社会人になって鏑木と再会する


苦々しい記憶がある。心の奥底に閉じ込めた中学2年生の頃の思い出。ふと、今でも夢に見ることがあるけれどそんな日は恥ずかしくて苦しくて胸が痛くて何とも言えない気持ちになってしまう。
手元から落ちてしまった生徒手帳。そこに挟んであった一枚の写真。


「江戸川さん、鏑木のことが好きなの?」


今思えば、なんてバカだったんだろうと思う。でもきっと当時の私は浮かれていたのだ。恋に恋をしていた。好きだった。だから、その一枚の写真から元気をもらいたかった。
慌てて落とした写真を回収してその場を走り去ったけれど、中学2年生という多感な時期。噂が広まるのは早かった。

江戸川沙夜が、鏑木一差のことを好きらしい。

鏑木くんは良くも悪くも裏表のない人だった。そんなところが好きだったようにも思う。同年代の男の子よりも少しだけ幼いところがある人だった。
中学生という思春期になって、初めて好きになった人だった。理由やきっかけは今となっては覚えていないけど、なんだか恥ずかしくて誰にも話すことが出来ずに私1人ですくすくと育ててしまった恋心。伝えたいとか、報われたいとかそんな気持ちはあまりなくて、ただ好きでいることが楽しかった。彼を好きでいる自分が好きだったし、彼を見てると元気になれた。教室の中心で笑っている彼を見て、少し元気をもらう。それだけで私は十分満足していたのに、あの日は余計なことをしてしまったのだ。

廊下に張り出された体育祭の写真。自分が欲しい写真の番号を紙に書いて先生に提出する方式だったため、私は友達と2人でたくさんの写真の中から手元に残したい写真を選ぶのに集中していた。友達と2人で写っている写真、クラスのみんなと撮った写真。そこまで目立つ方じゃない私の写真はそこまで多くなく、早々に見飽きてしまいぼんやりと壁を眺めていた時、目に飛び込んできたオレンジ色。
太陽みたいに笑う人。歯を見せて大きな口を開けてピースをする彼はとっても綺麗だった。眩しくて、キラキラ輝いているその笑顔を見ていたら私の中に沸々と欲が湧いて来てしまったのだ。「この写真が欲しい」「持ってるだけなら許されるんじゃないか」「彼のことが好き」心の中をいっぱいにしたその気持ち。それが、間違いだった。こんなことなら買うんじゃなかったと、今でも後悔している。恥ずかしくて苦しくて、そして鏑木くんにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
どんな顔をしたらいいのだろう。なんて言ったらいいのか。ごめんねとも違う。気まずくて、顔を合わせることもできなくて、私はそのまま鏑木くんからも逃げ出した。もともとクラスも違う、話す機会もそんなにない。なるべく鏑木くんのことを避けて、関わることをやめた。目で追うことも、気にすることもない。それからは何もかも忘れて、教室の隅でひっそりと息をしていたので鏑木くんが結局私の想いを知っていたのかどうかもしらない。
迷惑をかけるつもりなんか本当になくて、私はただ鏑木くんのことを好きでいたかっただけだったのに。

青春だったと笑って言える日は、きっと来ない。私にとっては破り捨ててしまいたいほどに苦くて恥ずかしい思い出。


******


「あの…大丈夫ですか?」


声をかけたのは、知らなかったから。
仕事帰り、気の知れた友人と飲んだ居酒屋は女子2人で集まるには少し周りの目が痛いような大衆居酒屋だった。私も友人ももうそんな目を気にする年齢はとうに過ぎているし、お洒落なイタリアンやカジュアルバーは若い頃に生き尽くしてしまっている。今の私たちはそこそこ安く、そこそこ酒の種類が揃っておりそこそこ気楽に呑めるこの店がお似合いだった。可愛らしいお酒では物足りなくて、毎度毎度集まっては同じような話を繰り返している。
今日も同じように友達とくだらない話をしながら楽しく呑んで、気分も高揚していたから、だから私は声をかけたのだ。トイレの前で蹲っている男の人に。


「…」
「あの…本当に大丈夫ですか?誰か呼びます?」
「うっ…いや、イイっす…なんとかするんで…」


そう言いつつも、顔を一切上げずに苦しそうな声だけをあげるお兄さんは全く何とかなりそうにはない。このまま見捨ててしまうのも、なんだか気まずくてどうしたものかと辺りを見渡すけれどお兄さんの知り合いっぽい人は誰もいない。仕方なく、お兄さんの隣に自分もしゃがみ込んでスーツの上から背中を上下に撫でてみる。


