プールの女と真波


箱根学園は山の近くにあるせいか、怪談話がたくさんある。学校内はもちろんのこと、校外である近くの山の中だったり神社だったりの怪談も多くて、この時期になると寮の談話室はこの手の話で盛り上がるのだ。
だけど私は怪談話が得意ではない。見えるわけではないけど、聞いても良い気分にはなれないし、話を聞くのも苦手なので談話室には寄り付かないようにしていたのに、今日は友達に手を引かれて談話室へと来てしまったのだ。
TVでは心霊体験特集が流れていて、そのうち1人が話をしだす。「ねぇ、知ってる?」だなんてありきたりな出だしで始まる怪談話。


「あのね、何年も前に学校のプールで溺れる事件があったらしいよ」
「え、それ知ってる!私も先輩から聞いた」
「そんなの嘘でしょ。本当だったらもっとニュースとかになってるんじゃない?」
「何年も前だもん。溺れるのってすごい苦しいらしいよ。だからね、プールに入ってる時に『たすけて』って聞こえても絶対にその声に反応したらいけないんだって」


何年も前の話ならなんで今この時代までその話が残っているのか。怪談話には矛盾がある。それに誰かが体験したって話じゃなくて、全部の話がたいてい人伝に聞いた話でしかない。だから信じてなかった、信じないようにしていたはずなのにその話だけは気になって思わず口を挟んでしまう。


「なんで?」
「え?」
「なんで、助けてあげたらいけないの?」
「えーそういえば、なんでだろうね?」


ケタケタ笑う友人達の中でポツリと取り残された気分になる。
助けたら、いけないの?だって聞こえるんだもん。ずっとずっと、私に助けを求める声がしてたから。気になってしまって、振り返ったんだ。


「そう言えば今日、チャリ部プール掃除してたよね?」
「うん…」


そう、今日は先生に頼まれてプールの掃除をしていた。レギュラー陣は練習優先でいなかったけど私たちマネージャーや控えの部員達みんなでプールをピカピカにしようと暑い中頑張って作業をしていたのだ。まぁ、真面目にやっていたのは最初の何時間かだけで後半はホースで水の掛け合いになってしまったけど。みんながはしゃいでる間、私はバケツを取りに行くために1人プールのすぐそばにある更衣室へと向かった。更衣室の隣にある用具室へと入って、薄暗い中手探りでバケツを探していた、その時聞こえた小さな声。


『たすけて』


それに、私は耳を傾けた。
目に映ったのは真っ黒な靄のようなもので、見てはいけないと思っても体はいうことを聞かずに動けない。見つめたまま動けず、逃げ出すこともできずにその靄に全身を飲み込まれて息ができなくなった。
まるで水の中にいるかのように苦しくて、口から息を吐き出せばガボッという音がする。それに不思議な匂いもして、懐かしい匂い…塩素、そうだ、これはプールの匂いだ。それに気づいた瞬間に、右足首をグッと何かに掴まれて引っ張られて引き摺り込まれる。沈められる。
苦しいのに、ここから出たいのに、何かに引っ張られているせいで上にあがれない。やめて、離してよ、上に行きたいの。沈みたくない、苦しい、つらい、寂しい。苦しいよ。


「たすけて…っ!」


手を伸ばして叫べば、ようやく意識が戻ってくる。目に映るのは古びた天井。体を起こして辺りを見渡せばさっきまでいたはずの用具室だった。
なんで、だって私は今、水の中にいたと思ったのに。
ハッとして右足を見れば、そこにあったのは綺麗な手。
手だけで、手首から先は何もないそれは私の足首をがっしりと掴んでいる。


「ひっ、」
「沙夜、どうした?」


ひょっこり用具室のドアからユキが顔を覗かせる。慌てて立ち上がって思わず勢いのままに抱きつけばユキはびっくりしつつしっかりと私を支えてくれた。


「うぉ、なんだよ!」
「ユキ…あの、さっき、私…」
「だからなんだっつの。ほら、行くぞ。もう掃除もとっくに終わっちまうっつの。何してたんだよこんなところで」


呆れた顔して、私の腕を引っ張るユキ。外に出ればすっかり陽は落ちて辺りはオレンジ色に染まっていた。
視線を下に落とせば、やっぱりまだ私の足首にまとわりついている手。はっきりと見えるそれ。


