荒北がそばにいれば大丈夫


苦しい。ずっとずっと、息苦しい気がする。

気温が高くなるこの季節が沙夜は昔から苦手だった。何が苦手なのかを説明するのは難しいが、とにかく気分が優れない気がする。花粉症や季節の病ともまた違う。この季節だけ、喉が開けていないような息苦しさに襲われる。息ができないほどではない。会話だって出来るし、気のせいでは?と言われてしまえばそれまでなのだが、それだけではない。頭の中も霞がかっているかのように、やけにぼやっとしてしまうのだ。これを言うと、皆に季節性のものだと言われるがそうではないと沙夜には分かる。
誰かが呼んでいる声がする。名前を呼ばれている。ずっとずっと、名前も知らない誰かが自分のことを呼んでいる。

箱根学園にはいくつも桜の木が植えられている。流石は私立といったところで、学園の外壁に沿ってぐるりと桜の木に囲まれた校舎はパンフレットにも書かれている通り、ここら辺でも有数の桜スポットになっている。卒業生を送り出し、新入生を迎える桜。青空に映える薄いピンク色をした花びらが風に舞う。息を呑むほど綺麗な光景に、校門をくぐり抜けた沙夜は思わず足を止めた。
綺麗だとは思うけれど、やっぱりどうしたってこの季節は好きになれない。桜が咲くと沙夜の頭の中の声はさらに大きくなるし、息苦しさも増すのだ。そういえば、この症状に見舞われるようになったのは箱根学園に入学してからだということに気づく。
桜が咲いている間の短い期間だけ、我慢すれば済むのだからと沙夜はもう諦めている。後何日かの辛抱だ。

桜は、咲いてから散るのも早い。

後数日だけ我慢すれば、きっと終わる。



「沙夜さん」


振り返れば、白い自転車に乗った真波がいた。可愛らしい笑顔でこちらに近づいて来て、沙夜のすぐ近くでキィっと音を立てて自転車を停める。
新入生が入学して来てすぐ、部室に入部届を出しに来た真波のことはよく覚えていた。人の目を引くほど綺麗な顔をしていることは勿論だが、どこかふわふわとしていて掴みどころがなく記憶によく残っている。新入生は大抵、私たち3年生の威圧感に押されて小さくなってしまうのだが真波だけは違った。福富くんや新開くん、東堂くんに荒北くんと目が合っても逸らすことなく真っ直ぐに見つめ返す真波は新入生の中でどこか浮いているように感じる。地に足がついていないような、ふわふわと物理的にもどこか浮いているように思うのは可愛らしい笑顔のせいだろうか。


「おはよう真波くん」
「…桜、綺麗ですね」
「うん。綺麗だよね。思わず見とれちゃった」
「そうですね。こうして目に見える部分は綺麗だと思います、俺も」
「え?」
「沙夜さんは優しいんですね。誰にでも、何にでも」


ニッコリ笑ったまま、それだけ言って真波はまたペダルを漕いで進んで行ってしまう。別に並んで歩くほど親しくはないので、止めることはしない。
目に見える部分が綺麗だなんて、当たり前のことをを言う。それ以外は目に見えないのだから綺麗も何もないだろうに。桜の花を綺麗だと思うくらいで優しいなんていうのもまたおかしな話だ。こういうところが、荒北の言う不思議チャンなのかと妙に納得して、沙夜も校舎へと足を進めた。予鈴のチャイムが聞こえてきて、早足から駆け足に変わる。
頭の中では相変わらず、誰かが名前を呼んでいる。名前を呼ばれるたびに息が苦しい。走ったせいだと自分に言い聞かせて、聞こえないふりをする。振り返るのは、少しだけ怖い。



