悠人と夜の逃避行


音を立てないよう忍足で部屋を抜け出し、寮長の部屋の前で聞き耳を立てる。音はしない。きっともう寝てしまっただろう。ほっと胸を撫で下ろし、暗くて静かな廊下を進んでいく。
誰かに会ったら何と言われるだろう。泉田さんにバレたら退部させられたりして。でもまぁ、退部と言われてももう一度入部届を書いて持ってからいいだろう。何か言われたら銅橋さんだけ狡いと駄々をこねれば多分何とかなる。実家で兄が笑いながら話していたのを聞いていた時はなんて人だと呆れたけれどこんなとき役に立つとは。聞いておいてよかった。とにかくバレなければいいって話なんだけど念には念をってやつ。俺はギャンブルってあんま得意じゃないから保険は必要だ。
ひたひたと自分の足音だけが響く廊下を早足で駆け抜けて、これまた兄から聞いていた情報で一階のトイレの窓から外へと抜け出した。

すっかり冬を迎えた箱根の夜はどれだけ着込んだって寒い。シャカシャカ鳴るウィンドブレーカーに指先を引っ込めつつ、待ち合わせ場所である学校の自転車置き場へと向かった。のろのろ歩きから、早足に、そして段々小走りになって、最終的にはダッシュをしてしまうから結局俺は沙夜さんに甘いのだ。こんな時間に呼び出されて、文句を言いつつもどこか浮かれている自分がいる。バレたらとか、何かあったらとか、色々考えなければいけないことがあるのは分かっているのに。それよりも沙夜さんに選ばれたことの方が嬉しいなんて。


「悠人」


名前を呼ばれて顔を上げれば、自転車に跨ってヒラヒラとこっちに手を振っている沙夜さん。すぐ目に入ったのは短いスカートから伸びる真っ白な足。かろうじて上にはダッフルコートを着ているけれど、こっちはウィンドブレーカーを着込んでも寒いというのになんでこの人制服なんだろう。見てるだけで寒い。


「ねぇ、なんでそんな格好なの?バカなの?」
「こんな寒いと思わなくって」
「バカなんだ」
「ははは。まぁまぁ。いいから、乗りな」


真っ赤な鼻のまま笑った沙夜さんは俺の悪態なんて気にせずに自転車の後ろを指さした。普通逆だろなんて突っ込むのもめんどくさくて、そのまま素直に自転車の後ろに跨り、沙夜さんの細い腰に遠慮なく手を回してぎゅっと抱きつくと、沙夜さんは満足したようにまた笑って自転車を漕ぎ出した。軽々漕ぎ出したように沙夜さんは思ったかもしれないけど、俺が結構な強さで地面を蹴ったことを知らないだろう。一応俺だって男の子なので、そんな軽々と運ばれるわけがないのだ。

沙夜さんのことは気に入っている。
ふとしたことで知り合ってから、付かず離れずちょうどいい距離感で過ごしていた。俺のことをいい意味で特別扱いしない。腫れ物扱いしない。2人でいるときのゆったりとした何もない空気が好きで、沙夜さんから「出かけよう」と訳の分からないメッセージで夜中に呼び出されれば急いで寮を飛び出してしまうくらいには、俺はこの人が好きだった。

出かけようってどこへだよとか、今何時だと思ってんだよとか、言いたいことはたくさんあるのに全てを飲み込んで会いに来てしまう。目の前で鼻歌を歌いながら自転車を漕ぐこの人は、この意味を理解しているんだろうか。俺がどんな気持ちで今、あんたの後ろに座ってると思っているんだろう。もしかして何も考えてないのかもしれない。だけどこの人がそこまでバカだとも思えない。

あーもう、考えれば考えるだけめんどくさい。


「悠人はどこ行きたい?」
「…はぁ?行きたいところがあったんじゃないの?」
「いや特には」
「ホントバカだね」
「だって悠人と出かけたかっただけなんだもん」


あー、やっぱりめんどくさい。
この人は今どんな顔してそんな可愛いことを言ってくれちゃってるんだろう。顔が見えなくてつまんないけど、俺は今の顔を見られたら困るからこれで良かったのかもしれない。


