「ま、待って、シェンホア! やっぱりわたし、」
等等待て坐下お座りもありません。それよりあまり暴れないでくださいな、お体にふれてしまいそうになります。もしこの両腕が無くなってしまったら……私はこれからどうして糊口ここうをしのげば良いのやら」
「……知らなかった。あなた、そんなに大げさな物言いができたの」
「なんとでも。……ほら、完成です」
「ありがとう、満足してもらえたようでわたしも嬉しいわ。もう着替えます」
「ご冗談を。あなたの“ご主人様”にお披露目しなければ、私も張り切った甲斐がないというもの」
「いや!」
「あらあら、困った小鳥だこと」

扉の向こうから、きゃあきゃあとかしましい女たちの声が響いてくる。
今日のような紺に近い濃い青空には相応の、ただしここには――熱河電影公司イツホウディンインゴンシビルの天辺には、いささか明るく華やぎすぎた・・・声音である。

豪奢なペントハウスの一画、なまえに宛がわれた私室から――明暮あけくれ「社長」のそばにはべるために当人が滞在する機会は実のところそう多くはない――、女ふたりの声が漏れ聞こえていた。
なまえがこの部屋へ客人を招くのは滅多にないことだった。
しかしながらどうやらここ数日、多忙を極めていた「ご主人様」が相手をしてくれないとあってか、顔馴染みの女殺し屋を引き入れたとみえる。
なにやら意に沿わぬ事態に陥っているらしいことは、なまえの切羽詰まった声音から察せられたが。

すくなからず原因の一端と了得していた飼い主は、深窓しんそうを前に、浅く息をついた。
招く者の人選について思うところはなくはないが、まあこの悪都においては限りなくまとも・・・な部類とすべきか。
とまれかくまれ、三合会タイ支部におけるシェンホアの評価はすこぶる良好だった。

「っ、シェンホア! もう良いでしょう、脱がせて!」
「他人にそんなことを乞うなんて、“穢れなき処女”の名が泣きますわ。それに私も自分の身が可愛いので」

にゃはははと勝ち誇ったような笑い声が響いてくる。
扉を開けたものか否か、手を上げかけた姿勢のままほんの一瞬ばかり逡巡し、張はさっさとドアノブを回すことにした。

金糸雀カナリアと鶴とで、なにをしているやらと思えば……」

――いつの世も女ッてのは着せ替え遊びが好きだなあ。
口の端にジタンを咥えたままそう嘯いた伊達男に、室内にいた女たちはそれぞれ異なる反応を見せた。

「あらまあ、素晴らしいタイミング」
「だ、旦那さまっ」

室内にいたのは果たして、小声で歌うように呟いたシェンホアと、それを恨みがましくめつけるなまえだった。
やにわに現れた主人を認め、後者が心の底から居心地が悪そうに身じろいだ。
珍しい飼い鳥の様子に、張はサングラスの下でそれと悟られぬ程度に目を細めた。

ことごとく一級の調度品のみで構成されているにもかかわらず、決して品位を落とすことなく瀟洒な雰囲気を保っていられるのは、飼い主、「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」の手腕によるものに相違ない。
白を基調とした女性らしい深窓しんそうに咲いていたのは、黒い花だった。
黒い旗袍チャイナドレスを身に纏い、揃いの黒いスティレットヒールを履いたなまえが目を伏せて立ち尽くしていた。
一見無地かと思われた絹服には同じく黒糸で刺繍が施してあり、光の当たる加減で大輪の牡丹ボタンの花を浮かび上がらせた。
なまえの白磁の肌、豊かな黒髪と相まって、モノトーンで纏められた姿は、だからこそうつくしい紅唇がより映えた。
見慣れたものより幾分か濃い色合いのルージュは口唇を鮮やかに彩り、ゆめ幻のようにうつくしい。

目もあやなコントラストに男は暫時らしくもなく見惚れ、感嘆まじりに紫煙を吐き出した。
しかし姿かたちよりも一等彼の目を引いたのは、驚蟄けいちつの初候、桃始華――桃が花開く瞬間めいて目尻を火照らせたなまえの表情だった。
無垢に赤らんだ顔は初恋を知ったばかりの少女もかくやあらん、ただでさえ元来楚々とした顔貌が、庇護欲と嗜虐心とを同時に掻き立てる嬌羞きょうしゅうを滲ませていた。