****



「沙夜。なんかお前熱っぽくネ?」


同じクラスの荒北が沙夜の異変に気づいたのはお昼休みになってからだった。真面目に席に着き授業を聞いているように見えた沙夜だったが、荒北がふと目をやった時にはうとうとと船を漕いでいた。沙夜は普段先生達からも信頼のある、真面目な生徒であり授業中に眠るなんてことは珍しい。沙夜の様子がおかしいと、荒北が気づいたのは本当にただの偶然だった。何も常に沙夜のことを見ているわけではない。ただ、何かに呼ばれた気がして振り返ってみると、その先にいたのが沙夜だった。
心配する荒北に話しかけられてもぼうっとどこかを見つめているだけの沙夜に、荒北の血管がプツリと音を立てる。もともと気の優しい方ではないし、声をかけているのに無視をされるのは気分が悪い。心配してやっているのなら、尚更だ。


「テメーシカトとはいい度胸してるじゃナァイ」
「…うるさい」
「ア?」
「うるさい、やめて、呼ばないで」


荒北が思っていたよりも、ずっと様子がおかしい。ぼうっとしているから、風邪でも引いているのかと思っていたのにやけにはっきりと言葉を口にする。そもそも荒北の知っている沙夜は温厚な性格であった。少なくとも、荒北に対してうるさいなどと口にするような女子ではない。男臭い部活の中、マネージャーとして部員を支えるきめ細やかな対応。部員の無茶な対応にも笑顔で対応する沙夜のことを、荒北はそれなりに信頼していたし気に入っている。
机に肘をついて、両手で頭を押さえるようにする沙夜はぶつぶつと呟きながらどこか一点を見つめていて瞬き一つしない。そんな姿に、ぞくりと背筋が震えた荒北は何も言えなくなってしまった。

うるさいのだ。今日はいつにも増してうるさい。頭の中で誰かが名前を呼んでいる。呼ばれるたびに、苦しい。息ができない。
私じゃないのに、誰かが私と同じ苦しい思いをしている。苦しい、怖い、辛い。私のものじゃない誰かの感情が、私のものになって伝わってくる。

沙夜。
タスケテ。
ワタシヲ、ミツケテ。
クルシイヨ、コワイヨ。


「…うるさい、こわいの、くるしいの、ワタシじゃない」
「オイ、沙夜」
「行かなきゃ、」


ガタリと椅子から立ち上がった沙夜の手を、荒北ががっしりと掴む。怖くないわけじゃない。だけど、何かがおかしいことは分かる。掴まなきゃいけないと思った。今この場で沙夜の手を離したら、ダメだ。どこかへ行ってしまう。連れ去られてしまう。


「沙夜、どこ行くンだヨ」


そう思って掴んだ手から、そのまま荒北の頭に何かが流れ込んでくる。きっとこれは、今の名前が見ているものだ。今ではない。今よりずっとずっと昔の風景。大きな木の下で女の子が立っている。小さな女の子と目が合うと、そのまま息が苦しくなる。何かに首を締めつけられているように苦しく、息が出来ない。痛い。苦しい。怖い。女の子は泣いていた。泣きながら名前を呼ばれる。


タスケテ、ワタシ、ココニイルノニ。


恐ろしくなって手を離すと、息苦しさは無くなった。ハァッと大きく息を吐き出して、自分の首を触ってみるけれど何もない。辺りを見渡しても、いつも通りの騒がしい昼休みの教室だ。もう一度安堵の息をついたところで、ようやく気付く。

さっきまで、すぐそこにいた沙夜がいない。


「…っ、沙夜!」


慌てて教室から廊下へ飛び出せば、どこかに向かって走っていく沙夜の後ろ姿が見えた。その後を追いかける。全速力で追いかけているのに、なかなか追いつくことができないのはどうしてだろう。沙夜よりも荒北の方がずっと足は速いはずだ。最初の差があったとしても、これくらいの差であればいつもならばすぐに追いつくはずなのに。それでも、追いかけるしかない。早くしないといけない気がする。
上履きを履いたまま、下駄箱を駆け抜けて行く沙夜。外に出て少しして、ようやく荒北は沙夜の右手首をガシリと掴んだ。


