(※「Goat, Jihad, Rock'N Roll」「Lock'n Load Revolution」冒頭沿い、原作優先)






スモークガラス越しに周囲を見回して、なまえはそっと溜め息をついた。
愛用の日傘を手に車から降りると、途端に強い日射しと湿気に襲われた。
潮を孕んだ生温い風に髪を嬲られ、彼女はかすかに眉をひそめた。
時期は乾季への変わり目であり、加うるに下午かごともなれば熱帯の半島はそれこそ地獄の釜の底と大した違いはない。
TPOという概念に沿うならば、金糸雀カナリアの装いは不適合と言わざるをえなかった――主人たちの喪服じみた黒服と同じく街においてトレードマークと化して久しい、折り目正しいワンピースは。

「ふう……ご主人さまたちったら、本当に我慢比べがお好きだこと」
「待ってください、大姐、どこに――」
御許みもとよ。あなたたちも行きましょう。お叱りならわたしが受けるから」

車の周囲でたむろしていた部下たちが慌てて女主人の元へ寄ってきたが、なまえは黒服の強面こわもて共の当惑っぷりを制して閑々とラグーン商会事務所への階段に足をかけた。






「こいつはほんの始まりで――ハイキングがすっかり終わる頃には、大統領の首がすげ変わる。俺の所にアンクル・サムがすっとんで来たのも、大使館がアポロ並みの吹っ飛び方をしたからさ」

室内では丁度、チャンが今回の仕事を説明している真っ最中だった。
語り口は軽妙洒脱、しかし内容は陰々滅々の極みといったところだ。

引き連れた運転手や護衛たちを廊下に残し、なまえはひとり、長閑なお茶会に参じたのかとまがうほどやわらかな笑みで剣呑な空気のなかへ足を踏み入れた。
この場に不釣り合いな微笑みに、扉の真正面にいたレヴィが驚いたと言わんばかりに目を見開いた。

「なまえ、お前もこっちに来てたのかよ」
「こんにちは、ラグーンの皆さま。旦那さま、お話中に申し訳ございません」
「どうした、なまえ」
「お許しください……車でお待ちするはずだったのに。なんだか、あなたのおそばにいた方が良い気がしましたの」

白裾が揺れてかすかに白百合が香り、一瞬、ここがむさ苦しい海上輸送事務所であることをその場に居た全員が忘れかけた。
レヴィが口の端を歪め、「で?」となまえへ肩をそびやかした。

金糸雀カナリアが言うならしゃあねぇ。なまえ、敵は?」
「まだなにも。ただ、この辺りにしては妙に静かすぎるような気がして……それだけよ。わたしの気にしすぎだと良いけれど」

お邪魔して申し訳ございません、と最後にもう一度謝罪を述べ、なまえは張の座するソファの背面へ回った。
それ以上の囀りは不要と、主の背後で佇立したまま目を伏せた。

依頼主がなにを伴おうが仕事は仕事とダッチは小鳥のことは度外視して、張に続きを促した。
ジタンをくゆらした偉丈夫が洒落っ気たっぷりに口角を引き上げた。

「どこまで話したかな。そう、目的地に到着してからだ。バシランから基地までは、うちで雇った 逃し屋 ゲッタウェイドライバーが届けてくれる。状況に応じて護衛もつける。――期待してるよ、ダッチ」
「手付けはここに持ってきてるか、ミスター・張。経費は別途で計算だ」
「わかってるよ、ここに――」

張が背後へ目線をくれてやると、すぐさま部下のひとりが歩み寄った。
しかし彼がボスの元へ辿り着くよりも先に、色を添える付属品のように黙して佇んでいたはずのなまえがそれを制止し、代わりに張の腕へ手をかけた。
それに映える繊手せんしゅが、容易に喪服を連想させる黒服をつかんだ。

「ん? なまえ、なんだ」
「お許しください、旦那さま」

折も折、小鳥が主へ身を寄せたのと、擲弾の来襲を告げるレヴィの絶叫はほぼ同時だった。
あに図らんや、たかだか事務所ひとつにRPGを撃ち込むとは到底正気の沙汰とは思えないが、やらかす人間がいようとはとその場の誰もが呆れたに違いない。
衝撃と轟音、熱波が手狭な屋内に満ち、もうもうと煙幕が立ち込めた。
頭上からコンクリート片だの木片だのがパラパラと降り注ぐなか、なまえがけほっと間の抜けた咳をこぼした。