常になくしおらしい理由はすぐにわかった。
詰襟の絹服はその首元の堅苦しさとは裏腹に、肩口が大きく開き、くっきり浮き出た鎖骨、肩、腕を露出していた。
極めつきは、すっきりと伸びた服の裾だ。
旗袍チャイナドレスはシェンホアの来ている臙脂えんじ色と同じく、腰骨が見えるほどスリットが深かったのだ。
ぴったりと密着して身体のラインを披露している布地は、大胆にも臍の高さ辺りから切れ込みが入っていた。
普段は隠されている瑞々しい白磁の四肢、眩耀げんようの太腿を惜しげもなく露わにしたなまえは、耐えがたいとばかりに頬を染めてうつむいた。

「シェンホア、良くやった」
「とんでもない、勿体ないお言葉です」
「もう、他人事だと思って! シェンホア!」
「おいおい珍しいな、なまえ。随分と素直・・だな?」

ストレートに怒気を表す彼女へたしなめるように張が問いかければ、なまえは詰まったように、くっと唇を引き結んだ。
時と場合によっては美徳になりる「素直」という性質は、しかしながら包蔵禍心ほうぞうかしんの濁世に身を置く者にとっては、概してただの悪癖にしかならない。
魔窟ロアナプラ久しい小鳥は継ぐ言葉を持たず押し黙るしかない。

なまえのありさまに、張は浮かべた笑みをますます深めた。
刺激的な服装は言うまでもなく、なにより小鳥がこれほどわかりやすく感情を、とりわけ狼狽を人前で露わにすること自体が珍しい。
平生ひとを食ったような穏やかな微笑を更々揺るがせないなまえが、である。
このような表情と態度に悪名高き金糸雀カナリアを追い込んだ点において、シェンホアは賛辞に値した。

「白も用意したのですが、いつもと違うのも一興かと」

似たデザインの白い旗袍チャイナドレスと揃いのピンヒールを掲げてみせ、シェンホアが時を得顔で頷いた。
こちらも精緻な刺繍が施され、純白のなかに華を添えている。

「さすがの慧眼けいがんだな、黒も似合う」
「お気に召してなによりです。傷ひとつない四肢は、仕舞い込むには惜しいかと思いまして」

どこか自慢げなシェンホアの言にたがわず、傷ひとつないなまえの白肌に、映える黒い綺羅はまばゆいほどだ。
尼僧服を連想させる清廉な白裾を、平素、見慣れているとあっては尚更だった。

「ねえ、シェンホア、どうしてこんなにスリットが深いの……」
「戦闘の際、動きにくいからです。なぜそんなわかりきったことをお聞きになるんです?」
「小鳥は征野に立たないもの……わたしには必要ないじゃない……」

情けない表情でなまえが呟いた。
張とシェンホア、四つの目に検分するようにじっくりと眺められ、花瞼かけんを伏せた。
拒否も逃避も許されないのなら、ひたすら時が過ぎて飽きてもらうのを待つ以外なまえにどんな選択肢があるというのか。
たっぷり鑑賞されて、なまえは肌がじりじりとくすぶるような心地までしてきた。

「……ほんとう、素敵なドレス」
「なにか言ったか? なまえ」
「いいえ、なにも。旦那さま」

露出のわりに下品な印象にならないのは、光沢が嬋媛せんえんたる絹服だからか、あるいは躾の行き届いた小鳥の所作や立ち振る舞いのなせる技か。
自らの手腕にシェンホアが、特徴的ないつもの笑い声を響かせながら満足げに頷いた。
青みがかった黒い長髪をさらりと背へ流して「それでは」と一礼した。

「私は仕事がありますので。これで失礼します」
「ああ、シェンホア、礼は弾ませてくれよ」
「したいことをしたまで。不要ですわ」
「……シェンホア、今度いらっしゃるときは手土産ナシで・・・・・・お願いね」
「“塔の上のお姫様”へ伺うのに、そんな無礼な真似などできません。お見送りは結構ですわ。それでは、再見」

にっこりと笑みを残し、スキップせんばかりに軽やかにシェンホアが辞去していった。
残されたなまえはよどんだ目でじっとりとその背を見送ると、恨みがましくぼそりと一言呟いた。

「……もうやだ着替えたい」

おやおやと張は目端をすがめた。
確かに肌の露出は平素よりはなはだ大きいとはいえ、それにしてもなかなかお目にかからぬ荒廃っぷりである。
だるような熱気が幾分か和らぎ、過ごしやすくなる宵の口、どぎついネオンがハレーションを起こす夜の魔都バビロンにおいて、この程度の――否、それ以上にあられもない衣装など、掃いて捨てるほどお目にかかろうものを。

