの窓からは見えなくなってしまった。

そのまま目を閉じて、懐かしい景色を思い浮かべる。


「沙夜ちゃん、お待たせ」
「待ってないよ」
「そう?でも、オレの方が遅かったから」


ふにゃりと優しい顔をして笑った彼が、私の右手をそっと握る。私はそれが嬉しくて、握った手にぎゅっと力を込めれば隣の彼はキョトンと首を傾げてから私と同じように握る手に力を込める。
行きは駅からバスを使っていた。帰りもバスを使っていたけれど、1ヶ月に何度かだけは、長い坂道をだらだらと時間をかけてお喋りしながら下っていた。会話の中身までは流石に思い出せないけれど、どうでもいいことだったように思う。先輩の話や部活の話、授業中の先生の物真似とかくだらない話をしてはそれが面白くて仕方なかったし2人で並んで歩くのが楽しくて、長い道のりだって何の苦でもなかった。


「自転車競技部のユニフォームは青いんだね」
「あれはね、ユニフォームじゃなくてサイジャって言うんだよ。サイクルジャージ」
「へぇ、そうなんだ」
「うん。それでね、背中にゼッケンをつけるんだ。箱根学園では代々ゼッケンで役割が決まるんだよ」
「拓斗は何番をつけるのかなぁ」
「…オレなんて、ゼッケンもらえるか分かんないよ」
「そりゃあまだ1年生だけどさ、あと2年もあるんだよ!頑張ろうよ!」
「…沙夜ちゃんにそう言われたら、頑張るしかないねぇ」


私が何の気なしにしたこの応援を、拓斗はどんな気持ちで受け取ったんだろう。喜んでいたのか、それともプレッシャーに感じていたのか。思い出そうとしてもまるで靄がかかったかのように拓斗の表情は思い浮かべることができなかった。きっと、私はその時拓斗のことを見ていなかったのだろう。彼氏という存在に浮かれていて、そんな彼氏の部活を応援することが彼女として正しいものだと思っていたし、そんなテンプレートみたいな青春を送る自分たちが好きだった。むしろ無理矢理テンプレートに添えるように、可愛い彼女を演じていたようにも今になって思う。
付き合ったのは、たったの3ヶ月だった。それでも確かに、私は緩やかであたたかくて、優しい拓斗のことが好きだった。何か特別な思い出があるわけでもない。理由があるわけでもない。ただ、好きだったのだ。拓斗のことが、どうしようもなく好きだ。2人でいた日々が短くても私の中ではキラキラと眩しいくらいに綺麗な思い出になってしまっている。

ずっとずっと忘れられないまま、私はきっとこのまま生きていくのかもしれない。
拓斗以上の存在が現れるまで、私は拓斗のことが好きなままなのだ。


▼▼▼▼


バスを降りてたどり着いた箱根学園は私たちが卒業した時とそう変わってはいなかった。懐かしい!と騒ぎながら校門を潜り抜けて校舎へと向かっていく友人たちの後を、2、3歩離れて着いて行く。
来る前は、ドキドキしていた。私の中で綺麗なままの思い出の場所である箱根学園はどこか神聖なものであって、変わってしまっていたらどうしようという怖さがあったのかもしれない。でもいざ、こうして来てみれば何も変わっていないし私自身も何も思うことはない。友人たちと一緒で、懐かしいなぁというそれだけの気持ちで胸がいっぱいになった。
なぁんだ。こんなことなら、もっと早く来てみれば良かった。そうすればもっと早く、思い出ともサヨナラが出来たのだろう。もうここにいても苦しくも悲しくもなんともない。今なら、きっと忘れることができる。

手を繋いだ時の温度も。あったかい優しさも。心地よい声も。綺麗なままでここに置いていきたい。もう持って帰っては、いけない。

多分今日、私はそのためにここに来たんだと、そう思っていたのに。


「…沙夜ちゃん?」


心地よい声がする。さっきからずっと私の頭の中を支配していた声が、私の名前を呼んでいる。


「沙夜ちゃん」


勢いよく振り返れば、そこにはずっと思い描いていた人が立っている。
ピンク色した自転車を片手で引いている拓斗は、思い出の中よりもほんの少しだけ大人びていた。身長が伸びた…かどうかは分からない。元から背は人一倍高かったし、それ以上伸びるなんてことはきっとないだろう。だけど何かが違う。それが雰囲気なのか、何なのか、今の私には分からないけれど、この人が間違いなく拓斗なんだということは分かってしまう。