「大哥、大姐! ご無事で!?」
「ふう、びっくりした……わたしは大丈夫です」
「やれやれ、オートクチュールが台無しだ。次はどんな服が良い? なまえ」
「ふふ、あなたがなまえにお着せになりたいものを。旦那さま」
「まあ、脱がせるのは俺だからな」
「ご両人、惚気話なら余所でやってくれ。口からサバラン・ラムでも出かねん」
「あら、ダッチもそんな可愛らしいお菓子を口にするのね。バクラヴァはお好き?」
「お高いドレスを汚してご機嫌ナナメなのは理解できるが、一々噛みついてきなさんな。そもそもそちらさんのブリンギングだぞ。情報がダダ漏れだぜ、張さん。この話はキャンセルだ」
「降りるか? ここの修理は自腹になるぞ」

折しもあれ、アラビア語だろうか、階下から複数の怒号と足音が響いてきた。
奴らが張いわく「事務所がヨルダン辺りまで吹っ飛んだ」元凶に違いないが、それにしてもここまで辿り着く迅速さには端倪たんげいすべからざるものがある。
商会ラグーンのボスの言通り、どこかで情報が漏れているのは瞭然だった。

飼い主の体の下で耳を塞いでいたなまえは我関せず焉、おもむろに立ち上がりぱたぱたと服をはたいた。
飼い鳥が無事に後ろへ下がっとたのを確認すると、張は厚い唇を笑みの形に歪めた。

「道中の、せめてそこまで見送ろう。――とはいえ、」

バサリとロングコートの裾がはためき、腰のダブルホルスターが姿を現した。
22LR口径、象牙のグリップを這う昇龍と燦たる「天帝」の二字が余人の目を奪った。
大仰なまでに驕奢きょうしゃな二挺の拳銃は
天帝双龍ティンダイションロン」、張維新チャンウァイサンの銃である。

「近頃は鉄火場を離れすぎててな。――非常口は?」

新しい煙草ジタンへ火を点けさせ、張がベレッタM76を構えた。
ニィッと口角を吊り上げ、レヴィがそれを受けた。

「案内するよ、張の旦那」
「ああ、よろしく頼む」

派手な音と共にドアを蹴破って、レヴィと張が敵の集塊へと切り込んでいった。
二対の双眸と四梃の拳銃、「カトラス」と「天帝」の揃い踏みとあってはさしもの重装備のテロリストたちも不如意というにも愚かだ。

マズルフラッシュが閃き、銃声が鳴り響いた。
呻き声と肉の崩れ落ちる鈍い音が徐々に遠退いていった。
銃声のみならずとんでもない爆発音まで追随しているのを聞くに、狭苦しい廊下で手榴弾までぶん投げているらしい。
地鳴りのような振動と共に、更にコンクリート片が降ってくるさまは、事務所どころか建物そのものの倒壊を危ぶむべき塩梅である。

「ふ、ぅ……」

ダッチやベニー、ロックたちと共に銃後に控えていたなまえが細く吐息をこぼした。
ちいさな手を握り締めてうつむいている彼女を見下ろし、ロックは痛ましげに顔をしかめた。
以前レヴィに聞いた彼女の身代が正しいならば「金糸雀カナリア」は銃にふれたことすらないという。
この街では新参者扱いとはいえ、日々「運び屋」として研鑽けんさんを積むロックよりもある意味「きれいな手」をしたなまえのことだ。
きっと怯えているのだろうと、ロックはなけなしの良心のようなものに突き動かされてなまえへ声をかけたが、うつむいて黒髪に遮られたかんばせを覗き込むや否や、そこに浮かんでいた表情はただちに彼を凍りつかせる効き目を表した。

「なまえさん、だ、大丈夫?」
「ッ、はあっ……!」

愛らしいまるい頬を火照らせたなまえが、それはそれは幸福そうに微笑んでいた。
黒い瞳は甘ったるく潤んでとろけんばかりであり、すくなくともこの場でさらすべき顔貌ではないことだけは確かだ。
平素のいかにも貞淑そうな顔しか知らないロックは、伸ばしかけた手を思わずビクッと引っ込めた。

「あー、あの、なまえさん……?」

恐る恐るロックが呼びかけるも、女はただ、はあっと恍惚の溜め息を吐くばかりだ。
場が場だけに気でも違ったかとよぎるも、どうやらそういうわけでもないらしい。

「あーロック、ほっとけ、なまえの病気だ」
「……ビョーキ?」
「まあ、光栄ね。ダッチ」

委細承知いさいしょうちとばかりに吐き捨てたダッチに、むっとなまえは唇をとがらせた。
そのさまは幼い子が拗ねてみせるのに似て、ひどくあどけない。
ほんの数メートル先を銃弾が飛び交い、むせ返るほどの血と硝煙で嗅覚と聴覚がバカになりそうな鉄火場でなければ、つい目を奪われかねないほどだった。