「そんなに嫌がるもんかね」
「……普段は隠している肌が出ていて、なんだか落ち着かないだけです」
「お前にも羞恥心てなモノがそなわっていたんだと思うと感慨深いな」
「あら、ご存知でした? “穢れなき処女”の名」
「そのあだ名は苦手なんだろ、なまえ。お望みなら“ジャックポット”・ピジョンズにでも“衣装”を手配してもらうか?」
「……っ、」

なまえの脳裏に知っている限りありったけの口汚ない暴言が去来した。
到底他人には聞かせられない罵詈雑言、なかんずく目の前の飼い主には口が裂けても向けられない。
自制心を自賛しながら、なまえはなんとか苦虫を噛む程度に素直に・・・顔をしかめるに抑えた。

張はジタンを悠然とくゆらし、口の端に笑みを添えた。
平生通りの返答に徹そうとはしているものの、なまえの耳元は如何いかんせん未だ紅潮しており、さらけ出された素肌は、羞恥のあまりやわらかな桜色に染まっていた。
極上の手ざわりを知悉ちしつする身としては、否、たといその肌にふれたことなど一度たりとてない局外の徒であろうと、つい手を伸ばしてしまいたくなるほど蠱惑的な柔肌が男を誘っている。

常にない様子の飼い鳥がいじらしくて堪らない云々、男の思量はお見通しだったのか。
またなまえが眉をひそめた。

「……旦那さま、シェンホアの服がそんなにお気に召しましたの」
「やーれやれ、なまえ、そう柳眉を逆立てなさんな。とりあえず下に降りてこい。暴力教会のヨランダ婆に電話することになっててな。あの婆、お前も電話口に出すよう前置いていたんだよ」
「えっ」
「なんだ、なまえ」
「いえ……あの、それは急ぎの用件ではないでしょう? 元の服に着替えてまいりますのでお待ちください、旦那さま」
「駄目だ」
「どうして!」

これほど声を荒げるなまえは、日頃、窈窕淑女ようちょうしゅくじょ然としてはばからない小鳥にははなはだ相応しからぬ様相だ。
あるいは明日この熱帯の半島で降雪が拝めるかもしれない。

煙草の灰を彼女の部屋の灰皿へ落とし――無論、主人のためだけに置いてある――、張は肩をすくめた。
思いの外、興が乗ってしまったのは否めないが、「乗せた」のは誰であろうなまえだ。
なまえ自身は否定するだろうが。
大仰な肩書きや二つ名を数多冠する偉丈夫は、にやりと厚い唇を歪めた。
ただの男の直感が告げていた。
このままの方が絶対に「愉快」だと。

「どうしてだと? 決まってるだろう、――
俺が楽しい・・・・・

サディストめ! とうっかり口にしかけたなまえは、寸でのところでその言葉を呑み込んだ。
言うことを聞かない駄々っ子を見るような目でこちらを眺める飼い主の、ひとのさそうな笑顔すら腹立たしい。

最後の足掻きに「まあ、良いご趣味ですこと」と捨てゼリフを吐くくらいは許されると思いたい、そうかこちながなまえは項垂れた。






歩を進めるたび、黒い裾がひらりと翻る。
靴音こそ苛立ちを表すように声高だったものの、裾を蹴り上げぬよう足運びは慎重だった。

眼下にロアナプラの景観を一望できる、熱河電影公司イツホウディンインゴンシ最上階フロアに現れたなまえに、居並ぶ黒服たちはほんの数瞬だけ固まった。
繊細な刺繍を施された黒いスティレットヒールの靴音は、耳目をしょくするには十分だったのだ。

ビウ、似合っているも似合っていないも、どちらの感想も結構よ。ありがとう、お口は閉じていてちょうだいね」
「随分とご機嫌ナナメだろ? 可愛くて敵わん」

傍らに立っていた彪へ向け、張が、ニィと笑みを投げた。
サングラスの下の目はそれはそれは愉快げな弧を描いていた。

仏頂面一歩手前の微妙な表情の小鳥に、なんと返答すれば良かったのだろうか。
彼女の行く手のドアを開け、ひどく気障ったらしい仕草で――それさえ様になるのだから恐ろしい限り――、「After you.」となまえをエスコートする張にも。

「……さようで」

ボスとその愛玩物ペットに下手を打つわけにもいかないだろう。
代わる代わる向けられる、はなはだ温度差の激しい彼らのセリフへなんと返したものか、非常に反応に困った彪は気の抜けた相槌だけ口から漏らした。