「連れ出したくなっちゃった」
「…あっそ」
「悠人とどこまで行けるかなぁって」
「もう本当黙って」


たまらずに後ろからダッフルコートのフードを引っ張ると当たり前のように沙夜さんはバランスを崩して「ギャア!」なんて可愛げのない声を上げる。俺が足をついてどうにか倒れずに済んだけど沙夜さんは焦ったのか、少し息を切らして振り返りこっちを睨んできたけど怖くもなんともない。
少しくらい焦ってもらわなきゃ困るんだよ。なんでもない顔して、期待させるようなこと言って、俺をどうしたいんだかちゃんと言わせないと俺だってこのまま引き下がれない。何度も言うけど、俺だって男の子だから。
沙夜さんが逃げられないように、そっと後頭部に手を回して顔と顔を近づける。こんな時だって、沙夜さんはしっかりと理性が働いているのか自転車のハンドルを離すことなんてしなかった。
それが悔しくてその勢いのまま、唇を寄せてキスをする。寒いし乾燥しているせいで、お互いの唇はひどくかさついていて、ロマンのかけらもないけれど、それでもやっぱり胸の中が熱くなって、たまらずにもう一度塞ぐ。
沙夜さんにも俺の中の熱が移ってしまえばいい。熱におかされて、そのまま俺のことを勘違いしてしまえばいい。今沙夜さんが少しでもドキドキしているなら、それは恋だと思ってほしい。
それでもいいから、俺はこの人がほしい。


「…俺が、どこに行きたいかって、聞いたよね」


唇を離して、そう聞けば沙夜さんは聞いているのか聞いていないのか分からない顔をして、だけど小さく頷いた。さっきまで真っ赤なのは鼻だけだったのに、ほっぺたまで赤く染まっているのは寒さのせいなんかじゃないだろう。


「沙夜さんとなら、どこだって行けるよ」
「…悠人」
「何考えてるかわかんないけど、そんな試さなくてももう俺アンタのだから」


つまらない駆け引きなんてもうしないでいいよ。俺はとっくにアンタのことが好きなんだから。素直になってくれればそれでいい。
バカだバカだと言うけど沙夜さんが意外と臆病なことだって知っている。こんな突拍子もない夜の逃避行を計画するくせに、本当は俺のこととか部活のこととか、色んなことを考えて足踏みしているんだろう。なんてくだらないんだろう。俺がこうして寮を抜け出してる時点で、俺も沙夜さんも同罪だというのに。
だけど俺は、そんな沙夜さんのチラリと見える女の子らしい欲の部分が好きだ。俺に向かって必死に手を伸ばして、早く手を取ってくれて泣きたいくせに笑顔を取り繕って余裕こいてるその姿が好きだ。
だけど、それよりもきっと、俺の隣で真っ直ぐに笑ってくれるほうがずっといい。俺だって沙夜さんが欲しい。俺だけのものにしたい。


「…やっぱり私、悠人のこと好きだなぁ」
「はぁ?今更?」
「だけど、私がいつか悠人の重荷になるのは嫌だなぁ」


そんなつまらないことを考えて、泣きそうな顔をする沙夜さん。手を伸ばして、小さな体を抱き締める。俺よりもずっとずっと小さいくせに、そんなに大人ぶらないでほしい。俺のことを見くびらないでくれ。


「バカにしないでよ。沙夜さんくらい、何人でも背負えるんだから」
「…悠人」
「1人であれこれ考えるのはやめて。俺を信じなよ」


ギュッと抱き締める腕に力を込めれば、腕の中で小さくすすり泣く声がした。
ねぇ沙夜さん。俺はアンタが思ってるよりずっとずっとアンタのことが好きだし、今更手放せるはずもない。俺ってすごいワガママだから、どっちかなんて選べない。沙夜さんのことも部活のことも、どっちも大事だから優劣なんてつけられないし、欲しいものは欲しいんだ。


「こんな俺に付き合えるの沙夜さんだけなんだから、自信持ったら?」


こんな捻くれた言い方しかできない俺を、愛してくれるのなんて沙夜さんしかいないと思うんだよね、俺。


だからお願い、俺を選んでよ。









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