「ちょ、それやめろよ!吐くだろ!吐いちゃうだろ!」
「さっさと吐いたほうがラクですよきっと」
「こんなところで吐け…うっ、う…!」
「お!出そうですね!ほら!トイレへゴー!」
「っ…!オイ!逃げるなよ!すぐ戻るから、ここに…っうぇ…」
「ちょ、分かったから早く行ってください!」


意外とよく回る口だなぁなんて思いながらふと、ようやく顔を上げたお兄さんの目を見つめてみる。パチリと目と目があった瞬間、ヒュッと息が詰まるような、あの懐かしい感覚に襲われた。少し釣り上がった猫のような、オレンジの眩しい瞳。
さっきまでふわふわと酔いが回って楽しかった頭の中が一気に冷めていく。苦しくて、心臓がキリキリと痛むあの感覚。逃げ出してしまいたいのに、どうしてか私はこの場から動くことができずにいた。それはお兄さんが最後に言った「逃げるな」に返事をしてしまったせいなのか、それとも、今度こそ彼に真っ直ぐ向き合いたいと思ってしまった私の懐かしい恋心のせいなのか。
男子トイレから聞こえてくる、ロマンスのかけらもないうめき声とトイレが流れる音。
もういい年した大人には、恋に落ちる音なんてしないのだと気付かされる。


「あー…ヤバかったマジで…」


しばらく経って、男子トイレからようやく出て来た男の人をもう一度よく見つめてみる。洗った手の水を飛ばすようにしているその仕草は昔もよく見た記憶がある。でも、それが許されていたのは中学生という子供だったからだ。もう社会人なのだから、タオルくらい持ち歩いて欲しい。そういうところも、変わらない。周りの男の子たちと比べると少しだけ幼い様子。オレンジの髪に、明るい声。
気がつく要素なんてたくさんあったはずなのに、どうして気づかなかったのだろう。


「あ、おいお前!よくも背中を撫でやがったな!」
「…いいじゃないですか。元気になったみたいだし」
「普通あぁいう時は水持って来たりするもんだろ!なんで吐かせてくるんだよ!」
「だから吐いたほうがラクになったでしょ?」
「…ま、まぁな。そうだけど…男が女に介抱されるなんて…ダセェ」


吐いたらスッキリして酔いも覚めたのか、さっきまでの様子が嘘のように元気になりキャンキャン騒ぐ彼はやっぱり、何度見ても鏑木一差くんだった。
昔から男だ女だということを気にしていたのは知っている。あの頃は中学生という思春期だったからみんな同じような感じだったけれど、大人になった今でもそんなことを気にする人がいるなんて知らなかった。バカみたいだなぁなんて、思わず吹き出してしまうとそれがまた鏑木くんの気に障ったらしい。キッと目を吊り上げてこちらを睨みつけてくる。


「オイ!何がおかしいんだよ!笑うな!」
「ふふ、だってそんな…別に気にしてないですから、私」
「そ、そうか…」
「うん。お兄さんがトイレの前で情けなく蹲ってて見ず知らずの女に介抱されて元気になったことなんて、誰にも言いませんよ」
「…ゼッテェ言うだろそれ!」


くすくす笑えば、それがまた気に食わないらしく鏑木くんの顔が恥ずかしさと怒りでどんどん真っ赤に染まっていく。そんなところも変わってなくて面白い。やっぱり、鏑木くんといると元気になれる。


「お前!よくこの店に来るのか!?もう来るなよ!」
「え、嫌です。私だってここのお店気に入ってるんです」
「ダメだ!また会っちゃうかもしれないだろ!」
「知らないですよそんなの…あ、一緒に来てる人たちにバレるのが嫌なんですね?」


うっと鏑木くんが言葉に詰まる。図星ってことだろう。
誰と来てるのかは知らないけど、プライドが高い鏑木くんもどうやらこの居酒屋の常連らしい。それを知って、また私の中にもあの頃のように沸々と欲が生まれてきてしまう。「鏑木くんは私のことを知らない」「また、ここに来れば鏑木くんに会える」「鏑木くんに会いたい」
今度は失敗しない。あの頃の私じゃない。何も知らない私として、鏑木くんに近づきたい。

あの日の苦しさも悲しさも、何も知らない鏑木くんで上書きが出来たなら。


「また、会いましょうねお兄さん」


鏑木くんの神経を逆撫でするように得意げに笑って、彼の横を軽やかに通り過ぎて自分の席へと戻っていく。弾むように、スキップをするように気分が明るい。
きっと鏑木くんはまたこの居酒屋に来るだろう。私を探しにやってくる。私が余計なことを言わないように、私のことを気にしてくれるに違いない。


今度はきっと上手くいく。何も知らないあなたと、全部知っている私でいい。








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