――そもそもなぜ旗袍チャイナドレス姿なんだ。
この場にいる黒服たちのほぼ全員が、内心そう呟いていた。
それもよくよくなまえの服装を見れば、先程妙に満足げな表情で立ち去った女殺し屋、シェンホアのものとデザインが酷似していた――喉元を覆い隠す詰襟から、腰骨すら露わにする恐ろしく深いスリットまで。
その時点で、優秀な彼らはなんとなく事態を察していた。

「ふふ、旦那さまったら楽しそうでしょう。本当に……憎らしいくらい」
「お前のおかげでな、なまえ」

素気すげなく言葉を切るなまえに対し、すこぶる上機嫌らしい主は気にする素振りひとつない。
ごく自然に彼女の腰へ腕を回した。
その腕をはね除けることなく、なまえはゆるやかな拘束を甘受していたが、とはいえ不服そうな相形そうぎょうはいっかな崩れそうにない。
喪服じみたスーツの紳士と、黒い綺羅の淑女が立ち並ぶ光景は、あつらえたような佳景だった。
雅兄闊歩ウォーキン・デュード」の名に恥じないリードはどこまでも完璧で、それがまた小面憎いとばかりに、うつくしく紅のひかれた唇はむっつりと閉じられていた。

「……まあ、嬉しい。まさかあなたのお役に立てるなんて。彪、お電話を借りても?」
「……は、持ってきます」

慎重な所作でソファへ腰かけたなまえは、傍らに直立する彪を見上げた。
淑やかに小首を傾げるさまは大層愛らしい。
それでいて婀娜あだっぽい化粧と衣服のせいか、ひどくなまめかしく見えた。
アンバランスな倒錯具合をうつくしさに変えているさまは、仮にその隣に彼らの全き主が御座おわさないならば、つい見惚れかねないほどだった。

女の際どい衣装なんぞ往来へ出れば嫌でも目に入ってくるというのに、それが普段は品良く隠されている四肢が露わになっているというだけで、見慣れた白衣ではないだけで、対象がなまえというだけで――なんとなく「見てはいけないものを見てしまった」ような心地になってしまうのはなぜだろう。
あまつさえ張の言う通り、「随分とご機嫌ナナメ」ななまえの表情が物珍しさに拍車をかけていた。
無謬むびゅうの飼い主による教育の賜物か、金糸雀カナリアといえば清澄、従順な笑みが代名詞ですらあったというのに。

物言いたげな部下たちの視線などまったく意に反さず、あるいはあえて無視しているのか、なまえは手渡された電話機を操作した。

「こんにちは、シスター。はい、なまえです。お久しぶりです……ふふ、おっしゃる通りです。――旦那さま? ええ、お隣に」

さすがになまえも電話中はやわらかな笑みを浮かべていた。
しかし漫然と聞き流していると気付けない程度には、声音はほんのうっすら硬さを帯びている。

地獄の釜ことここロアナプラには数多の「パンドラの箱」が存在するが、そのなかでもとびっきり、最後に希望なんてはなはだ具体性に欠けたハッピーアイテムなぞ望むべくもない、銃弾と謀略だけ煮詰めてこごった「教会」の大シスター、あの老獪な奸婦には、大方それと見抜かれているに違いない。
無論、訳合わけあいまでは及ぶまいとはいえ。

わざわざなまえに指摘して、更に神経を逆撫でしてやるよしもない。
悠々閑々、張は紫煙を吐き出した。
後々、彼女たちの優雅なティーテーブル上へ話の他愛ないネタとして供されかないが、しかしそれは彼の知ったことではなかった。
ペットの面倒はよく見る方だと自負しているが、のみそれが蒔いた種を刈り取るような無粋な真似は辣腕らつわんの外だ。

用件を終えたらしいなまえから電話機を受け取り、張は代わりに吸いさしの煙草を手渡した。
女の細い手指が灰皿にそれを落とす。
傷ひとつない白い指を眺めながら、張は、受話器越しの化け物じみて老獪なシスターの声が、なにかを勘繰るような含み笑いを孕んでいるのを認めた。

「小鳥にしちゃあ珍しい様子だが、さては面白いことになっているようだね? ……それもお前さんになにがしかの利があると見た」
「さあて、なんのことやら。それより仕事の話をしよう、お互い、余所のペットにかまけている暇はないだろうよ。“No Rest for the Wicked”だ、神の御使いさん」
「罰当たりなことをお言いでないよ、これだから神のいないお国は……。まあいいさね、そのうち当人を籠から寄越してくれれば」