「ユキ、足が、」
「は?捻ったのか?普通に歩いてるじゃねーか」
「…私の足、普通かな?」
「…頭でも打ったのか?」


ユキはチラリと私の足を見たけど特に何も言うことなく、「行くぞ」とだけ言って私の手を引く。引っ張られながら遠ざかっていく薄暗くて不気味な用具室をじっと見つめると、黒いもやもやが人型になって私に手を振っていた。

私の右足首には、今は真っ赤なアザのような痕がある。それは多分私以外の人には見えていないんだろう。だからみんなそんな怪談話をしてきゃっきゃと笑ってられるんだ。

誰も気づかなかった。ユキも、戻った後の自転車部の人たちも、ここにいる友達もみんな。

だけど、1人だけ気づいた人がいた。

ユキと一緒に部室へと戻ればもうとっくにみんなプールから戻ってきているようで、レギュラー陣も練習を終えて着替えまで済ませているようだ。部室の外に6人が立っていて、私を見ると荒北さんが「おっせーんだヨ!」と怒鳴り声をあげる。「すみません」と声をかけて、急いで部室の中へと入ろうとすればパシリと手首を掴まれてぐいんっと引っ張られる。
振り返れば、ベンチに腰掛けていた真波が私の手を掴んでいた。


「沙夜さん、痛くないの?」
「…え?」
「痛いでしょ、それ」
「真波…?」
「ダメですよ。誰にでも手を差し伸べたら」


ニコニコ笑ったままの真波はそう言ってベンチから立ち上がると、その場にしゃがみ込んでそっと私の足首に手をかざす。そのまま私の足を掴んでいる手首に触れたと思ったらものすごい勢いで手首そのものを掴んで私の足から引き剥がしてしまった。


「ごめんね、この人をそっちに連れてくのはオレなんだ」


ぺしんと真波がその手首を叩くと、さっきまでハッキリと見えていた手首はまるで砂のようにサラサラと消えていってしまった。

さっきまで私の目にはっきり映っていたはずなのに。どうして。なんで、真波が。

手首の代わりに薄紫色した痕だけが残ったけど、その痕もどうやら誰にも見えてないらしい。福富さんたちはみんなで話し込んでいてこっちは見ていないから分からないけど、気にしてないってことは誰も何にも気づいてないってことだろう。
呆然と自分の足首を見つめていれば、真波の手がまたまた伸びてきて、痕の上から私の足首をガッツリと掴む。さっきまでの手首より、ずっと強い力に思わず顔が歪んでしまった。


「沙夜さん優しいからなぁ。こういうのたくさん寄せちゃうんだよなぁ」
「っ、真波、痛いよ」
「嫌だなぁ。沙夜さんを堕とすのはオレなのに」


ギュッと、さらに強い力で私の足首を掴みながら真波がそんなことを言う。
どういうことなのかさっぱりわからないけど、真波にはやっぱりさっきのが見えていたらしい。話の流れからして真波はよくこういうのが見えるんだろうか。見えるだけじゃない、さっきは触っていたし、消すこともできていたけどどういうことなんだろう。分からない。


「真波には見えてるの?」
「沙夜さん、プールで何聞いたの?あの子、沙夜さんに期待してたんだよ」
「…期待?」
「一緒に来てくれるんじゃないかって。言われたんでしょ、助けてって」


たしかに聞こえた。私は耳を傾けてしまったのだ、その小さな声に。
真波はつまらなそうに目を細めて、私の足首から手を離すと赤黒くなった痕の上を長い人差し指でそーっとなぞる。くすぐったいような、気持ち悪いような感覚に背筋がぞわぞわしてしまって、思わず足を引いた。
真波は顔を上げて、私の目をじっと見つめる。


「ダメだよ。誰にでも優しくしたら」
「…は?」
「オレだけにしてくださいね」


にっこり笑って真波が立ち上がった。へらりと笑っているいつも通りの真波に、なんだかホッとして私もようやく笑えば、真波が私の肩を優しく叩く。


「オレと一緒にいこうね、沙夜さん」




談話室のソファーに腰をかけたまま自分の足首を見れば、まだハッキリと見える赤黒い痕。
それは謎の手に掴まれてた痕じゃない。上書きされた、真波に掴まれた手の痕。そう、これは真波が掴んだ痕だ。あの変な手じゃなくて、真波のもののはずなのに、


「沙夜?」
「…ねぇ、私の足何か変?」
「え?なにが?あ、ネイルかわいいね!」
「…ありがとう」


どうして、なんで、誰にも見えないの。


















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