拓斗は自分が呼んだくせに、私を見つめてはひどく驚いたような顔をしていた。


「…葦木場くん?」
「沙夜ちゃん、どうして?え、なんで?え、名前ちゃんなの?」
「ちょ、葦木場くん?」
「オレの妄想?夢?いや、でもさっきまで走ってたし…いつの間にかオレ寝ちゃったの?」


狼狽える拓斗が手を離したせいで、自転車がガシャンと音を立てて地面に倒れていく。あまりにもすごい音がしたので思わず拓斗の元へと駆け寄って、転がった自転車を起こそうとしゃがみ込めばすぐ目の前に拓斗が同じようにしゃがみ込んできた。
立っていると拓斗の身長のおかげで目線が合わないけれど、こうしてしゃがんでしまえば嫌でも目線が合わさってしまう。
目の奥がぐらぐらと揺れる。拓斗のまっすぐな目線が、私が逃げることを許していないような気がしてその場から動けずにいた。


「沙夜ちゃんだ」


拓斗の手が、私の肩に触れる。


「…葦木場くん、どうして…」
「今日、OBのみんなで部活に来てたんだ。塔ちゃんと雪ちゃんも来てる」
「そう…なんだ」


そんな偶然、あってたまるかと思った。泉田くんか黒田くんに会った方がマシだったのに、よりによって拓斗に会ってしまうとは。私は自分の運の無さを恨んだ。ぎりっと、噛んだ唇が痛い。


「沙夜ちゃんに会えたのがオレでよかった」
「…」
「オレ、ついてるかも」


ふにゃりと笑った拓斗の目から、ほろりと一粒だけ涙が溢れたのを私はただ見つめることしかできずにいた。そんな私を、拓斗が大きな腕で抱き寄せる。
大きなぬくもりにすっぽりと包まれてしまえば、もうダメだった。頭の中を拓斗と付き合っていた3ヶ月間がまるで走馬灯のように駆け巡って行く。キラキラと眩しくて、胸が熱くなるほど愛おしくて、泣きたくなるほどに幸せを感じていた日々は、今でも私の宝物なのだ。終わってしまってからもずっとずっと。どんなに胸の奥にしまい込んだところで、ひょっこりと顔を出して来て気づけば私の支えになっている。特別な恋だとか、そんなのだったとも思えないのに。どうして。


「怒ってもいいし、殴ってもいいよ。自分勝手なのは、オレが1番よく知ってるから。でも、聞いて欲しい」
「…なぁに」
「ごめん。ずっと好きだったよ。別れてからも、ずっと沙夜ちゃんのことが好き」
「…フったくせに」
「沙夜ちゃんがせっかく応援してくれたのに、あの時のオレはそれに応えられなかった。自分が嫌で、こんなんじゃいつか呆れられちゃうって思って、どうしたらいいか分かんなくて」


そこで言葉を区切って、ぎゅっと強い力で抱き締められる。


「ずっと好きだったよ。今日、ここに来てくれてありがとう」


そんな風に甘ったるい声で、ふにゃりと笑って言われてしまえば、怒ることも、殴ることも出来るわけがない。

変わらずに優しい人だ。誰よりも優しくて、相手に対して紳士的で、自分に正直な拓斗の言葉はきっと嘘なんかひとつもない。私の言葉をまっすぐに受け止めてそれに応えようとしてくれた。それだけで良かったのに。私があの時拓斗にそう伝えていたら。無理しないでほしいと言えていたら。どんなことになったって、拓斗のことを応援しているのだと、ただそれだけで良かったのに。


「拓斗」


5年間、私もずっと拓斗のことが好きだったよ。

そう伝えようとしたのに、ただ名前を呼んだだけで拓斗はさっきまでの笑顔をぐしゃぐしゃにして泣き出してしまった。慌てて、慰めるように頭を撫でてやれば小さく聞こえた声。安心したように優しい声で何をいうかと言えば…ただそれだけのこと。今度は私の目からポロリと涙が溢れ出してしまって、2人で泣きながら笑う。


「名前、やっと呼んでくれたね」
















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