ああ、これはバレてるな、と張は内心なまえに同情に似たなにかを捧げた。
震天動地とはまではいかないものの、「三合会の金糸雀カナリア」と暴力教会の大シスターが茶飲み友達・・・・・であることは公然の秘密だ。
さて次の機会、あの隻眼の残された方が柔和に光りながら「そういえばこの間、電話をしたときねえ、いつもと様子が違うようだったが。なにかあったのかい?」とでも白々しく問う未来が容易に察せられる。
けだし正直になまえが吐くとも思えない。
飼い鳥がなんと返答するかとつおいつ巡らすだけで、張は非常に愉快だった。
甘い茶請け代わりに「今日のこと」を問われたとき、なまえの顔を直接拝めないのはひとつ残念ではあったが。

「――ああ、それじゃあ、頼むよ。手仕舞いはこちらで請けよう。掉尾ちょうびにはちと物足りんが……ああ、よろしく」

もてあそぶ不埒な空想などおくびにも出さず、張は滞りなくリップオフとの謀議を終えた。
隣で大人しく座視していたなまえが、新しいジタンを手に取り口にする。
一呼吸だけ浅く吸って火を点けたそれを、白い手で主へ差し出した。
わずかに紅の付着したフィルターを、張が「ん、」と咥えた。
待ち構えていたようになまえが礼儀正しく微笑んだ。

「旦那さま。なまえは下がっておりますね。読みかけの本がありますから」

笑みというには少々ぎこちないものだが、おおよそ及第点だろう。
なまえは引き攣りそうになる頬を叱咤した。

権謀術数を手繰る白紙扇と、その協調関係にある「暴力教会」の主人の、泥濘の底をさらうようなコンスピラシーならいざ知らず、なまえとシスター・ヨランダとの電話の内容は恐ろしく他愛のないものだった。
曰く「良い茶葉が新しく入ったから、近いうちに来ないかね?」。
なんとも有閑、牧歌的なお誘いになまえは二つ返事で了承した。
勿論、殊勝に「飼い主の許可を得られれば」と言い添えることは忘れなかった。
とはいえここ数日は輪をかけて多事多端な主のことだ、なんの役にも立たない小鳥一羽、戸外こがいへ繰り出すのを止めはすまいと心積もりあってのことだった。

この程度の言伝、別の機会でも構わなかったに違いない。
さっさと着替えたがっていた自分を妨げる辞柄、詭弁だと察していたなまえは、お役御免とばかりに飼い主を仰いだ。

「ねえ、旦那さま」
「ここで読みゃあ良いだろ、いつも通り」
「この時間帯、こちらは日差しが強くて目が痛むもの。お仕事のお邪魔をしないよう、なまえは書斎をお借りしますね」

絶対に譲らないぞと言外に含ませながら、なまえはにっこりと笑みの度合いを増しておもむろに立ち上がった。
確かに、張の傍らで大人しくアフタヌーンティーに興じたり、読書にふけったりしているのが小鳥の常だった。
しかし今日ばかりはこの状態のまま安閑と過ごすことなどできそうになかった。

一体なにが楽しいのやら。
ひょうげた笑みを浮かべたままこちらを眺める飼い主に、なまえは薄く嘆息した。
この状態では、迂闊に脚を組む動作ひとつ敵わない。
然許しかばかり絢爛たる装いで日夜フリーランサーとしてしのぎを削っている鶴の顔を思い浮かべ、彼女は最早呆れを通り越して尊敬の念すら覚えていた。

腰骨どころか脇腹まで見えてしまいそうなほど深いスリットをここまで恨めしく思ったことはない。
丁寧な手付きで旗袍チャイナドレスの裾を押さえ、立ち上がる。
百合の花のように歩く女は、ひとりで書斎へ向かった――が、折しもあれ、重たいドアを開けたのは果たして彼だった。

「……旦那さま、ひとつお聞きしてもよろしい?」

なまえは肩をすくめた。

「どうした、芙蓉のかんばせが曇ってるぞ」
「……おやめになって。過ぎた賛辞は気恥ずかしいだけです」
「過ぎた謙遜も閉口だぜ、芙蓉の鳥・・・・

見惚れるほど粋な仕草で肩をすくめてみせた主人に、とうとう隠さずなまえはたっぷりと溜め息をついた。
芙蓉、蓮と恋は同じく音を「れん」とするために、うつくしさを蓮の花にたとえるとき、思慕の意すら含む。
目元の赤みをほんのすこし増しながら、なまえはそれでもつんと顎を上げ、睨むように張を仰いだ。

「なまえがこちらへお邪魔するの、もしかして初めてだとお思いです? ここまで付き添いが必要と判断なさった理由なんて、それくらいしか思いつきません」
「やれやれ、随分と冷たいな。そうつれないこと言ってくれるなよ、なまえ。この調子だと二度と着てくれそうにないからなぁ。見納めにせいぜい堪能しても、バチは当たらんと思うがね」