「沙夜!沙夜!」


沙夜を呼んでも、振り返らない。ぶんぶんと強く腕を振って振り払おうとするので、掴んだ手にさらに手に力を込めた。息が荒く、大きな目玉は焦点が合っておらずぐるぐると回っている。ぼろぼろ溢れる涙にも、きっと本人は気づいていないだろう。腕を掴んだだけじゃ、止められない。咄嗟に抱き締めるようにして、腕の中に閉じ込める。小さな頭を自分の胸に押さえつけるようにして、ぎゅっと抱き締めても抵抗し続ける沙夜。


「いやだ、だめ、わたし、苦しい。苦しいよ。見つけてもらわないと、ずっと」


可哀想。

そう言って荒北の胸板を細い腕が押し返してくる。だけど譲れない。それよりも強い力で抱き締めて、耳元で何度も名前を呼ぶ。多分、ここにいるのは沙夜ではないのだ。何か別のものがいる。もしくは、何かがずっと沙夜のことを呼んでいる。だからその何かよりも優しく、沙夜のことを呼ぶ。荒北が出せる最大限の優しい声で、心を込めて。名前を呼ぶ。


「沙夜」


さするようにして小さな背中を撫でる。だけど力で負けないように、もう片方の腕にはぎゅっと力を込めた。
するとようやく、沙夜の身体中に入っていた力がふっと抜ける。荒北の腕の中にすっぽりと収まった小さな身体。きっともう、大丈夫だ。少しだけ身体を離して、顔を覗き込むと目と目が合う。丸い瞳が真っ直ぐに荒北を映す。確かに、沙夜がここにいる。


「…荒北くん」
「おー」
「あ、れ…私、なんか、ずっと…」


そんなことを呟いて、だけど沙夜はそれっきり下を向いて黙り込んでしまった。沙夜の背中を優しく、ぽんぽんと叩いてから近すぎる距離に一歩後ろに下がる。よく見ると、沙夜の首は青紫色の痣があった。はっきりと手の形をしているそれに、また荒北の背筋がぞわりとする。
荒北にも覚えがある。苦しかったのだ。まるで誰かに首を絞められているかのような錯覚を思い出す。


「痛いとこは?」
「へ?ど、どこも」
「…苦しくねぇか?」
「うん。あ、そういえば、楽になったかも」
「ラク?」
「この時期になるとね、ずっと苦しかったの。息が詰まるって言うか…でも、もう平気みたい」


へらりと笑う沙夜は、もう本当に何もないようだった。さっきまでとは明らかに様子が違う。荒北が知っている、いつもの能天気な沙夜。


「沙夜」


確かめるように、名前を呼ぶ。当たり前のように顔を上げて首を傾げる沙夜がいる。何も分からないなら、それでいい。
荒北がそばにいればいいのだ。また沙夜に何かあっても、自分が手を引いてやればいい。

ひらりと風に舞った桜の花弁が、沙夜の頭を避けるようにして地面に落ちた。




*****



満開の桜の中、一際大きな桜の木の下で真波がしゃがみ込む。購買で適当に買ったお菓子と、朝自転車に乗っているときになんとなく目につき手に取った道端に咲いていた花を根元にそっと添えた。名前も知らない花だけど、ないよりはマシだろう。
苦しいこの子の代わりにはなれない。一緒にいることもできない。沙夜のように、誰でも彼でも優しいわけじゃない真波には、女の子は何も言わなかった。
心を向けてしまったらダメなのだ。何だって、優しくされれば縋りつきたくなってしまう。誰にも届かない声を聞いてくれる人を見つけたら、振り向かせたいと思ってしまうだろう。


「見つけたよ。これでもう、苦しくないね」


もう今更、掘り出すことはできない。土の上から優しく声をかける。それだけで報われるものもある。ただ、この子は知ってほしかっただけなのだ。苦しかったこと、悲しかったこと。ここに、自分がいることを。
















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