「ふふ、ほら、ご覧になって……。あのひと、良い男でしょう? ああっ、あの背、たまらない……。見惚れてしまうのも、胸が高鳴ってしまうのも、仕方ないの。だって恋するひとのあんな御姿、どうして敬慕せずにいられると思って?」

バージンロードを歩む花嫁もかくやとばかりに清らかな面差しに、いっそ罪深いほどとろけた微笑を浮かべ、小鳥が囀った。
熱っぽく潤んだ瞳は、飽きもせず黒いロングコートの後ろ姿をひたと見つめていた。
当の「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」はコルテの革靴でステップを踏むように軽やかな足取りで、自動小銃を乱射する男をまたひとり仕留めたところだった――唇の端の黒煙草に傲然ごうぜんたる笑みすら添えながらだ。
悠然と歩む主人の背から目を逸らすことなく、女は思わずといった様相で「はあ……」と陶酔の溜め息をついた。

「ああそうかい、そいつは失礼した、ma'am。“鉄の処女”ならシュミの悪い骨董屋で見たことはあったが、本物の聖女を拝んだことはなくてね――、張が道を拓いたな。出るぞ!」

銃弾の飛び交うなか、乗組員マドロスたちが非常口へ駆けた。

隊列の一番後ろで、敵の追撃を防いでいた黒服たちと共にご自慢の天帝双龍ティンダイションロンを掲げた張が、銃声に掻き消されないよう声を張り上げた。

「ダッチ! 車を回した、こいつに乗って埠頭へ行け」
「やれやれ、たまにゃ命のかからねェ仕事がしてえ!」
「ぼやくなダッチ、ここは俺たちが面倒を負うところだ。急げ!」
「任せたぜ、張さん!」
「みんな気を付けてね、行ってらっしゃい!」
「精々祈っててくれ、ご利益に期待してるぜ、“穢れなき処女サマ”よぉ!」

非常階段から飛び降りたラグーンの面々へ向かって、そこから身を乗り出したなまえが朗らかに白い手を振っていた。
痛痒つうようを感じぬ笑みは、場所が場所ならば昼下がりのオープンカフェでのもののようだ。
が、如何いかんせん背景は相変わらず銃声と爆発音が碧落へきらくに彩りを添えている。
ガルニチュールには黒煙と怒号が挙げられたが、いつメインに取って代わったものかおちおちしていられない。

小鳥の手向けの笑みに怒鳴り声で返答したダッチをはじめ、クルーたちは三合会の用意した車へさっさと乗り込んだ。
尚以なおもって慮外の爆風にはためくワンピースの裾を押さえている女の情景は、背景に広がる紺青の空と相まって一幅の絵めいてうつくしかった。

「なんであのひと、あの状況で笑ってるんだ……」

ちいさくなっていく白い姿をリアガラス越しに眺めつつ、呻きというには疲労の色がやや濃い溜め息を、ロックは深々ついた。
水兵の慨嘆がいたんを等閑に付すことなく応えてやったのはそのボスであり、皮肉げに肩をすくめてダッチが嘯いた。

「昔な、ロック。張の旦那のそばが、この世で一等安全だなんぞと抜かしやがったのが――あの女さ。まあ正しいだろうよ、飼い主が死ぬときは小鳥が死ぬときだ・・・・・・・・・・・・・・・・・。そしてあの旦那は、昔バラライカとやりあったってのに、いまもあの調子でピンピンしてやがる。ここらでくたばるタマに見えるってンなら――、ロック、手前の目は節穴以下だぜ・・・・・・
「……なんていうか、ネジが緩んでるのか、はたまたハマり過ぎてるというか……」
「言ったろォ、ロック。金糸雀カナリアも大概性悪だってよ」

何をか言わんや、けらけら笑いながら、時を得顔でレヴィがソード・カトラスの再装填リロードを済ませた。
彼らを乗せた黒い車は、派手なスキール音を響かせながら埠頭めがけ疾走していった。






そうこうラグーンの面々が与太を並び立てていることなど露知らず、銃撃戦の邪魔にならないようにと端に寄ったなまえは、頭上からぱらぱら降ってくる瓦礫を避けるため白い日傘を差した。
黒髪に付着した細かいコンクリート片やレンガ片を指ですいて払った。
彼女が「帰宅したらすぐにシャワーを浴びようかしら」云々考えていると、いつの間にか耳をつんざく銃の叫喚は終息していた。