口の端のジタンににやにやと笑みを添えて見下ろしてくる張に、なまえは口をへの字に曲げた。
平生ならば皮肉のひとつやふたつ、はたまた甘言でも弄してみようかという気にもなるだろう。
しかしただでさえ相手は全き主、来し方どれだけ女を泣かせてきたのやら見当も付かない、憎たらしい伊達男だ。
無闇に手を出して、引っ込みが付かなくなるような事態へ追い詰められないとも限らない。
なにしろあれやこれやと丸め込まれ、いつの間にやら張の思惑通りに恥をさらしてしまった過去の悶着あれこれに、小鳥は事欠かなかった。
わざわざ虎の尾を踏むこともあるまい。
これ以上の口応えは不利と判断したなまえは居丈高に「ご随意に」とだけ言い置き、天井までを覆う書棚へひとり逃げ寄った。
ひらりと旗袍チャイナドレスの裾が揺れ、また真っ白な太腿の裏がかすかに覗いた。






表裏、正邪曲直、関係なく多忙な飼い主とは違い、ただ彼のために「ある」だけのなまえは手慰みに読書や勉学に励んでいることが多い。
「読みかけの本」なんてただの辞柄だった。
なまえは適当になにか読もうと、床から天井までを覆う重厚な書棚に寄り添い、愛でるようにその分厚い背たちをなぞった。

圧巻ともいえる浩瀚こうかんな本棚には、古今東西、あらゆるジャンルの書物が鎮座している。
ルリユールによる豪華な装幀本よりも、ギルディング・メタルで覆われていないソフトポイント弾一発の方がずっと役に立つ・・・・この悪徳の街においては、あるいは蔵書量は随一かもしれない。
幸運なことに、鳥籠で細々と飼い主を待つのがさして苦にならない性質のなまえには、楽土といっても差し支えない環境だった。
このところ中国文学ばかり読んでいたが、美術書にも手を出してみようか、そういえば北宋後期の絵画についての本があったはず云々、ひとり物思いにふけっていたのが悪かったのだろうか。

ふっと影が重なった。
整頓された書籍の背へ落ちる、なまえと、彼女よりもずっと大きな男のものだ。
気配どころか物音ひとつすらなかったのはさすがとへつらうべきか、小鳥が争い事というものからあまりにも遠ざけられているためか。
あるいは両方か。

「……旦那さま」
「ん?」

いや、「ん?」ではなくて。
頭痛を堪えるようになまえは眉を寄せた。

「小鳥を構ってくださるのは、もちろんとても嬉しいですが……ご多忙だったのでしょう? 旦那さまのお邪魔をしたくなくて、わたし、こちらへ下がりましたのに」
「お前の深ーい配慮には痛み入るぜ、なまえ。しかしあのヨランダ婆との電話で取り敢えずは終幕だ。あと二、三、つまらん落とし前を付けてやらなきゃならんがな」

眼前の頑強な書棚、背後の飼い主。
至極わかりやすく退路を断たれたなまえは、恭謙きょうけんな表情を形づくったまま内心舌を打った。
ここ数日、多忙を極めていた張のことだ。
たかがペットが綺羅を纏った程度で時間を割くまいと慢心していたのが誤りだった。
現状から逃避すべく視線だけ落ち着きなくさまよわせるも、そんな児戯を主が許すはずもなかった。

反発する気が起きないほどゆるく、しかし決して逃げられない程度にしっかりと抱きすくめられる。
女の身がひくりと強張った。
ずるい手管だ――ゆるやかな拘束は、あたかもこちらこそが焦らされているかのような錯覚に陥る。

「勤労は尊いもんだが、それ相応の対価がないとな」
「……お疲れさまです、旦那さま。まだまだ雑事もあるでしょうけれど、存分にごゆっくりなさっては」
「ああそうだな。なまえ、付き合ってくれるだろう?」

背後からゆるやかに抱き締められたまま、低い囁き声が耳元をくすぐる。
普段は隠されている尖った肩峰けんぽうへそっと男の唇が落とされ、なまえは手指をふるわせた。

「っ、だめ、」
「駄目? なるほど、良い言葉だ。囀ってみろよ、なまえ。俺を納得させるだけの理由があるならな」

抱きすくめたまま張が嘯く。
その間にも、身体のラインをはっきりと露わにする絹服を丁寧に撫でる手指は止まらない。
男の手はもどかしいほどやさしく、思わずなまえの口から、はっと熱っぽい吐息が漏れた。
堪らず、なまえは目の前の書棚を強くつかんだ。

「は、あぅ……」

無防備にさらされた太腿を、つうっと指先でなぞられて肌が粟立つ。
上気し汗ばんだ肌が、白百合とかすかに白檀の芳香を増した。
なまえが纏う、飼い主によって買い与えられた香水の香りだ。

香水はたとい十人が同じものをつけようとも、時間が経過すると十種の違う香りに変化する。
皮膚の水分量、皮脂の量、肌に含まれる成分バランスが個人個人で異なるためだ。
なまえが常用する香水は彼女自身によく馴染むものだった。
そして白百合に似たその香りは、張維新チャンウァイサンの愛飲する煙草ジタンと混じると、一等芳しく匂い立った。
なんとも趣味が良い、となまえはくらむ理性で、いままで幾度となく胸中吐露してきたことをまた繰り返した。
らぬだに荒く息を吸おうものなら、自らの肉体から立ちのぼる白百合と、男に染みついたジタンのむせ返るような重たい香りが混じり、境目がわからなくなり、脳髄がどろりととろけていく心地に襲われる。
白百合と黒煙草、混じり合う薫香は酩酊すらもたらした。

じわりじわりと溶けかけていたなまえの理性に、くちゅりとちいさな水音が届いた。
淫らな音色に打たれたように、思わず華奢なヒールがぐらつく。
下肢がふるえ、とうとう耐えきれずなまえが膝を折ってしまいそうになったところで、ぐっと抱き寄せる腕の力が増した。

「ッ……ひゃ、あっ!」
「……あー……なるほど、妙に毛を逆立ててやがるなとは思ってたが」
「だ、だって……もとの下着のままだと、スリットから見えてしまうと、シェンホアが……!」

もう見えていて構わないからそのまま穿いていれば良かったと後悔するものの、すべて後の祭り。
スリットから忍びこんだ張の手が、いつもならあるはずの布地がないことを突き止めてしまっていた。

なまえの脳裏に、にゃはははとシェンホアの邪気のない笑い声がこだまする。
「申し訳ございません、服や靴の用意はあっても、下着のことは失念していました」――だったら着替え自体を諦めてくれれば良かったのに。
心底恨めしく思うも、怒りの矛先を向ける対象はここにはいない。
サイドストリングの目立たぬ下着も一応嗜みとして持ち合わせはあったものの、使用頻度の低いそれを引っ張り出してくるより先に、ドアは開かれてしまったのだ。
背後で喉を鳴らして笑っている飼い主によって。

無論、はなはだ露出の高い旗袍チャイナドレスそのものによる羞恥もあった。
しかしなにより、腰骨どころか脇腹すら見えそうなスリットの下、ショーツも穿かずにいるとなると、さしもの小鳥といえど平生を装うことなど!

だから嫌だったのに! となまえは振り向きざま、羞恥で潤んだ瞳で張を睨んだ。
なじるようにめつける眼光とは裏腹に、その相好はとうにとろけていた。
婀娜あだっぽい唇と、火照った目尻、濡れた瞳を奉じられ、張は口角をゆるめた。
これで煽っているつもりがないというのなら、小鳥にしてはあまりにも男心を理解していない、と。

そのまま唇へ口付けを落とされ、なまえは続く言葉を奪われた。
ふれるだけの口付けを繰り返される。
最後に下唇をやわらかく唇で挟まれ、舌先でなぞられた。
戸惑うほどやさしいそれに、なまえは眉をたわませた。
振り向きざまの口吻は体勢がつらかったが、それよりも、いつものようになにも考えられなくなってしまうような深い口付けが欲しいと強く望んでしまったのが悔しくすらある。

「んッ、〜〜んんぅ……っ、は、ァあんっ」

そのまま下腹部を撫でていた指先が、熱く疼きはじめていた陰唇のぬかるみを悪戯に掻き乱し始めた。
なまえの膝がびくっと揺れた。
浅いところで指を動かされると、肉の花弁が掻き混ぜられ、くちゅくちゅと生々しい水音が静かな書斎に響いてしまう。

指先で押し拡げられた陰唇を撫で上げられ、下腹から先がどろりと溶けていってしまいそうな感覚に陥る。
蜜口から粘液を掬い取り、大きく膨れてしまった肉芽へ塗り込められる。
興奮に痛いほど勃起した突起を、焦ったくなるほどねっとりと撫でられ、擦られれば、男の指先に合わせ淫らに腰が波打ってしまう。
がくがくと膝が揺れる。
濡れた音が鳴るたび、御手おんてずからたっぷり躾けられたなまえの肉体は否応なしに熱く火照ってしまう。
くぐもった喘ぎが漏れ出た。