見慣れた黒い車が複数台到着し、情報漏洩元を吐かせるためだろうか、運悪く・・・死に損なったらしい数名が引き摺られていった。
泥濘の奥底、血と硝煙でできた係争地ロアナプラで、その版図の最たるところを占める香港三合会に喧嘩を仕掛けるとは。
血のあぶくを吐く男たちを、烏滸おこの沙汰だとなまえが眺めていると、ようやく主が「やれやれ」とかこちながら現れた。

「お疲れさまでした、旦那さま。随分とお楽しみだったようでなによりです」
「そうむくれるなよ、なまえ。やっぱりコレが手に馴染むと思ってな」
「ああ……“双子”の一件ではお持ちになっていませんでしたね」
「そうさ、業腹だがハードボーラーは……というか、ステンレスは性に合わねえ」

ふたり揃って迎えの車に乗り込み、帰路に就く。
空調の効いた車内で、張が新しいジタンを口にすると、隣に座したなまえが即座に、かつ淑やかな所作で火を点けた。

自今じこん、スターズ・アンド・ストライプスの手先、カンパニーの御仁にコンタクトを取って、例の「文書」、春秋の筆法のお迎えを詰めなければならない。
おおよそ逆睹ぎゃくとしていたといえど、情報の漏れ具合を鑑みるに追加の符丁をラグーン商会に寄越すとして、無線の周波数の折衝、連絡まで着けねばなるまい等々、思索にふけりつつ、はあっと紫煙を吐き出した。

「やれやれ、それにしてもまだ“穢れなき処女”の名は健在か。随分と愛されてるなあ、なまえ」
「そのあだ名、あまりにも仰々しくて気遅れしてしまいます。小鳥が背負うには、とても」
「まったく。処女なんざとうの昔に俺が風切羽ごと切っちまったってのに――、……なまえ?」

愛玩物ペットとの贅言ぜいげんに興じつつも、暗々サングラスで隠されたその下の目で奸計を弄していた男は、心地良い重みと熱のせいでふと意識を引き戻された。
行儀よく隣に座っていたはずのなまえが、端無く彼の身にすがりついていた。

張の胸元にかんばせをうずめ、上等な、ただしいまはすこしくすすけてしまったスーツをちいさな手が握り締めていた。
彼の膝上へ乗り上げんばかりに上体を預けているせいで、女のたわわに実った胸の肉が男の胸板でむにゅりと押し潰されていた。
服越しとはいえ、極上のやわらかさを惜しげもなく披露されている現状はなかなかに良いものだったが、一体突然どうしたことやら。

うつくしい黒髪に灰が落ちないよう、張は口元から煙草を離した。
咎めるでもなく飼い鳥のしたいようにさせていたが、ややあって静かにもう一度「なまえ」と口にした。
この状況、気分は悪くないが、お行儀の悪い真似を是とするような躾をした覚えはない。

ぐずるように「ん、」となまえの熱っぽい声が漏れた。
顔をうずめているため声音はくぐもってはいたものの、それはまぎれもなく嬌声だった。

「どうか、お許しを……。いつもの黒煙草――ジタンの香りも、もちろん恋い慕っていますが……硝煙の香りのあなたは、ひさしぶりで……」

劣情を堪えるように、女の細い声は不明瞭に揺れていた。
その合間の途切れ途切れに、爛れた吐息がはっとこぼれた。
あたかもことの最中でもあるかのように濡れた声音は、耳へ届く者すべてを堕落せしめるにはあまりあるほどみだりがましいものだった。

運転していた若い男のステアリングを握る手に、ギッと力が込められたのを視界の端で認め、張は薄く嘆息した。
本来ならば嬌声ひとつ他の者にくれてやるつもりも毛頭ないが、あからさまに車体が揺れない程度に周章狼狽を抑えられたのに免じて、声音くらいは許してやろうと寛容に考えた。
なにしろ張維新チャンウァイサンだけに向けられるなまえの甘ったるい声色せいしょくは、脳髄を痺れさせる毒に似ている。

「――ただね、」
「ん?」

張の身へぎゅっとすがりついたまま、なまえがおとがいをわずかに上げた。
紅潮してとろけた表情、薄く開いた唇からは真っ赤な口腔が覗き、黒い瞳は滴らんばかりに水気を帯びてひとしお潤んでいた。
すがりついたままもどかしげに女が身悶えれば、この上なくやわらかな肉感を存分に主人へ捧げた。