背後から大きな雄の体躯に覆われていると、どこにも逃げ場はないのだという実感・・――取りも直さず甘ったるい絶望感と隷従感に襲われる。
まるでいまこの瞬間だけではなく、来し方行く末、一切衆生すべてを支配されていくかのような感覚だった。
肢体にふれられる直接的な刺激だけではない、思考や感情、感覚すら犯されていくような、なまえは酩酊に溺れてしまいそうになる。

「ふ、ぅあ……あぁんっ、あぅ……だ、だんなさまぁ」
「は、どうした、なまえ」

少々移った紅を舌先でぬぐい、張が雄くさく笑った。
その笑みを目睫もくしょうの間で見てしまったなまえの背に、ゾクゾクッと痺れのような衝動が駆け抜ける。
サングラスも外さずにキスなんて、と憎まれ口を叩くことも敵わなかった。
平生の軽妙洒脱、飄逸な面様おもようはどこへやら、ぞっとするほど凄艶な雄の顔で笑う張維新チャンウァイサンに、なまえは熱のこもった吐息をこぼすことしかできなかった。

否応なしに昂揚させられたなまえは、ぐらつく細いヒールのようにゆらゆらと自らの瞳が揺れているのがわかった。
本棚へすがりついた手指に力が入る。
完璧に手入れされた爪が傷付かんばかりの力加減は、それを勘案する余裕もないのだと如実に伝えてくる。

そんななまえがいじらしいとばかりにまた低い笑い声をこぼした張は、ようやく彼女の体を反転させた。
傷を付けるならばおのれの身へ、すがりつくなら冷たい書棚よりも熱をくすぶらせた男の身へ、と欲するのも致し方ないことだろう。

振り向かせ、やっと正面から見ることができたなまえの顔は、これ以上はないというほど紅潮していた。
いまにも落涙せんばかりに水分をたたえた双眸は、甘ったるくとろけている。
はっ、はっと息を荒げ、なまえはくたりと書棚に背を預けた。
気付いているだろうか、両脚の間に旗袍チャイナドレスの長い裾を巻き込み、惜しげもなく白い下肢のすべてをさらしていることに。
下腹部は絹服によって隠されてはいるものの、それはひどく淫靡な光景だった。

火照った頬や耳元が至りて愛らしく、張がリップ音を立てて目元へ口付ければ、またなまえが細く嬌声を漏らした。

「しっかしなまえ、この状態で彪たちの前に出ていたかと思うとすこしばかりシャクに障るなあ」
「だ、誰のせいだと……! んっ、あ、ぁあっ」

なじる言葉は、また肌を這う男の手によりふいに途切れ、すぐに甘ったれた媚声となり果てた。
とうとうなまえのあえかに色付いた目尻から、涙が一粒落ちた。

しかしそんなことよりも、なまえは下肢を伝い落ちる粘液の感触に気が取られて仕方がなかった。
自らの体液が、つっと太腿の内側に垂れていた。
はしたなくとろりと伝い流れてきてしまうほど、そこは既にぐずぐずに潤んでいるのだと自覚すると、淫らな目眩すら覚える。
だらだら涎を垂らす媚粘膜を自認すればするほど、羞恥と興奮でなまえの背筋がぞわぞわと痺れた。

胎の奥が熱く、妙に重怠い。
ふれられているのは外側だというのに、身体の内が思い出したように空洞・・を訴えて疼く。
その疼きは飢餓感にも似ており、肉体の奥深くから「はやくはやく」と急かされているようだった。

おのれの淫蕩さを浅ましいと恥じる気持ちは多少はあれど、なまえはそれを受け入れざるをえなかった。
なぜなら彼女を「そう」躾けたのはまぎれもなく目の前で笑っている飼い主だったからだ。

最後の足掻きとばかりになまえは白い腕を張へ伸ばした。
きっちりと締められていた黒いネクタイを握り引く。

「ん、ぅ……は、ぁっ、だんなさま、ご多忙だったんでしょう? 途中でなまえをほうりなげて、お仕事へもどってしまわないでくださいね……、っ」
「そんな愚にもつかん無様な男だと思われているんなら、汚名はそそがねば、だろ? なまえ」
「どうぞ……っ、あ、お望みなら、存分に……」

ネクタイをゆるめた手を、次いで男の頬へすべらせる。
陥落の証に、今度こそなまえは張の黒いサングラスを奪い取ることにした。


(2019.04.09)
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