「このあときっと、旦那さま、お仕事がお忙しいでしょう? お待ちしている間に、この香りが薄れてしまうと思うと、なまえ、口惜しくて、胸が潰れてしまいそう……」

いかにも悲哀たっぷりに眉をひそめてなまえが囁いた。
しかし瞳の奥には隠しきれなかった情欲がくすぶり、とろりと潤んでいる。
桃色の唇には媚びた笑みすら滲んでおり、匂い立つようなという言葉をそのまま体現したかのような淫蕩な笑みだった。

はっと浮かべた笑みをますます深め、張は咥えたジタンのフィルターを忌々しげに噛み締めた。
この性悪め、と内心だけで呟いた。
ただでさえ銃弾と残喘ざんぜんをベットした博戯の直後、トリガーハッピーなどという初心うぶな性根はとうの昔に打ち捨てたとは言いじょう、沸騰した血はそうそう容易く冷えるものでもあるまい。

「……そりゃあ困ったな。全部後回しにしたくなっちまう」
「ふふ……でも、なまえも我慢します。だから旦那さまもどうぞ、我慢なさって」

目挑心招もくちょうしんしょう、持ちうる身すべてで煽るだけ煽っておいて、なまえはすがりついていた細腕を焦れったくなるほどゆっくりと解いた。
最後にふうっと名残惜しげな息をひとつこぼしたかと思えば、やおら膝を揃えてきちんとシートに座りなおした。

それまで当然のようにあった熱と重みを突如として失い、重なっていたところが妙に寒々しく、ひどく物足りない心地に襲われるのを張は自覚した。
乗せておいててのひらを返す鳴鳥のあくどい所業は、飼い主自身の教育の賜物だったかもしれない。
とまれそれを手放しで喜べるほど彼は無頓着ではなかった。
ジタンを放り捨てると、熱を孕んだ頬のまま微笑む、元凶たる女へ手を伸ばした。

「はあ……まったく。ウチの小鳥はどうにも意地が悪い。全部投げ出してやろうかって気にさせといて、お預けか」
「わたしばかり昂ぶっているのが悲しくて。お許しください、小鳥のつまらない意地悪だもの」
「ふん、金糸雀カナリアの名は返上して、符丁はカラスにでも変えてやろうか」

名高い「金義潘の白紙扇」がたかが麾下きかの女如きにまどわされ、火急の事態に二の脚を踏むなどという愚を犯すべくもない。
それを熟知した上でのなまえの行為はまさしく「つまらない意地悪」なのだろう――だからこそ性質たちが悪かったが。

「“お気に召すままAs You Like It.”、ご主人さま。あなたがなまえをそう躾けたんですよ」

ちいさな頭を手の甲でなぞり、手入れの行き届いたうつくしい黒髪を耳へかけてやった。
今生、唯一自分だけに許された、なまえの肌だ。
なまえが自らふれるのは張のみであり、そしてなまえへふれることができるのも張ひとりだけだった。
なにしろなまえの黒髪の一房、白磁の肌、あえかな爪先に至るまで、すべては、主人、張維新チャンウァイサンという男のために存在しているのだから。
それは筆舌に尽くしがたい充足感と、頭蓋の奥で脳髄がどろりと爛れ溶け出ようかという昂揚を、男にもたらした。

「恋は溜め息と涙でできているもの、か。やれやれ、誰に似やがったか、随分と小賢しくなっちまってなあ……。お前はどうだ、なまえ」

喋々喃々、傷ひとつないやわらかな頬を、男はつい先程まで人を殺すために引き金を引いていた指先で撫でた。
主の手指を甘受し、女の唇が傲慢な弧を描いた。

「ふふ、この世であなたが一等、ご存知でしょう。溜め息も涙も、喜びも……なまえの身も心も――生も、死も、すべて、あなたのせいです・・・・・・・・

我が世の春とばかりに囀る小鳥に、けだし目眩じみて感嘆の吐息ひとつ、こぼれもするだろう。
サングラスの下でよみするように張は目を細めた。
物欲しげに薄く開いた甘い唇を指先でくすぐってやれば、うっとりとなまえが溜め息を漏らした。

「んん、は、ぁ……」
「あんまりそんな顔をしてくれるなよ、なまえ。焦らされすぎて拷問されてる気分になってきやがった」
「奇遇ですね、わたしもです」


(2019.03.17)
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